大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月2… 大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月28日 - 1970年(昭和45年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1879年(明治12年)12月28日、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1929年(昭和4年)8月、歩兵第23連隊長(宮崎)に就任。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将になる。 退役後は土佐在郷将校会副会長、帝国在郷軍人会高知市連合会長等を歴任。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 1970年(昭和45年)10月、90歳で死去した。
葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1… 葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1942年1月15日)は山口県出身の実業家、政治家。日本の冷凍物流事業の先駆けとして知られる。大正期に山口電灯を設立し、次いで山口県下の電気事業者をまとめて山陽電気に改組した後、大型冷蔵庫の製造や冷凍船を建造するなど冷凍魚の保存及び販売事業を推し進めた。後に衆議院議員も務める。 1879年(明治12年)12月22日、 山口県吉敷郡小郡町上郷字新町東上で葛原富次郎の二男として生まれる。1897年(明治30年)に旧制高等商業学校(現・一橋大学) に入学。また、東京英語専修学校(現・立教大学)に修学。在学中の1900年(明治33年)に農商務省の海外実業練習生に応募すると、見事合格し渡米。
杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)… 杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)12月19日 - 1960年(昭和35年)11月25日)は、日本の医学者。専門は、外科学・泌尿器科学。東北帝国大学第一外科初代教授。東北帝国大学名誉教授。 1879年(明治12年)、静岡県磐田郡池田村に生まれる。同村尋常小学校、見附町高等小学校、静岡県立静岡中学校、第二高等学校第3部を経て、東京帝国大学医科大学、さらに同大学院に進学。佐藤三吉の下で外科学を専攻。当時新設予定の新潟医学専門学校の外科教授として外科総論及び泌尿器外科を担当することが内定したため、1908年(明治41年)、皮膚科泌尿器科、土肥慶蔵の指導も受けた。ドイツに留学し外科学を研鑽。
伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 … 伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 - 1950年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 岐阜県海津郡、後の城山村(城山町、南濃町を経て現海津市)出身。茨城県立水戸中学校卒業後は郷里に戻っていたが、1900年12月より一年志願兵として名古屋歩兵第6連隊第3中隊に属する。日露戦争に従軍後、陸軍歩兵中尉で除隊。その後は輪西中普通水利組合会議員、石津村議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、自作農創調査委員、小作、金銭債務各調停委員となる。ほか帝国在郷軍人会海津郡連合分会長、大日本砂防協会評議員となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。
古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1… 古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1945年3月10日)は、戦前日本の政治家。岐阜県恵那市出身。古屋家は典型的な地方の名望家であり、慶隆の父・善造も衆議院議員を1期務めた。 1903年明治大学法律科卒業。恵那郡大井町(現在の恵那市)会議員、所得税調査委員を経て1915年第12回衆議院議員総選挙で無所属で立候補し初当選。当選後立憲同志会に入党。その後憲政会、立憲民政党に所属。1928年の第16回衆議院議員総選挙に落選したのを唯一の例外として、1942年の翼賛選挙まで連続9回当選した。加藤高明内閣及び第1次若槻内閣で鉄道参与官を務めたのち、1931年1月民政党総務に就任し、同年4月には第2次若槻内閣の内務政務次官となった。
倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12… 倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12月17日 - 1942年(昭和17年)11月12日)は、日本の政治家、立憲政友会所属の衆議院議員。 福岡県宗像郡上西郷村(現・福津市)出身。明治大学法科専門部卒業。大阪府属、滋賀県警部、鳥取県警部、福井県今立郡長、坂井郡長、福井県理事官、静岡県浜名郡長、静岡県理事官・産業課長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、文部大臣秘書官を務め、平沼内閣では司法政務次官に就任した。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は翼賛議員同盟に加わらず興亜議員同盟に所属。
庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12… 庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12月17日 - 1931年(昭和6年)6月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。実業家。 静岡県駿東郡原町(現在の沼津市)出身。静岡中学校を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。1903年(明治36年)、沼津商業学校教諭となるが、翌年に起こった日露戦争に陸軍近衛歩兵少尉として出征し、中尉に昇進した。その後、1908年(明治41年)に早稲田大学英語科を卒業した。 駿豆新聞社社長兼主筆、東駿銀行監査役、沼津市畜産組合長、東海石炭株式会社社長、静岡朝報社社主などを務めた。また駿東郡会議員、同議長、静岡県会議員、同参事会員に選出された。
人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月1… 人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月16日 - 1959年〈昭和34年〉12月2日)は、日本の農商務官僚、実業家。朝鮮総督府総督官房鉄道局長、台湾総督府総務長官。 京都府船井郡富本村(現:南丹市八木地区)で人見次郎八の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。農商務省に入り、山林局属となる。特許局事務官・庶務課長、兼特許局図書館長、衆議院事務局書記官兼特許局事務官などを歴任。 1908年(明治41年)、統監府に転じ、特許局事務官に就任。1910年(明治43年)8月に朝鮮総督府が設置されると、書記官・農商工部商工課長に就任。
梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう 1879年〈明治12年〉… 梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう 1879年〈明治12年〉12月15日 - 1956年〈昭和31年〉6月11日)は、日本の実業家である。株式会社ヤナセの創業者として知られる。
山中 秀二郎(やまなか ひでじろう、1879年(明治12年)… 山中 秀二郎(やまなか ひでじろう、1879年(明治12年)12月15日 – 1944年(昭和19年)3月1日)は、日本の検事、鉄道官僚。貴族院男爵議員。 陸軍中将・男爵山中信儀の二男として生まれ、1926年(大正15年)5月15日に男爵を襲爵した。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。翌年に司法官試補となり、東京地方裁判所・区裁判所検事、広島地方裁判所・区裁判所検事、福岡地方裁判所・区裁判所検事を歴任した。1923年(大正12年)、東京鉄道局副参事に転じ、水戸運輸事務所長、人事係長、参事、鉄道省事務官、鉄道監察官を歴任した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し死去するまで在任した。
小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月… 小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月14日 - 1937年(昭和12年)9月23日)は戦前日本の雑誌編集者、軍人、南洋開拓者。シャトーブリアン『哀調(フランス語版)』の訳者。 東京外国語学校でフランス文学を専攻し、卒業後『婦人界』主筆を務めた。日露戦争においては松山俘虜所に勤務、終戦後は職を転々とし、西沢島等の南洋事業に関わった。 1879年(明治12年)12月14日、静岡県静岡裏一番町に陸軍士官小島好問の子として生まれた。なお、生誕時父はフランスに留学していた。 1894年(明治27年)4月明治議会中学2年に編入、1896年(明治29年)4月父が呉に転任した頃塩谷青山塾に預けられ、そこから中学に通った。
坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月1… 坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月13日 - 1958年(昭和33年)10月18日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。県知事、貴族院議員。旧姓・水谷。
土井 権大(どい ごんだい、1879年(明治12年)12月1… 土井 権大(どい ごんだい、1879年(明治12年)12月12日 - 1938年(昭和13年)2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 兵庫県揖保郡石海村(現・太子町)に生まれる。明治法律学校に学び、1903年(明治36年)、早稲田大学英語政治科卒。北米移民事業に従事し、ブラジル移民事業を開始する。兵庫県議、石海産業組合長、播州素麺同業組合副組合長のほか、隆文館図書、中日化工各(株)常任監査役、雑誌「農政研究」主幹などを務める。早稲田出身ということから大隈重信の率いる憲政本党に所属し、当初は同じ揖保郡出身の肥塚龍を熱心に支持していたが、肥塚が立憲同志会に移籍すると土井は立憲国民党(憲政本党から改組)に残留し肥塚とたもとを分かつ。
柏木 ベン(かしわぎ ベン、1879年〈明治12年〉12月1… 柏木 ベン(かしわぎ ベン、1879年〈明治12年〉12月12日 - 1963年〈昭和36年〉8月14日)は、宗谷のアイヌ。アイヌ語宗谷方言の話者であり、当地のアイヌ文化の保持者であった。アイヌ名はHatankoyma、ハタンコイマッ、ハタンコイマ。 1879年12月12日、イキコマナイ 'Ikikomanay(現・稚内市大字宗谷村会所前)に生まれる。父・柏木弁太(ベンタ)(嘉永3年(1850年)6月-?)はオランナイ 'Oran Nay(現・稚内市大字宗谷村字第二清浜)の人、父方祖父・イクニンケ 'Ikuninkeは紋別の人、父方祖母はオランナイの人であった。また、父は首長であった。母・シマ(安政4年(1857年)6月-?)はその父母ともに石狩の人であり(シマはオランナイ出身との記述もある)、宗谷のことは何も知らなかったという。
安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 193… 安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 1931年10月27日)は、日本の実業家。 士族・安田仲元の長男として、福岡県に生まれる。1897年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1900年東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 日本鉄道に技手として入社し、機関庫主任などを務める。1907年明治製糖の創立に参画、後に同社常務取締役に就任する。 明治商店取締役、明治製菓取締役、河西鉄道監査役、十勝開墾監査役、東京高等工業学校講師なども務めている。
板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12… 板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12月9日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、日本の法学者、ジャーナリスト、新聞経営者、政治家。慶應義塾大学法学部教授。時事新報社長。貴族院勅選議員。広島県比婆郡庄原村(現庄原市)生まれ。息子は三井銀行(現・三井住友銀行)社長を務めた板倉譲治。 庄原英学校を経て1895年、慶應義塾普通部に入学。その後大学部理財科に進んだが政治科に転じ、卒業後の1903年、普通部の英語教師となる。1905年恩師の福沢諭吉が創立した「時事新報」に入り社説を担当。自由主義の論陣を張り、福沢亡きあとの「時事新報」の論壇を支えた。1907年米英仏に留学し、コロンビア大学でウィリアム・アーチボルド・ダニング(英語版)に、イギリスでラサ・オッペンハイムに師事した。
胡 漢民(こ かんみん、1879年12月9日〈光緒5年10月… 胡 漢民(こ かんみん、1879年12月9日〈光緒5年10月26日〉 - 1936年〈民国25年〉5月12日)は、清末民初の政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党の長老。蔣介石と権力闘争を繰り広げたことでも知られる。旧名は衍鴻、字は展堂。 地方官吏の家庭に生まれる。21歳で挙人となった。1902年(光緒28年)に、呉敬恒(呉稚暉)・鈕永建らと日本に留学し、弘文学院師範科で学ぶ。しかし、呉が日本政府と清国公使により日本から追い返される事件が発生し、胡は怒って退学、帰国した。帰国後は、ジャーナリスト・教師として活動する。1904年(光緒30年)に再び日本へ留学、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。
金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 19… 金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 1967年2月16日)は、日本の実業家、日光金谷ホテル元代表取締役社長、帝国ホテル元取締役、富士屋ホテル元取締役、日光電気軌道元監査役。 1879(明治12年)12月、栃木県・日光金谷ホテルの金谷善一郎の長男として生まれる。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている。 明治期に立教学校(立教大学の前身の一つ)の初代校長を務め、建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーは、民宿の経営者である金谷善一郎に、日光を訪れる外国人向けに本格的なホテルが必要となることを助言し、長男・眞一に自身が教える築地の立教学校で英会話を含む英学を学ぶことを薦めた。
大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月… 大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月7日 - 1949年(昭和24年)8月9日[要出典])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)に生まれた。1898年(明治31年)高知県尋常中学校卒を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業。 1922年(大正11年)11月、歩兵大佐に昇進し、陸士本科訓育部長に就任。近衛歩兵第2連隊長、第8師団参謀長を歴任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第38旅団長となる。1930年(昭和5年)3月、近衛師団司令部付となり、1931年(昭和6年)10月、旅順要塞司令官に着任。
矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12… 矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12月4日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。 静岡県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。広州領事官補、漢口領事官補、天津領事官補、清国外交官補、イタリア大使館二等書記官、ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事を歴任。1929年(昭和4年)、駐スイス公使に任命された。 退官後は満州国参議府参議を経て、1940年(昭和15年)より東亜同文書院院長・東亜同文書院大学学長を務めた。
永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3… 永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉()。号に金阜山人()、断腸亭()ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。 永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。
小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1… 小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1965年4月5日)は、日本の実業家。元磯村産業会長。男爵楫取素彦の養孫。 山口県阿武郡に磯村應の五男として生まれ、男爵で元群馬県令の子・小田村希家の養子となる。1906年東京帝国大学機械工学科卒業。 1907年、群馬県旧烏淵村(現高崎市倉渕町)に山林を取得、製炭事業を行う。1910年、特許弁理士資格取得。磯村工業所(磯村産業)専務、会長などを務めた。磯村工業所は東京市芝口と小石川区水道町に店を置き、鉱山、土木、機械、電気、山林の調査設計工事と、特許手続きを業務とし、小田村のほか、実の兄弟の工学得業士・磯村秀策、工学士の磯村利水が所属し、磯村音介も社長を務めた。
只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 … 只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 - 1952年(昭和27年)7月28日は、日本の商学者。高岡高等商業学校創立委員として同校創立にあたり、初代校長を経て、第7代長崎高等商業学校校長。 埼玉県栗橋町(現久喜市)出身。1901年高等商業学校(現一橋大学)卒業。英米独留学、滋賀や愛媛の県立商業学校教諭、大阪市立高等商業学校教授、山口高等商業学校教授、福島高等商業学校教授を歴任し、1924年に高岡高等商業学校創立委員となり文部省の仮創立事務所で創立作業を進め、同年同校初代校長に就任。1930年から長崎高等商業学校校長。1936年初代長崎ロータリークラブ会長。1941年退官、長崎高等商業学校名誉教授。
木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2… 木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2日 - 1935年〈昭和10年〉1月1日)は、明治後期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、銀行家。八十二銀行の初代常務取締役を務めた。 1879年(明治12年)12月2日、長野県南佐久郡大沢村(現・佐久市大沢)の醸造業・木内儀三郎の長男として生まれる。木内家は武田信玄にゆかりのある旧家であり、代々大沢村(当時は田口藩領)の庄屋を務めた家柄であった。祖父・清兵衛が安政2年(1855年)に酒造業を創業し、栄司は二代目儀三郎の長男として家督を継いだ。 実業界では、1906年(明治39年)8月に南佐久郡臼田町(現・佐久市)に合資会社千曲銀行を設立し、頭取に就任。
佐藤 復三(さとう ふくぞう、1879年(明治12年)12月… 佐藤 復三(さとう ふくぞう、1879年(明治12年)12月1日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選高知県知事、姫路市長。 広島県出身。佐藤又三郎の二男として生まれる。 第三高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。司法省に入省し司法官試補となるが、1909年11月27日に依願免職。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し福島県属兼警部となる。 以後、福島県警視、島根県理事官、同視学官、千葉県事務官、栃木県警察部長、富山県警察部長、宮城県警察部長、関東庁警務官、新潟県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長などを歴任。
野田 松次郎(のだ まつじろう、1879年〈明治12年〉12… 野田 松次郎(のだ まつじろう、1879年〈明治12年〉12月1日 - 没年不明)は、日本の枢密院官僚。枢密院理事官。旧姓名:長澤松治郎。 明治29年11月12日、枢密院雇を命ぜられ会計課に勤務する。明治33年9月、和佛法律学校(後の法政大学)に入学し、明治34年12月13日、枢密院属・庶務課勤務となり、明治36年7月、和佛法律学校を卒業した。明治37年11月14日、高等捕獲審検所書記。明治39年7月6日、文官高等懲戒委員会書記・会計検査官懲戒裁判所書記。明治40年1月22日、秘書課勤務。大正3年9月8日、高等捕獲審検所物品会計官吏。大正10年5月19日、普通試験書記・文官普通懲戒委員会書記。大正11年2月3日、故山縣有朋葬儀書記。
荻原 碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、18… 荻原 碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。長野県東穂高村(現:安曇野市)出身。 守衛は幼い頃から病弱で、大好きな読書をしたり、絵を描いて過ごしていた。17歳の時、通りがかりの女性に声をかけられる。田舎では珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳をした美女の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩相馬愛蔵の新妻で、守衛の3歳年上であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる芸術についての知識を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。
首藤 正寿(すどう まさひさ、1879年(明治12年)11月… 首藤 正寿(すどう まさひさ、1879年(明治12年)11月30日 - 1934年(昭和9年)10月21日)は、日本の銀行家。台湾銀行理事、大分合同銀行頭取、名古屋銀行副頭取、南満洲鉄道理事等を歴任した。 大分県大野郡小富士村に生まれる。父の生男は大分県会議員だった。 旧制大分県立大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1903年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、横浜正金銀行に入行した。ボンベイ支店長、上海支店長、大阪支店長、本社副総支配人を経て、1923年台湾銀行の理事に就任した。 井上準之助の要請で1927年から大分銀行が二十三銀行と合併して誕生した郷里の大分合同銀行で初代頭取を務め、出光佐三と面会し、審査部の意向に反し融資拡大を決定するなどした。
大熊 仁三郎(おおくま にさぶろう、1879年〈明治12年〉… 大熊 仁三郎(おおくま にさぶろう、1879年〈明治12年〉11月29日 - 1945年〈昭和20年〉3月5日)は、日本の政治家、実業家、地主。浅草区会議員。日出土地社長。族籍は東京平民。 東京府浅草区橋場町(現・東京都台東区)・大熊政次郎の二男。浅草橋場生まれ。1896年、家督を相続した。尋常高等両小学を通じて8年間常に最優等を以て首席を占めたが、卒業後不幸にして病気となり学事に親しむことを得なかった。 1899年、日本護謨会社の設立に奔走する。日本護謨合資会社出資社員として会計監督の任に当たる。1900年、組織を改めて株式会社となると、監査役に挙げられ、後取締役となり1924年8月、専務取締役に就任し、傍ら1925年、日出土地会社を創立して社長に就任した。
小山 東助(おやま とうすけ、1879年(明治12年)11月… 小山 東助(おやま とうすけ、1879年(明治12年)11月24日 - 1919年(大正8年)8月25日)は、衆議院議員(公友倶楽部→憲政会)、ジャーナリスト、教育者。号は鼎浦。 宮城県本吉郡気仙沼本郷(気仙沼町を経て現気仙沼市)出身。宮城県立尋常中学校、第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学した。尋常中学校では吉野作造と回覧雑誌を発行し、高等学校でも吉野・内ヶ崎作三郎らと雑誌を編集した。大学でキリスト教と政治に傾倒し、海老名弾正の本郷教会に関係したほか、島田三郎に私淑した。 1903年(明治36年)に大学を卒業すると、島田が経営する東京毎日新聞社に入社した。その後、東京日日新聞に移り、また早稲田大学講師として倫理学・新聞学を担当した。
久保 三郎(くぼ さぶろう、1879年(明治12年)11月2… 久保 三郎(くぼ さぶろう、1879年(明治12年)11月23日 - 1934年(昭和9年)9月4日)は、日本の内務官僚、政治家。元千葉市長。 大分県宇佐郡豊川村(現:宇佐市)で生まれた。大分県立中津尋常中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1903年7月、早稲田大学法律科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。以後警保局に勤務し、千葉県長生郡長、同海上郡長、同印旛郡長、同千葉郡長、同香取郡長などを歴任。1924年8月、第2代千葉市長に就任し、1928年8月まで在任した。
13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治1… 13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治12年)11月21日 - 1966年(昭和41年)9月4日)は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家13代、貴族院多額納税者議員。旧姓・江角、旧名・徳次郎。 島根県出雲郡原鹿村(現出雲市斐川町原鹿)で、地主・江角勝太郎の二男として生まれた。1900年、東京正則中学校を卒業し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、1901年に鉄師糸原家12代・絲原武太郎の養子となり中退した。1911年、養父の死去に伴い家督を継承し武太郎を襲名した。 家業の製鉄業を1922年に廃業し、新たな事業として、先代が推進した植林を継続する中で製炭に着目して、島根木炭として関東地方にも出荷した。
池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)1… 池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)11月20日 - 1939年(昭和14年)2月9日)は、日本の判事(大審院長)、検事、司法官僚。 佐賀県出身。1899年第五高等学校卒業。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1905年(明治38年)、東京地方裁判所判事となり、東京地方裁判所部長、司法省参事官、東京地方裁判所検事、大審院検事、司法省民事局長を歴任した。その間の1918年(大正7年)に法学博士号を取得している。 1928年(昭和3年)、判事として大審院部長に任命された。1936年(昭和11年)には大審院長に就任した。
青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月2… 青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月20日 - 1949年(昭和24年)3月17日)は、日本の俳人。正岡子規門下。本名は青木 新護。 大阪市東区(現・大阪市中央区)船場にある神薬快通丸・天眼水本舖の「青木薬房」に生まれる。文学的素地としては、文芸好きな母方の血筋を受け、小学校時代の教師に文学家の斎藤黙蛙、友人に画家の西山翠嶂、赤松麟作、俳人の山中北渚、松村鬼史らがいた。1889年に父が死没し、1894年に道修町へ転居して大阪薬学校(後の大阪薬学専門学校)に入学するも中退。中退後は家業を継いだ。 1897年、國民新聞へ投句を初める。初号は月兎(げっと)。1898年に友人と三日月会を発足。
伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月… 伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月18日 - 1965年(昭和40年)5月19日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。第11代鹿児島市長、第3代谷山町長。 鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)出身。旧制鹿児島一中卒業。1904年(明治37年)2月29日に海軍機関学校(12期)を卒業し、同年9月10日、海軍少機関士に任官した。以後、海軍機関学校教官・監事、佐世保海軍人事部員、矢矧機関長、海軍省艦政局局員、同軍需局局員、長門機関長などを務め、1923年(大正12年)12月1日、海軍機関大佐に昇進し第三戦隊機関長に就任。さらに呉鎮守府機関長・呉海軍艦船部部員、第一艦隊機関長・連合艦隊機関長、海軍燃料廠平壌鉱業部長などを歴任した。
佐藤 運雄(さとう かずお、1879年11月18日 - 19… 佐藤 運雄(さとう かずお、1879年11月18日 - 1964年1月1日)は、日本の歯学者。日本大学理事長・名誉会頭。
木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)1… 木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)11月18日 – 1956年(昭和31年)12月23日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(憲政会)。 鹿児島県薩摩郡入来村(入来町を経て現薩摩川内市)で、木尾善十郎の息子として生まれた。三州義塾、鹿児島県第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1902年(明治35年)日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。東洋大学講師、警視庁警察官消防官練習所講師を経て、1907年(明治40年)に東京市に弁護士事務所を開いた。翌年、朝鮮半島に渡り、漢城府(のち京城府)に弁護士事務所を開き、朝鮮鉱業新報社社長などを務めた。
榎並 充造(えなみ みつぞう、1879年11月18日 - 1… 榎並 充造(えなみ みつぞう、1879年11月18日 - 1951年2月7日)は、兵庫県神戸市南京町出身の日本の実業家。バンドー化学の創業者。次男・正一もバンドー化学の会長を務めた。 兵庫県神戸市で質屋を営む両親の下に生まれる。 当時の神戸には中学校がなかったため、1895年に姫路中学に入学。1年ほど同校で勉強するが、1896年に地元・神戸に神戸中学が開校したため、そちらに転校した。神戸中学時代の同級生に岡崎忠雄がいる。神戸中卒業後は早稲田大学に進学。卒業後は志願兵として軍に入隊し、そこでの功績が認められ、正八位を贈られた。1904年に父の死去にともない実家の質屋を継ぐ。 1906年にバンドー化学の創業に携わり、内外ゴム、バンドー化学各社長、播磨造船取締役などを務めた。
後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉1… 後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉11月14日 - 1924年〈大正13年〉7月31日)は、宮城県栗原郡姫松村(現・栗原市)出身の政治家。 八甲田雪中行軍遭難事件での生存者の一人で、帰郷後に村会議員を務めた。 後藤房之助は小作の五男(三男とも言われる)として生まれた。 1899年(明治32年)12月に陸軍に徴集される。1902年(明治35年)1月、歩兵第5連隊の伍長として八甲田山の雪中行軍に加わる。1月23日に雪中行軍隊が出発したが、遭難した結果数日のうちに大半の兵士が凍死するという惨事となった。 ほとんどの兵士は倒れるか道を誤り、総指揮官の神成文吉歩兵大尉と2人だけの行軍となった。
菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1… 菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1955年9月9日)は、明治後期から昭和中期にかけての日本画家。本名菊池(旧姓細野)完爾。 1879年(明治12年)11月14日、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の細野勝太郎・はつ夫妻の次男として生まれる。少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられる。小学校高等科卒業後は呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑。やがて画家として立つことへの思いが止み難いものとなり、1896年(明治29年)、妹の結婚式のどさくさに紛れて同郷の友人・町田曲江とともに 故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。
嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)1… 嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)11月6日 - 1963年(昭和38年)2月20日)は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将。 父卯七母トメの長男として東与賀村下飯盛生まれる。地元の私塾「興文塾」で学んだのち、軍人を志して陸軍士官学校に進学する(陸士13期)。1902年(明治35年)歩兵少尉として歩兵第24連隊に配属。その後は熊本陸軍幼年学校生徒監(大尉)、仙台陸軍幼年学校長(中佐)、金沢連隊区司令官、歩兵第42連隊長(大佐)と進み、1930年(昭和5年)8月少将に昇進し朝鮮軍第20師団所属の歩兵第39旅団長に就任した。
雨宮 敬作(あまみや けいさく、明治12年(1879年)11… 雨宮 敬作(あまみや けいさく、明治12年(1879年)11月5日 - 昭和39年(1964年)7月21日)は、日本の教育者。山梨英和女学校における初の日本人校長。 山梨県東山梨郡日下部村七日市場(現在の山梨市)に、日下部村会議員を務めた父「景通」、母「じつ」の長男として生まれる。敬作の上に「くま」,「と美」,「まさじ」の三女がいる。 明治32年(1899年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、同年4月に東京専門学校歴英科に入学し、明治36年(1903年)3月に同校を卒業、同年4月から静岡県の榛原郡立榛原中学校(現在の静岡県立榛原高等学校)に2年間勤務した後、明治38年(1905年)4月からカナダ・メソジスト教会のミッションスクールである山梨英和女学校(現在の山梨英和学院)の教諭として勤務。
御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11… 御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11月3日 – 1941年(昭和16年)8月20日)は、津市長、佐世保市長。族籍は佐賀県士族。 佐賀県小城郡多久村(現在の多久市)に御厨利貞の長男として生まれる。1902年(明治35年)、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部、台湾総督府警視、台湾総督府専売局煙草課長、南投庁長、高雄州内務部長を歴任した。 1922年(大正11年)、津市長に選出され、1925年(大正14年)まで在任した。翌年には東京市社会局長に就任し、1928年(昭和3年)まで在任した。1930年(昭和5年)に佐世保市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。
馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月… 馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月3日 - 1929年〈昭和4年〉1月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県碧海郡依佐美村大字野田(現刈谷市)で旧福島藩士馬淵栄吉の長男として生まれる。 高等小学校を卒業後、陸軍士官学校(11期)に入り、1900年(明治33年)6月陸軍歩兵少尉に任官される。1903年(明治36年)陸軍大学校に入学、卒業後陸軍参謀本部部員に補せられる。さらに第17師団参謀、歩兵第38連隊大隊長を経て再び参謀本部部員となり、陸軍大学校および海軍大学校教官に補せられ、陸軍の中堅、参謀将校の養成に尽くした。 1920年(大正9年)第一次世界大戦が終了し、平和条約の締結にあたり実施委員を命じられ欧州に出かけ1922年(大正11年)帰国する。
原 栄作(榮作、はら えいさく、1879年(明治12年)11… 原 栄作(榮作、はら えいさく、1879年(明治12年)11月2日 - 1958年(昭和33年)4月4日)は、明治後期から昭和期の医師、政治家。衆議院議員。位階は従五位。勲五等双光旭日章。 静岡県庵原郡町屋原村(由比町を経て現静岡市清水区)で、豪農・原茂左衛門の二男として生まれる。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)を経て、1903年(明治36年)千葉医学専門学校(現千葉大学)を卒業。その後、内務省永楽病院助手となり、臨床学を研鑽した。 1905年(明治38年)に帰郷して由比町北田で医院を開業した。由比町消防組頭に就任し、組員の意識の向上、防災思想の町民への啓発に尽力した。その他、由比町青年団長、庵原郡学校衛生会長、由比町森林組合長、同漁業協同組合長、同農業会長、静岡県森林組合連合会長、同医師会長、同学校衛生会副会長、同水産業会顧問、静岡県保健婦学校長などを務めた。
青盛 恕一(あおもり じょいち、1879年〈明治12年〉11… 青盛 恕一(あおもり じょいち、1879年〈明治12年〉11月2日 - 没年不明)は、日本の商人(木材商)、広島県多額納税者。族籍は広島県平民。 広島県人・青盛友太郞の甥。1908年、分家。海軍用達商・材木商を営む広島県多額納税者である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は呉市西二河通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 19… 田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 1944年8月5日)は、日本の化学者。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。 1904年に東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。1908年から1917年にかけてドイツのフリッツ・ハーバーの許でアンモニア合成の研究に携わった。1917年に帰国し理化学研究所の研究員となり、1929年に東京工業大学の教授に就任した。日本学術振興会の創設にも尽力した。 田中舘愛橘や寺田寅彦とともに、東京帝大運動会の短距離競走で使用された電気計測器の製作にも携わった。1902年の運動会では、100メートル競走優勝者に対して実施された「優勝者競走」というタイムトライアルに初めてこの装置が使用され、出走した藤井實(当時法科大学生)が10秒24という記録を出したとされる(この記録に関する詳細や議論については藤井の記事を参照)。
鍾 毓(しょう いく、1879年10月28日 – 没年不詳)… 鍾 毓(しょう いく、1879年10月28日 – 没年不詳)は、中華民国・満洲国の官僚・外交官。別号は輯五。中華民国時代は奉天派の行政官僚・外交官をつとめた。満洲国では初代黒河省長となっている。 清末に日本へ留学し、1908年(光緒34年/明治41年)に法政大学法政速成科第五班政治部を卒業した。 中華民国では黒龍江省呼蘭県知事、三姓正紅旗佐領を経て、1919年(民国8年)3月13日に外交部特派黒龍江交渉員署理に任命される。同年10月28日、同交渉員に正式に任命された。翌1920年(民国9年)2月5日、呼倫貝爾(ホロンバイル)善後事宜督弁(後に呼倫貝爾交渉員)に任命され、1921年(民国10年)2月17日までつとめた。
今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月2… 今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月26日 - 1957年〈昭和32年〉12月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 福岡県出身。静岡県静岡尋常中学校に学んだ。中学では野球部に所属した。。 1899年(明治32年)12月1日、陸軍士官学校入校。1900年(明治33年)、陸軍士官学校第12期卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となった。 1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・浜松連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に静岡連隊区司令官、1928年(昭和3年)3月に歩兵第36連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
大江 新太郎(おおえ しんたろう、1879年10月26日 -… 大江 新太郎(おおえ しんたろう、1879年10月26日 - 1935年6月17日)は日本の建築家。 日光東照宮の修復を行ったことで知られる。日光廟大條繕に携わって以来、生涯にわたって日本の伝統建築を追求した。明治神宮造営、伊勢神宮造営などの主任技師として活躍するほか、東京帝国大学では庭園学を講義した。 1879年東京生まれ。京都府育ち。旧制三高を経て1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1905年(明治38年) 清国へ学術調査。 1907年(明治41年) 日光社寺大修繕工事監督嘱託(1926年まで)。その後栃木県技師。1913年(大正2年)神社奉祀調査会事務嘱託。1915年(大正4年)明治神宮造常局技師兼任(1926年まで)などを経て内務省技師(神社局)。