スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
楠木 早紀(くすのき さき、1989年5月8日 - )は、日… 楠木 早紀(くすのき さき、1989年5月8日 - )は、日本の競技かるた選手(六段)。大分県中津市出身。 競技かるたとの出会いは、小学3年生の夏休みにいとこが通うかるた教室に付き合わされたことがきっかけで、その先生から「百首おぼえたら初心者大会に連れて行く」と言われていとこと競い合って記憶し、大会に優勝した結果家族が喜ぶ姿を見て続けることになったという。父親は楠木に才能を感じて毎日練習をした。小学校卒業前にすでにジュニアクラスの大会では誰も相手にならず、大人の大会に出場していた。 中学1年生でA級優勝まで進んだが、中学2年生の時にはクイーン西日本予選に1回戦で敗退、強く指導してきた父親が悔しがる姿に「周囲のためにやっているのではない」と違和を覚え、3年生のクイーン予選の前には父に出たくないと訴えて「負けたらやめてもよいから」と涙ながらの返事を受けて出場した。
小野 不由美(おの ふゆみ、1960年12月24日 -)は、… 小野 不由美(おの ふゆみ、1960年12月24日 -)は、日本の小説家。大分県中津市出身、京都市在住。血液型はO型。夫は推理作家の綾辻行人。 1960年12月24日、大分県中津市に生まれる。父親は設計事務所を経営し、幼いころから図面に馴染みがあり、長じて建物に対する興味が湧く。また、出身地には怪奇伝説や伝承が多く、幼少期から両親にせがんで怪奇話を聞く。1976年、大分県立中津南高等学校に入学。アニメーション&漫画研究部を設立、初代会長を務めていた。1979年、大谷大学文学部仏教学科に入学する。在学中に京都大学推理小説研究会に所属する。当時のペンネームは宇野冬美[要出典]。同時期の部員には、後に小説家となる綾辻行人・法月綸太郎・我孫子武丸らがいた。
奥 和登(おく かずと、1959年〈昭和34年〉2月26日 … 奥 和登(おく かずと、1959年〈昭和34年〉2月26日 - )は、日本の実業家。 大分県中津市耶馬溪町出身。1977年大分県立中津南高等学校卒業。中津南高校の同級生に賀来高志・元野村不動産副社長、西野史尚・JR東日本クロスステーション社長、後藤弘樹・元日本地熱協会会長、柳基善・クレアティフ代表がいる。高校時代は明治時代に建築された洋館「異人館(キャラハン邸)」に下宿した。1983年(昭和58年)、東京大学農学部を卒業し、同年4月、農林中央金庫へ入庫。 経営企画部門に長らく在籍し、組織整備対策部部長代理、総合企画部副部長、同部企画開発室長、JAバンク統括部長、総合企画部長、常務理事、専務理事、代表理事専務などを歴任。
西野 史尚(にしの ふみひさ、1958年10月6日 - )は… 西野 史尚(にしの ふみひさ、1958年10月6日 - )は、日本の鉄道実業家。JR北海道取締役副社長、JR東日本代表取締役副社長、JRグループ健康保険組合理事長等を経て、初代JR東日本クロスステーション代表取締役社長。 大分県中津市生まれ。1977年大分県立中津南高等学校卒業。1981年一橋大学社会学部卒業。中津南高校の同級生に奥和登・農林中金理事長、賀来高志・元野村不動産副社長、後藤弘樹・元日本地熱協会会長、柳基善・クレアティフ代表がいる。高校時代は合唱部、大学時代は応援部に所属した。 1981年日本国有鉄道入社。営業、総務、経営企画、投資計画、安全対策に携わった。 2008年JR東日本投資計画部長。
大慈彌 功(おおじみ いさお、1956年5月4日 - )は、… 大慈彌 功(おおじみ いさお、1956年5月4日 - )は、大分県宇佐市出身の元プロ野球選手(捕手)。現在は、セントルイス・カージナルスの日本駐在スカウト。 中津南高から、1975年オフにドラフト外で太平洋クラブライオンズにテスト入団した。 一軍での公式戦出場がないまま、1979年限りで現役を引退した。 現役引退後は、帰郷し地元企業に勤務した。その際に、縁あって渡英し英語力を身につける。その後、福岡ダイエーホークスのフロント、通訳、千葉ロッテマリーンズの通訳(1995年、来日当初のボビー・バレンタイン監督の通訳)を歴任。 1997年、ニューヨーク・メッツに環太平洋地域担当スカウトとして入団。新庄剛志や吉井理人といった日本プロ野球界で活躍する選手を多数獲得するなど実績を上げ、環太平洋担当部長などを歴任。
吉田 昌子(よしだ しょうこ、旧姓:高柳、1954年9月13… 吉田 昌子(よしだ しょうこ、旧姓:高柳、1954年9月13日 - )は、日本の元バレーボール選手、指導者。1976年モントリオールオリンピックバレーボール女子金メダリスト。 大分県出身。中津南高校時の1972年、エースを務めた第3回春の高校バレーで優勝。卒業後、日立武蔵(当時)に入団。 1976年、全日本メンバーに選出され、モントリオールオリンピックにおいて金メダルを獲得した。日本リーグでも2年連続でベスト6賞を獲得。 現役引退後は、2001年から2008年まで柏エンゼルクロスで監督を務め、後進の指導にあたった。
保田 道夫(やすだ みちお、1949年11月10日 - )は… 保田 道夫(やすだ みちお、1949年11月10日 - )は、日本の元サッカー選手。 新日本製鐵などに所属し、日本代表としても、国際Aマッチ1試合に出場した。
川野 淳次(かわの じゅんじ、1945年7月11日 - )は… 川野 淳次(かわの じゅんじ、1945年7月11日 - )は大分県中津市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 大分県立中津南高等学校を卒業後、東京教育大学に入学。蹴球部在籍時に日本代表に初めて選出された他、1965年のAFCユース選手権にも出場した。大学卒業後は東洋工業に所属し、ディフェンダーとして活躍。日本代表として1970 FIFAワールドカップ・予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。 現役引退後は大分FC(現:大分トリニータ)のゼネラルマネージャーなどを務めた。
前田 晃伸(まえだ てるのぶ、1945年〈昭和20年〉1月2… 前田 晃伸(まえだ てるのぶ、1945年〈昭和20年〉1月2日 - )は、日本の投資家。元みずほフィナンシャルグループ社長・会長。第23代日本放送協会会長。元国家公安委員会委員。肥後銀行監査役。勲等は旭日大綬章。 5人兄弟の長男。出生自体は熊本県であるが、1歳のときに両親の故郷である大分県中津市へ移り住み、以来この地をふるさととして育った。父・慶一は弁護士で、母・シモとともに放任主義の人であった。 小学生、中学校と音楽系の部活動に所属し、それぞれハーモニカ、トロンボーンを演奏していた。中学時代には西日本大会出場の成績も残している。 高校まで中津で過ごし、1浪の末、東京大学に合格し上京。法学部第1類(私法コース)3年生の夏休みには、ガラス店を営む祖母の家から運送用のバイクを借りて乗り回す。
豊國 範(とよくに すすむ、1937年11月30日 - 20… 豊國 範(とよくに すすむ、1937年11月30日 - 2022年2月23日)は、大分県中津市出身(出生地は滋賀県、もしくは朝鮮民主主義人民共和国平安北道(旧朝鮮平安北道))で時津風部屋に所属した大相撲力士。本名は大塚 範(おおつか すすむ)。最高位は東張出小結(1962年5月場所)。現役時代の体格は176cm、131kg。得意手は左四つ、寄り、突き、押し、内掛け。 大分県立中津南高等学校から中央大学に進学し、同大学の相撲部では、主将を務めるなど活躍した。在学中の1960年、周囲の反対を押し切って、同郷の元横綱・双葉山が率いる時津風部屋に入門。同年5月場所に於いて、幕下付出で初土俵を踏んだ。 学生相撲出身者の角界入りは、紅陵大学(現・拓殖大学)出身の吉井改め吉井山(出羽海部屋、最高位・前頭11枚目)以降も、幾人かあった。
中山 忠彦(なかやま ただひこ、1935年3月20日 - 2… 中山 忠彦(なかやま ただひこ、1935年3月20日 - 2024年9月24日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。日展元理事長 (現在は顧問)。白日会会長。福岡県小倉市(現・北九州市)生まれ。 9歳で大分県に疎開。1950年に15歳で県展に入選。 中津西高校(現・大分県立中津南高等学校)卒業後上京して伊藤清永に入門。アルバイトのかたわら三輪孝主宰の阿佐ヶ谷洋画研究所に学ぶ。1965年の結婚以来は、良江夫人をモデルにした美人画を描き続けた。結婚を機に1966年に市川市市川1丁目の小島鉦治方に転居。1970年に市川市国府台に画室を新築して転居。
栗木 安延(くりき やすのぶ、1930年5月8日 - 200… 栗木 安延(くりき やすのぶ、1930年5月8日 - 2002年3月1日)は、日本のマルクス経済学者・歴史学者。専修大学名誉教授。博士(経済学)。 大分県中津市出身。雑貨商の家に生まれる。1944年、旧制大分県立中津中学校(現在の大分県立中津南高等学校・大分県立中津北高等学校の前身)在学中に、熊本陸軍幼年学校に入学した。しかし、敗戦に伴い、陸軍幼年学校は解散し、中津中学校に復学した。中学校卒業後、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)への入学を希望したが、GHQが軍関係の学校に在籍していた者の旧制高等学校入学者に占める割合を制限したため、やむなく1948年、官立明治工業専門学校(現在の九州工業大学)に進学した。
福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 20… 福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 2001年12月20日)は、日本の中国学者・中国思想史研究者。京都大学名誉教授。老荘思想・道教研究の第一人者として知られる。 1918年、大分県下毛郡鶴居村大字高瀬(現:中津市)の農家に生まれた。大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)を卒業し、広島高等師範学校(現:広島大学)文科第一部で学んだ。1940年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、支那哲学史を専攻した。1942年9月に卒業し、同大学大学院に入学。しかし、同年10月には大学院を休学し、現役兵として野砲兵第6連隊補充隊(熊本)に入隊。1944年に陸軍砲兵少尉、1945年に陸軍砲兵中尉。
佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、… 佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。 中津中学から門司鉄道局を経て1937年に大東京軍へ入団。1938年に退団。
池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月… 池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月14日)は、元マラソン選手、元日本陸上競技連盟オリンピック代表コーチ。大分県中津市出身で1935年にマラソンの世界記録を打ち立てている。 池中は旧制中津中学校(現在の大分県立中津南高等学校)を経て、1932年東洋大学専門部に入学と同時に東洋大学陸上競技部へ入部、その翌年に東洋大学は東京箱根間往復大学駅伝競走初出場を果たす。1935年には東洋大学予科へ入学、この年に池中は世界記録を樹立する。1937年3月文学部卒。1938年には東洋大学本科へ入学する。この間、箱根駅伝には1933年、1934年、1935年、1936年、1937年、1940年の合計6回出場を果たしている。
横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日… 横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日 - 2005年10月15日)は、日本の近代中国思想研究者・教育学者。元八幡大学(現九州国際大学)学長。大分県中津市生まれ。魯迅、同郷の福沢諭吉研究の第一人者。 学外の役職として、中津市教育委員長、北九州市家庭教育調査委員長、福岡市中国研究センター理事長、福沢諭吉協会会長、九州大学講師、ケンジントン大学(日本校)客員教授等を務めた。 横松は研究対象である福沢諭吉と魯迅に「近代国家主義思想」と「近代的科学精神」という2つの共通の自己確認があると述べている。これは魯迅が東京に留学した経験等から、ある意味魯迅が福沢に影響され啓発された現れとも論じている。
大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 -… 大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 - 1990年11月26日)は、日本の歌人。 大分県中津市出身。中津中学校卒業。地元で代用教員をした後、大阪や大連に住んだ。1918年、若山牧水の歌誌『創作』に参加。1922年に静岡県沼津市の牧水宅を訪ね、以降、1928年に牧水が没するまで助手を務めた。そののち改造社に勤務し、大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。1946年、『新道』を創刊、『創作』と合流し選者となった。 牧水の高弟として多数の研究書を執筆し、沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた。 1937年、『東京日日新聞』紙上で萩原朔太郎に短歌を酷評された際に、引用間違いなどを指摘して抗議し、謝罪文を送られている。
佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962… 佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962年12月23日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。経済地理学会初代会長(1953年 - 1962年)。日本工業立地センター理事長。正三位、勲一等瑞宝章。 経済地理学を開拓し、その発展に大きく貢献した。晩年に随筆を刊行し、佐藤 弘人の筆名で知られる。 1897年、大分県下毛郡中津(中津市)の商家に生まれる。大分県立中津中学校(現・大分県立中津南高等学校)、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1918年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)地質学科に入学する。翌年、地質学科から分離独立した地理学科に転科。山崎直方らの指導を受け、1922年に飯本信之と共に同大学を卒業した。
池田 純久(いけだ すみひさ、1894年(明治27年)12月… 池田 純久(いけだ すみひさ、1894年(明治27年)12月15日 - 1968年(昭和43年)4月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。東大経済学部で統制経済を研究し、統制派の理論的指導者として知られた。 大分県宇佐郡柳ヶ浦村(柳ヶ浦町、長洲町を経て現宇佐市)で、軍人・池田純孝の長男として生れる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第48連隊付に発令。
秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12… 秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12月21日 - 1949年(昭和24年)4月23日)は、日本の陸軍軍人。内閣綜合計画局長官。最終階級は陸軍中将。 大分県で、村長・秋永澄蔵の三男として生まれる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第23連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、同年12月、野砲兵第23連隊中隊長に就任。野戦重砲兵第3連隊中隊長、陸軍省整備局付勤務、整備局課員を経て、1927年(昭和2年)4月から1930年(昭和5年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。
一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月… 一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1974年(昭和49年)3月15日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県下毛郡小楠村一ツ松(中津町を経て現中津市)で、一松嘉蔵の二男として生まれ、1936年(昭和11年)に分家した。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、特待生として東京高等商業学校に入学し、1916年(大正5年)に卒業した。 同郷の先輩磯村豊太郎の知遇を得て1916年に久原鉱業(現JX金属)に入社し、その後、久原商事(久原財閥)に転じた。英語に堪能で貿易業務を担当しニューヨーク支店長を務めた。帰国後、日本鉱業(現ジャパンエナジー)運輸部長に就任し、以後、久原財閥からの派遣で、日本汽船、樺太汽船、中山製鋼所などの取締役を兼務した。
吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11… 吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11月1日 - 昭和22年(1947年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 農業・川内清作の五男として大分県に生れ、佐賀県の貿易商・吉岡又吉の養子となる。中津中学校、第五高等学校中退、士官候補生を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。陸士生徒隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長となる。 1927年(昭和2年)2月、参謀本部付勤務(庶務課)となり、参謀本部員、支那駐屯軍参謀、歩兵第45連隊大隊長、第8師団参謀などを歴任し、1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀となり、翌年8月、歩兵中佐に昇進。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
久保 三郎(くぼ さぶろう、1879年(明治12年)11月2… 久保 三郎(くぼ さぶろう、1879年(明治12年)11月23日 - 1934年(昭和9年)9月4日)は、日本の内務官僚、政治家。元千葉市長。 大分県宇佐郡豊川村(現:宇佐市)で生まれた。大分県立中津尋常中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1903年7月、早稲田大学法律科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。以後警保局に勤務し、千葉県長生郡長、同海上郡長、同印旛郡長、同千葉郡長、同香取郡長などを歴任。1924年8月、第2代千葉市長に就任し、1928年8月まで在任した。
村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)… 村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)8月14日 - 1963年(昭和38年)10月21日)は、日本の実業家、政治家。西日本鉄道社長、貴族院勅選議員。 大分県下毛郡中津諸町(現中津市諸町)で、旧中津藩藩医・教育者、村上田長の四男として生まれた。大分中学中津分校(のち中津中学、現大分県立中津南高等学校)を経て、1903年、早稲田大学政治経済科を卒業した。 大学卒業後、大阪毎日新聞社に入社し記者となる。1908年、三越呉服店に転じ、広告部、通信販売部で勤務した。1912年、和田豊治の勧誘で九州水力電気に入社し、同社取締役、常務を歴任。1930年、九州水力の九州電気軌道(九軌)買収に伴い、九軌専務に就任。