スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
岡本 剛史(おかもと たけし、1991年5月27日 - )は… 岡本 剛史(おかもと たけし、1991年5月27日 - )は、愛媛県伊予市出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。 愛媛FCの下部組織出身。2009年8月に2種登録され、同年8月9日にベガルタ仙台戦でJリーグ初出場を果たした。2010年よりトップチームに昇格したが、同年1月19日には練習中に左膝前十字靭帯を損傷して全治8か月と診断され、2011年シーズンも出場がゼロで終わったため、契約満了に伴って退団した。 2012年には流通経済大学に進学したが、寮生活に馴染めず帰郷してFC今治に入団し、エースストライカーとして活躍した。 2016年、ラトビヤス・ピルマー・リーガのFKアウダに移籍。
青野 文彦(あおの ふみひこ、1978年10月20日 - )… 青野 文彦(あおの ふみひこ、1978年10月20日 - )は、愛媛県西条市(旧周桑郡小松町)出身の元バスケットボール選手である。身長210cm、体重120kgで、ポジションはセンター。Bリーグの日本人現役選手の中では長身の選手の1人だった。[要出典] 小学校卒業時にはすでに身長が180cmあり、横綱の北の湖さんが実家まで来たこともある。[要出典] 高校からバスケを始め[要出典]、松山城南高等学校から青山学院大学を経て2001年、松下電器に入社、バスケットボール部に所属。 青山学院大学在籍時には、創部初の春のトーナメント優勝、新人戦優勝、リーグ戦優勝、インカレ優勝、 4年時には大学タイトル三冠を達成している[要出典]。
玉田 誠(たまだ まこと、1976年11月4日 - )は、愛… 玉田 誠(たまだ まこと、1976年11月4日 - )は、愛媛県松山市出身のオートバイ・ロードレースライダー。 愛称は「たまやん」、「玉やん」。2輪レース世界最高峰であるMotoGPにおいて、宇川徹に続く日本人2人目の優勝経験者。 小学4年生のときに松山オートランドでレースを始める。兄とともに父親のスパルタ的特訓に励む。チームドーベルマン時代は「ヘルメットを地面にこすっている兄弟がいる」と噂された。 中学校卒業後、宇川徹、柳川明を輩出した九州の名門、チーム高武RSCに所属する。同時期に所属していた同い年の加藤大治郎とはこの頃に知り合う。1994年、九州選手権でチャンピオンを獲得。 1995年全日本ロードレース選手権GP250にチーム高武からAキットが組み込まれたホンダ・RS250Rでデビュー。
山崎 昭史(やまざき あきふみ、1968年6月5日 - )は… 山崎 昭史(やまざき あきふみ、1968年6月5日 - )は、愛媛県出身の元バスケットボール選手。ポジションはセンター。216cm、112kg。 松山市立椿小学校、松山市立東中学校、松山城南高、京都産業大学卒業後、松下電器に入社。1994-95シーズンにはルーキーの長谷川誠らとともに二冠に貢献。主将も務めた。 全日本のメンバーにも選ばれ、1994年アジア競技大会や1998年世界選手権にも出場。 翌年にはシドニー五輪アジア予選を兼ねたアジア選手権で主将に選ばれるが、大会直前に左ヒジ亀裂骨折を負い、本来の力を発揮できず、期待された五輪切符を逃した。 2002年現役引退。 現在はスカイ・A sports+の解説者を務める一方で、普及活動も行っている。
檜垣 俊幸(ひがき としゆき、1928年7月18日 - )は… 檜垣 俊幸(ひがき としゆき、1928年7月18日 - )は、日本の実業家。今治造船のグループ社主。 1928年7月18日に造船業を営む檜垣正一の3男として誕生した。1943年3月に今治市立近見尋常高等小学校高等科を卒業後、今治造船に入社。今治造船は父親の檜垣正一の経営していた造船会社などが合併して誕生した造船会社であった。 戦後の1945年には今治造船を退社して檜垣造船有限会社を設立していたが、1955年に愛媛汽船の赤尾柳吉らと共に休業に陥っていた今治造船を再スタートさせた。1959年2月には今治造船の全株式を檜垣家が取得。以後、今治造船の専務取締役、副社長、代表取締役社長、代表取締役会長などを歴任し、2017年4月にグループ社主に就任。
野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉… 野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1918年〈大正7年〉10月31日)は、愛媛県温泉郡素鵞村(現・松山市小坂町)出身の俳人である。本名は守隣(もりちか)。前号に柏葉、朱燐洞など。 父は温泉郡役所の官吏で、母は機織りなどで家計を支えた。13歳の時に母を亡くし、その後父と同じ温泉郡役所で書記を務めながら松山夜学校に通った。短歌を趣味とする上司の影響で「柏葉」と号して作句を始めた。 松山に帰った河東碧梧桐の新俳句に傾倒し、森田雷死久に師事。18歳の時に愛媛新報の俳壇に入選した。東京で自由律俳句の創始者荻原井泉水と出会い俳句雑誌「層雲」に参加。柏葉から朱燐洞と改号し、俳句結社「十六夜吟社」を結成、主宰となる。
魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 19… 魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 1954年12月10日)は、日本のプロテスタント神学者、同志社大学神学部および大学院神学研究科教授、文学博士。 愛媛県松山市三番町生まれ。松山夜学校(現・松山学院高等学校)に5年間通った後同校教師となり、西村清雄校長から人格と学業において大きな影響を受ける。1917年同志社大学神学部に入学。卒業後1922年から米国シカゴ大学、ユニオン神学校、コロンビア大学、さらにドイツ・マールブルク大学神学部で学び、特にユニオン神学校ではA・C・マッギファート(英語版)の影響を受けた。帰国後の1927年に同志社大学文学部神学科講師、1930年に教授となる。