入江 陽(いりえ よう、1987年 - )は、日本の音楽家。… 入江 陽(いりえ よう、1987年 - )は、日本の音楽家。 東京都新宿区大久保出身。東京慈恵会医科大学医学部医学科卒業。学生時代はジャズ研究会でピアノを、管弦楽団でオーボエを演奏する一方、学外ではパンク・ロックバンドやフリー・ジャズなどの演奏にも参加。その後、試行錯誤の末、シンガーソングライターとして活動開始。2013年から高齢者認知症に対する音楽療法の研究プロジェクトにも携わる。 佐藤薫(EP-4)、カメラ=万年筆、DJぷりぷり、大島輝之+大谷能生がリミックスで参加。 大谷能生プロデュース作品 「鎌倉[duet with 池田智子(Shiggy Jr.)]」は神奈川県鎌倉市のご当地ソング
一杉正仁(ひとすぎ まさひと、英語:Masahito Hit… 一杉正仁(ひとすぎ まさひと、英語:Masahito Hitosugi、1969年7月3日-)は、日本の社会医学者, 医師。現在滋賀医科大学の医学部, 教授。法務省大阪矯正管区矯正医療アドバイザー、International Traffic Medicine Association(北東アジア地区担当理事)、日本交通科学学会副会。 1994年東京慈恵会医科大学卒業後、川崎市立川崎病院勤務を経て東京慈恵会医科大学院修了。同大助手、獨協医科大学法医学講座准教授を経て現職へ。他にも大学講師や警察嘱託警察医、幾多の関係委員会や学会の要職を精力的にこなすなど、幅広く活躍中。専門分野は突然死の病態生理、血栓症、交通事故の予防医学。
大坪 寛子(おおつぼ ひろこ、1967年8月24日 - )は… 大坪 寛子(おおつぼ ひろこ、1967年8月24日 - )は、日本の医師、医学者(内科学)、厚生労働官僚。厚生労働省健康・生活衛生局長。 東京慈恵会医科大学医学部助教、国立感染症研究所血液・安全性研究部研究員、環境省総合環境政策局企画課特殊疾病対策室室長、厚生労働省医政局総務課医療安全推進室室長などを歴任した。 内科学を専門とする医学者である。東京慈恵会医科大学に勤務し、血液安全確認システムの起ち上げなどに参画した。一時、国立感染症研究所に出向し、血液・安全性研究部で研究員を務めた。その後、厚生労働省に技官として入省し、省内の要職を歴任するとともに、環境省や内閣官房にも出向した。 1986年(昭和61年)、東京慈恵会医科大学に進学し、医学部の医学科にて学んだ。
山本 敏晴(やまもと としはる、1965年12月8日 - )… 山本 敏晴(やまもと としはる、1965年12月8日 - )は、日本の医師、医学博士、写真家、国際協力活動家、企業の社会的責任 (CSR) の啓発運動家。特定非営利活動法人(NPO法人)宇宙船地球号の代表。 宮城県仙台市出身。1978年、小学校の時、南アフリカ共和国を訪れアパルトヘイトに衝撃を受ける。中学校の時、親から一眼レフカメラを買ってもらう。以来、開発途上国を中心に数多くの国を訪問し、撮影、写真展を行っている。 また、 東京慈恵会医科大学を卒業し博士号を取得した後、2000年頃より複数の国際協力団体に登録し、アフリカや中東などで医療系の援助活動を行った。 2004年から自身の団体「NPO法人・宇宙船地球号」を創設し、国際協力師(プロとして有給で国際協力を行う人々)の育成、CSRの推進、お絵描きイベント(世界中の人々に大切なものの絵を描いてもらい、それを通して各国の社会問題を紹介する事業)を行っている。
浅沼 一成(あさぬま かずなり、1964年〈昭和39年〉 -… 浅沼 一成(あさぬま かずなり、1964年〈昭和39年〉 - )は、日本の厚生労働技官、医師。日本医師会認定産業医。専門分野は公衆衛生、産業保健、学校保健。日本公衆衛生学会、日本産業衛生学会所属。 厚生労働省大臣官房危機管理・医務技術総括審議官、東京慈恵会医科大学環境保健医学講座客員教授、同非常勤講師などを歴任した。 東京都出身。1991年(平成3年)3月、東京慈恵会医科大学医学部卒業。同年4月、厚生省に入省。入省後、公的骨髄バンクの設立に携わり、制度策定の調整などに取り組んだ。その後、文部省体育局学校健康教育課専門員、厚生省健康政策局研究開発振興課課長補佐などを経て、2000年(平成12年)に発生した有珠山噴火では政府現地対策本部に派遣された。
小澤 竹俊(おざわ たけとし、1963年1月29日 - )は… 小澤 竹俊(おざわ たけとし、1963年1月29日 - )は、日本の医師。東京都出身。東京慈恵会医科大学医学部医学科卒、現在、めぐみ在宅クリニック(在宅療養支援診療所)院長。一般社団法人 エンドオブライフ・ケア協会 理事。クリスチャン。 1963年東京都出身。1987年東京慈恵会医科大学医学部医学科を卒業。1991年山形大学大学院医学専攻博士課程卒。運動負荷心電図にて学位取得。1991年から1993年まで、山形県立中央病院救命救急センターで循環器医として従事、1993年から1994年山形県西置賜郡白鷹町立病院内科勤務。1994年より横浜甦生病院ホスピス勤務、1996年よりホスピス病棟長に就任。その後、2006年10月にめぐみ在宅クリニックを開設。
進藤 奈邦子(しんどう なほこ、Nikki Shindo、1… 進藤 奈邦子(しんどう なほこ、Nikki Shindo、1963年〈昭和38年〉 - )は、日本の医師、医学者。学位は博士(医学)(東京慈恵会医科大学・1997年)。専門は感染症学、内科学など。 世界保健機関 (WHO) 本部感染症危機管理 シニアアドバイザーを務めている。 2009年公開の映画『感染列島』の、WHOメディカルオフィサー小林栄子のモデルでもあるといわれている。2014年に西アフリカでエボラ出血熱が流行した際、チームリーダーとして尽力した。
大木 隆生(おおき たかお、1962年8月12日 - )は、… 大木 隆生(おおき たかお、1962年8月12日 - )は、日本の外科医。東京慈恵会医科大学医学部外科学講座統括責任者、血管外科教授、診療部長。専門は血管外科。高知県観光特使。 手術を年間500件以上こなす。人工血管「ステントグラフト」の開発に携わった。日米において、最年少で外科教授に就任。これまでに世界13か国で招待手術を施行してきた[要出典]。 座右の銘は「衣食足りたらトキメキを求めよ」。高知県観光特使を務めている。安倍晋三や渡邉恒雄と蜜月関係にあった。 少年時代は勉強嫌いで、大手商社の三井物産の役員でエリートだった父の存在にコンプレックスを持ち続けていたが、その父の仕事の関係でロンドン・ベルギーにおける外国生活において取得した英語力をきっかけに、高校時代友人の英語の勉強を手伝い、喜ばれたことで「人に喜ばれる」ことの嬉しさに目覚め外科医になることを決意[要出典]。
大江 裕一郎(おおえ ゆういちろう、1959年(昭和34年1… 大江 裕一郎(おおえ ゆういちろう、1959年(昭和34年12月28日 - )は、日本の医師、医学者。学位は博士(医学)。元東京慈恵会医科大学大学院医学研究科教授、元国立がん研究センター中央病院副院長。専門は、呼吸器内科学、臨床腫瘍学、肺がん、分子標的治療に関する研究。 1959年東京大田区で開業医の家庭の長男として生まれる。地元の小学校を卒業後、芝中学に入学とともに柔道部に入部、中学高校時代は柔道に熱中する。東京慈恵会医科大学入学後も柔道を続け、東医体、全医体などで活躍した。 1984年に東京慈恵会医科大学を卒業し、同大学附属病院で初期研修ののち、1986年に同大学第2内科(宮原正教授)へ入局 1987年に国立がんセンター病院で西條長宏の指導の下、肺がん治療、臨床試験、TRの研修を行う。
須原 哲也(すはら てつや、1958年 - )は、日本の医学… 須原 哲也(すはら てつや、1958年 - )は、日本の医学者、精神科医。専門は精神医学、精神薬理学、ポジトロン核医学。分子イメージングを用いた精神・神経疾患の脳機能研究で知られている。現在、国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(QST)に所属し、副理事や量子生命・医学部門の部門長を務めている。
三森 久実(三森 久實、みつもり ひさみ、1957年(昭和3… 三森 久実(三森 久實、みつもり ひさみ、1957年(昭和32年)11月18日 - 2015年(平成27年)7月27日)は、日本の実業家。大戸屋ホールディングスの創始者で、同社の代表取締役社長や会長などを務めた。兄は東京慈恵会医科大学特任教授の三森教雄。 山梨県山梨市出身。生家は観光ブドウ園で、15歳の時に東京・池袋で「大戸屋食堂」を経営していた叔父・栄一の養子に入った。幼少期から野球を続けており、強豪校の帝京高等学校へ進んで甲子園を目指したが、卒業時にプロ球団からの指名を得られなかった。このため、野球をやめて大学へは進学せずに就職する道を選んだ。叔父の人脈により帝国ホテルで働くことが決まっていたものの、その前段階として新宿の洋食屋でコックの見習いとなり、1976年に株式会社フローラフーズへ入社。
南雲 吉則(なぐも よしのり、1955年8月1日 - )は、… 南雲 吉則(なぐも よしのり、1955年8月1日 - )は、日本の医師。博士(医学)。乳腺専門医。身長173cm、体重61kg。群馬県北群馬郡吉岡町出身。 実家は江戸時代から続く群馬の薬問屋で、曾祖父の代から医家に変わった。父は日本の美容外科の草分けとして知られる南雲吉和。姉は歯科医師でタレントの佐藤由紀子。井伏鱒二の『本日休診』のモデルである南雲今朝雄は大叔父。子息や甥も医師。 森村学園初等科、駒場東邦中学校・高等学校を経て、東京慈恵会医科大学医学部を卒業。東京女子医科大学形成外科、癌研究会付属病院外科、慈恵医大学第一外科乳腺外来医長を経て、乳房専門のナグモクリニックを開業。 慈恵医大、近畿大学の非常勤講師、韓国東亞医科大学、中国大連医科大学の客員教授。
海原 純子(うみはら じゅんこ、1952年4月1日 - )は… 海原 純子(うみはら じゅんこ、1952年4月1日 - )は、日本の医学者(医学博士)・医師、随筆家、歌手。神奈川県横浜市出身。 実家は横浜市内の耳鼻科医院。小学5年生の頃に母の意向で横浜雙葉学園に編入。しかし「お嬢様」ばかりの雰囲気になじめず、孤独感を感じる中で、早く自立したいという思いが強くなった。その後、医師を目指して東京慈恵会医科大学に進学。父が病気になったこともあり、19歳から24歳まで新宿のクラブで専属歌手活動をして生活費を捻出し、1976年、同大学を卒業。クラブでドラマの主題歌の歌手を探している、音楽ディレクターと出会い結婚。 同大内科、病理学講師を経て、1984年、東京都港区南青山に「海原メディカルクリニック」を開業。
田口 芳雄(たぐち よしお、1951年 - )は、日本の医学… 田口 芳雄(たぐち よしお、1951年 - )は、日本の医学者。現職は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院病院長(脳神経外科教授)。 1969年、神奈川県立厚木高等学校を卒業(高校第21回)後、1975年に東京慈恵会医科大学医学部を卒業。1979年に同大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)。1982年には米カリフォルニア大学へ留学。1995年、聖マリアンナ医科大学脳神経外科助教授、2004年、同教授に就任。2006年から同大学横浜市西部病院病院長。
中山 和彦(なかやま かずひこ、1951年 - )は、日本の… 中山 和彦(なかやま かずひこ、1951年 - )は、日本の精神医学者、東京慈恵会医科大学教授。 愛媛県宇和島市生まれ。1977年東京慈恵会医科大学卒。1986年医学博士。1996年ロンドン大学精神医学研究所客員教授。2001年中華人民共和国大連医科大学客員教授。2003年京都府立医科大学客員教授。2004年東京慈恵会医科大学精神医学講座主任教授となる。専門は精神薬理学、非定型精神病、てんかん学、森田療法。
三田 昌宏(みた まさひろ、1949年11月13日 - )は… 三田 昌宏(みた まさひろ、1949年11月13日 - )は、日本の実業家、馬主。参天製薬元常務取締役、現顧問。有限会社三成社代表取締役。兵庫県出身。 参天製薬株式会社社長を務めた三田彰久の長男として生まれる。東京慈恵会医科大学を卒業し、1980年4月に参天製薬に入社、1983年7月に同社取締役、1995年6月より常務取締役を務め、2011年6月22日をもって退任後は顧問となった。 日本中央競馬会(JRA)に登録する馬主としても知られる。勝負服の柄は青、水色ダイヤモンド、水色袖青三本輪、冠名は特に用いない。
本間 生夫(ほんま いくお、1948年 - )は、日本の生理… 本間 生夫(ほんま いくお、1948年 - )は、日本の生理学者、医師。昭和大学名誉教授。専門は呼吸生理学、脳生理学。 東京有明医療大学学長。元日本生理学会副会長。元文部科学省教科用図書検定調査審議会会長。 千葉県生まれ。千葉県立千葉高等学校を経て、1973年東京慈恵会医科大学医学部卒業、東京慈恵会医科大学第二生理学教室助手。1980年東京慈恵会医科大学医学博士、東京慈恵会医科大学第二生理学教室講師。1982年昭和大学医学部第二生理学教室助教授。1986年昭和大学医学部第二生理学教室教授。2003年日本体力医学会理事。2004年花田学園理事、日本生理学会副会長、日本手技療法学会会長、日本呼吸器学会代議員。
丸山 浩一(まるやま こういち、1947年(昭和22年)11… 丸山 浩一(まるやま こういち、1947年(昭和22年)11月30日 - )は、日本の政治家、医師。元東京都西東京市長(2期)。 東京都保谷市出身。成蹊高等学校卒業。1973年(昭和48年)、東京慈恵会医科大学卒業。1975年(昭和50年)、東京慈恵会医科大学心臓血管外科に入局。 2013年(平成25年)2月3日執行の西東京市長選挙に無所属で立候補。元西東京市議会議員の森輝雄、共産党西東京市委員長の杉山昭吉ら2人の候補者を破り、初当選。投票率は36.93%。同年2月18日、市長に就任。 2017年(平成29年)、日本共産党新人を破り再選。投票率は32.90%で過去最低を記録した。 2021年の市長選挙には立候補せず2期で退任。
富家 孝(ふけ たかし、1947年3月31日 - )は医師・… 富家 孝(ふけ たかし、1947年3月31日 - )は医師・ジャーナリスト。 大阪府北河内郡(現大阪市鶴見区)出身、大阪教育大学附属天王寺小学校から大阪教育大学附属天王寺高校を経て、1972年東京慈恵会医科大学卒業。 1975年から80年までふけ内科医院開業。1980年より医療法人富家会の初代理事長として首都圏に病院チェーンを次々に開設するも経営のつまずきから倒産。その経験から医療コンサルタントとして活動を開始する。 その後、日本女子体育大学助教授、早稲田大学講師。青山学院大学講師等を歴任。 ジャーナリストとして65冊以上の著作を発表しており、テレビやラジオ等マスコミへの露出も多い。 かつては日本ボクシングコミッションドクターを務め、新日本プロレスのリングドクターを40年以上務める。
田中 雅博(たなか まさひろ、1946年3月 - 2017年… 田中 雅博(たなか まさひろ、1946年3月 - 2017年3月21日)は、日本の医師、僧侶。 栃木県芳賀郡益子町の西明寺で生まれる。栃木県立真岡高等学校卒業。父親の勧めで医師を目指し、東京慈恵会医科大学医学部を卒業。国立がんセンターで研究所室長、病院内科医として勤務。大正大学に進学し、仏教を7年間学び、西明寺を継いだ。住職を務めながら、1990年、境内に入院病床を備えた(緩和ケアもおこなう)普門院診療所や介護施設を建てた。2014年10月、末期の膵臓癌が発見された。その後肝臓に転移。30年間「病院にもスピリチュアル・ケアワーカーが必要」と訴え続けた。 2017年に入って昏睡状態になるなど病状が悪化し、同年3月21日午前7時20分に死去した。
北西 憲二(きたにし けんじ、1946年1月9日 - )は、… 北西 憲二(きたにし けんじ、1946年1月9日 - )は、日本の精神科医。森田療法を中心に行う。 埼玉県生まれ。1970年東京慈恵会医科大学卒、1978年「うつ病の日内変動に関する研究」で医学博士。1972年スイス・バーゼル大学・うつ病研究部門に留学。1979-1995年東京慈恵会医科大学附属第三病院講師。その後成増厚生病院、日本女子大学教授、2007年森田療法研究所所長・北西クリニック院長。
岡部 信彦(おかべ のぶひこ、1946年- )は、日本の医師… 岡部 信彦(おかべ のぶひこ、1946年- )は、日本の医師・医学者(小児科学)・国際公務員。学位は医学士(東京慈恵会医科大学医学部・1971年)。 川崎市健康安全研究所・所長。厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード・構成員。新型インフルエンザ等対策閣僚会議新型インフルエンザ等対策有識者会議・会長代理 兼 新型コロナウイルス感染症対策分科会・委員。内閣官房参与(感染症対策担当)。WHO Pandemic Influenza Preparedness Advisory Group 委員、WHO 西太平洋地域事務局ポリオ根絶監視委員会(副議長)を歴任。 東京慈恵会医科大学附属病院研修医、帝京大学医学部助手、神奈川県立厚木病院小児科医師、東京都立北療育園小児科医師、ヴァンダービルト大学医学部研究員、国立小児病院感染科医員、神奈川県立衛生看護専門学校附属病院小児科部長、世界保健機関西太平洋地域事務局伝染性疾患予防対策課課長、東京慈恵会医科大学医学部助教授、国立感染症研究所感染症情報センターセンター長、日本ワクチン学会理事長などを歴任した。
中原 英臣(なかはら ひでおみ、1945年1月17日- )は… 中原 英臣(なかはら ひでおみ、1945年1月17日- )は、日本の医学者(医学博士(東京慈恵会医科大学、1976年)。新渡戸文化短期大学名誉学長、山野医療専門学校副校長。
横内 昭光(よこうち あきみつ、1944年3月 - )は、元… 横内 昭光(よこうち あきみつ、1944年3月 - )は、元警察官。警視庁捜査1課管理官として定年を迎えた2004年、東京慈恵会医科大学(慈恵医大)青戸病院(現在の慈恵医大葛飾医療センター)に招聘され、病院内でおこるトラブルに対処する「院内警察」の第1号になった。 北海道白糠郡白糠町出身。1960年中学校を卒業後しばらく釧路炭田に属する本岐炭鉱の臨時職員として働いた。その後高校を卒業し、警視庁の警察官採用試験を受けて採用された。板橋警察署刑事課長・新宿警察署刑事第一課長などを経て、本庁捜査一課管理官(殺人捜査担当)を2年間務め、2004年3月に定年退職したが、警察人生41年間のうち36年間は刑事であった。
天本 宏(あまもと ひろし、1943年(昭和18年) 4月2… 天本 宏(あまもと ひろし、1943年(昭和18年) 4月25日生まれ- )は、日本の医師・医学博士。医療法人財団天翁会(東京都多摩市)を設立し、初代理事長に就任した。地域包括ケアの先行モデルとして、多摩ニュータウンを中心とした「あいセーフティネット」の構築で知られる。 1980年に天本病院(東京都多摩市)を開設し、95年、医療法人財団天翁会設立、初代理事長に就任。老人の専門医療を考える会初代会長、日本慢性期医療協会初代会長、厚生省老人保健審議会委員、東京都医師会理事、多摩市介護保険運営協議会委員、全日本病院協会副会長、日本医師会常任理事、地域包括ケアシステム研究会委員などを歴任した。2016年に天翁会は社会医療法人河北医療財団と合併し、天翁会の事業はそのまま河北医療財団多摩事業部となった。
帆足 英一(ほあし えいいち、1941年 - 2024年11… 帆足 英一(ほあし えいいち、1941年 - 2024年11月1日)は、日本の小児科医、医学博士。 東京慈恵会医科大学医学部卒業。1977年「夜尿症児の精神生理学的研究」で医学博士。東京都立母子保健院院長を経て、ほあし子どものこころクリニック院長。世田谷子どもクリニック名誉院長。排尿機構および夜尿症の研究における第一人者[要出典]。メディアでは「おしっこ博士」または「おねしょ博士」と称された。
矢部 喜正(やべ よしまさ、1940年(昭和15年)4月1日… 矢部 喜正(やべ よしまさ、1940年(昭和15年)4月1日 - 2005年(平成17年)12月)は、日本の医学者(循環器病学)、東邦大学元教授。医学博士。 群馬県前橋市生まれ。群馬県立前橋高等学校、東京慈恵会医科大学医学部卒業。1973年に東邦大学より「冠動脈結紮犬における冠動脈間吻合の発達に関する研究」で医学博士の学位を取得。東邦大学医学部附属大森病院循環器センター長などを歴任。今では一般的となった心筋梗塞の治療に、バルーンによる血管拡張治療を始めた先駆者的存在であった。
霜 禮次郎(しも れいじろう、1937年12月9日 - )は… 霜 禮次郎(しも れいじろう、1937年12月9日 - )は、日本の整形外科医師、射撃選手。
嶋田 賢(しまだ まさる、1937年1月22日 - 2026… 嶋田 賢(しまだ まさる、1937年1月22日 - 2026年3月10日)は、日本の内科医、馬主。 千葉県銚子市の医療法人積仁会 島田総合病院理事長を務め、第20代銚子市医師会会長を務めた。 千葉県出身。銚子市内で医院を開業していた内科医で、戦後、7期にわたって銚子市長を務めた嶋田隆の長男である。東京慈恵会医科大学で学び、内科医としてキャリアを積み、1985年に島田総合病院院長兼理事長に就任する。院長からは2014年に退任したが、晩年まで内科医として外来診療を担当した。 2000年4月、厚生労働大臣より「平成11年度救急医療功労者」の表彰を受ける。 2018年11月、瑞宝小綬章受章。 2026年3月10日、肺炎のため死去。
吉原 忠男(よしはら ただお、1935年7月8日 -)は、日… 吉原 忠男(よしはら ただお、1935年7月8日 -)は、日本の医師(外科学)、推理作家。医学博士。埼玉県医師会元会長。日本ペンクラブ会員。 青森県三戸郡三戸町出身。1960年、東京慈恵会医科大学医学部卒業。1962年に医師国家試験合格(医籍174945号)。同大学第一外科学教室助手を経て、1968年に埼玉県浦和市(現・さいたま市)で吉原医院を開設。1970年、医学博士(東京慈恵会医科大学)。 埼玉県医師会常任理事を経て、2004年4月から2010年まで埼玉県医師会長。2006年に医療功労賞(読売新聞社主催)を受賞。2011年4月、旭日小綬章を受章。 現役の開業医として地域の保険・医療活動に力を入れながら、合間を縫って海庭 良和(かいば よしかず)のペンネームで豊富な医学知識を生かしたミステリー作品の執筆活動に取り組む。
池田 義雄(いけだ よしお、1935年3月29日 - )は内… 池田 義雄(いけだ よしお、1935年3月29日 - )は内科学を専門とする日本の医学者。日本生活習慣病予防協会理事長、セルフメディケーション推進協議会会長、タニタ体重科学研究所所長、糖尿病治療研究会代表幹事などを務める。 長野県上田市出身。1961年に東京慈恵会医科大学医学部を卒業、同大学講師、助教授、教授を務め、2000年に退任。医学博士。 1997年度日本肥満学会会長。厚生労働省薬事・食品衛生審議会新開発食品調査部会委員。2005年日本糖尿病学会坂口賞を梶沼宏と共同で受賞。日本糖尿病・肥満動物学会第5回平成24年後藤賞受賞。2014年度(平成26年)日本肥満学会功労賞受賞。 2011年の池田の著書『量る・計る・食べるダイエット』がトーハン調べ「2011年 年間ベストセラー」に入った。
米本 恭三(よねもと きょうぞう、1932年 - 2024年… 米本 恭三(よねもと きょうぞう、1932年 - 2024年12月23日)は、日本の医学者、医師。専門はリハビリテーション医学、神経内科学、整形外科学。学位は、医学博士。 東京慈恵会医科大学名誉教授、東京都立大学名誉教授。元東京都立保健科学大学学長、元東京慈恵会医科大学主任教授、元東京慈恵会医科大学附属第三病院病院長、元慈恵看護専門学校校長。 1958年に東京慈恵会医科大学を卒業する。1963年に同大学院を修了し、整形外科学教室・第二生理学教室の助手となった。1970年から1971年まで東京大学医学部脳研究施設・神経内科に国内留学する。1972年から東京慈恵会医科大学整形外科講師となり、1977年に助教授、1983年から教授に就任しリハビリテーション科、体力医学研究室を担当した。
村木 毅(むらき たけし、1931年10月10日 - 201… 村木 毅(むらき たけし、1931年10月10日 - 2010年10月15日 )は日本の医学者(解剖学)、外科医。医学博士。聖マリアンナ医科大学客員教授(解剖学)。臨床漢方医学にも造詣が深く現代漢方医の第一人者とされる。 東京都千代田区出身。1958年東京慈恵会医科大学卒業。同大学第一外科学教室及び解剖学教室を経て、1963年テキサス大学に留学。1964年医学博士(東京慈恵会医科大学)、博士論文の題は 「関東地方日本人環椎の解剖学的研究/関東地方日本人軸椎の解剖学的研究」。 1965年2月横浜市立大学第二外科学教室、1966年4月東邦大学解剖学教室助教授。漢方医学は山田光胤に師事。1969年東京都大田区に村木外科胃腸科を開設。
川尻 徹(かわじり とおる、1931年〈昭和6年〉6月7日 … 川尻 徹(かわじり とおる、1931年〈昭和6年〉6月7日 - 1993年〈平成5年〉9月)は、日本の精神科医(医学博士、東京慈恵会医科大学、1981年)、予言研究家。 東京慈恵会医科大学卒業。国立精神衛生研究所所員、青梅成木台病院院長等を経て、病院コンサルタントなどを手がけた。精神科医としての研究もあるが(「慢性精神分裂病症候群の病態推移と脳波パターンとの関連について」『東京慈恵会医科大学雑誌』第94巻第5号、1979年、本論は後に博士論文として大学に提出されている)、むしろ独特の予言解釈で知られる。 トンデモ本などを主に収集すると学会の前会長山本弘は著書『トンデモ本の世界』の中で、川尻徹の著書を見てトンデモ本にはまったと書いている。
大畠 襄(おおはた のぼる 1930年11月25日 - 20… 大畠 襄(おおはた のぼる 1930年11月25日 - 2024年2月9日)は、日本の医師。専門はスポーツ医学、整形外科。 1930年11月25日、東京都出身。成城高等学校を経て東京慈恵会医科大学卒業。大学卒業後は東京慈恵会医科大学附属病院整形外科医師となると共に、東京慈恵会医科大学整形外科教室及び形成外科教室で教鞭を取る。1984年に教授に昇任。 1985年に慈恵医科大学病院に開設された健康医学センターにてスポーツ外来部を設置。スポーツ医学研究を進めると共に、スポーツ選手などの治療などに当たる。1993年に健康医学センター長及びスポーツ医科学教授に就任、1996年より客員教授を務める。また東京慈恵会医科大学附属柏病院院長も務めた。
大原 健士郎(おおはら けんしろう、1930年4月30日 ‐… 大原 健士郎(おおはら けんしろう、1930年4月30日 ‐ 2010年1月24日)は、日本の医学者・精神科医。浜松医科大学名誉教授。専門は自殺研究、森田療法など。 高知県吾川郡伊野町(現・いの町)生まれ。伊野小学校から土佐中学に入学。1945年中学2年の時に東京陸軍幼年学校(49期、終戦時第1学年で復員)を受験して合格し、学校のある東京都の南多摩(現・八王子市)に移転するが、同年8月に学校が空襲で被災したため高知県に戻り、土佐中学に復学する。48年に東京慈恵会医科大学に進学し、56年に卒業、61年同大学院医学研究科精神医専攻修了、66年慈恵医大講師、広島で開かれた日本精神神経学会のシンポジウムの研究発表がきっかけで渡米、66―67年南カリフォルニア大学招聘教授、ロサンゼルス自殺予防センター特別招聘研究員、76年東京慈恵会医科大学助教授、77年浜松医科大学精神神経科教授、88年森田療法学会理事長、96年浜松医科大学退任、名誉教授、97年愛知淑徳大学教授、2003年日本社会精神医学会理事長退任、05年愛知淑徳大学退任。
柄澤 昭秀(柄沢 昭秀、からさわ あきひで、1930年4月9… 柄澤 昭秀(柄沢 昭秀、からさわ あきひで、1930年4月9日 - )は、日本の精神医学者。埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。1955年東京慈恵会医科大学卒、同助手、講師、助教授、1961年「精神疾患の脳波的研究」で東京慈恵会医科大学医学博士、1972年東京都老人総合研究所精神医学研究室長、1975年同心理・精神医学部長、副所長、1993年日本社会事業大学教授、1997年定年、聖徳大学教授。老人の精神医学が専門。
長谷川 和夫(はせがわ かずお、1929年2月5日 - 20… 長谷川 和夫(はせがわ かずお、1929年2月5日 - 2021年11月13日)は、日本の医学者・精神科医。認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医科大学名誉教授。専門は老年精神医学・認知症。認知症医療の第一人者と称された。 愛知県東春日井郡牛山村(現・春日井市牛山町)で銀行員の子として生まれる。18歳ころにキリスト教徒となる。1953年に東京慈恵会医科大学(慈恵医大)を卒業する。IBC(基督教事業連合委員会)のキリスト教振興事業のひとつである留学生派遣に選ばれて1956年から2年間米国へ留学し、米国で最古かつ最大の精神病院聖エリザベス病院とジョンズ・ホプキンズ病院で研修生として精神医学と脳波学を学ぶ。
三浦 大助(みうら だいすけ、1928年(昭和3年)3月27… 三浦 大助(みうら だいすけ、1928年(昭和3年)3月27日 - )は、日本の政治家、厚生官僚。元長野県佐久市長。 長野県南佐久郡野沢町(現・佐久市)生まれ。旧制長野県野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)を経て、東京慈恵会医科大学卒業。昭和27年(1952年)医学博士。同28年(1953年)同大学公衆衛生学教室に入り、同29年(1954年)旧厚生省入省。同38年(1963年)富山県厚生部環境課長、同44年(1969年)山形県衛生部長、同47年(1972年)厚生省環境衛生局食品衛生課長、同50年(1975年)保険局医療課長、同53年(1978年)統計情報部長、同54年(1979年)旧環境庁大気保全局長、同56年(1981年)厚生省公衆衛生局長、同58年(1983年)公害等調整委員会委員を歴任した。
助川 弘之(すけがわ ひろゆき、1928年〈昭和3年〉3月2… 助川 弘之(すけがわ ひろゆき、1928年〈昭和3年〉3月22日 - 2013年〈平成25年〉9月8日)は、日本の政治家、教育者、医師、市民運動家。 霞ケ浦の再生を考える会会長でいのちの水・霞ヶ浦を守る市民ネットワーク代表、筑波メディカルセンター病院理事長、第16・17・18・19代茨城県土浦市長、茨城県公安委員長を歴任した。旭日小綬章受章者。 助川喜四郎の三男として、茨城県新治郡土浦町敷島町(現・土浦市桜町)で生まれた。その後、東京大空襲に遭遇したが生き延びる。東京慈恵会医科大学医学部を卒業し、医師免許を取得。長じて政治を志し、箱根宏の死去にともなう1987年の土浦市長選挙に立候補し初当選。以後、1991年・1995年・1999年の市長選にも当選し、4選を果たした。
新井 達太(あらい たつた、1926年 - 2022年9月1… 新井 達太(あらい たつた、1926年 - 2022年9月15日)は、日本の医師。心臓外科医。 A型単心室の根治術、隔壁形成術に世界で初めて成功したことで知られる。 日本胸部外科学会名誉会長、日本人工臓器学会名誉会長、日本心臓血管外科学会名誉会員、日本冠動脈外科学会名誉会員、日本外科学会特別会員。 1926年、埼玉県秩父市に生まれる。旧制・埼玉県立熊谷中学校、旧制・山形高等学校理科乙類を経て、1953年、東京慈恵会医科大学医学部を卒業。1954年、東京女子医科大学榊原外科入局。1968年、東京女子医科大学教授。1972年、東京慈恵会医科大学教授を経て、1991年、埼玉県立循環器病センター準備室参事、東京慈恵会医科大学客員教授、独協医科大学客員教授。
謝 国権(しゃ こくけん、1925年6月28日 - 2003… 謝 国権(しゃ こくけん、1925年6月28日 - 2003年11月12日)は、日本の医師(産婦人科)。日本医科大学医学博士。著書『性生活の知恵』で知られ、奈良林祥、ドクトル・チエコと並ぶ日本の性医学評論のパイオニアとして活動した。日本赤十字社本部産院(現在の日本赤十字社医療センター産科)産婦人科医局長在任当時、同書がベストセラー(100万部)となった。元・謝国権診療所所長。 1925年(大正14年)6月28日、東京府(現在の東京都)に、台湾出身の詩人・謝溪秋(1892年 - 1959年)の三男として生まれる。 1959年(昭和34年)、「新生児の核黄疸に関する研究」で日本医科大学医学博士。 1960年(昭和35年)、『性生活の知恵』を執筆・発表し、ミリオンセラーとなる。
小野 三嗣(おの みつつぐ、1921年(大正10年)4月19… 小野 三嗣(おの みつつぐ、1921年(大正10年)4月19日 - 2007年(平成19年)3月22日)は、日本の運動生理学者。 秋田県大館生まれ。1942年陸軍航空士官学校(55期)卒、45年大尉に昇進、航空第二師団参謀部付、1950年東京慈恵会医科大学医学部卒業。同名取礼二生理学教室所属、60年 東京慈恵会医科大学医学博士。論文の題は「所謂光力学的作用による骨格筋収縮の機転について」62年慈恵医大講師、1963年東京学芸大学助教授。1964年東京オリンピックで重量挙げのトレーニング-ドクターとなり、全員入賞に貢献した。1966年横浜国立大学教授、1970年東京学芸大学教授。85年定年退官、名誉教授。
酒井 敏夫(さかい としお、1920年6月21日 - 201… 酒井 敏夫(さかい としお、1920年6月21日 - 2012年5月23日)は、日本の医学者・生理学者、東京慈恵会医科大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
阿部 正和(あべ まさかず、1918年12月5日 - 201… 阿部 正和(あべ まさかず、1918年12月5日 - 2016年2月26日)は、日本の内科学者。 東京府で牧師阿部義宗の息子として生まれた。1936年旧制・青山学院中学部卒業、東京慈恵会医科大学予科入学。1942年9月、同大卒業。同年同月、海軍軍医となり榛名に配属。1945年11月、海軍軍医大尉として予備役に編入された。 1945年12月、国立東京第二病院などを経て、1960年東京慈恵会医科大学教授、1982年学長、1984年名誉教授、1993年学校法人慈恵大学理事長、1995年顧問。 糖尿病の病態生理学的研究などで知られ、医師の生涯教育にも取り組む。1984年日本医学会副会長、日本糖尿病学会会長を務めた。
深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 200… 深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 2003年)は、日本の歯学者。 東京慈恵会医科大学専門部卒、1953年「乳歯並びに乳歯列の統計的研究」で慶応義塾大学・医学博士。日本大学歯学部小児歯科学教室教授。89年定年退職。小児歯科学。
犀川 一夫(さいかわ かずお、1918年6月7日 - 200… 犀川 一夫(さいかわ かずお、1918年6月7日 - 2007年7月30日)はハンセン病治療に貢献した日本の医師。プロミンを日本で最初に使用した医師の一人。ハンセン病が治る時代になり、通院治療を主張し、恩師光田健輔に反抗し、台湾で活躍した。後、沖縄愛楽園園長、沖縄県ハンセン病予防協会理事長、らい予防法裁判でも活躍した。 1918年、東京に生まれる。1944年6月、長島愛生園医療事務取扱となり、同年9月、東京慈恵会医科大学卒。召集され東部第24部隊に入営し、1944年12月、陸軍軍医中尉に任官し、日中戦争に従軍。1946年6月、復員し、愛生園に復帰して技官・外科医長を務めた。愛生園では、らいの病理学、プロミンの治験に従事。
中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )… 中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )は、日本の眼科医・キリスト教活動家。 愛媛県松山市生まれ。1942年9月東京慈恵会医科大学卒業。12月北京同仁医院(眼科)勤務。45年8月北京仁民医院(眼科)に留用。同時に日本人戦犯拘置所に一日おきに往診。1947年11月帰国。1948年3月衣笠病院眼科勤務。1953年2月白十字会村山療養園(現∶東京白十字病院・結核科)勤務。1972年7月特別養護老人ホーム白十字ホーム園長就任。89年3月園長退任。引き続き専任医師として勤務。93年7月白十字ホーム退職。キリスト者平和の会委員、安保反対キリスト者平和会議事務局長、日本友和会理事長及び理事、白十字会理事、アルヴィン学院理事、友愛の灯協会会長、全国老人福祉問題研究会会長などを歴任。
湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010… 湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010年11月2日)は、元日本陸軍軍医、医師、中国帰還者連絡会の会員。埼玉県出身。 第二次世界大戦中、日本陸軍の軍医として中国で勤務、軍務として生体解剖を行う。 戦後、戦犯容疑者として中国の戦犯管理所へ移送されるが、中国の人道的な対応に接し、自身の罪を強く認識し深く反省する。起訴免除の判決を受けた後、日本へ帰国する。 帰国後、中帰連の会員として、反戦平和、日中友好運動に参加する。自身の戦争体験、特に生体解剖を証言し、戦争の愚かしさを伝える。 1942年3月中旬。目的は、第36師団の野戦部隊の軍医教育のための演習として行われた。第36師団より11-12名の軍医、潞安陸軍病院より新任軍医5名、その他2-30名が参加した。
滝井 義高(たきい よしたか、1915年(大正4年)2月25… 滝井 義高(たきい よしたか、1915年(大正4年)2月25日 - 2005年(平成17年)12月19日)は、日本の政治家、医師。日本社会党衆議院議員、福岡県田川市長を歴任した。 福岡県出身。旧制明治中学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業し、病院を開業する。 1947年(昭和22年)田川市議会議員選挙に立候補し当選する。1951年(昭和26年)福岡県議会議員選挙に立候補し当選する。日本社会党発足に参加するとともに、地元の筑豊炭田などの炭鉱労組の社会労働問題に精通する。 1953年(昭和28年)第26回衆議院議員総選挙に社会党から立候補し当選する。当選回数5回。社会党では、国会対策副委員長、選挙対策委員長などを務め、社会政策、労働政策の論客として活躍した。