太田 大八(おおた だいはち、1918年12月29日 - 2… 太田 大八(おおた だいはち、1918年12月29日 - 2016年8月2日)は、日本の絵本作家・画家。 長崎県大村町(現・大村市)出身。戦時中に(旧制)多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)図案科を卒業。1945年8月、徴用で勤務していた会社の出張で広島県大竹に赴き8月5日に広島市に入ったものの、間一髪で原爆被爆を免れ、被爆翌日の惨状を目撃した。 戦後、大阪市で復興のための建築パネルを建てたことをきっかけに美術界に戻り、デザインの仕事をするために東京に帰って「スタヂオ・トーキョー」を設立した。さらに偶然再会した同級生の依頼で詩のイラストを描いたことがきっかけで、絵本作家となる。1949年のデビュー以来、130作の創作絵本、230作の児童書の挿絵を手掛けている。
加計 朋吉(かけ ともきち、1918年〈大正7年〉12月25… 加計 朋吉(かけ ともきち、1918年〈大正7年〉12月25日 - 没年不明)は、日本の政治家(広島県山県郡加計町長)。 広島県出身。1941年、早稲田大学商科卒業。明電舎に入社。1947年、加計町長に当選。広島町村会理事を務め、1963年、町長に再選。 芸備銀行加計支店長加計慎太郎は従兄。家族は妻、長女。宗教は神道。住所は広島県山県郡加計町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
安達 健二(あだち けんじ、1918年12月22日 - 19… 安達 健二(あだち けんじ、1918年12月22日 - 1988年3月12日)は、日本の文部官僚。愛知県春日井市生まれ。 愛知一中、第八高校、東京帝国大学法学部卒業。1945年、文部省に入省。配属先は専門教育局。無形文化課長、教科書課長、中等教育課長、人事課長、1967年文化局長を経て、1968年 文化庁発足に伴い次長、1972年から1975年まで長官、1976年から東京国立近代美術館館長。86年5月退任。1976年大英勲章、1977年フランス芸術文化勲章受勲。
杉山 元太郎(すぎやま もとたろう、1918年12月22日 … 杉山 元太郎(すぎやま もとたろう、1918年12月22日 - 1970年4月29日)は、日本の実業家。米国ニューオーリンズ名誉市民。ホーネンコーポレーション(現J-オイルミルズ)の元取締役社長。 社団法人油脂製造業会会長。豊産業(後に子会社となる日華油脂と合併しJ-NIKKAパートナーズとなる)元取締役社長。元慶應義塾評議員。従五位勲四等。 1940年慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。1945年10月に豊年製油(現・J-オイルミルズ)に入り、1948年に専務、1954年より社長を務めた。慶應義塾評議員。墓所は小平霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
津久井 佐喜男(つくい さきお、1918年12月22日 - … 津久井 佐喜男(つくい さきお、1918年12月22日 - 没年不詳)は、日本の心理学者。 中央大学文学部教授、中央大学保健体育研究所長。 東京大学文学部心理学科卒業、小樽商科大学助教授、中央大学助教授を経て1942年に中央大学教授。
上田 俊二(うえだ しゅんじ、1918年12月21日- 没年… 上田 俊二(うえだ しゅんじ、1918年12月21日- 没年不明 )は、日本の経営者。ニチメン社長、会長を務めた。 大阪府出身。1942年に大阪商科大学を卒業し、同年に日本綿花に入社。1963年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1977年4月に社長に昇格し、1985年4月に会長に就任し、1989年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年3月にパキスタンからシタラ・イ・パキスタンを受章。1990年4月には勲二等瑞宝章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日… 池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日 - 1989年(平成元年)6月16日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員(2期、自由民主党)。 千葉県君津郡竹岡村(現富津市)で、清酒「聖泉」醸造元・池田酒造の二男として生まれた。木更津中学校(現千葉県立木更津高等学校)を経て、1947年(昭和22年)日本大学法文学部卒。 1948年(昭和23年)千葉県庁に入り、地方課長、総務課長、農林部長などを歴任し、1975年(昭和50年)出納長に就任。その後、国民保険会千葉県連合会副会長を務めた。 水田三喜男の後継者として1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に無所属で千葉県第3区から立候補し当選する。
小熊 孝次(こぐま こうじ、1918年12月18日 - 20… 小熊 孝次(こぐま こうじ、1918年12月18日 - 2015年7月6日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。神奈川銀行頭取、会長を務めた。北海道出身。 1939年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。 東京税関長、会計検査院参事官などを経て、1970年2月に会計検査院事務総局次長に就任。1971年10月に住宅金融公庫理事に就任し、1972年8月から1977年11月までに副総裁を務めた。1977年12月に神奈川相互銀行社長に就任し、1989年4月には神奈川銀行頭取に就任。1989年6月から会長を務めた。 1990年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2015年7月6日病気のために死去。96歳没。
いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:… いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、子供の水彩画に代表される日本の画家、絵本作家。岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロで発表された作品もある。父は陸軍勅任建築技師の岩崎正勝。母・文江は大日本連合女子青年団(のちの大日本青少年団)主事。前夫は東洋拓殖職員、後夫は日本共産党元衆議院議員で弁護士の松本善明。孫は絵本作家の松本春野。 1918年、雪の降る師走の朝にちひろは日本帝国陸軍築城部の建築技師の父親、女学校の教師の母親という当時としては珍しい共働き家庭における三姉妹の長女として福井県武生町(現在の越前市)橘で生まれた。
小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15… 小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15日 - 1984年(昭和59年)3月4日)は、日本の実業家。伊勢丹社長、日本百貨店協会会長を務めた。旧名:小菅利雄。 東京・神田に2代小菅丹治・ときの長男として生まれる。姉の喜子(尾上清レナウン理事長の妻)と弟振作(レナウン監査役)の3人きょうだいである。 東京女子高等師範学校の付属幼稚園に入り、小学校、中学校は東京高等師範学校の付属に通った。中学4年修了で慶應義塾大学の予科を受験して合格。慶大経済学部を卒業。1941年三井物産に入社し、1944年には東京帝国大学医学部教授細谷省吾の娘・悠と結婚した。 終戦後、三井物産がGHQの財閥解体命令で解散したため退社。
和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 … 和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 - 1985年9月6日)は、日本の会計学者。 東京市向島区(現・墨田区)生まれ。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、千代田生命保険相互会社に入社。1948年に退社し、同年から1951年まで経営研究所に勤務。1955年慶大経済学部講師、1958年助教授、1963年教授、1980年退職。1982年松阪大学教授となる。在任中、66歳で死去した。
土田 帆山(つちだ はんざん、1918年12月15日 - 2… 土田 帆山(つちだ はんざん、1918年12月15日 - 2008年2月6日)は、日本の書家、福井県越前市出身。本名は土田 修(- おさむ)。代表作は『剛』、『驪』、『春 一生青春』、『閑古錐』、『天上十分月』。地方文化功労による文部科学大臣賞を受賞。 死去直前の役職は、独立書人団参事、毎日書道展名誉会員、全日本書道連盟評議員、洗心書道会代表、若越書道会薫事、越前市書道連盟会長、武生書作家協会名誉会長、越前市文化協議会顧問、丹南芸術家協会常任顧問。 1940年杉本長雲に師事、高志書道会に入会。1948年文部省主催の書道講習会に福井県代表として小林抱牛(独立書人団元代表)、稲村雲洞、木村蒼岳とともに受講。
馬場 移公子(ばば いくこ、1918年12月15日 - 19… 馬場 移公子(ばば いくこ、1918年12月15日 - 1994年2月17日)は、埼玉県出身の俳人。本名は新井マサ子。第25回俳人協会賞受賞。 埼玉県秩父生まれ。実家は蚕種屋。旧制秩父高等女学校(現秩父高等学校)卒。1940年結婚。1944年、夫の戦死により実家に戻り、養蚕をして暮らした。1946年、金子兜太の父、金子伊昔紅の指導を受け「馬酔木」に投句、水原秋桜子に師事。馬醉木賞を受賞。「馬酔木」を代表する女性俳人として活躍した。代表句「いなびかり生涯峡を出ず住むか」など。秩父のひそやかな暮らしのなかで独特の孤独感のある句を作った。1985年『峡の雲』により第25回俳人協会賞受賞。1994年、75歳で没。
小寺 新六郎(こでら しんろくろう、1918年12月14日 … 小寺 新六郎(こでら しんろくろう、1918年12月14日 - 1985年10月29日)は、日本の実業家。元ユニチカ社長。 兵庫県武庫郡住吉村(現・神戸市東灘区)に小寺源吾(元大日本紡績(現・ユニチカ)社長、会長)の6男として生まれる。 1941年12月、慶應義塾大学経済学部卒業と同時に父が経営していた大日本紡績に入社し、軍隊時代は満州や沖縄を転戦した。 戦後は10年以上にわたり同社の原綿課に勤務し、次いでニューヨーク駐在を経た後、ビニロン輸出課長、ビニロン化繊部長、産業資材販売部長を歴任する。1970年11月にユニチカ取締役、1972年5月に常務、1973年11月に副社長を経て、1974年3月28日に社長に就任し、父・源吾と出身大学および役職を同じくする経歴を歩んだ。
清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月1… 清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月13日 - 2005年 <平成17年> 4月8日)は、日本の建築家。 日本における代表的な現代建築家。戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された、池辺陽の「立体最小限住宅(1950年)」、増沢洵の「最小限住宅」、広瀬鎌二の「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案し、住宅をはじめとする明瞭で軽快な作品で日本の伝統的モダン美を独自の解釈ではじめて形にした。 勲二等瑞宝章及び紫綬褒章受章。工学博士(東京工業大学)。主な称号に東京芸術大学名誉教授、東京工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、東京建築士会名誉会員。
近藤 四郎(こんどう しろう、1918年12月13日 - 2… 近藤 四郎(こんどう しろう、1918年12月13日 - 2003年2月6日)は、日本の人類学者。 長崎市生まれ。大分県亀川の小学校を卒業後、台北第一中学校、福岡県中学明善校を経て、第五高等学校理科乙類を卒業。1941年、東京帝国大学理学部人類学科に入学。長谷部言人に師事した。1943年、繰り上げ卒業と同時に同学部副手、1945年助手、1960年助教授。1957年、「ヒトの姿勢及び歩行運動の人類学的研究 主として筋活動電流より見たる」により、東京大学理学博士。1967年、京都大学霊長類研究所初代所長に就任。1982年、京都大学を定年退官、大妻女子大学人間生活科学研究所教授。1993年、大妻女子大学を退任。
星 晃(ほし あきら、1918年〈大正7年〉12月13日 -… 星 晃(ほし あきら、1918年〈大正7年〉12月13日 - 2012年〈平成24年〉12月8日)は、日本の鉄道車両技術者である。元日本国有鉄道(国鉄)副技師長、元川崎重工業常務取締役車両事業本部長。富山県富山市出身。 1950年代から1960年代にかけての国鉄最盛期に、旅客車両(電車・客車)の開発に携わり、革新的な新型車両群を産み出した国鉄技術者の一人として知られる。当時の車両設計技術やデザイン、接客設備など多方面の質的向上に、大きな役割を果たした。 また鉄道趣味界にも深く携わり、この方面でも同業の後継人物にとって貴重な資料・文献とされる多くの著述がある。 1942年9月東京帝国大学第一工学部機械工学科を卒業し、鉄道省入り。
鈴木 政夫(すずき まさお、1918年12月13日 - 19… 鈴木 政夫(すずき まさお、1918年12月13日 - 1998年5月4日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。神奈川県出身。位階は正五位。 1941年に法政大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に日本ペイントに入社。1966年9月に取締役に就任し、1973年6月に常務、1975年7月に専務を経て、1978年7月に副社長に就任し、1981年7月には社長に昇格。1987年7月には相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章し、1990年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年5月4日肺炎のために死去。79歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
渡会 伸(わたらい しん、1918年12月13日 - 200… 渡会 伸(わたらい しん、1918年12月13日 - 2001年5月28日)は日本映画の録音技師。秋田県大館市出身。 1938年に東宝の録音助手として入社。東宝争議の際には人生労働組合の委員長を務めた。1957年より録音技師となり、岡本喜八の独立愚連隊シリーズや暗黒街シリーズにつく。『太平洋の翼』『日本のいちばん長い日』『激動の昭和史 軍閥』『トラ・トラ・トラ!』など戦争映画も多く手がけた。 2001年4月に行なわれた黒澤版『トラ・トラ・トラ!』スタッフ座談会では、黒澤明降板前後の事情について詳しく証言している。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
三代目 杵屋 五三郎(さんだいめ きねや ごさぶろう、191… 三代目 杵屋 五三郎(さんだいめ きねや ごさぶろう、1918年(大正7年)12月11日 - 2013年(平成25年)2月2日)は、歌舞伎の長唄三味線方。杵五派家元。位階は従四位。本名は増田 元弘(ますだ ちかひろ)。秘曲、難曲、大曲など古典の上演、継承に力を入れた。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
松崎 鉄之介(まつざき てつのすけ、1918年12月10日 … 松崎 鉄之介(まつざき てつのすけ、1918年12月10日 - 2014年8月22日)は、神奈川県出身の俳人。本名・敏雄。 横浜市生まれ。横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)卒。在学中より俳句をはじめ、「馬酔木」に投句。1939年、加藤楸邨の勧めに従って大野林火に師事し、「石楠」に入会。1947年、復員後に林火の「濱」に同人として参加。1949年、東京国税局に入局。1970年、退職し銀座で税理士事務所を経営する。 1971年、俳人協会設立に参加し理事を務め、俳句文学館建設にも寄与した。1982年、林火の死去にともない「濱」主宰を継承。同年、『信篤き国』により第22回俳人協会賞受賞。同年俳人協会会長に就任。
島谷 清(しまたに きよし、1918年12月9日 - 201… 島谷 清(しまたに きよし、1918年12月9日 - 2014年9月25日)は、日本の経営者。島根県出身。 1947年に東北帝国大学法学部を卒業し、同年に富士銀行に入行。 1968年に取締役に就任し、1973年に安田倉庫に転じ、1976年に社長に就任し、1986年には会長に就任。 2014年9月25日老衰のために死去。95歳没。
堀池 春峰(ほりいけ しゅんぽう、本名:堀池 義也(よしや)… 堀池 春峰(ほりいけ しゅんぽう、本名:堀池 義也(よしや)、1918年(大正7年)12月8日 - 2001年(平成13年)8月31日)は、東大寺の僧、職員、仏教学者、古文書研究者、大学講師・教授。東大寺史研究所長。 1918年(大正7年)12月8日、東大寺修二会の三役の一つの会計職などの「小綱」(しょうこう)を代々、務めてきた堀池家に長男として生まれる。1936年(昭和11年)3月、旧制奈良県立奈良中学校(現・奈良県立奈良高等学校)を卒業。同年4月6日、雲井春海東大寺管長のもと得度し、僧名を春峰とする。翌年2月に東大寺小綱職となり、1980年までほぼ毎年、同寺二月堂の修二会(お水取り)に42回参籠する。
田中 隆尚(たなか たかひさ、1918年12月7日 - 20… 田中 隆尚(たなか たかひさ、1918年12月7日 - 2002年10月21日)は、歌人、ギリシャ文学者。 山口県豊浦郡長府町(現下関市)生まれ。1947年東京帝国大学文学部卒。群馬大学教養部にてドイツ語教授を務めた。歌人としては斎藤茂吉に師事し、1957年文芸誌「ももんが」を創刊、主宰。独学でギリシャ語を習得し、ギリシアやイタリアで日本の歴史や上代文化について講演活動を行った。1991年11月、ギリシャ政府のフェニックス勲章を受章。
青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1… 青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1990年2月12日)は、日本の経営学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。1943年慶應義塾大学経済学部卒。同年、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1944年3月に経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。1945年3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1949年慶大助教授、59年教授、60年「企業の社会的環境とその内的問題」で慶大経済学博士。84年定年、名誉教授、国際商科大学教授。
阿部 正和(あべ まさかず、1918年12月5日 - 201… 阿部 正和(あべ まさかず、1918年12月5日 - 2016年2月26日)は、日本の内科学者。 東京府で牧師阿部義宗の息子として生まれた。1936年旧制・青山学院中学部卒業、東京慈恵会医科大学予科入学。1942年9月、同大卒業。同年同月、海軍軍医となり榛名に配属。1945年11月、海軍軍医大尉として予備役に編入された。 1945年12月、国立東京第二病院などを経て、1960年東京慈恵会医科大学教授、1982年学長、1984年名誉教授、1993年学校法人慈恵大学理事長、1995年顧問。 糖尿病の病態生理学的研究などで知られ、医師の生涯教育にも取り組む。1984年日本医学会副会長、日本糖尿病学会会長を務めた。
佐藤 行通(さとう ぎょうつう、1918年12月5日 - 2… 佐藤 行通(さとう ぎょうつう、1918年12月5日 - 2018年3月1日)は、日本山妙法寺の僧侶、社会運動家。日弘とも。俗名は 佐藤 弘 (さとう ひろし)。 以後、平和運動に参画し、藤井日達の側近として「世界宗教者平和会議」や「アジア仏教徒平和会議」の設立に奔走する。成田空港問題(三里塚闘争)、立川基地反対闘争、ベトナム人民支援運動にも参加。 原水爆禁止日本協議会の設立にも深く関わったが、運動方針を巡って日本平和委員会、日本共産党と意見対立し、ついには原水協を追放される。更に、妙法寺の不正経理の責任を取る形で妙法寺からも離れることとなった。 晩年は茨城県内に草庵を結び、国際平和ビューロー等、世界平和のための活動と情報発信を続けてきた。
鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 20… 鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 2020年2月7日)は、日本画家、日本芸術院会員。日展の事務局長や理事長、会長を歴任。神奈川県生まれ。
長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 199… 長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 1990年10月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。位階は従三位。勲等は勲一等。 新潟県長岡市で生まれ育つ。旧制新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業後、旧制第一早稲田高等学院(現在の早稲田大学の教養課程)入学している。その後は、父の死去に伴い旧制早稲田高等学院を中退し、17歳で長谷川酒造社長に就任する。 その後、戦時中は1942年5月、南西方面艦隊海軍民政府に志願し、インドネシアのセレベス島マカッサルに勤務したとされている。1944年12月、帰国した。 終戦後、青年団活動を経て、上組村議、宮内町議、長岡市議を2期、新潟県議会議員を4期を務めあげた。
相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日… 相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日 - 1999年2月5日)は、日本の洋画家。埼玉県川越町(現・川越市)生まれ。冬の北海道の詩情を描く洋画家の第一人者と言われた。新制作協会会員。 埼玉県川越町(現・川越市)に生まれる。父・茂吉、母・よし。本名は相原久太郎(のちに求一朗)。生家は農産物の卸問屋で、恵まれた環境だった。1936年、川越商業学校卒業。商業学校の商業美術担当教師から油彩を学んで東京美術学校進学を志すが、父親の逆鱗に触れ、家業を継いだ。1940年、21歳で兵役に就き、第二次世界大戦中は旧満州やフィリピンを転戦。1944年、フィリピンからの帰還途中、搭乗した飛行機が沖縄沖に墜落。
崔 常寿(チェ・サンス、朝鮮語: 최상수/崔常壽、1918年… 崔 常寿(チェ・サンス、朝鮮語: 최상수/崔常壽、1918年12月3日 - 1995年6月5日)は、大韓民国の民俗学者、随筆家。 本貫は慶州崔氏。号は石泉(ソンチョン、석천)。 1918年12月3日、日本統治時代の朝鮮で慶尚南道の釜山に生まれた。いっとき慶尚北道の慶州で幼年期を過ごし、大阪外国語学校(現: 大阪外国語大学)英語学科で専門学士号を取得した。1947年、韓国民俗学会の会長を務め、『民族学報』を発刊した。その後韓国外国語大学校助教授、京畿大学校教授、梨花女子大学校講師、韓米アジア民俗学会理事長、慶熙大学校教授などを務めた。 著書として『韓国民俗学研究叢書』、『韓国民間伝説集』、『韓国とアラビアとの関係』などがある。
石田 徳次郎(いしだ とくじろう、1918年12月3日 - … 石田 徳次郎(いしだ とくじろう、1918年12月3日 - 1990年3月28日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。 1939年1月に石田旭山印刷取締役に就任し、1941年に同志社大学法学部政治学科を卒業。1943年に大日本スクリーン製造専務に就任し、1947年5月には社長に就任。1989年4月に会長に就任。 1963年6月に紺綬褒章を受章し、1980年4月に藍綬褒章を受章。 1990年3月28日心不全のために死去。71歳没。
高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子、1918… 高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子、1918年12月2日 - 1990年5月27日)は、日本の女優、歌手。歌う映画スターの草分け的存在。父は筑前琵琶演奏者の高峰筑風。妹は女優で歌手の高峰麻梨子。孫は元女優の高峰陽(ひなた)。 1918年(大正7年)12月2日(月曜日)、東京府東京市芝区露月町(現在の東京都港区新橋5丁目)に生まれる。実父・高峰筑風は、独立して高峰流筑前琵琶の宗家となった。東洋英和女学校(高等女学校。東洋英和女学院中学部・高等部の前身)を卒業した1936年(昭和11年)に、筑風が急死。一家を養うために、周囲の勧めもあり映画界入りを決意。帝国劇場の専務の紹介で松竹に入社し、同年に公開された大船映画『母を尋ねて』で女優としてデビューした。
金 宅述(キム・テクスル、朝鮮語: 김택술/金宅述、1918… 金 宅述(キム・テクスル、朝鮮語: 김택술/金宅述、1918年12月2日 - 1981年10月28日)は、大韓民国の公務員、政治家、実業家。第2・3代韓国国会議員。本貫は道康金氏(朝鮮語版)、別名は春江。 日本統治時代の全羅北道井邑郡七宝面(現・井邑市)出身。中央大学法学部、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。全羅北道労働課長、大韓労働総連盟全羅北道副委員長などを歴任し、1950年の第2代総選挙に井邑乙選挙区より大韓労働総連盟所属で出馬して初当選した。第3代国会議員の退任以降は全羅商工社、全南商工新報社、大韓旅客自動車株式会社の社長を歴任し、1967年頃は民主共和党に所属しながら韓国貨物車会社の社長を務めた。
井上 元勝 (いのうえ もとかつ、1918年(大正7年)12… 井上 元勝 (いのうえ もとかつ、1918年(大正7年)12月2日 - 1993年(平成5年)1月1日)は、日本の武道家。唯心会と琉球古武術のグランドマスターとして知られた。 東京府東京市麻布区麻布富士見町(現・東京都港区南麻布)出身、慶応義塾大学卒業。 井上は、日本の首相であった公爵桂太郎の次男、また侯爵井上勝之助の嗣子である侯爵井上三郎の次男として東京市麻布富士見町に生まれた。母は井上馨の長女・千代子。幼い頃から武家の訓練を始めたが、警備スペシャリスト、甲賀流 忍術の宗家継承者であり、最後の真の忍者と見なされていた藤田西湖(1898-1966)によって武術を教えられた。 後に井上は、小西康裕と平信賢のもとで訓練を行い、そこで琉球古武道保存振興会で使用される武器術を学ぶ。
鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )… 鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )は、日本の水泳選手。1936年ベルリンオリンピック400メートル自由形で銀メダル、1500メートル自由形で銅メダルを獲得している。立教大学出身。
戸田 順之助(とだ じゅんのすけ、1918年(大正7年)12… 戸田 順之助(とだ じゅんのすけ、1918年(大正7年)12月1日 - 2013年(平成25年)10月9日)は日本の実業家、元戸田建設社長・会長。東京都出身。
村山 登(むらやま のぼる、1918年〈大正7年〉12月1日… 村山 登(むらやま のぼる、1918年〈大正7年〉12月1日 - 2015年〈平成27年〉1月22日)は、日本の農林技官、植物栄養・肥料学者。農学博士。元農林省農業技術研究所化学部作物栄養科長、元東京農工大学農学部長。東京農工大学名誉教授。 新潟県新潟市出身。1935年(昭和10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。 1941年(昭和16年)4月に農林省農事試験場助手に就任、1943年(昭和18年)7月に応召、1945年(昭和20年)9月に復員、農事試験場に勤務、1950年(昭和25年)4月に農林省農業技術研究所化学部作物栄養科作物栄養第2研究室長に就任、1961年(昭和36年)3月に東京大学から農学博士の学位を取得、1964年(昭和39年)5月に農林省農業技術研究所化学部作物栄養科長に就任。
田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 198… 田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 1981年8月22日)は、昭和中期から後期(1940年代後半~1970年代)のプロ野球選手・プロ野球審判員。
鵜月 洋(うづき ひろし、1918年〈大正7年〉11月29日… 鵜月 洋(うづき ひろし、1918年〈大正7年〉11月29日 - 1965年〈昭和40年〉6月12日)は、日本の国文学者。専門は、近世日本文学及び宣伝・広告文。 1918年11月29日、千葉県銚子市に生まれる。 第二早稲田高等学院を経て、1939年4月1日、旧制早稲田大学文学部文学科国文学専攻に入学。学徒出陣のため、1941年12月25日に繰り上げ卒業となる。卒業論文は暉峻康隆の指導の下、江戸戯作(洒落本)をテーマとし、成績優秀だったため優等賞を受けた。 1942年4月1日に早稲田大学大学院に入学。同年9月27日には論文「近世後期写実小説の研究」に教職員賞が与えられた。同年9月の城右高等女学校教諭、1944年9月から日本文学報国会主事となる。
長谷 章久(はせ あきひさ、1918年〈大正7年〉11月28… 長谷 章久(はせ あきひさ、1918年〈大正7年〉11月28日 - 1985年〈昭和60年〉10月25日)は、国文学者。 東京生まれ。1942年東京帝国大学文学部国文科卒。1947年同大学院(旧制)修了、埼玉大学助教授、教授、1962年「仮作物語の享受に関する研究」で東京大学文学博士。1981年埼玉大学を定年退官、名誉教授、放送大学教授、埼玉教育センター長。日本風土文学会会長を務めた。自ら写真を撮り、啓蒙的な書物を多く著した。
村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)1… 村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)11月27日 - 1972年(昭和47年)8月26日)は、日本の政治家、内務・通産官僚。衆議院議員(2期)を務めた。従四位勲三等。 1918年(大正7年)、広島県に生まれる。広島県立広島第一中学校を経て東京府立第四中学校へ転校し、その後、第一高等学校を卒業。卒業後は短期現役海軍主計科士官(12期)を志願し、1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学。1945年に卒業した。同年6月、海軍主計少尉に任官。舞鶴施設本部付兼第101部隊長を務めて終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学法学部を卒業。
宗川 信夫(むねかわ のぶお、1918年11月25日 - 2… 宗川 信夫(むねかわ のぶお、1918年11月25日 - 2005年12月17日)は、日本の映画撮影監督。 山形県出身。麻布獣医専門学校(現麻布大学)卒業後、1939年日活多摩川撮影所に撮影助手として入社。 1953年大映作品「落花の門」で撮影監督デビュー。以降、「しとやかな獣」、「白い巨塔」、「大怪獣ガメラ」等、大映の話題作ヒット作の撮影を手掛けた。1972年からフリー。 ジャーマンシェパード犬の愛好家で、撮影を担当した1957年映画「名犬物語 吠えろシェーン」、1959年フジテレビ開局記念ドラマ「少年ジェット」に出演したシェーンは自身の愛犬シェーン・D・グランプリ号。「少年ジェット」の第一部・黒い影篇5〜8話では監督と撮影を兼任した。
鵜澤 昌和(うざわ まさかず、1918年(大正7年)11月2… 鵜澤 昌和(うざわ まさかず、1918年(大正7年)11月24日 - 2019年(平成31年)2月4日)は、日本の経営学者。青山学院大学名誉教授。専門分野は、経営情報システム、コンピューター応用、オフィスオートメーション。 青山学院大学学長、東京家政学院大学学長、日本ファシリティマネジメント推進協会会長、日本セキュリティ・マネジメント学会会長等を歴任し、藍綬褒章、勲三等旭日中綬章を受章した。 東京都生まれ。旧制明治中学校(現明治大学付属明治高等学校)在学中、同校校長を務めていた父鵜澤總明(明治大学総長)が通っていた富士見町教会で洗礼を受ける。1936年に明治中学を卒業し、旧制東京商科大学(現一橋大学)予科に進学。
南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月2… 南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。 1918年11月23日、岐阜県大垣市生まれ。すぐ大阪府高槻市に移住。 1937年、都島工業学校建築科卒業後、大阪の建築事務所で働きはじめる。一時的に大映京都撮影所で助監督を務めるが、建築事務所に復帰。 1945年、勤めていた建築事務所が解散。漫画を描きはじめ、大阪新聞社の雑誌『漫画日本』や『読物と漫画』(『大阪パック』改題)で作品を発表。
三ッ林 弥太郎(三ッ林 彌太郎、みつばやし やたろう、191… 三ッ林 弥太郎(三ッ林 彌太郎、みつばやし やたろう、1918年〈大正7年〉11月22日 - 2003年〈平成15年〉8月18日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党所属の衆議院議員(10期)。 科学技術庁長官(第3次中曽根内閣)を務めた。 埼玉県北葛飾郡行幸村千塚(のち幸手町、現・幸手市)、三ッ林幸三の長男として生まれる。埼玉県立杉戸農業学校、埼玉青年師範学校(現・埼玉大学教育学部)卒業。奉天予備士官学校卒業。 青年学校教諭兼小学訓導、埼玉県農業会勤務を経て1948年に埼玉県指導農協連北葛飾支所経営課長となり1951年以来4回県議に当選。 自民党県連副幹事長を務め1960年に県議会副議長、1964年に議長に選ばれる。
小林 ちづ(こばやし ちづ、1918年(大正7年)11月22… 小林 ちづ(こばやし ちづ、1918年(大正7年)11月22日 - 平成時代まで存命。没年は不明)は、日本社会党衆議院議員。衆議院議員(1期)当選1回。小林正美(日本社会党衆議院議員)の未亡人。三重県では数少ない女性議員であった。 福岡県戸畑市生まれ。1936年(昭和11年)に、奈良県育英高等女学校を卒業した。その後に衆議院議員となる小林正美と結婚をして、職業は議員秘書を務めた。 1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙では同じ選挙区から複数候補者を樹立する日本社会党執行部の方針で三重1区から日本社会党の2人目の公認候補として、小林ちづの夫の小林正美も出馬したが、亀山市を境界として、四日市市を中心とする北部地域は新人の四日市市出身の小林正美候補の地盤で、伊賀や津市などの南部地域は現職の中井徳次郎候補の地盤とする地盤割りが成功して小林正美・中井徳次郎の2人共が当選した。
吉川 政己(よしかわ まさき、1918年11月22日 - 2… 吉川 政己(よしかわ まさき、1918年11月22日 - 2002年2月6日)は、日本の医学者、老人医学が専門。 東京出身。父は実業家の吉川長三郎。岳父は日産の浅原源七。東京帝国大学医学部卒。1949年医学博士、東京大学医学部教授(冲中重雄の後任)。1975年から1976年にかけて医学部長。1979年定年退官、名誉教授、東京警察病院。息子は吉川洋・東大教授。
縣 聡(あがた さとし、1918年(大正7年)11月20日 … 縣 聡(あがた さとし、1918年(大正7年)11月20日 - 2003年(平成15年)2月10日)は、日本の政治家。元長野県大町市長。 長野県北安曇郡大町(現大町市)生まれ。旧制大町中学(現長野県大町岳陽高等学校)を経て、1940年(昭和15年)3月、旧制高岡高等商業学校卒業。同年に渡満し、満州特産物輸出貿易業・瓜谷商店に勤務。翌年応召し、1946年(昭和21年)復員。1951年(昭和25年)3月、北安曇農業高等学校(現長野県池田工業高等学校)教諭となり、1953年(昭和27年)退職し、大町商工会議所専務理事となる。1954年(昭和29年)8月、大町市役所に入庁し、税務課長、税務課長、総務課長を歴任した。
藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11… 藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11月19日 - 2000年12月14日)は、浄土宗僧侶・仏教学者。 和歌山県田辺市出身。父は藤堂祐範。大正大学仏教学科卒、1944年同研究科修了。1979年「日中浄土教思想史の研究」で佛教大学文学博士。佛教大学助教授、教授。1989年定年、名誉教授。浄土宗大本山知恩院浄土宗学研究所研究員、増上寺法主。