スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
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1
野球
15人
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2
ゴルフ
6人
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3
ラグビー
5人
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3
柔道
5人
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3
俳優
5人
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6
演出家
2人
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6
体操
2人
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6
タレント
2人
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6
レスラー
2人
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10
官僚
1人
※有名人ナビに登録されている54人を職業別に数えました。複数の職業を持つ人は、それぞれの職業に数えています。
川﨑 祥吾(かわさき しょうご、2002年9月12日 - )… 川﨑 祥吾(かわさき しょうご、2002年9月12日 - )は、千葉県出身のオートバイレーサー。 6歳の時にポケバイを乗り始める。 2014年、ツインリンクもてぎで開催されたNSF100HRCトロフィー ジュニアチャンピオンシップで2位。 2015年、FIMアジア国別対抗ロードレースに出場し、総合1位。 2016年、アジア・タレント・カップに参戦し、ランキング8位。 2017年、筑波ロードレース選手権J-GP3クラスチャンピオン。 2018年-2019年、イタリアロードレース選手権 (CIV)SS300クラスに参戦。参戦2年目でランキング15位を記録。 2021年、スーパースポーツ世界選手権に参戦。
安藤 菜緒(あんどう なお、2001年7月17日 - )は、… 安藤 菜緒(あんどう なお、2001年7月17日 - )は、日本の女子ラグビーユニオン選手。 2020年、日体荏原高校卒業後、東京有明医療大学に進学。同校で鍼灸を学びながら、BRAVE LOUVEでラグビーを続け、2021年には女子15人制のTIDユースチーム候補合宿に招集された。 2023年5月28日に行われた女子アジアラグビーチャンピオンシップ2023決勝戦女子カザフスタン代表戦にて途中出場で代表初キャップを獲得した。 女子ラグビーワールドカップ2025では、初のワールドカップメンバー入りを果たした。
石本 拓巳(いしもと たくみ、2001年5月8日 - )は、… 石本 拓巳(いしもと たくみ、2001年5月8日 - )は、ジャパンラグビーリーグワン日野レッドドルフィンズに所属するラグビー選手。 2020年、日体大荏原高校卒業後、東洋大学に加入。 2024年、アーリーエントリーで日野レッドドルフィンズに加入。 2025年3月29日に行われたJAPAN RUGBY LEAGUE ONE第10節花園ライナーズ戦に途中出場でリーグワン公式戦初出場を果たした。
畠田 瞳(はたけだ ひとみ、2000年9月1日 - )は、日… 畠田 瞳(はたけだ ひとみ、2000年9月1日 - )は、日本の元体操競技選手。セントラルスポーツ所属。 実父はバルセロナオリンピック団体総合の銅メダリストである畠田好章、実母も元ユニバーシアード代表の体操選手というDNAを持ち、妹の畠田千愛も現役の体操選手である。広島県生まれで東京都町田市育ち。小学3年次から体操競技を始め、実母がコーチを務めた。実父が鉄棒が得意種目であったが、瞳も段違い平行棒が得意種目である。 2018年5月のNHK杯体操選手権兼世界選手権代表選考会において個人総合で3位となり、カタールのドーハで開催される世界選手権の日本代表候補となった。 2019年、イタリア・ナポリで行われたユニバーシアードでは個人、団体総合を含む4つの金メダルを獲得。
塚本 稜(つかもと りょう、1999年8月13日 - )は、… 塚本 稜(つかもと りょう、1999年8月13日 - )は、熊本県出身の、日本の柔道選手。階級は73kg級。身長165cm。組み手は左組み。得意技は内股。 一心館小山道場に所属していた小学校6年の時に全国小学生学年別柔道大会50kg級に出場するも2回戦で敗れた。天明中学3年の時に全国中学校柔道大会73kg級の3回戦で敗れた。上京して日体荏原高校へ進むと、1年の時には全国高校選手権の団体戦で1年先輩の藤原崇太郎などとともに活躍してチームの初優勝に貢献した。2年の時には金鷲旗とインターハイ団体戦の決勝でともに国士舘高校に敗れて2位だった。全国高校選手権の団体戦では5位だった。3年の時にはインターハイ73kg級で3位になった。
坪井 美月(つぼい みづき、1999年6月30日 - )は、… 坪井 美月(つぼい みづき、1999年6月30日 - )は、日本の女子ラグビーユニオン選手。 2018年、日体荏原高校卒業後、東亜大学に入学。同年、ながとブルーエンジェルスに加入。 2022年、東亜大学卒業。
大吉 賢(おおよし けん、1998年11月26日 - )は、… 大吉 賢(おおよし けん、1998年11月26日 - )は、日本の柔道家。茨城県出身。階級は73kg級。身長174cm。段位は四段。組み手は左組み。血液型はB型。得意技は裏投。 柔道は5歳の時に明野晴明館で始めた。明野中学2年の時に全国中学校柔道大会60kg級の2回戦で敗れた。日体大荏原高校へ進むと、2年の時には全国高校選手権73kg級で5位にとどまったが、団体戦では同級生の藤原崇太郎や1年後輩の塚本綾などとともに活躍して優勝した。3年の時には金鷲旗とインターハイの決勝で国士舘高校にそれぞれ敗れると、個人戦では3位に終わった。2017年には日体大へ進学すると、3年の時には学生体重別で2位になった。
原田 健士(はらだ けんし、1998年9月10日 - )は、… 原田 健士(はらだ けんし、1998年9月10日 - )は、東京都出身の、日本の柔道家である。階級は73kg級。身長175cm。血液型はA型。組み手は右組み。得意技は大内刈。 父は成城学園柔道部監督の原田新一、母は福岡国際の61kg級で2位になった山田紀美子。柔道は4歳の時に父親の日体大時代の後輩であるバルセロナオリンピック71kg級金メダリストの古賀稔彦が運営する古賀塾で兄とともに始めた。母親も古賀塾でコーチを務めていたが、幼稚園時代は道場へ行くのが嫌で堪らなかったという。成城学園初等学校から成城学園中学校へ進むも、体育会系気質を歓迎するような環境ではなかったため初心者が多く練習も週3日ほどであり、中学時代は関東大会でベスト8が最高だった。
藤原 崇太郎(ふじわら そうたろう、1998年4月27日 -… 藤原 崇太郎(ふじわら そうたろう、1998年4月27日 - )は、日本の柔道家。兵庫県西脇市出身。階級は81kg級。身長175cm。血液型はO型。組み手は左組み。得意技は裏投げ。 柔道は6歳の時にアテネオリンピックの60kg級で3連覇を達成した野村忠宏などの活躍に影響されて、姉と一緒に西脇柔道スポーツ少年団で始めた。道場では通常の練習が終わった後も柔道経験のない高校教師の父親と一緒に居残り練習を行うなど厳しく指導されてつらかったという。小学校6年の時に全国小学生学年別柔道大会50kg超級に出場したが3回戦で敗れた。 小野中学に入るとまっすぐ立って組む柔道を指導されたこともあって、受けが強く返し技に機敏な柔道スタイルが形作られていった。
杉本 大虎(すぎもと たいご、1998年3月30日 - )は… 杉本 大虎(すぎもと たいご、1998年3月30日 - )は、熊本県出身の、日本の柔道選手である。階級は60kg級。身長162cm。血液型はO型。組み手は右組み。得意技は内股。現在は旭化成に所属。 柔道は3歳の時に牛深錬成館で始めた。全国小学生学年別柔道大会には小学校5年の時に45kg級、6年の時には50kg級で出場したが、ともに決勝トーナメント1回戦で敗れた。天明中学2年の時に全国中学校柔道大会55kg級準決勝で神戸生田中学2年の阿部一二三に一本背負投で敗れて3位だった。3年の時には60kg級の決勝で阿部に背負投で敗れて2位にとどまった。日体荏原高校へ進むと、2年の時に全日本カデとアジアカデで2位、全国高校選手権では3位になった。
柴田 大地(しばた だいち、1997年11月7日 - )は、… 柴田 大地(しばた だいち、1997年11月7日 - )は、東京都大田区出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 大田区立東糀谷小学校3年時に東糀谷イーグルスで野球を始め、大田区立糀谷中学校時代は硬式野球(ポニーリーグ)の羽田アンビシャスに所属。 日体大荏原高校では、3年夏は背番号10番を付け東東京大会3試合に登板。4回戦で日大豊山高に敗退。甲子園出場経験はなし。 日本体育大学入学後に右肘を負傷し、大学時代の公式戦登板はなかった。4年時にはトミー・ジョン手術を受けた。同期には吉田大喜がいる。 日本通運入社1年目もリハビリに費やした。2021年8月のオープン戦で156km/hのストレート、スプリットで注目されるようになった。
宮坂 七海(みやさか ななみ、1997年11月3日 - )は… 宮坂 七海(みやさか ななみ、1997年11月3日 - )は、日本の射撃選手、女性剣道家。専門はクレー射撃(トラップ種目)。東京都出身。メルカリ所属。耳が聞こえないろうアスリートである。 生まれつき耳が聞こえないろう者として生まれる。剣道の経験がある父の勧めで、小学5年生のときから東京都大田区の東競武道館に通い、聴者に囲まれて剣道を始める。 中学まで2008年に開校した私立ろう学校・明晴学園の一期生として通っていたが、東競武道館で剣道の指導に当たっていた範士八段・豊村東盛からの勧めもあり、剣道の強豪校である日体荏原高等学校に進学し、剣道部に入部した。高校2年生のときには東京都高等学校春季剣道大会で優勝。
鈴木 春奈(すずき はるな、1997年4月9日 - )は、日… 鈴木 春奈(すずき はるな、1997年4月9日 - )は、日本の元フィギュアスケート選手(女子シングル)。神奈川県横浜市出身。血液型はA型。2011年ゴールデンスピン2位。 横浜創英中学校、日体荏原高等学校卒業。 2010-11シーズン、初出場となった全日本ジュニア選手権で4位に入り、全日本選手権では14位となった。 2011-12シーズンにはISUジュニアグランプリシリーズに参戦しJGPブリスベンで6位。2011年ゴールデンスピンではアデリナ・ソトニコワに次いで2位入賞、シニアの国際大会で初めて表彰台に立った。2度目の出場となった全日本選手権では自身最高位となる9位となった。2012年チャレンジカップでは9位となる。
石井 勇輝(いしい ゆうき、1996年2月27日 - )は、… 石井 勇輝(いしい ゆうき、1996年2月27日 - )は、日本出身のラグビーユニオン選手。2025年現在ジャパンラグビーリーグワンに参戦するレッドハリケーンズ大阪に所属している。 2014年、日体荏原高校 卒業後、東洋大学に入る。 2018年、東洋大学卒業後、NTTコミュニケーションズシャイニングアークスに加入。同年10月20日に行われたジャパンラグビートップリーグ第7節の宗像サニックスブルース戦に途中出場で公式戦初出場を果たす。 2022年7月、NTT再編に伴う新チーム浦安D-Rocks選手スコッドに選ばれた。 2023年、レッドハリケーンズ大阪に加入。
横川 尚隆(よこかわ なおたか、1994年7月10日 - )… 横川 尚隆(よこかわ なおたか、1994年7月10日 - )は、日本のボディビルダー、タレント、YouTuber。東京都出身。血液型はA型。 1994年7月10日、男3兄弟の三男として誕生。東京都大田区出身。日本体育大学荏原高等学校卒。小学生の時は、ソフトボールで全国ベスト8、関東大会で優勝した経験がある。学生時代、漫画『グラップラー刃牙』に登場する範馬勇次郎に憧れて、トレーニングを開始する。 「フィジーク」という競技があることを知ったのは、トレーニングを始めた後のことだった。 2019年のJBBF 日本ボディビル選手権で優勝し、日本人で初めてIFBBエリートプロカードを取得。プロボディビルダーとなった。
小田倉真(おだくら まこと、 1993年7月20日 - )は… 小田倉真(おだくら まこと、 1993年7月20日 - )は、日本のトライアスロン選手。東京都小平市出身。日本体育大学荏原高等学校を卒業、日本体育大学を経て三井住友海上火災保険所属。 小学3年生から高校3年生まで水泳を行い、日本体育大学入学後にトライアスロン部に入部し、競技を開始。 2017年に三井住友海上火災保険に入社。5月、世界トライアスロンシリーズ横浜大会で男子日本人トップの25位に入る。6月、NTT ASTCトライアスロンアジアカップ大阪城大会で2位に入る。7月、アジアトライアスロン選手権パレンバン大会で2位。9月、NTT ASTCトライアスロンアジアカップ村上大会で2位。10月、日本トライアスロン選手権で個人3位に入る。
仲川 輝人(なかがわ てるひと、1992年7月27日 - )… 仲川 輝人(なかがわ てるひと、1992年7月27日 - )は、神奈川県川崎市川崎区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・FC東京所属。ポジションはフォワード(ウインガー、センターフォワード)、ミッドフィールダー(サイドハーフ)。元日本代表。 2019年のJ1リーグの得点王(15得点)、MVP受賞者。 川崎フロンターレのアカデミー出身。トップチーム昇格は果たせず、2011年に専修大学に進学。2013年、3年次に関東大学1部リーグ得点王を獲得。ユニバーシアード代表にも選出されるなど大学No.1とも評されていたが、2014年10月19日、試合中に右膝前十字靭帯および内側側副靱帯断裂、右膝半月板損傷という大けがを負う。
鈴木 美緒(すずき みお、1990年11月10日 - )は、… 鈴木 美緒(すずき みお、1990年11月10日 - )は、日本の女子ラグビーユニオン選手。YOKOHAMA TKMに所属する。 2009年、日体荏原高校卒業後、日本体育大学に入学する。 2012年、日本体育大学ラグビー部女子の主将に就任した。 2013年、日本体育大学卒業後、日本体育大学の研究員になった。 2015年、YOKOHAMA TKMに加入。
三瓶 将廣(さんぺい まさひろ、1990年5月2日 - )は… 三瓶 将廣(さんぺい まさひろ、1990年5月2日 - )は、神奈川県川崎市出身の自転車競技(BMX)選手。日本体育大学荏原高等学校卒業。 英語も流暢にしゃべる。
小原 健(おはら けん、1977年4月26日 - )は、日本… 小原 健(おはら けん、1977年4月26日 - )は、日本・アメリカ合衆国・ニュージーランドで活動するゲーム・映画・テレビドラマの監督・アクション監督・シネマティックディレクター・プリビズ監督・演出家・編集技師・バーチャルカメラ撮影監督。神奈川県横浜市出身。映画俳優組合SAG・米国テレビラジオ芸能人連盟AFTRAに加盟。横浜市立市ケ尾中学校、日本体育大学荏原高等学校、ロサンゼルス・シティー・カレッジ映画科卒。 20歳の時、兄の小原剛(芸者VS忍者、ゴスロリ処刑人の監督)と共に自主制作で多くの短編アクション映画を撮り始める。その後「OHARA BROS.」として、斬新な手法と香港映画スタイルのワイヤーアクションを組み込み、低予算ながらもハイクオリティな映像を製作。
細川 和彦(ほそかわ かずひこ、1970年12月28日 - … 細川 和彦(ほそかわ かずひこ、1970年12月28日 - )は、茨城県常総市出身のプロゴルファーである。日体荏原高校、日本体育大学卒業。 少年時代は野球やサッカーなどをこなすスポーツ万能選手で、プロ野球選手を夢見ていた。しかし父親からゴルファーになるように言われ、ゴルフの名門日体荏原高校に通学。その後日体大に進学したが、アマチュア時代の実績はほとんどなかった。 1993年プロゴルファーテスト合格。尾崎直道選手に師事。1995年、久光製薬KBCオーガスタゴルフトーナメントで初優勝を飾る。1999年にはゴルフ日本シリーズで公式戦初優勝、ツアー賞金ランキング2位に入るなど、実力派若手選手として脚光を浴びた。
丸山 茂樹(まるやま しげき、1969年9月12日 - )は… 丸山 茂樹(まるやま しげき、1969年9月12日 - )は、千葉県市川市出身のプロゴルファーである。現在はセガサミーホールディングス所属。 父の丸山護はゴルフ愛好家で、息子の素質を見抜き、小さい時から腕を磨かせた。茂樹はその後、高校ゴルフ界の名門・日本体育大学の付属校である日体荏原高に進学し、日本大学経済学部を卒業。日大在学中の1990年、1991年に、日本学生ゴルフ選手権競技で優勝する。1992年にプロ入り。日本ツアー通算10勝は歴代24位タイである。 2015年には、過去の豊富な海外ツアー経験を買われ、翌年に行われる2016年リオデジャネイロオリンピックのゴルフ競技のヘッドコーチに選ばれた。
立山 光広 (たてやま みつひろ 1968年9月7日 - )… 立山 光広 (たてやま みつひろ 1968年9月7日 - )は、東京都出身のプロゴルファー。 2006年9月21日のアコムインターナショナルの8番パー3で19打を叩く大記録が生まれた。これまでの大叩き記録は15だったので記録を更新した。珍しい記録であり、ギャラリーの注目を集めた。ちなみに1987年に鈴木規夫がつくった42があるがそれは実際に叩いたのではなく9番の欄にアウトの合計を記入したことが原因である。
佐藤 弘道(さとう ひろみち、1968年〈昭和43年〉7月1… 佐藤 弘道(さとう ひろみち、1968年〈昭和43年〉7月14日 - )は、日本の体操インストラクター、タレント、医学博士。名城大学薬学部特任教授。本名同じ。 NHKの番組『おかあさんといっしょ』の10代目たいそうのおにいさん。東京都新宿区出身。身長は168cm、血液型はA型。愛称は「ひろみちおにいさん」。 日本体育大学荏原高等学校、日本体育大学体育学部卒業、弘前大学大学院医学研究科博士課程修了。 弟がおり、実家は焼き鳥屋を経営している。幼少期から負けず嫌いで、身体を動かすことに関しては1番にならないと気が済まない性格であった。幼稚園の頃は柔道を習っていたが、小学校2年生時に開催されたモントリオール五輪で見た日本の男子体操チームの活躍を見て「仮面ライダーみたいでかっこいい」と感動し、テレビを食い入るように観ていたところ、テロップで紹介された選手名の後に日本体育大学と書かれてあるのを見て「この大学に行けばあんな風になれる」と思い、その翌日には「日体大に行く」と学校の先生に宣言していた。
西川 哲(にしかわ てつ、1968年5月2日 - )は日本の… 西川 哲(にしかわ てつ、1968年5月2日 - )は日本のプロゴルファー。東京都出身。血液型A型。師匠は青木功。 12歳からゴルフを始める。日本体育大学荏原高等学校卒業。同級生に佐藤弘道がいる。 高校卒業後、ゴルフ場で研修生をしながら1年でプロテストに合格。 1991年のマルマンオープンで尾崎健夫とのプレーオフを制し初優勝を飾ると、同年の日本オープンでは首位と1打差の3位タイに食い込む活躍を見せる。 1992年にはブリヂストンオープンで倉本昌弘とのプレーオフに敗れるが、1993年にはデサントクラシックで2勝目を挙げる。1995年の日経カップ 中村寅吉メモリアルで自己ベストの72H最少スコア269(19アンダー)を記録し3勝目を挙げる。
伊澤 利光(いざわ としみつ、1968年3月2日 - )は、… 伊澤 利光(いざわ としみつ、1968年3月2日 - )は、神奈川県鎌倉市出身のプロゴルファー。日本体育大学荏原高等学校、日本体育大学体育学部体育学科3年次中退。 身長169cm。2005年までの登録名は「伊沢利光」だったが、翌年から「伊澤利光」に変更。現在は妻の実家がある福岡県内に在住している。 ゴルフインストラクターである父親の手ほどきを受けて、8歳からゴルフを始める。日体荏原高校卒業後は日本体育大学に進学するが、日本学生ゴルフ選手権競技大会優勝を機に3年で中退し、1989年にプロテストに合格。直後にアメリカへ渡り、PGAツアーの下位ツアーである「ナイキ・ツアー」(当時)に4年間挑戦後1993年に日本へ帰国、尾崎将司に師事し始める。
多胡 肇(たご はじめ、1967年1月28日 - )は、日本… 多胡 肇(たご はじめ、1967年1月28日 - )は、日本のスポーツ指導者。東京都出身。身長170cm、体重64kg。血液型B型。 1985年に日体荏原高校を卒業。1989年に日本体育大学体育学部を卒業。日体大在学当時は、体育教師を目指していたことから体操を専攻した。また、団体徒手(新体操)の日本代表選手として国際大会へ出場したこともある。大学卒業と同年に西武鉄道へ入社し、ビッグボックス西武アスレティッククラブにインストラクターとして勤務。 1994年に西武グループ傘下のプロ野球球団である西武ライオンズへ出向し、2軍トレーニングコーチに就任、1995年度シーズンから1997年度シーズンにかけて務めた(選手経験はないが、右投右打として登録。
小川 直樹(おがわ なおき、1965年10月28日 - )は… 小川 直樹(おがわ なおき、1965年10月28日 - )は、日本の元男子バスケットボール選手。神奈川県川崎市出身。現役時代は日本鋼管に所属。Bリーグ、横浜ビー・コルセアーズ初代ゼネラルマネージャー。 日体大荏原高校、日本体育大学卒業後、日本鋼管に入社。全日本にも選ばれる。 1998年、現役引退。実業団チームで指導を始める。 1999年、知的障害者バスケットボールの日本FIDバスケットボール連盟理事に就任。シドニーパラリンピックなどの国際大会でヘッドコーチとして指揮を執った。連盟理事長も務めた。 2011年、bjリーグに新規参入する横浜ビー・コルセアーズの初代GMに就任。 2017年オフ、GM退任。
丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、… 丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 調布リトルに在籍し、同期には武田一浩らがいた。 1981年に日体荏原高に入学。2年次の1982年は、1学年先輩の今野隆裕投手(後にプロでも同僚)を擁しながらも夏の東東京大会の準々決勝で城西高に7-1のコールド勝ち寸前から7-10へのまさかの逆転負けを喫しベスト8止まり。3年次の1983年は、夏の東東京大会準々決勝で1学年下の山口重幸や森範行を擁する岩倉高に逆転負けを喫し、在学中に甲子園出場は果たせなかった。 高校卒業後は東海大学に進学して野球部でプレーすることも決まっていたが、社会人野球に方向転換。
大後 栄治(だいご えいじ、1964年11月21日 - )は… 大後 栄治(だいご えいじ、1964年11月21日 - )は、日本の陸上競技指導者、神奈川大学人間科学部教授。陸上競技部監督、前駅伝部監督、現駅伝部部長兼総監督、元関東学生陸上競技連盟駅伝対策委員長。コーチ、監督として箱根駅伝総合優勝2回(往路優勝3回、復路優勝1回)、全日本大学駅伝優勝3回の実績を持つ。 東京都出身。日本体育大学荏原高等学校から日本体育大学に入学した大後も、箱根駅伝出場を夢見ていた選手だった。しかし故障もあって満足に走れず、他の多くの選手と共に埋もれていた。そんな中2年生になって上級生の助言もあってマネージャーに転向。大後と入れ替わりに卒業した谷口浩美、大塚正美の時代からチームは監督、コーチが不在という状況が続いていた。
今野 隆裕(こんの たかひろ、1964年7月11日 - )は… 今野 隆裕(こんの たかひろ、1964年7月11日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(投手)。 大田区立大森第八中学校から1980年に日体荏原高に進学する。高校時代は好守巧打の外野手兼投手として、クリーンアップトリオの一角を担った。高校の1学年後輩に丹波健二がいた(プロ入り後もロッテで再びチームメイトとなった)。 高校卒業後は、社会人野球の強豪である西濃運輸に入社し、本格的に投手へ転向する。1988年の都市対抗野球にはNTT東海の補強選手として出場し、同じく補強の古田敦也とバッテリーを組んで準々決勝に先発するなどチームの準優勝に貢献した。 1988年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから2位指名を受け入団。
下村 青(しもむら あお、1964年1月19日 - 2024… 下村 青(しもむら あお、1964年1月19日 - 2024年8月13日)は、日本の俳優。青森県三戸町生まれ。血液型はB型。本名および旧芸名は下村 尊則(しもむら たかのり)。 小学生時代、三戸小学校ブラスバンド部でトランペットからテナーサックスへ移行。6年生のとき東京体育館の「全日本マーチングバンド・バトントワリング・全国大会にて小学生部門で優秀な成績を修め、翌年デンマーク・コペンハーゲンの「世界青少年音楽祭」で銀賞を受賞。この時に見たアメリカのマーチングバンドのドラムメジャー(指揮者)の毛皮の帽子と、くるくる回しながら高く投げあげられた指揮杖の格好良さに圧倒され、帰国後、ドラムメジャーに転身。
久保木 博之(くぼき ひろゆき、1956年9月10日 - )… 久保木 博之(くぼき ひろゆき、1956年9月10日 - )は、ミュージシャン、ラッツ&スターのメンバー。トップテナーボーカル担当。 東京都大田区立大森第八中学校を経て1975年、日体荏原高等学校(現・日本体育大学荏原高等学校)卒業。メンバーのうち、鈴木雅之と佐藤善雄は中学時代の同級生、桑野信義は中学時代の1年後輩である。 卒業後、ガソリンスタンドに就職する。 1980年2月25日、鈴木雅之や田代まさしらと共にシャネルズのメンバーとしてデビュー。 1983年4月1日、グループ名をラッツ&スターに改名。 1986年頃、ラッツ&スター活動休止。 1996年4月22日、ラッツ&スター再集結。この年のNHK紅白歌合戦に「夢で逢えたら」で初出場する。
桝川 譲治(ますかわ じょうじ、1954年[[9月29日[]… 桝川 譲治(ますかわ じょうじ、1954年[[9月29日[]] - ) は日本の俳優、演出家。東京都出身。(有)ジョーズカンパニーを主宰している。日本体育大学荏原高等学校卒業。 高校在学中、スター誕生!に出場。第3回決勝大会に進むも、スカウトには至らなかった。同回出場には、鷲と鷹、最上由紀子がいた。 1973年、高校3年生の時にNHKのヤング101の第四期生となりNHK総合テレビジョンの音楽番組『ステージ101』にレギュラー出演した。 1980年にオーデイションに合格してロック・ミュージカル『ヘアー』にて主演バーガー役でデビューする。その後は舞台と歌番組を中心に活動。 1983年に劇団四季に入団。
川口 啓太(かわぐち けいた、1954年7月15日 - )は… 川口 啓太(かわぐち けいた、1954年7月15日 - )は、元アマチュア野球選手(内野手)、野球指導者。 初めは日大一高に通学していたが、日体荏原高に転校する。高校卒業後に明治大学に進学して硬式野球部に所属。東京六大学野球リーグではエースの丸山清光や名取和彦の好投もあり、1975年に春秋季連続優勝を飾る。同年春季リーグではベストナイン(三塁手)に選出された。直後の全日本大学野球選手権ではこの大会初となる満塁本塁打も記録するが、準決勝で中畑清を打の主軸とする駒大に敗退する。しかし同年の明治神宮野球大会は、決勝で因縁の駒大を降し優勝を飾った。 その後は江戸川学園取手高校の野球部部長、沼津学園高校の監督を務めた。
小宮 健五(こみや けんご、1949年2月26日 - )は日… 小宮 健五(こみや けんご、1949年2月26日 - )は日本の俳優、歌手。旧芸名は小宮守、小宮 健吾。 東京都出身。身長177cm、血液型はA型。 日本体育大学荏原高等学校卒業後、劇団青俳に4年在籍。後に坂本長利、椎谷建治らと劇団椿を設立。しかし劇団椿では脚本難で作品が集まらずほとんど公演が行えなかったため、その間は劇団四季の公演に参加、『ジーザス・クライスト・スーパースター』『アプローズ』『グリース』『屋根の上のバイオリン弾き』などの舞台に出演。この他、東宝系のミュージカルにもしばしば出演していた。 1982年のテレビドラマ『女かじき特急便』(日本テレビ)のオーディションにて、約250人の中から選出されて初レギュラー出演を果たす。
萩原 康弘(はぎわら やすひろ、1947年11月17日 - … 萩原 康弘(はぎわら やすひろ、1947年11月17日 - )は、神奈川県横浜市神奈川区出身の元プロ野球選手である。ポジションは外野手。 荏原高校(現・日体大荏原高校)では1965年、3年次に一塁手として春の選抜に出場する。荏原高校は甲子園初出場であった。2回戦(初戦)で福島久晃、長井繁夫らのいたPL学園に敗退。同年夏の甲子園都予選では準決勝で日大二高に敗れ、甲子園出場を逸した。高校同期に中堅手で後にプロで同僚となる原田治明がいる。 卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは一塁手、左翼手として活躍。1967年の春季リーグではエース宮本幸信の好投もあり優勝。直後の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で藤原真投手を擁する慶大を破り選手権初優勝を飾る。
原田 治明(はらだ はるあき、1947年7月28日 - )は… 原田 治明(はらだ はるあき、1947年7月28日 - )は、東京都目黒区出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。1973年〜1975年までの登録名は原田 俊治(はらだ としはる)。 父は大相撲武隈部屋の十両力士であった郷錦廣次である。 荏原高等学校では1965年、中堅手として、後に巨人で同僚となる萩原康弘と共に第37回選抜高等学校野球大会に出場。高校初の甲子園出場という栄誉を担う。2回戦(初戦)で、後にプロ入りする福嶋久晃、得津高宏、加藤秀司らがいた大阪府のPL学園と対戦し、4-2で敗れた。同年夏の甲子園都予選では準決勝で日大二高に敗れ、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は駒澤大学に進学するが腰の怪我のため野球部を退部。
小林 毅二(こばやし たけじ、1946年8月20日 - )は… 小林 毅二(こばやし たけじ、1946年8月20日 - )は、日本の元プロ野球審判員。前セントラル・リーグ審判部長、元審判部指導員。審判員袖番号は13(1988年初採用からだが、セ・リーグ審判は指導員に転じても袖番号を返上しないという通例があるので指導員となった際も付けていた)。2010年限りで指導員からも引退。東京都品川区出身。 荏原高校から日本大学卒業後、丸井勤務のかたわら東京都高野連および首都大学リーグ審判を経て、1972年セントラル・リーグ審判部入局。1997年より副部長、2000年から審判部長を務め、2003年12月に退任。2005年よりプロ野球マスターズリーグの審判員を務める。現在では、資格回復をして、東京都高野連および首都大学リーグの審判員として活動している。
小林 富士夫(こばやし ふじお、1944年7月15日 - )… 小林 富士夫(こばやし ふじお、1944年7月15日 - )は、神奈川県出身のプロゴルファー。 医療法人光洋会所属 。 日体荏原高校では丸山茂樹・伊沢利光の先輩となるが、小林は野球部の外野手で甲子園を目指し、東京都予選の決勝進出が最高の成績であった。 卒業後は横浜市中央卸売市場本場の仲買人、サラリーマン、トラック運転手などの職を経て、21歳で神奈川県のゴルフ場の管理課職員になったのが、プロを目指すきっかけになった。22歳からゴルフの練習を始め、1970年に26歳でプロテストに合格。 プロ入り当初から手首の腱鞘炎が持病のようになっていたが、地味だがステディなゴルフを身上に活躍。 1975年の関東オープンでは最終日に青木功が6番で10mもの大フックラインを放り込み、これでエンジンがかかったのか、そこから数えて4連続バーディを獲って快進撃をすると、小林も7番でバーディを獲った後の、左へ直角に曲がる8番ロングホールで2オン1パットのイーグル。
宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2… 宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2025年5月20日)は、東京都目黒区出身のプロ野球選手(捕手)・解説者。 荏原高校では1958年に全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治(駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。 大学卒業後の1963年に読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。
幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995… 幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995年6月9日)は、東京都品川区出身のプロ野球選手(投手)。 荏原高校時代にカーブの使い手として注目され、3年夏は都大会ベスト8。 慶応義塾大学へ進学する予定だったが家庭の事情もあって断念し、1957年に大洋ホエールズに入団すると、2年目の1959年には4完封で7勝(防御率2.86)を挙げ先発陣の一角として名乗りを挙げる。 翌1960年には、秋山登のアクシデントもあり開幕投手に抜擢されるが、3-4と惜敗。そのまま波に乗れなかったのか2勝にとどまる。 1962年の春キャンプで頭部に打球を受け骨折。これが原因で同年2試合で1イニング投げたのみで引退した。
マティ鈴木(マティすずき、1938年1月25日 - )は、日… マティ鈴木(マティすずき、1938年1月25日 - )は、日本の元プロレスラー。実業家。本名:鈴木 勝義(すずき かつとし)。 現在はペンドルトン・ウーレン・ミルズ社極東販売部門ディレクター。 1938年1月25日生まれ。日本プロレス時代のプロフィールでは1939年生とされていた。神奈川県の出身で東京都世田谷区育ち。日本体育大学荏原高等学校出身で、家業の都合で入学が二年ほど遅れた。高校時代は野球部で捕手を務めていた。高校の1年先輩で野球部のエースだったのがヒロ・マツダ(小島泰弘)であった。 高校時代から東京都中央区日本橋浜町にあった力道山道場でボディビルをやった後、日本プロレスに入門。1959年5月1日、ミツ・ヒライ(平井光明)戦(後楽園ジム)でデビュー。
ヒロ・マツダ(Hiro Matsuda、1937年7月22日… ヒロ・マツダ(Hiro Matsuda、1937年7月22日 - 1999年11月27日)は、日本のプロレスラー。本名:小島 泰弘(こじま やすひろ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。 日本プロレスを経てフリーランサーとなり、アメリカ合衆国で大きな成功を収めた日本人レスラーの一人である。正統派レスリングのスタイルを押し通し、主にベビーフェイスのポジションで活躍、アメリカにおける「日本人レスラー=ヒール」というイメージを塗り替えた人物とされる。ブッカーやトレーナーとしても活動し、ハルク・ホーガンをはじめ数々のトップレスラーを指導した。 荏原高等学校野球部でエースとして活躍し、卒業後の1957年に日本プロレスに入団するが、1960年に退団。
浜田 義雄(はまだ よしお、1926年11月25日 - 20… 浜田 義雄(はまだ よしお、1926年11月25日 - 2012年3月27日)は、東京都品川区出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。 孫は声優の浜田洋平。 1948年に関口 義雄の登録名で急映フライヤーズに入団。翌年に名前を改名し、この年にレギュラーとして活躍。 1951年にオールスターゲームに出場している。また1955年10月5日の対毎日オリオンズ戦(後楽園球場)から1956年5月20日の阪急ブレーブス戦(駒澤野球場)まで196打席連続無三振を記録。これは当時の日本記録であった。 1958年に現役を引退、翌年より1969年まで岩本義行、水原茂、大下弘、松木謙治郎の代々の東映フライヤーズ監督の下でコーチを務めた。
渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021… 渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021年2月25日)は、東京府出身のプロ野球選手(内野手)。 荏原中学校から1944年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。 2021年2月25日午前6時5分、誤嚥性肺炎のため静岡県沼津市の病院で死去。97歳没。
戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 198… 戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 1986年4月17日)は、東京都出身のプロ野球選手。 荏原中学校から1943年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。翌年退団。
大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975… 大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975年2月7日)は、東京都出身のプロ野球選手、審判員、俳優。のち婿入りし桐林と改姓したが、球界では大貫姓を使い続けた。 荏原中学校を中退し、1923年に芝浦協会へ入団。当時は山本栄一郎がいたため控え投手だったが一度チームが解散し、その後宝塚運動協会として再結成した際には山本が肩の故障で退団したこともあってエースとなり投打の中心選手として活躍した。 宝塚運動協会解散後は宝塚ファミリーランドの経理係を務めていたが、まもなく退職し、満州に渡る。満州時代の詳しい経歴は不明だが、全奉天や大連実業、奉天日満実業などでプレーしていたことが確認されており、「各地のチームの助っ人をしていたのでは」と佐藤光房は推測している。
横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - … 横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - 1995年11月28日)は、プロ野球選手・監督。後年には国民野球連盟理事長を経て、パシフィック・リーグの審判部長を務めた。妻は元宝塚歌劇団の花野春子。 東京セネタースでプレーした横沢四郎・七郎は実弟(七郎は戦後セネタースでもプレーした)。 1904年12月16日に当時日本の領土であった台湾で生まれ、東京府東京市(現:東京都特別区)で育つ。旧制荏原中学校時代は遊撃手、旧制明治大学時代は二塁手。大学卒業後、社会人クラブチーム・東京倶楽部の内野手としてプレーし、都市対抗野球4度の優勝に貢献。 1936年にプロ野球球団の東京セネタースが設立されると初代の監督として招聘され、1937年秋季リーグ戦では選手としても1試合に出場したが、同年秋季途中で監督を辞任。
三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年… 三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名熊谷 了二(くまがい りょうじ)。優秀な助監督から早期に監督に昇進、佳作を生み出し、牧野省三亡きあとのマキノ・プロダクションを支えた。 1904年(明治37年)8月25日、東京都に生まれる。1919年(大正8年)3月、旧制荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)4年修了、1923年(大正12年)7月、法政大学本科を1年次で中退し、関東大震災後の1924年(大正13年)、京都の日活関西撮影所現代劇部の監督部に入社した。 三枝源次郎に師事、助監督をつとめていたが、1928年(昭和3年)4月で日活を退社、同年5月に南光明、根岸東一郎とともにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。