大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月3… 大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月30日 - 1971年〈昭和46年〉8月17日)は、日本の実業家、映画製作者、プロ野球オーナー。東映初代社長。日本教育テレビ (NET) 初代会長、2代目社長。 7人兄姉の末っ子として、新潟県西蒲原郡加奈居村大字羽黒(松長村、燕市の一部、中之口村を経て、現在の新潟市西蒲区)に生まれる。先祖は戦国時代の勇将、村上義清の家臣だったといい、江戸時代には庄屋、明治期には戸長(村長)を務め、村では名家として扱われていた。しかし、父が理財に疎かったこともあって家計は次第に苦しくなった。 1913年(大正2年)、15歳の時、上京して上野の岩倉鉄道学校に入学した。
楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12… 楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12月29日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、大正~昭和時代の中国哲学者。楠本海山の子として生まれ、祖父に楠本端山を持つ。
高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 19… 高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 1943年12月14日)は、日本の俳優である。本名高木 英二(たかぎ えいじ)。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる。 1896年(明治29年)12月28日(12月12日)、兵庫県神戸市に生まれる。 東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制・早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める。
内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)1… 内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)12月27日 - 1982年(昭和57年)3月3日)は、日本の魚類学者。 東京神田小川町駿河下出身。第一高等学校卒、東京帝国大学農学部水産学科を卒業。 卒業後は同大学講師、朝鮮総督府水産試験場技師をへて、1942年九州帝国大学農学部教授となる。戦後、1947年に『朝鮮魚類誌』を九州大学に提出して農学博士の学位を取得。九州大学付属水産実験所所長として勤務した。定年退官、名誉教授。 魚類の生活史を研究テーマとした。 内田清之助、内田勇三郎は従兄。
久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 -… 久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 - 1986年7月31日)は、日本の宗教社会学者・仏教学者、立正大学仏教学部元教授。名誉教授。日蓮宗の僧。 新潟県生まれ。1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1926年、ロンドン大学で社会学を専攻。1930年、立正大学文学部教授。1960年、「宗教集団の社会学的研究」により、日本大学文学博士。1973年、立正大学名誉教授。
宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1… 宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1963年6月24日)は日本の実業家、生物学者。 長野県埴科郡五加村(現千曲市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て1921年千葉医学専門学校卒業。1933年、改組後の千葉医科大学衛生学教室に入り、腸内菌の研究に携わる。1935年、「水素イオン濃度の腸内菌に及ぼす影響」で医学博士。1940年研究中に、腐敗菌に対して強力な拮抗現象を示す芽胞菌を発見し、これを「宮入菌」と命名し、整腸剤ミヤリサンの製薬特許を受ける。1947年ミヤリサン製薬を設立し、初代社長に就任する。1959年「整腸剤の製造法」について社団法人発明協会から発明賞を受賞。
寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月… 寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月21日 - 1976年(昭和51年)1月24日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員。寺田甚与茂の長男。妻は元女優の筑波雪子。正四位勲二等、研究会所属。職業野球チーム・南海軍(現在の福岡ソフトバンクホークス)創設者・初代オーナー。 大阪府出身。慶應義塾大学卒業。甚与茂の死去後は、寺田合名会社社長をはじめ、和泉銀行頭取、南海鉄道、岸和田紡績(後の大日本紡績、現在のユニチカ)、日本純生食品工業各社長を歴任した。南海鉄道社長時代には阪急電鉄の小林一三と阪神電鉄取締役の細野躋に誘われる形で現在の福岡ソフトバンクホークスの源流に連なる職業野球チームの南海軍を創設し、初代オーナーを務めた。
福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1… 福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1988年10月17日)は日本の生理学者である。旧名川村邦三。東京大学名誉教授、山梨大学名誉教授でもあった。実兄は川村清一と川村多実二。 岡山県津山中学校(旧制)卒業。 東京帝国大学医学部卒、1932年医学博士。論文の題は「蛙の筋が全困憊に至るまでに遊離するエネルギーに就て(英文) 」。名古屋帝国大学教授、戦後東京大学医学部教授、57年定年退官、名誉教授、のち山梨大学教授・学長。
佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991… 佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991年1月23日)は、日本の医師。専門は小児科学。医学博士。主な業績に「栄養失調性くる病」「新生児肺炎ウイルス タイプ仙台」の研究報告がある。 香川県生まれ。 旧制第六高等学校を経て1923年に東京帝国大学医学部卒業。1926年、金沢医科大学(現金沢大学医学部)助教授に就任。1931年 - 1932年、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学。 1939年、東京大学医学部助教授。1944年、長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授。1948年、東北大学医学部教授。1950年、東北大学医学部附属病院院長。1960年、同大学定年退官後、東北公済病院院長。
尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20… 尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20日 - 1971年(昭和46年)7月8日)は、小説家。 作家活動は短かったが、今なお斬新さを失わぬ彼女の作品は、近年になり再評価が進んでいる。 鳥取県岩美郡岩井村(現・岩美町)にて教員の父長太郎と母まさ(西法寺住職の三女)との間に1896年(明治29年)、長女として生まれた。兄3人、妹3人の7人兄弟姉妹の中で育つ。まもなく父の転勤のため鳥取市に移り、1903年(明治36年)に醇風尋常小学校に入学した。1905年(明治38年)自宅に近い面影尋常高等小学校尋常科三年に編入し、1907年(明治40年)同校尋常科四年を卒業した。そして引き続き高等科に進学し、1909年(明治42年)3月に二年の課程を首席で修了した。
大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18… 大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18日 - 1980年(昭和55年)4月13日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、第15代日本弁護士連合会会長、関西大学理事・顧問を務めた。岡山県高梁市出身。 1896年(明治26年)岡山県上房郡上竹荘村(現:高梁市)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、関西大学へ進学する。1917年(大正6年)7月に関西大学専門部法律学科を卒業し、翌年、1918年(大正7年)4月に日本大学法学高等研究科(現:日本大学法科大学院)を専攻する。1919年、同校を卒業し、1920年(大正9年)12月11日、大月は弁護士試験に合格する。
堀江 邑一(ほりえ むらいち、1896年12月18日 - 1… 堀江 邑一(ほりえ むらいち、1896年12月18日 - 1991年11月24日)は、日本の経済学者。 専攻はソ連経済、マルクス経済学。妻は日本共産党衆議院議員の苅田アサノ。日ソ協会(現日本ユーラシア協会)顧問などを務めた。 徳島県の出身。京都帝国大学経済学部を卒業後、同大大学院に進学し河上肇の一番弟子として彼の薫陶を受ける。1926年に高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)教授となり、翌年ドイツへ留学しベルリン社会科学研究会(後のベルリン反帝グループ)に参加、ドイツ共産党へも入党した。また、1933年には上海の東亜同文書院に留学するが、この時高商時代の政治活動を理由に検挙、留学から半年足らずで内地へ戻ると共に休職。
東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月… 東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月15日 - 1986年(昭和61年)1月11日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員。 石川県出身。東栄松の三男として生まれる。1923年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 萬朝報記者、読売新聞記者、國民新聞記者、拓務省嘱託、日満醸造社長、逓信大臣秘書官、東京市会議員などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて石川県第一区で民主党から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。この間、民主自由党総務に就任。 炭鉱国管疑獄により逮捕され、1950年4月21日、東京地方裁判所で、懲役4ヶ月の判決を受けた。その後、控訴して争い、1951年5月22日、東京高等裁判所で無罪となり判決が確定した。
山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1… 山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1978年9月22日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸士卒(30期)、陸大卒(39期)。
足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1… 足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1980年10月10日)は、歌人、劇作家、小説家。千葉県生まれ。本名・直太郎。別号・高梨直郎。早稲田大学文学部国文科卒。橋田東声の『珊瑚礁』に拠って歌人として出発、次第に戯曲、小説に手を染める。聚芳閣の経営者足立家に婿入りする。妻の養兄が足立欽一。
本間 一咲(ほんま かずさく、1896年12月13日 - 1… 本間 一咲(ほんま かずさく、1896年12月13日 - 1973年12月16日)は、日本の作詞家。新潟県佐渡島出身。 1896年(明治29年)、新潟県加茂郡新穂村(現在の佐渡市)に生まれる。1918年(大正7年)に東京府青山師範学校を卒業。 東京都内で45年にわたって教員を務める傍ら作詞の懸賞公募でたびたび入選し、戦前の懸賞歌謡界では「本間さんをしらない者はモグリといわれてもしかたがない」と評される存在であったと言われる。戦後は作詞と並行してふるさと詩社発行の雑誌『ふるさと』を中心に詩を発表している。 1973年(昭和48年)死去。享年78(満77歳没)。
久山 秀子(ひさやま ひでこ、1896年12月11日 - 1… 久山 秀子(ひさやま ひでこ、1896年12月11日 - 1976年12月5日)は、日本の探偵小説家。 覆面作家であり、女性名義で作品を発表していたが、実際は男性である。本名は片山 襄(かたやま のぼる)、のち改名し芳村 升(よしむら のぼる)。別名義に久山千代子、富田達観、片山秀。 代表作は、女スリ師の隼お秀(はやぶさ おひで)こと久山秀子を主人公とする、「隼お秀」シリーズ。 1896年(明治29年)12月11日生。本籍地は東京都目黒区中目黒とされているが、出生地も同じかどうかは不明。出生名は片山襄(かたやま のぼる)で、のちに芳村家の婿養子となり、芳村升(よしむら のぼる)と改名した。本人の述懐によれば、下町生まれの旗本直参の跡取り息子だったが、長唄の師匠の家に婿養子に入ったという。
竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11… 竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11日 - 1958年(昭和33年)2月8日)は、日本の著作家、政治家。衆議院議員。 千葉県下埴生郡八生村大竹(印旛郡八生村を経て現成田市)で生まれる。1918年、東京外国語学校露語科を卒業。朝鮮銀行浦塩支店に勤務。その後、報知新聞記者、東京毎夕新聞記者、国士舘高等拓殖学校講師、朝鮮林業協会附属北方産業研究所主事などを務め、著述家としても活動した。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で千葉県第二区から立候補して当選。以後、27回総選挙まで連続5回当選した。この間、衆議院文部委員長、第3次鳩山一郎内閣の文部政務次官、自由党政調会文教部長、同文化部長、同憲法調査会副会長などを歴任した。
手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年)12月10… 手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年)12月10日 - 昭和38年(1963年)4月18日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は正三位。郵政大臣(第18代)、参議院議員(2期)。 鳥取県西伯郡富益村(現米子市富益町)の農家に生まれた。手島菊松の二男。 旧制米子中学校(現米子東高等学校)、第四高等学校を経て、大正11年(1922年)3月東京帝国大学法学部卒業。逓信省に入る。 昭和12年(1937年)経理局長、昭和15年(1940年)管理局長、昭和16年(1941年)航空局長官、同年10月逓信次官に任ぜられ航空局長官事務取扱を命ぜられる。昭和18年(1943年)10月退官。 戦後は実業界に入り、昭和20年(1945年)国際電気通信社長、日本郵便逓送顧問などを歴任した。
林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日… 林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日 - 1975年(昭和50年)6月23日)は、東京都出身の日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。なお、孫に元衆議院議員の林潤がいる。
田中 幾三郎(たなか いくさぶろう、1896年(明治29年)… 田中 幾三郎(たなか いくさぶろう、1896年(明治29年)12月10日 - 1967年(昭和42年)11月2日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 三重県北牟婁郡尾鷲町矢ノ浜町(現尾鷲市)で生まれる。代用教員などを務め、苦学して1920年(大正9年)日本大学専門部法律科を卒業。高等試験司法科試験に合格し弁護士を開業した。内閣拓殖局嘱託、東京地方裁判所司法委員、民主法曹協会会長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙に三重県第2区から右派社会党公認で出馬したが落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙に出馬して初当選。以後、第29回総選挙まで再選され、衆議院議員を連続4期務めた。
池田 亀鑑(いけだ きかん/戸籍名・いけだ かめのり、明治2… 池田 亀鑑(いけだ きかん/戸籍名・いけだ かめのり、明治29年〈1896年〉12月9日 - 昭和31年〈1956年〉12月19日)は、日本の国文学者。小説家。号は桃園(とうえん)。平安文学専攻で、特に『源氏物語』の研究(源氏学)で知られる。1948年(昭和23年)、学位論文『古典の批判的処置に関する研究』により、論文博士(東京大学)。兼任で多くの学校で教壇に立った。 名前の読みについて、一般には「きかん」とされているが、「かめのり」とする資料もある。 1896年(明治29年)、鳥取県日野郡福成村(現・日南町)で、宏文(父)と母・とら(母)の間に生まれる。1916年(大正5年)に鳥取師範学校を卒業し、溝口尋常高等小学校訓導。
石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12… 石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12月7日 - 1978年(昭和53年)9月18日)は、昭和時代の日本の化学者。専門は分析化学。 千葉県出身。1921年(大正10年)京都帝国大学理学部化学科卒業。京都帝国大学講師、理学部助教授、ドイツ留学を経て、1936年(昭和11年)同大教授となる。1959年(昭和34年)定年退官し、同大名誉教授。その後、近畿大学教授、1961年(昭和36年)から1967年(昭和42年)にかけて金沢大学長、1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)にかけて奈良大学長を歴任。のち奈良大学名誉学長。ほか、海洋化学研究所長、同理事長、日本分析化学会会長、日本学術会議会員を務めた。
郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù… 郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù Dá-fū、1896年12月7日 - 1945年9月17日)は、浙江省富陽県出身の中国の近代の小説家、文章家、詩人。達夫は字で、本名は郁文 (いく ぶん)。 郁達夫は本名を郁文といい、浙江省富陽県満洲街(現在の達夫街)のインテリ一家の三男(郁家19世)として生まれた。(長兄 郁華、次兄 郁浩) 3歳の時に父が亡くなり、家が貧しくなったが7歳の時に塾に入り、9歳の時には賦詩を作るようになった。また、富陽県立高等小学に学び、之江大学予科に進学し、杭府中学に入学した(徐志と同学年である)。1913年長兄の郁華に従って、日本に留学した。ここまでの郁達夫の生活は、自伝「わが夢わが青春」に詳しく描かれている 。
坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6… 坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日)は、日本の学者、評論家。外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師、警察育英会理事長、国家公安委員会委員などを務め、立法・行政・教育と多岐にわたり活躍した。 なお、名についてしおとする資料もある。志保自身の英文署名や自身が米国で出版した書物には「Shio」が使用されており、日本語署名には「志保」を用いており「しほ」はその読みである。戸籍には「シホ」とある。「志保」は聖書の「地の塩」による。 神奈川県横浜から北海道後志国忍路郡塩谷村伍助沢(現:小樽市塩谷)に開拓民として1893年(明治26)に入植した坂西傳明夫妻の娘として1896年(明治29)に生まれる。
小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12… 小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12月6日 - 1951年(昭和26年)9月26日)は、日本の法学者、医学者である。 神奈川県に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部に入学する。1923年(大正12年)に卒業後は、法医学の研究に専念し1926年(大正15年)に愛知医科大学の助教授となり後に教授に昇格した。 その後は名古屋医科大学(現在の名古屋大学医学部)を経て、校名変更により1939年(昭和14年)から1948年(昭和23年)名古屋帝国大学にて教鞭を執る。勤務中に医学博士を取得し、第22代日本法医学会の会長に就任し、指紋の研究を主に鑑識科学の研究に専念した。この影響もあり、大学退職後の1949年(昭和24年)に発生した下山事件の衆議院法務委員会に参考人として招致され事件解決に導いた。
北大路 信明(きたおおじ のぶあき、 1896年(明治29年… 北大路 信明(きたおおじ のぶあき、 1896年(明治29年)12月3日 - 1973年(昭和48年)3月15日)は、昭和期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。 男爵・北大路実信の長男として生まれる。父の死去に伴い、1935年(昭和10年)11月15日に男爵を襲爵。 旧制学習院高等科を経て、1923年(大正12年)3月に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。大日本麦酒に入社し、名古屋支店員となった。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
安騎 東野(あき とうや、1896年12月2日 - 1973… 安騎 東野(あき とうや、1896年12月2日 - 1973年7月20日)は、医学者、随筆家。 本名・宮本璋(しょう)。東京神田に小児科医の子として生まれる。第二高等学校、1922年東京帝国大学医学部卒。1927年東京帝国大学助教授。1936-1938年ドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所に学ぶ。戦時中はジャワに派遣。1947年東京医学歯学専門学校教授、1949年東京医科歯科大学教授、1956-1959年医学部長。1962年定年退官、名誉教授。1971年正四位勲三等旭日中綬章受勲。安騎東野の筆名で随筆を書いた。
鹿島 透(かしま とおる、1896年(明治29年)12月2日… 鹿島 透(かしま とおる、1896年(明治29年)12月2日 ‐ 1980年(昭和55年)1月24日) は、大正末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 宮崎県児湯郡上穂北村穂北(西都町を経て現西都市穂北)で、鹿島栄三郎の三男として生まれた。1923年(大正12年)東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所を卒業した。 宮崎県、大阪市の小学校訓導、宮崎県立宮崎工業学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)長兼教諭、青年学校視学委員、宮崎県教育会長、同県建設業協会長、国土計画審議会委員、上代日向研究所委員、日本教育会宮崎県副支部長、宮崎県教育委員長などを務めた。 1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
蓮見 重治(はすみ しげはる、1896年(明治29年)12月… 蓮見 重治(はすみ しげはる、1896年(明治29年)12月2日 - 1988年(昭和63年)1月26日)は、日本の法律家、法学者。弁護士、元仙台高等裁判所判事、元東北学院大学教授。 1896年(明治29年)12月2日に栃木県那須郡境村に生まれる。1924年(大正13年)に法政大学専門部法律科を卒業する。 1925年(大正14年)に52号試験に合格し、翌年弁護士を開業する。1930年(昭和5年)に、裁判官に転進し、台湾総督府法院判官に任官する。 仙台高裁判事を最後に退官し、退官後は東北学院大学法学部教授(専門は刑法)に就任する。 1988年(昭和63年)1月26日、老衰により死去、91歳。 1970年(昭和45年)に勲二等瑞宝章を受章する。
北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12… 北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12月1日 - 1973年(昭和48年)9月1日)は、昭和時代の日本の建築家、数寄屋(茶室)建築学者。東京高等工業学校 (現・東京工業大学)卒。大阪府出身。 大阪府南河内郡北八下村(現・堺市北区の一部および松原市の一部)の北尾吉郎兵衛(浄郭)の四男として生まれる。 父は社寺・楼閣建築に携わるも、春道の9歳の時(1904年・明治37年)には本願寺門跡の僧侶となったため、春道も同時に本願寺の衆徒となった。また春道の初名は春吉であったが、同年に名を改めている。 春道は上京し東京高等工業学校 (現・東京工業大学)に入学、伊東忠太のもと建築設計の実務に携わり、伊東のヨーロッパ旅行にも同行した。
蜂須賀 年子(はちすか としこ、1896年12月 - 197… 蜂須賀 年子(はちすか としこ、1896年12月 - 1970年12月29日)は、東京都出身のデザイナー。教育者。父は蜂須賀正韶。母は筆子。外祖父は徳川慶喜。
奈良 真養(なら しんよう、1896年11月30日 - 19… 奈良 真養(なら しんよう、1896年11月30日 - 1977年11月26日)は、日本の映画俳優。 1896年(明治29年)11月30日、秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)に鉱山師の父・真平と母・とめの長男として生まれる。 1914年(大正3年)に秋田県立大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業後、小坂鉱山で3年間の勤務を経て上京し、農商務省工業試験所に勤務した。 1920年(大正9年)2月、松竹キネマ合名社の設立にあたって行った男女俳優募集に応募、240人の応募者の中から男性120人・女性5人の合格者の一人として選ばれ、同年4月1日に小山内薫主宰の松竹キネマ俳優学校に入学。同期生に伊藤大輔、鈴木伝明、澤村春子、岡田宗太郎らがいる。
矢野目 源一(やのめ げんいち、1896年11月30日 - … 矢野目 源一(やのめ げんいち、1896年11月30日 - 1970年10月12日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。 陸軍中将矢野目孫一の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学仏文科卒。フランソワ・ヴィヨンの詩に現れる娼婦の詩を「玉造小町」になぞらえて「兜屋小町」として訳出し、鈴木信太郎に絶賛された。『詩王』『オルフェオン』などに詩を発表し、1920年詩集『光の処女』を刊行する。1931年創刊の『文藝汎論』のカラーページに、城左門、岩佐東一郎らと執筆する。慶大では奥野信太郎と同期で、戦後は艶笑小噺などを書いたほか、ハウザー式と称する健康法などの講演・執筆活動を行い、奇人とされている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
細迫 兼光(ほそさこ かねみつ、1896年11月28日 - … 細迫 兼光(ほそさこ かねみつ、1896年11月28日 - 1972年2月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。弁護士。 山口県厚狭郡厚西村(のち厚狭町→山陽町、現・山陽小野田市)出身。細迫家は長州藩寄組熊谷氏の一族で、陪臣ながら厚狭郡有数の名家であった。旧制山口中学校(現山口県立山口高等学校)時代は岸信介が一期先輩であった。第三高等学校を経て東京帝国大学に入学後、新人会に入る。1922年卒業。卒業後は弁護士となる。労働農民党に入り、書記長となり、1929年新労農党が結成されると書記長となったが、翌年除名される。1932年治安維持法により検挙される。その後は故郷に帰り、厚狭町議、小野田市長、山口県弁護士会副会長などを務める。
田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1… 田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1975年10月29日)は、日本の外交官。特命全権公使として上海在勤ののち、外務省政務局長や、大東亜次官、外務次官を務めた。 中国の民族主義を尊重する立場をとり、外交官生活の大半を中国で送った。日中和平交渉史の中では、汪兆銘側から求められて香港総領事に就任したことで知られるが、実際には田尻は「汪兆銘工作」に対して強い批判を持っていた。 1896年11月、島根県に生れる。1920年3月、東京高等商業学校(のちの一橋大学)附設商業教員養成所を卒業し、同年4月、京都市立第一商業学校(のち京都市立西京高等学校)の教諭となる。1921年外交官及領事官試験合格。
生島 五三郎(いくしま ごさぶろう、前名・敏治、1896年〈… 生島 五三郎(いくしま ごさぶろう、前名・敏治、1896年〈明治29年〉11月27日 - 1973年〈昭和48年〉5月13日)は、日本の検事、弁護士。石川島播磨重工業顧問。 兵庫県神戸市出身。先代五三郎の長男。 1920年、東京帝国大学法学部仏法科を卒業。1933年、家督を相続し、前名敏治を改め襲名する。大阪、神戸各検事を経て1940年、京都地方裁判所検事。神戸保護観察所長。 1944年、高松地方検察庁検事正。1945年、福岡地方検察庁検事正。後に退官し弁護士となる。 1973年、心臓弁膜症のため大阪府豊中市内の自宅で死去。満76歳没。 生島五郎兵衛の養甥。多額納税者である。著書には『皇陵巡拝記』がある。
築藤 鞆一(つきふじ ともかず、1896年 <明治29年> … 築藤 鞆一(つきふじ ともかず、1896年 <明治29年> 11月25日 - 1975年 <昭和50年> 11月9日)は、日本の経営者。広島県出身。 1933年に広島高等学院商学部を卒業し、1934年9月に中国新聞社に入社。1947年1月に代表取締役に就任し、1950年11月には会長就任。1952年5月にラジオ中国(現在の中国放送)専務に就任し、1957年5月から1970年5月までに社長を務めた。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1975年11月9日心不全のために死去。78歳没。
大塚 万丈(萬丈、おおつか ばんじょう、1896年11月24… 大塚 万丈(萬丈、おおつか ばんじょう、1896年11月24日 - 1950年3月8日)は、日本の実業家。元経済同友会代表幹事。発足直後の経済同友会において、「企業民主化試案」を取りまとめた。 愛媛県出身。旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部で岸信介元首相と同期であった。学生時代は剣道の達人として鳴らす。1920年卒業後、朝鮮銀行(現在のあおぞら銀行の前身行)に入行。1925年に、設立後間もない大阪野村銀行(現在のりそな銀行の前身行)に移る。銀座支店長、丸の内支店長などを歴任。 大阪野村銀行時代、理化学研究所所長の大河内正敏が、各種の発明を自主的に工業化する方針を打ち出すと、大塚はその意義を認め、積極的に融資を行った。
松本 長兵衛(まつもと ちょうべえ、1896年〈明治29年〉… 松本 長兵衛(まつもと ちょうべえ、1896年〈明治29年〉11月23日 - 1978年〈昭和53年〉8月2日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(2期)。位階は正六位。 山形県南村山郡上山町十日町の吉野屋本家松本長兵衛家に生まれる。東京帝国大学農学部卒業。 1931年に上山町議会議員に初当選。1946年からは、上山町議会議長を務めた。 1947年に上山町長に就任。上山市制施行まで職務を務め、新制中学校の建設整備や、都市計画道路の新設などに尽力した。また、山形県の町村合併審議会会長をつとめ、合併の推進役を担った。山形県町村会長、全国町村会副会長なども務めた。 1954年10月の上山市長選挙に日本社会党公認で出馬し、高橋熊次郎と一騎打ちとなるが、約7,100票の差をつけられて落選(松本長兵衛5,997票、高橋熊次郎13,107票) 1958年9月に上山市長選に出馬し、鈴木行男(遠藤利明の叔父)との一騎打ちを制して初当選。
菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1… 菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1988年1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。茨城県土浦市議会議員。 福島県郡山市出身。菊池喜久蔵の四男として生まれる。安積中学校を経て、1917年11月、海軍兵学校(45期)を卒業。席次は89名中48番。翌年8月に海軍少尉任官。横須賀航空隊と霞ヶ浦航空隊で航空術学生として学んだ。霞ヶ浦海軍航空隊・横須賀海軍航空隊の各分隊長、各飛行隊長、「鳳翔」「加賀」「赤城」の各分隊長、「鳳翔」飛行長、大村航空隊飛行長、欧米出張、海軍航空廠飛行実験部員、「赤城」飛行長、第二航空戦隊参謀、海軍航空本部教育部員、第1連合航空隊・第2連合航空隊の各参謀、航空本部教育部員などを歴任。
河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月… 河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月22日 - 1982年(昭和57年)8月11日)は、日本の航空技術者、実業家。三菱重工業社長。栃木県大田原市生まれ。次女は岩倉具忠の夫人。 1921年、東京帝国大学工学部機械科を卒業し、三菱内燃機製造に入社する。 三菱内燃機製造では機体設計を担当した。 1937年、陸軍九七式司令部偵察機の主任設計技師を務める(同機の試作機の1機は朝日新聞社に払い下げられ、ロンドンへの飛行を実施した「神風号」として著名になった)。このほか、海軍の九六式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機などの軍用機の設計に関与した。 三菱重工第一製作所、川崎機器製作所各所長を経て、1950年に三菱日本重工取締役となる(同年、三菱重工業は財閥解体により3社に分割)。
土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月2… 土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。東京都生まれ。日本経済史専攻。 仙台一中卒業ののち、1918年に旧制第二高等学校を卒業し、1921年に東京帝国大学卒業。1924年、東京帝国大学経済学部助教授。日本資本主義論争では労農派の論客として活躍。人民戦線事件に連座し、大学を追放される。戦後、大学復帰。1954年に「封建社会崩壊過程の研究」により東京大学から経済学博士の学位を授与される。 1957年に東京大学を定年退官した後は明治大学、千葉敬愛経済大学、駒澤大学、拓殖大学、城西大学で教授として教鞭をとる。
田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1… 田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1983年6月20日)は、日本の経営者。西日本新聞社、テレビ西日本各社長を務めた。福岡県出身。 1920年に早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1921年に福岡日日新聞社に入社した。 1945年に取締役に就任し、1947年から1958年11月までに西日本新聞社社長を務めた。1958年3月にはテレビ西日本社長に就任。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年6月20日肺炎のために死去。86歳没。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。 32007年から暫くの間、共催社として参加。 4過去に資本・友好関係のあったラジオ局。
林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20… 林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20日 - 1984年〈昭和59年〉4月25日)は、日本の思想家、評論家。 西洋精神史、文化史、文明史にわたる著作が多い。 1896年、東京生まれ。父曾登吉は外交官で、アメリカ・シアトル領事館赴任に伴い2歳から6歳までシアトルで過ごした。1902年に帰国。1904年、父のインド・ボンベイ領事館赴任に伴い福井市の親戚に預けられる。 1908年、両親が帰国、同年福井県立師範学校附属小学校に転入学したときは、当時は稀な帰国子女で外人姿の変な子供と見られ、相当ないじめを受けた。やがて京都市立錦林小学校に転校、1911年、京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に進んだが、芝居や音楽に熱中して1916年に入学した第一高等学校第一部丙類を中退。
藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月… 藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月20日 - 1983年(昭和58年)5月8日)は、日本の内務官僚。官選山梨・千葉・神奈川県知事。 岡山県岡山市西古松に藤原祐三郎の長男として生まれる。岡山中学、第六高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入り山口県属となり内務部農務課に配属。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、1922年(大正11年)6月富山県理事官・内務部学務課長、同県視学官、1925年(大正14年)5月京都府内務部地方課長、岐阜県学務部長などを歴任し、1931年12月、復興事務局書記官・経理課長に就任した。1932年4月、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務となり、さらに、衛生局保健課長、大臣官房会計課長を務めた。
井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - … 井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - 1974年8月21日)は、日本の農学者、教育者。農業化学を専攻、3つの大学で学長を務めた。農学博士。 1896年、和歌山県和歌山市に生まれる。1927年、京都帝国大学農学部農林化学科を卒業。理化学研究所を経て、1932年に京都高等蚕糸学校教授となり、1935年に京都帝国大学助教授、1940年に京都帝国大学教授となった。1957年、日本学術会議会員に選出。1959年に京都大学を退官すると、1960年に東京農工大学長、1966年に鳥取大学学長となった。さらに東亜大学の設立に参画し、1974年に同大学長となった。 1970年1月7日には、講書始の儀に招かれ農業化学に関する講義を行った。
板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1… 板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1977年1月21日)は、日本の文芸評論家、日本近代文学研究家。 青森県北津軽郡栄村湊(現五所川原市)に平山兼吉の次女「なを」として生まれる。1914年青森県立弘前高等女学校(現・青森県立弘前中央高等学校、太宰治の姉トシが2学年上で寄宿舎で同室)、1918年日本女子大学校英文科卒、1921年、東京帝国大学の第一回女子聴講生となる。美学、哲学を聴講。美術評論家の板垣鷹穂と結婚。夏目漱石などについて多くの著述を行い、比較文学研究では島田謹二、吉田精一らと並ぶ存在とされる。長谷川時雨主宰の「女人芸術」の編集委員として林芙美子を見出した。また、国士舘大学等で教鞭をとっている。
岡本 伝之助(岡本 傳之助、おかもと でんのすけ、1896年… 岡本 伝之助(岡本 傳之助、おかもと でんのすけ、1896年〈明治29年〉11月17日 - 1982年〈昭和57年〉1月15日)は、日本の政治家、実業家、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第二区選出)。横須賀名誉市長。さいか屋会長。横須賀商工会議所顧問。 神奈川県三浦郡横須賀町(現横須賀市)出身。岡本傳兵衛の長男。神奈川県立横須賀中学校で学び、中退した。1905年、家督を相続し父業の呉服商を継ぎ、後百貨店さいか屋を設立し、社長となる。 さいか屋、さいか屋商事、相模運輸、神奈川県繊維製品配給統制各社長、小美屋、神中鉄道、興電社各取締役、日本百貨店組合理事、横須賀方面繊維製品小売商業組合理事長、相模運輸監査役、同常務取締役、横須賀商工会議所会頭、同顧問などを務めた。
金倉 円照(金倉 圓照、かなくら えんしょう、1896年11… 金倉 円照(金倉 圓照、かなくら えんしょう、1896年11月17日 - 1987年1月24日)は、インド哲学者・仏教学者。位階は正三位。学位は、文学博士。東北大学名誉教授、宮城教育大学学長。龍厳寺住職(浄土真宗本願寺派)。特にジャイナ教と正当バラモン教の諸哲学体系の研究で知られる。 鹿児島県川辺郡坊津町(現・南さつま市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1917年第七高等学校造士館 (旧制)卒業、1920年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。大学卒業後、ヨーロッパへ留学。1923年東北帝国大学助教授、1926年東北帝国大学教授(戦後学制改革により東北大学教授)。1931年に論文「ブリハダーラヌヤコーパニシヤツドバーシユヤの研究」により東京帝国大学より文学博士を授与される。