スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
西山 祐貴(にしやま ゆうき、1994年9月24日 - )は… 西山 祐貴(にしやま ゆうき、1994年9月24日 - )は、日本の柔道家。福岡県出身。階級は66kg級。身長166cm。血液型はO型。組み手は右組み。得意技は背負投。 柔道は9歳の時に花畑少年柔道クラブで始めた。その後、松前柔道塾に移った。中学からは柔道私塾の講道学舎に入塾すると、弦巻中学から日本学園高校に進んだ。 2014年、日体大2年の時には学生体重別66kg級で3位になると、講道館杯で決勝まで進むも、神港学園高校2年の阿部一二三に技ありで敗れた。 2017年には警視庁の所属になると、2018年の全国警察柔道選手権大会で優勝した。2019年には全国警察柔道選手権大会で2連覇すると、講道館杯では5年ぶりに決勝まで進むも、國學院大學2年の相田勇司に技ありで敗れたが、グランドスラム・大阪の出場権を得た。
野村 祐希(のむら ゆうき、1994年6月21日 - )は、… 野村 祐希(のむら ゆうき、1994年6月21日 - )は、日本の俳優。父は俳優、歌手の野村将希、兄はプロサッカー(Jリーグ)選手の野村政孝。 日本学園高等学校卒業後、専修大学商学部マーケティング学科卒業。 ボン イマージュ・イマージュエンターテインメント所属。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 *乃木坂46のメンバーとは同姓同名の別人。
野村 政孝(のむら まさたか、1991年6月29日 - )は… 野村 政孝(のむら まさたか、1991年6月29日 - )は、東京都世田谷区出身の元サッカー選手。ポジションは、ゴールキーパー。 俳優、歌手の野村将希は実父、俳優の野村祐希は実弟。 俳優・歌手の野村将希の長男として東京都世田谷区で生まれた。父親が「柘植の飛猿」役を務める水戸黄門に、少年時代の飛猿役(野村正孝名)で出演したことがある。(第25部 第14話 「飛猿が恋をした・岡山」 : 1997年3月31日放送) 小学校3年でサッカーを始めた。2010年、日本学園高校から駒澤大学へ進学。大学入学後は、垂直跳び80センチ、握力80キロなど、父親譲りの抜群の身体能力を生かしきれず、ゴールキーパーの3、4番手どまりでレギュラー獲得には至らなかった。
尾亦 弘友希(おまた ひろゆき、1983年9月1日 - )は… 尾亦 弘友希(おまた ひろゆき、1983年9月1日 - )は、東京都杉並区出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー(主に左サイドバック)。 小学校2年生の時にサッカーを始める。FC東京の下部組織に加入し、同期の馬場憂太、高橋延仁らと共に2001年のクラブユース選手権で優勝した。2002年、馬場と共にFC東京のトップチームへ昇格。クラブ創設以来初の下部組織からのトップ昇格だった。同年4月の市原戦で左サイドハーフとして途中投入され、この試合がJリーグデビューとなった。U-19日本代表としても活動し、左足のキックに高評価を受けていたが、馬場が主力格となる一方で、尾亦は金沢浄らからポジションを奪えずにいた。
和宇慶 勇二(わうけ ゆうじ、1981年1月20日 - )は… 和宇慶 勇二(わうけ ゆうじ、1981年1月20日 - )は、日本のプロボクサー。東京都出身。第35代日本スーパーライト級王者。ワタナベボクシングジム所属。日本学園高等学校卒業。 2000年10月24日、デビュー。 2009年8月10日、小野寺洋介山が持つ日本スーパーライト級王座に挑むが、0-3判定負け。 2011年10月14日、長瀬慎弥が持つ同王座に再挑戦し、3-0判定で王座奪取に成功。 2012年2月13日、岩渕真也を相手に初防衛戦に挑むが、7回KOに沈み王座陥落。 2014年7月5日、Jonel Gadapan戦で勝利し引退。 映画『百円の恋』にも新井浩文演じるプロボクサーの相手役として出演した。
佐藤 義夫(さとう よしお、1980年9月10日 - )は、… 佐藤 義夫(さとう よしお、1980年9月10日 - )は、茨城県出身の俳優。所属はジャパンアクションエンタープライズ。
竹中 穣(たけなか みのる、1976年11月19日 - )は… 竹中 穣(たけなか みのる、1976年11月19日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 帝京大学卒業後、リトアニアのFKアトランタスでプロ選手となる。アトランタスではリーグ戦通算58試合に出場して7得点を挙げた。2001年と2002年にはUEFAカップ予選にも3試合出場している。 2003年6月にJ2・横浜FCに加入したが、2試合の出場にとどまった。2003シーズン限りで契約満了に伴い退団。 2004年からはFC町田ゼルビアにてコーチ兼選手を務め、町田が日本フットボールリーグ(JFL)に昇格した2009年からは、現役選手としては東京都社会人リーグ3部に所属するセカンドチーム・FC町田ゼルビア・ツヴァイテに登録されつつ、トップチームのコーチを引き続き務めている。
南 陽介(みなみ ようすけ、1976年5月23日 - )は、… 南 陽介(みなみ ようすけ、1976年5月23日 - )は、サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 日本大学卒業後、シンガポールを皮切りに世界各国のリーグでプレイ。2002年にはシンガポール2部で得点王に輝く。2007年にはスリランカのネゴンボ・ユースSCに移籍し同国初の日本人選手となる。 その後2011年にはモンゴル・リーグの エルチムに移籍し、同国でも初の日本人選手となる。2014年にはボランチながら得点王に輝くなど、移籍を繰り返しながら長期にわたって同リーグのチームに所属し、選手以外にエージェントとして日本人選手の斡旋業務も行っている。 2017年シーズンよりバヤンゴルFCに所属、同国で初の2部リーグでのプレイとなる。
高橋 和弘(たかはし かずひろ、1974年 - )は、日本の… 高橋 和弘(たかはし かずひろ、1974年 - )は、日本の登山家。 1996年8月14日、当時最年少で、K2(8,611m/パキスタン) 登頂。1996年、明治大学文学部卒業。明治大学在学中の成績はかなり優秀であったため、ある教授から大学院に進学することを強く勧められた。しかし、ヒマラヤの登山を優先するため、大学院へ進学しなかった。卒業後は明治大学山岳部OB会である炉辺会に所属。 1997年10月8日、マナスル(8,163m/ネパール)登頂(三谷統一郎、山本篤、加藤慶信ら7名)。1999年5月9日、リャンカンカンリ(未踏峰、7,535m/チベット) 初登頂(鈴木清彦、角谷道弘、竹内洋岳、加藤慶信、山本篤、中村進、小林尚礼、高橋純一、佐藤大輔)。
山口 貴之(やまぐち たかゆき、1973年8月1日 - )は… 山口 貴之(やまぐち たかゆき、1973年8月1日 - )は、広島県生まれ、東京都町田市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 戸塚哲也、菊原志郎から繋がり、財前宣之へと続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。ユース時代から司令塔タイプとして注目され、「ラモス2世」の呼び声もあった。また同時代には各年代の代表にも選出された。 1992年、ユース時代から在籍していたヴェルディ川崎のトップチームに昇格する。1995年にはU-23アトランタオリンピック代表に選出されたが、本大会のメンバーには選出されなかった。 1995年のブランメル仙台への期限付き移籍を皮切りに数多くのクラブに在籍。
西郷 泰之(さいごう やすゆき、1972年8月30日 - )… 西郷 泰之(さいごう やすゆき、1972年8月30日 - )は、日本の元社会人野球選手(内野手)、コーチ。左投げ左打ち。 東京都出身。練馬リトルシニアから日本学園高校卒業後、三菱自動車川崎(後・三菱ふそう川崎)に入社。 当初は投手であったが野手に転向。徐々に他チームの脅威の的となり、1995年に初めて日本代表入りすると、日本代表チームでも中核を打って社会人野球を代表するスラッガーとなり、現役最多の日本代表キャリア18を誇る。30代に入ってもその強打は衰えることなく、2007年の第78回都市対抗野球大会では東芝に補強されて全試合で4番を任されて3本塁打を放ち(8打点)、打撃賞を獲得した。都市対抗野球大会での個人通算ホームラン数14本は杉山孝一(新日鐵名古屋)と並ぶ大会記録である。
太川 陽介(たがわ ようすけ、1959年〈昭和34年〉1月1… 太川 陽介(たがわ ようすけ、1959年〈昭和34年〉1月13日 - )は、日本の俳優、タレント、司会者、YouTuber、元アイドル歌手。京都府中郡大宮町(現・京丹後市)出身。サンミュージックプロダクション所属。妻は女優の藤吉久美子。 1975年に公開された桜田淳子主演映画『スプーン一杯の幸せ』の相手役オーディションに応募するも、そのときすでに締め切りを過ぎていたため選外となった。しかし、その履歴書がスタッフの目に留まったことが芸能界デビューのきっかけとなった。上京にあたり、京都府立峰山高等学校から日本学園高等学校へ転校。 1976年、「陽だまりの中で」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「昇れ!太陽くん」。
乱 一世(らん いっせい、本名・石瀬 泰久、1950年〈昭和… 乱 一世(らん いっせい、本名・石瀬 泰久、1950年〈昭和25年〉4月14日 - )は、放送タレント・ナレーター・レポーター。BMCエンタープライズ所属。 東京都文京区出身。東海大学文学部卒業。 大学卒業後、ディスコのDJを経て、1976年にニッポン放送の『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』でデビュー。芸名はニッポン放送のドン上野こと上野修からつけられた。以後、『トゥナイト』、『トゥナイト2』(テレビ朝日)のレポーターなどで知られる。また、『愛の貧乏脱出大作戦』(テレビ東京)のナレーションで、淡々かつシリアスな語り口で、更なる知名度が上がった。 1997年8月26日、『トゥナイト2』で自分が担当するコーナーのCM前の予告で「これからCMに入るのでトイレに行きたい人は行ってもいいですよ!」とCMを否定する発言をしたことがスポンサーの逆鱗に触れ、番組を降板した(テレビ朝日でも他番組の同趣旨の字幕の問題と合わせ、担当取締役が減俸、情報局長と情報番組センター長が減給、担当プロデューサーが10日間の謹慎、アナウンサー1名がけん責された)。
松崎 秀樹(まつざき ひでき、1950年(昭和25年)1月2… 松崎 秀樹(まつざき ひでき、1950年(昭和25年)1月24日 - )は、日本の政治家。千葉県浦安市長(5期)、千葉県議会議員(2期)などを歴任した。 東京都世田谷区生まれ。板橋区立板橋第六小学校、町田市立町田第一中学校、日本学園高等学校、明治大学商学部を卒業。大学卒業後、サラリーマンを経て小坂徳三郎や衛藤晟一の秘書を務めた。 1991年、千葉県議会議員選挙に自由民主党公認で浦安市選挙区から出馬し、初当選した。1995年、千葉県議に再選されるが、1997年に2期目の任期途中で辞職。浦安市長選挙に立候補したが、現職の熊川好生市長に敗れ、落選した。1998年、熊川が体調不良を理由に市長を辞職し、熊川の辞職に伴う浦安市長選で当選した。
三笑亭 夢太朗(さんしょうてい ゆめたろう、1948年12月… 三笑亭 夢太朗(さんしょうてい ゆめたろう、1948年12月3日 - )は、落語家。落語芸術協会理事、日本演芸家連合会長。東京都大田区出身。本名∶大石 雅一。出囃子は『勧進帳・舞の合方』、定紋は『夢』の字。 日本学園高等学校卒業。放送作家の高田文夫は高校の同級生。 1967年2月に三笑亭夢楽へ入門し、3月に前座となり夢二と名乗る。 1971年4月、二ツ目昇進。 1981年4月、三遊亭栄馬、桂南八と共に真打昇進し、夢太朗に改名。 2017年8月、四代目三遊亭金馬から引き継ぎ、日本演芸家連合第六代会長に就任。
高田 文夫(たかだ ふみお、1948年〈昭和23年〉6月25… 高田 文夫(たかだ ふみお、1948年〈昭和23年〉6月25日 - )は日本の放送作家、タレント。本名は高田 文雄(読み同じ)。愛称は「高田ギョロメ文夫」「高田先生」「高田センセー」。 落語家として、「立川 藤志楼」の高座名で落語立川流Bコース入りしている。「駄句駄句会」同人、俳号は「風眠(ふうみん)」。生年月日は沢田研二・誠直也と同じ。長男は日刊スポーツ記者の高田文太。 東京ヤクルトスワローズのファンとしても知られている。 東京都渋谷区富ヶ谷に生まれる。父の高田栄三は歴史書関係の出版社 国文社の経営者で丹羽文雄と仲が良かった事から「文雄」と名付けられた。父方の親戚は出版社の経営者が多く、雑誌『映画評論』発行人高田俊郎もその一人で芸能好きは彼の影響が大きい。
高井 昌史(たかい まさし、1947年8月30日 - )は、… 高井 昌史(たかい まさし、1947年8月30日 - )は、紀伊國屋書店代表取締役会長、健康保険組合連合会副会長、出版健康保険組合理事長。東京都出身。 持論は「家に良書が300冊あれば、子どもは賢い子(良い子)に育つ」、「書店は『展示産業』」、「本屋さんは本を売るという原点に戻らなければならない」。
竹添 秀男(たけぞえ ひでお、1947年 - )は、日本の物… 竹添 秀男(たけぞえ ひでお、1947年 - )は、日本の物理学者。東京工業大学名誉教授。元日本液晶学会会長。公益財団法人豊田理化学研究所客員フェロー。専門は液晶の構造物性全般であり、特に液晶の非線形光学に強みがある。また、屈曲型コア液晶の誘電性について渡辺順次との共同研究として世界ではじめて報告した。
鈴木 隆雄(すずき たかお、1939年3月12日 - )は、… 鈴木 隆雄(すずき たかお、1939年3月12日 - )は、元警察庁科学警察研究所副所長。警察庁による声紋鑑定導入の初期から携わっていた技官であり、日本における声紋研究の先駆者。科捜研の女(テレビドラマ・テレビ朝日)の監修を務めた。 神奈川県立希望ヶ丘高等学校を経て、1961年3月、東京理科大学理学部(物理学)卒業。1961年4月、警察庁に技官として入庁、科学警察研究所科学捜査部物理研究室に配属。1968年2月~10月、オーストラリア政府給費留学生として、オーストラリア原子力研究所に留学。1971年4月1日、同所法科学第二部音声研究室。1973年4月1日、同部主任研究官。1980年9月 - 1981年9月、フランス政府給費留学生として、マルセイユ大学およびフランス郵政省通信研究所に留学。
三浦 勇一(みうら ゆういち、1937年11月23日- 20… 三浦 勇一(みうら ゆういち、1937年11月23日- 2015年1月5日 )は、日本の経営者。トクヤマ社長、会長を務めた。 東京都出身。1962年に東京大学工学部を経て、1964年に東京大学大学院化学研究科を修了し、同年に徳山曹達(のちのトクヤマ)に入社した。1988年6月に取締役に就任し、1993年6月に常務を経て、1997年6月には社長に就任。2002年4月に会長に就任。 2015年1月5日、食道癌のために死去。77歳没。
甘利 俊一(あまり しゅんいち、1936年1月3日 - )は… 甘利 俊一(あまり しゅんいち、1936年1月3日 - )は、日本の工学者(数理工学)、神経科学者。勲等は文化勲章。学位は工学博士(東京大学、1963年)。東京大学名誉教授、国立研究開発法人理化学研究所栄誉研究員、帝京大学先端総合研究機構 特任教授、文化功労者。 数理神経科学を専攻し、学習理論、自己組織化理論、連想記憶、統計神経力学、神経場理論などを研究し、数理脳科学の基礎を確立した。また,微分幾何学の観点から情報学、情報理論の研究に取り組み、情報幾何学の創始者として知られている。九州大学、東京大学、理化学研究所に勤務した。 東京府東京市目黒区碑文谷生まれ。父は海軍の研究員であった。幼少期には、山梨や栃木への疎開を経験した。
小畠 廣志(こばたけ ひろし、1935年8月2日 - 199… 小畠 廣志(こばたけ ひろし、1935年8月2日 - 1996年11月8日)は、東京都武蔵野市出身の彫刻家。東京芸術大学卒業後、二科会に出品するとともに個展、グループ展、野外展などで作品を発表した。 初期の抽象的で有機的形態の石彫、白セメント、硬質石膏と鉄などによる作品から1963年を境に具象的な木彫作品を制作するようになる。1969年に開校した美学校に木彫刻工房を開く。1972年頃から吉祥寺のアトリエでイタリア蝋型美術鋳造を始め、木彫と共にブロンズ作品を多く発表する。美学校から独立したKOBATAKE彫刻工房で後進の指導を続けるとともに、工房内に大型の鋳造設備を備えスケールのある公共彫刻を各地に制作した。
柏原 啓一(かしわばら けいいち、1935年5月1日 - )… 柏原 啓一(かしわばら けいいち、1935年5月1日 - )は、日本の哲学研究者、東北大学名誉教授。俳人として柏原眠雨。 東京生まれ。東京大学文学部卒業、東京大学大学院哲学科博士課程中退。1972年、東北大学助教授、教授。1998年、定年退官、名誉教授。放送大学教授、客員教授。2007年、退職。眠雨の号をもつ俳人で、仙台を拠点に俳誌『きたごち』を主催する。2000年、宮城県芸術選奨受賞。2014年、瑞宝中綬章受章。2015年、句集『夕雲雀』で第55回俳人協会賞受賞。
山口 五郎(やまぐち ごろう、1933年2月26日 - 19… 山口 五郎(やまぐち ごろう、1933年2月26日 - 1999年1月3日)は日本の尺八奏者。元東京芸術大学教授、人間国宝。 昭和8年(1933年)東京・本郷にて、琴古流尺八家1世川瀬順輔門下の山口四郎と千枝(本名ヤエ。地歌箏曲家川瀬里子の姪)との間に生まれる。11歳より琴古流尺八を、父・四郎に師事。
米川 伸一(よねかわ しんいち、1931年12月6日 - 1… 米川 伸一(よねかわ しんいち、1931年12月6日 - 1999年11月18日)は、日本の歴史学者・経営学者。経済学博士。専門はイギリス史、経営史。一橋大学名誉教授。かつて日本が経営史研究で世界をリードしていた1960年代から1980年代にかけて、日本を代表する経営史学者として知られた。 東京府(現在の東京都)出身。世田谷区立松原小学校、日本学園中学校、成蹊高等学校を経て、1956年一橋大学経済学部卒業、1958年同大学大学院経済学研究科修士課程修了、1961年同博士課程修了、経済学博士第1号。論文の名前は「中・近世ノーフォクにおける社会経済的発展 : 近代資本主義社会の成立に関する一研究」。
藤井 健(ふじい けん、1931年2月11日 - 2021年… 藤井 健(ふじい けん、1931年2月11日 - 2021年6月14日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長、会長を務めた。 東京都出身。1969年に一橋大学経済学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入社。1982年6月に取締役に就任し、1986年9月に常務、1987年9月に専務を経て、1991年9月に社長に就任した。1996年6月には会長に就任し、1999年4月に取締役、1999年6月に顧問を経て、2000年4月には中央三井信託銀行特別顧問に就任。 2021年6月14日、誤嚥性肺炎のために死去。90歳没。
荒井 注(あらい ちゅう、1928年〈昭和3年〉7月30日 … 荒井 注(あらい ちゅう、1928年〈昭和3年〉7月30日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本のコメディアン、俳優。ザ・ドリフターズ元メンバー。東京都出身。本名は荒井 安雄(あらい やすお)。 四谷にて生まれる。家は料亭を営んでいた。旧制日本学園中学校を経て、立教大学文学部宗教学科を中退後、二松學舍大学文学部国文学科卒業。 大学卒業後は脚本家を目指しながら、音楽バンドグループ『クレージーウエスト』のバンドマンを務めていた。なお、二松學舍大学在学中に中学と高校の教員免許(高校の科目は国語)を取得したことから、同大学卒業後に教師を務めたことがあるとの文献もあるが、真偽は不明である。芥川龍之介や太宰治を愛読する文学青年という一面もあった。
坂本 百大(さかもと ひゃくだい、1928年3月15日 - … 坂本 百大(さかもと ひゃくだい、1928年3月15日 - 2020年12月17日)は、日本の哲学者(科学哲学・記号論理学・記号学・生命倫理・心の哲学)。心身問題に対するひとつの解答として原一元論を提唱した。青山学院大学名誉教授。 1928年、台湾で生まれた。東京都目黒区出身。1948年、第一高等学校文科丙類に入学。1949年に卒業し、東京大学教養学部に入学。東京大学文学部哲学科に移り、1954年を卒業。同大学院人文科学研究科に進んで、1956年に修士課程を修了。1958年よりジョンズ・ホプキンス大学大学院哲学科で学び、その後もカリフォルニア大学ロサンジェルス校大学院哲学科、カリフォルニア大学バークレー校数学科で学んだ。
三好 達(みよし とおる、1927年(昭和2年)10月31日… 三好 達(みよし とおる、1927年(昭和2年)10月31日 - 2023年(令和5年)3月6日)は、日本の裁判官、政治活動家。海軍兵学校75期。位階は従二位。最高裁判所長官、法曹会会長、日本会議会長、皇室の伝統を守る国民の会会長、美しい日本の憲法をつくる国民の会共同代表などを歴任した。 東京府生まれ。日本中学校卒業。海軍兵学校(第75期)に進む。海兵在校中に終戦。海兵ではリベラルとして知られた井上成美校長の薫陶を受けた最後の卒業生の一人となった。旧制東京高等学校卒業。昭和28年(1953年)、東京大学法学部卒業。 1952年、24歳で司法試験合格。司法修習7期。1955年、裁判官任官。東京地方裁判所を振り出しに各地の裁判所等で勤務。
千葉 一男(ちば かずお、1925年2月16日 - 2014… 千葉 一男(ちば かずお、1925年2月16日 - 2014年4月9日)は、日本の経営者。新王子製紙社長、会長を務めた。 宮城県出身。1950年に東京大学経済学部商学科を卒業し、同年に王子製紙に入社。1974年11月に取締役に就任し、1981年6月に常務、1985年6月に専務を経て、1987年6月に副社長に就任し、1989年6月に社長に昇格した。社長在任時には、1993年に実施された神崎製紙との合併を取りまとめた。1995年6月に会長に就任し、1996年10月に取締役相談役を経て、1997年6月から相談役を務めた。 1990年4月に藍綬褒章を受章し、1997年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2014年4月9日、心不全のために死去。
井上 實(いのうえ みのる、1924年(大正13年)1月10… 井上 實(いのうえ みのる、1924年(大正13年)1月10日 - 2021年(令和3年)11月11日)は、日本の銀行家。東京銀行頭取を務めた。 東京出身。1947年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に東京銀行に入行した。 ニューヨーク支店、外国総務部、総務室各次長、同室長を歴任。 1972年11月に取締役に選任され、ロンドン支店長委嘱。常務、専務、副頭取を経て、1985年9月に前任である渡辺康病没により、頭取に就任し、1990年6月に相談役に退く。 1996年4月に三菱銀行との合併で発足した東京三菱銀行では相談役、特別顧問を務めた。 2021年11月11日、死去。97歳没。
浅野 康介(あさの こうすけ、1923年10月11日 - 1… 浅野 康介(あさの こうすけ、1923年10月11日 - 1987年3月4日)は、日本の経営者。徳島県徳島市出身。 1947年に東京工業大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日本軽金属に入社。1974年に取締役に就任し、1978年に常務、1980年6月に専務を経て、1982年6月に副社長に就任し、1983年11月には社長に昇格。 1987年3月4日脳出血のために死去。63歳没。
岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2… 岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2005年5月16日)は、東京出身の漫画家、科学ジャーナリスト。埼玉県さいたま市に在住していた。 東京生まれ。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。卒業後、ライオン歯磨宣伝部を経て、漫画家となった。漫画集団同人。名取洋之助が編集していた『岩波写真文庫』の現場で、三木淳、稲村隆正らともに学ぶ。またスタッフだった女性デザイナーと結婚した。 1956年から13年間『週刊朝日』に『アッちゃん』を連載し、サラリーマン家庭の暮らしぶりを子どもの視点からユーモラスに描いた作風で人気を博す。せりふのない4コマ漫画『ベビーギャング』、外国漫画の影響を受けた『アツカマ氏』『オヤカマ氏』などの作品で人気を博した。
佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月… 佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月16日 - 2006年 <平成18年> 1月24日)は、日本画家、日本芸術院会員。岩手県出身。日展理事。名古屋芸術大学教授。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描いた。位階は正五位。 岩手県九戸郡野田村出身。1946年東京美術学校日本画科首席卒業、同年第31回院展初入選。1948年に髙山辰雄らの日本画研究団体一采社に参加。1949年日展初入選。1951年から山口蓬春に師事。1954年、第10回日展で「冬」が特選・白寿賞を受賞。1959年第2回新日展「津軽の浜」が特選・白寿賞となり、1962年第5回新日展「夕凪」で菊華賞を受賞。
関根 文之助(せきね ぶんのすけ、1912年〈大正元年〉9月… 関根 文之助(せきね ぶんのすけ、1912年〈大正元年〉9月28日 - 1994年〈平成6年〉1月16日)は、日本の宗教学者、評論家、翻訳家、放送作家。キリスト教徒。 1912年(大正元年)9月28日、東京府東京市京橋区入船町(現・東京都中央区入船)に関根文治郎の次男として生まれる。日本学園卒、1934年(昭和9年)國學院大學文学部国文学科卒。麹町小学校、明治学院教諭を経て1947年(昭和22年)基督教教育同盟会主事。東洋英和女学院短期大学教授、聖書改訳委員を経て1961年(昭和36年)「日本精神史における一問題」で文学博士号を取得。 1965年(昭和40年)に共愛学園長となり、のち名誉学園長。
小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 19… 小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 1990年1月23日)は、日本の登山家。ヒマラヤのマナスル初登頂隊(第3次)で副隊長、先遣隊でリーダーを務めた。登山隊はマナスル初登頂とともに、日本人として最初の8000M峰の登頂に成功し、日本山岳史に残る快挙となっている。日本山岳会元理事。津村順天堂(現・ツムラ)で常務・静岡工場長を務めた。 日本学園高等学校卒業。1934年(昭和9年)、立教大学商学部卒業。大学では山岳部に所属し、1933年(昭和8年)3月には、同部員の湯浅巌とともに鹿島槍ヶ岳天狗尾根登攀で積雪期初登頂を果たした。その際の登山案内人は大町の櫻井一雄らが務めた。 日本山岳会が、1952年(昭和27年)4月16日、マナスル遠征を決定し、それ以来、登頂成功までの約5年間、幾多の苦労が重ねられることとなる。
吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 -… 吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 - 2000年11月7日)は、昭和期の映画監督である。兄はフランス文学者の吉村正一郎。4人の子供を儲け、長男は元NHK解説委員の吉村秀實。映画監督の西村昭五郎は、いとこ。 滋賀県大津市膳所生まれ。吉村家は、同県坂田郡山東町の中山道で代々脇本陣を営んでいた。父・吉村平造は大阪朝日新聞社の政治記者から、保険会社重役などを経て、大阪市助役、第11代広島市長(在任1915年1月~1916年12月)を務めたため、これに伴い2歳から京都市下京区で、4歳時は広島市大手町で育った。広島を発つ前の晩、家族で万代橋のたもとにあった映画館で映画を初体験。チャップリンの映画に感銘を受けたことが映画を志す切っ掛けだったという。
山脇 洋二(やまわき ようじ、1907年〈明治40年〉12月… 山脇 洋二(やまわき ようじ、1907年〈明治40年〉12月2日 - 1982年〈昭和57年〉12月11日)は、日本の工芸家。金工作家。教育者。 1907年(明治40年)、大阪府大阪市北区に生まれる。1925年(大正14年)に東京美術学校金工科彫金部に入学。在学中には金工芸界への革新を標榜した北原千鹿が主宰する工人社の創立に参加した。1930年(昭和5年)、同校を卒業。1931年(昭和6年)の帝展に「照明器」を出品して初入選。1936年(昭和11年)の文展(この年から帝展の代わりに開催)に出品した「鎚金野牛置物」が選奨(文部大臣賞に次ぐ賞)を受賞。さらに1938年(昭和13年)第2回新文展に「銀竜文亀置物」で特選を受賞。
杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 20… 杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 2002年5月29日)は、日本の生理学者、性評論家、翻訳家、医師。医学博士(東京帝国大学・1940年)。文部省国民精神文化研究所文化部主任、東京教育大学・専修大学教授を歴任。旧姓は渡辺。 大阪府堺市生まれ。第二高等学校卒業。1928年、東京帝国大学医学部卒業。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。1940年、「筋負傷電位の電源の座に関する研究」にて東京帝国大学医学博士。 日本的科学に賛同し1941年国民精神文化研究所文化部主任。1947年3月 - 1951年8月 公職追放。1946年 - 1951年『医学書院』編集長、1952年 - 1969年東京教育大学教授、1956年『人間の科学』で毎日出版文化賞受賞。
斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 20… 斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 2001年6月13日)は、青森県弘前市出身の現代美術家。多摩美術大学教授。「さいとう ぎじゅう」と読まれることもある。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。 1904年5月4日、青森県弘前市に生まれた。本籍は東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)。なお、本人は東京出身であるとも青森出身であるとも語ったことがあり、かつては文献によって出生地に揺らぎがあった。父親の斎藤長義は南部藩士の家に生まれた陸軍軍人(騎兵小将)であり、陸軍第8師団が設置されていた弘前市は父親の赴任地である。
寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 198… 寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 1980年12月10日)は、日本の小説家、詩人。 岩手県盛岡市生まれ。父は検事。早稲田大学仏文科中退。1926年、同級の田畑修一郎、火野葦平らと同人誌『街』を創刊。西條八十に師事し、佐伯孝夫らと詩誌『棕櫚の葉』を創刊。のち横光利一に師事。 1935年、文壇デビューを果たし以後は小説を中心に執筆。1936年、徳田秋声の娘喜代と結婚。1941年、報道班員としてマレーに赴く。 戦後は中間小説を多く書いた。代表作に短編集『祝典』、長編『情熱』、詩集『落葉に描いた組曲』など。『からたちの花』は山田耕筰の伝記小説である。墓所はさいたま市思い出の里市営霊園。
入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - … 入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - 1978年8月13日)は、日本の国際法学者・ジャーナリスト。 鳥取県西伯郡春日村(現・米子市)生まれ、上海で育つ。1919年豊浦中学校中退。1921年日本中学校卒業。1923年第一早稲田高等学院卒業。1927年3月、早稲田大学法学部卒業。1927年4月、ジャパンタイムズに記者として入社。その後、日本新聞連合社記者を経て、1936年1月、同盟通信社に勤務、1937年に同社パリ支局長。1939年に同社ジュネーヴ支局長。『ヴェルサイユ体制の崩壊』全3巻を上梓する。1945年同社編集局外信部長。1945年、時事通信社編集局外信部長。1946年、同社時事研究所長。
丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月… 丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月27日 - 1992年(平成4年)3月6日)は、日本の医学者、皮膚科医。第6代日本医科大学学長、同大学名誉教授。皮膚結核および癌の治療薬を目指していた丸山ワクチンの開発者である。医学博士(東京大学)。長野県茅野市出身。 1901年、長野県諏訪郡金沢村(現在の茅野市の一部)にて、小学校訓導の父・小三郎と母・はつの五男一女の末っ子として生まれる。 1908年、金沢村金沢尋常小学校(現在の茅野市立金沢小学校)入学。1914年、豊田尋常高等小学校尋常科を卒業、富士見金沢組合立富士見高等小学校に入学。1915年、東京の日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)入学。
中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月… 中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月19日 - 1948年〈昭和23年〉10月6日)は、日本の洋画家。透明水彩絵具に不透明水彩絵具を併用する新たな水彩技法を編み出した。 東京府京橋区(現・東京都中央区)に生まれる。日本中学校、1927年東京美術学校西洋画科卒業。1920年代、日本水彩展、光風会展、帝展などに参加し、1928年(昭和3年)にフランスへ渡る。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパをめぐり、サロン・ドートンヌに多数作品を出品して入選した。1931年(昭和6年)11月に日本へ帰国。帰国後の1934年(昭和9年)、第15回帝展に「優駿出場」を出品して特選。1935年(昭和10年)には第二部会展で「婦人帽子店」特選。
小西 得郎(こにし とくろう、1896年7月10日 - 19… 小西 得郎(こにし とくろう、1896年7月10日 - 1977年6月9日)は、昭和期のプロ野球監督、野球解説者。 プロ選手を経験しなかったことに加え、審判員や球団売買の仲介を経験した異色の経歴を持つ。ラジオおよびテレビの実況中継放送における「独特の話法」での解説が知られた。同時代の野球解説において大和球士と双璧を成した。 東京府麹町区出身。小西は「私は東京生まれだが、言葉は田舎育ちの両親の影響を受けている」と述べている。父・小西増太郎は広島県生まれ、岡山県児島育ち のロシア文学者で、京都帝国大学教授を務めた。増太郎は学生時代にはヨシフ・スターリンと知り合いであったという。母は愛知県知多半島の中須生まれ、半田育ち。
今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11… 今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11日 - 1987年〈昭和62年〉5月20日)は、日本の建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業。母校の教授を長く務め、建築作品とともに教育者として研究室から優れた建築家、研究者を多数輩出した。昭和初期にガウディを日本に紹介した人物である。 東京市赤坂区青山権田原町(現:東京都港区元赤坂2丁目)に生まれる。青山尋常小学校、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)を経て早稲田大学理工学部建築学科へ入学。1919年、大学卒業と同時に助手に任命され、翌年、助教授に就任。1926年から1927年にかけて東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線浅草駅 - 新橋駅間)の各駅の構内・出入口の設計、車両の内装や職員の制服デザインを担当し、ヨーロッパの地下鉄駅の研究及び早稲田大学からの近代建築視察を行うため外遊。
鈴木 千久馬(すずき ちくま、1894年〈明治27年〉7月2… 鈴木 千久馬(すずき ちくま、1894年〈明治27年〉7月23日 - 1980年〈昭和55年〉9月7日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。「日本的フォーヴ」と呼ばれた独特な画境で知られる。 福井県福井市出身。1921年東京美術学校西洋画科卒、「緑蔭にて」で第3回帝展に入選。1925年「寝椅子の裸婦」で第6回特選。1930年帝展審査員となる。1935年多摩美術大学教授、1936年文展委員。1937年新文展審査員。1941年中野和高らと創元会を創立。1950年日展運営会参事(- 1958年)。1957年日本芸術院賞受賞。1972年日本芸術院会員。1974年勲三等瑞宝章受章。 『鈴木千久馬作品集』(美術出版社、1969)がある。
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月2… 磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月28日 - 1979年〈昭和54年〉10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県多野郡万場町生利(現・神流町)出身。農業・磯田芳十郎の息子として生まれる。日本中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第17連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業し、野砲兵第17連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1925年(大正14年)5月、アメリカ大使館付武官補佐官に発令。
加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月… 加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月25日 - 1978年(昭和53年)9月27日)は、昭和期の政治家、労働運動家。衆議院議員(7期、日本社会党)、労働大臣(第2代)。碧水、率とも称した。 戦前の労働運動で活躍し、「火の玉勘十」の異名を取った闘士型の運動家。立憲民政党、国民同盟の衆議院議員を務めた加藤鯛一は実兄。婦人運動家、政治家の加藤シヅエは、夫人で「おしどり議員」として知られた。息子は加藤宣幸、娘は加藤タキ(多喜子)。 1892年(明治25年)2月25日に、愛知県丹羽郡岩倉村(現在の岩倉市)で生まれる。 日本中学などを経て、日本大学法学部中退。 当初は国家主義者として出発し、1918年(大正7年)シベリア出兵に参加するが、戦争の悲惨さを体験して、反戦・労働運動に転向した。
井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)… 井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)8月30日 - 1969年(昭和44年)11月13日)は、日本の外交官。駐ハンガリー公使。海軍司政長官。 井上喜代松の二男。神奈川県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外交官補、領事官補、イギリス大使館三等書記官、外務事務官・亜細亜局第三課勤務、廈門領事・台湾総督府事務官、ポーランド領事、シドニー総領事、外務書記官・商工書記官・通商局第一課長、ドイツ大使館参事官、外務省欧亜局長を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ハンガリー公使に就任した。その後、外務省職員訓練所長を経て、1942年(昭和17年)から1944年10月まで海軍司政長官・ボルネオ民政部長官を務めた。