原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月3… 原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月30日 - 1990年(平成2年)2月13日)は、昭和時代の政治家。佐賀県鳥栖市長。鳥栖市名誉市民。 佐賀県三養基郡鳥栖町(現鳥栖市)出身。1936年(昭和11年)明治大学専門部政治経済学科を卒業する。鳥栖町商工課長、1950年(昭和25年)鳥栖町収入役、1965年(昭和40年)鳥栖市助役を経て、1970年(昭和45年)1月、鳥栖市長に就任した。1973年(昭和48年)「みどりの産業都市」を理想像とした鳥栖市総合計画および1981年(昭和56年)「みどりと若さあふれ心ゆたかな鳥栖をめざして」を基本理念とした第2次鳥栖市総合計画を策定し、市政に尽くした。
一の宮 あつ子(いちのみや あつこ、1913年12月29日 … 一の宮 あつ子(いちのみや あつこ、1913年12月29日 - 1991年2月16日)は、日本の女優。本名は吉田 あつ。旧芸名に一の宮 敦子。 1913年(大正2年)12月29日(月曜日)、東京府東京市神田区旅籠町(現在の東京都千代田区外神田)に、父・勇と母・たまの2人姉妹の妹として生まれる。生家は江戸時代から太々餅を製造販売していた甘味商だった。 幼時に本郷区湯島に移り、誠之小学校から三輪田高等女学校(現在の三輪田学園高等学校)へ進み、1930年(昭和5年)に卒業。小学校時代から陸上競技をはじめ、女学校時代には人見絹枝や加賀一郎のコーチを受け、全国大会にも出場した。 1932年(昭和7年)、鈴木傳明らの不二映画社の映画に、加賀一郎の弟が同社の経理・宣伝を担当していた縁で吹き替え走者で出演し、これをきっかけに不二映画社へ女優として入社する。
田中 照三(たなか てるぞう、本名:田中輝夫、1913年12… 田中 照三(たなか てるぞう、本名:田中輝夫、1913年12月26日 - 2006年9月7日)は、日本の舞台美術家。弟は第一回「安井賞」作家・洋画家の田中岑。
佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1… 佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1987年10月1日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家である。 第二次世界大戦後の新東宝、東宝、東京映画で活動した。『われ一粒の麦なれど』、「駅前シリーズ」を手がけ、日本映画製作者協会(現在の日本映画テレビプロデューサー協会)の第4代理事長を歴任した。脚本家としてのペンネームは椿 澄夫(つばき すみお)、佐藤 信一郎(-しんいちろう)とも名乗った。 1913年(大正2年)12月25日、東京市(現在の東京都)に生まれる。 早稲田大学を卒業後、東宝の前身の東宝映画に入社、戦後、新東宝の設立に参加した。1949年(昭和24年)、渡辺邦男監督の「渡辺プロダクション」と新東宝との共同製作で、同監督の『異国の丘』を同監督とともにプロデュースし、「製作」として名を連ねる。
横山 隆志(よこやま たかし、1913年(大正2年)12月2… 横山 隆志(よこやま たかし、1913年(大正2年)12月24日 - 1945年(昭和20年)4月14日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック800メートルリレーで金メダルを獲得した選手である。 1913年、高知県高知市出身。1931年に高知市立高知商業学校(現・高知市立高知商業高等学校)を卒業し、早稲田大学商学部に進学。 1931年8月、日本で開催された日米対抗水上競技大会では800m自由形で10分25秒2のタイムで牧野正蔵らを抑えて優勝。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選出され、大会本番では400メートル自由形では4位入賞を果たし、男子800メートルリレーで宮崎康二、遊佐正憲、豊田久吉と共に金メダルを獲得した。
吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - … 吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - 1990年11月13日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長、会長を務めた。 福岡県築上郡吉富町出身。旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に西日本鉄道の前身である九州電気軌道に入社した。 経理部長、取締役、常務、専務を経て、1970年から社長に就任した。社長在任中は、1973年に九州で初めて高速バス(福岡~熊本間)を運行する一方で、1975年に路面電車の福岡市内線の主な路線を廃止し(全廃は1979年)、1972年に西鉄ライオンズを太平洋クラブに売却し、経営の合理化を進めた。 1981年から福岡商工会議所会頭を務め、国際交流にも力を入れた。
黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913… 黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日)は、大日本帝国海軍少佐、戦闘機操縦士、政治家。 群馬県上野村村長を10期連続40年務めた。日本航空123便墜落事故の事故処理に尽力したことで知られる。また「御巣鷹の尾根」の命名者でもある。称号は上野村名誉村民。正五位、旭日重光章。 1913年(大正2年)12月23日、群馬県多野郡上野村の酒造業を営む家に生まれた。父は後に上野村村長となっている。群馬県立富岡中学校を卒業。 1932年(昭和7年)4月に海軍兵学校に第63期生として入隊した。1936年(昭和11年)、兵学校を卒業し、アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た。
金 仁湜(キム・インシク、朝鮮語: 김인식、1913年12月… 金 仁湜(キム・インシク、朝鮮語: 김인식、1913年12月22日 - 2008年2月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は金海金氏。号は海石(ヘソク、해석)。 日本統治時代の黄海道海州(現・黄海南道海州市)出身。1929年に光州学生運動に参加したため、海州高校から退学し中国で高校課程を終えた。早稲田大学法学部卒業後は東亜日報海州支局長、製材業・製薬業経営を経て、解放後に西北青年会黄海道委員長、大同青年団黄海道団長・総本部西北事務処長を歴任した。1948年の初代総選挙で当選した後、制憲国会で政府内親日派粛清に関する建議特別調査委員会委員長、国家保安法代表発議者を務めた。
神田 秀夫(かんだ ひでお、1913年12月20日 - 19… 神田 秀夫(かんだ ひでお、1913年12月20日 - 1993年9月18日)は、日本の国文学者、俳句評論家。古代から近世の国文学を研究領域とした。戦後、国会図書館司書、共立女子大学教授、成蹊大学教授、武蔵大学教授をつとめた。 1913年、東京府荏原郡入新井村山王(現・東京都大田区山王)生まれ。1936年、東京帝国大学文学部国文科を卒業。同大学院に進むも、応召により1937年に大学院を中退。 復員後は目黒書店に入社し、総合誌『俳句研究』の編集に携わりながら俳句評論を執筆。昭和22年から昭和30年前半にかけて評論を執筆しており、その際に「中世と俳句」から「イロニイ叙説」にいたるまでの一連の俳句イロニー説を出している。
時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 200… 時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 2001年9月30日)は日本の動物学者。京都大学名誉教授。 1913年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、1936年に京都帝国大学理学部動物学科を卒業した。 卒業後は母校である同大学の理学部助手に着任。1946年、京都大学に『日本動物分類』を提出して理学博士号を取得。農学部助教授、農学部教授、理学部附属瀬戸臨海実験所助教授を経て、同実験所教授に昇進。1975年から1977年には同実験所の所長を務めた。1977年、京都大学を停年退官し、京都大学名誉教授となった。 私人としてはピアノ演奏の技術に長けていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
井上 清(いのうえ きよし、1913年12月19日 - 20… 井上 清(いのうえ きよし、1913年12月19日 - 2001年11月23日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。日本史専攻。明治維新や軍国主義、尖閣諸島、元号、部落問題に関する著作がある。 高知県出身。旧制高知高等学校を経て、1936年東京帝国大学文学部国史学科卒業。羽仁五郎の指導を受けた。戦時中は文部省の維新史や帝室学士院史の編集に嘱託として携わる。 戦後は在野で、歴史学研究会などで講座派マルクス主義の立場からの日本近代史研究の第一人者として活躍、『天皇制の歴史』で天皇制を批判した。貝塚茂樹の仲介で京都大学人文科学研究所に勤務。1954年に助教授、1961年に教授、1977年に退職。 部落解放運動と部落問題の研究に従事した。
髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月1… 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月18日 - 2000年〈平成12年〉10月22日)は、日本の作曲家、指揮者。合唱曲を中心に作曲を行ったほか、自作を中心に指揮者としても活躍した。日本のカトリック教会で歌われる典礼聖歌を作曲したことでも知られる。 名字は「高田」ではなく「髙田」(いわゆるはしご髙)が正式な表記である。 愛知県名古屋市に生まれる。愛知県第一中学校(現:愛知県立旭丘高等学校)を経て、武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)師範科で呉泰次郎に和声法を師事する。次いで東京音楽学校(現:東京藝術大学)の本科作曲部を1939年に卒業し、さらに同校研究科作曲部、同校聴講科指揮部で学んだ。
髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年12月18日 - 2… 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年12月18日 - 2000年10月22日)は、日本の作曲家。自作を中心に指揮者としても活躍した。
土居 寛之(どい ひろゆき、1913年12月17日 - 19… 土居 寛之(どい ひろゆき、1913年12月17日 - 1990年8月6日)は、日本のフランス文学者。 大分県杵築出身、東京生まれ。1939年東京帝国大学仏文科卒。1944年外務省嘱託、1950年埼玉大学助教授、1963年東京大学教養学部教授、1967年東洋大学教授、1970年福岡大学教授、1985年退任。 サント=ブーヴ、アミエルなどを研究し、東大仏文科で立花隆にアミエルを教え、立花が「四十近くまで童貞なんてことがあるもんでしょうか」と問うと、「そりゃ、ありますよ」と答えたという。 父は杵築町長を務めた土居寛申(どい ひろみ、1882 - 1965)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - … 山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - 1950年6月25日)は日本画家、本名は山口 肇。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)の旧家に生まれる。幼少時から病弱であったが、日本画を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に学ぶ。1928年に上京し、日本美術学校で日本画を学ぶが一年余で中途退学する、その後は中村岳陵の弟子となり、蒼野社画塾に入塾、「蒼輪」の号を授かる。第17回院展に「草」で初入選し、以後は「菊」「果実」などで入選を重ね、1935年に院友に推挙された。1945年に帰郷し、農業に従事しながら、同志と「銀嶺会」を結成し、全信州美術展、長野県展などに出品したが、心臓麻痺により37歳で急逝した。
宮田 隆(みやた たかし、1913年12月16日 - 198… 宮田 隆(みやた たかし、1913年12月16日 - 1982年7月8日)は、島根県隠岐郡海士町出身の作詞家。放送劇やコント、随筆、シナリオ等も執筆。 1913年、隠岐諸島で生まれる。父は小学校長。島根師範学校(現在の島根大学)に入学するが肺結核を病み中退。完治した後、島根県立商船水産学校(現在の島根県立隠岐水産高等学校)製造科に編入学した。商船水産学校在学中に取材のために隠岐を訪れた西條八十を父が案内したことから交流が生まれ、西條が主宰する詩謡雑誌「蝋人形」に投稿するようになる。1932年、玉造温泉の新民謡公募に応募した「玉造小唄」が一等入選し、本格的に作詞家としての活動を開始。商船水産学校を1933年3月に卒業した後は、兵庫県庁に勤めた。
三代目 市川 翠扇(いちかわ すいせん、1913年(大正2年… 三代目 市川 翠扇(いちかわ すいせん、1913年(大正2年)12月16日 - 1978年(昭和53年)9月27日)は、昭和時代に活躍した新派の女優、舞踊家。歌舞伎舞踊市川流三世家元。本名は堀越 喜久榮(ほりこし きくえ)。 東京都東京市京橋区築地の生まれ。父は歌舞伎役者の五代目市川新之助、母は九代目市川團十郎の次女の二代目市川旭梅。二代目市川翠扇は伯母にあたる。千代田高等女学校(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)卒業。 1929年(昭和4年)6月歌舞伎座『戻り駕』の禿で市川紅梅(いちかわ こうばい)を名乗って初舞台。翌年日本俳優学校の1期生となる。1931年(昭和6年)11月より新派に参加。
伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月1… 伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月15日 - 1994年〈平成6年〉5月20日)は、日本の政治家、農林官僚。 衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)、内閣総理大臣臨時代理、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任した。 1913年、福島県若松市(現・会津若松市)に生まれる。祖父の伊東健輔は会津藩士、父の伊東秀三郎は旧制会津中学校(現・福島県立会津高等学校)の一回生で同校教諭となった。 旧制会津中学校、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省する。農務局嘱託。その後、間もなく興亜院に出向する。
武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 199… 武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 1992年7月29日)は日本の民俗学者。香川県出身。また、多度津町長も務めた。 1913年(大正2年)、香川県仲多度郡多度津町にて武田亮太郎、ハナの次男に生まれる。実家は、江戸末期からの北前船回船問屋を起源とする事業家。当時は県内の電力、金融等、社会資本関連企業の経営に広く携わっていた。 旧制香川県立多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)5年の時、柳田国男の『石神問答』を読み民俗学を志す。 1931年(昭和6年)、中学を卒業し、慶應義塾大学に入学。予科3年の時、初めて採集した昔話が関敬吾の編集する『昔話研究』第二巻に「祖谷 美馬郡昔話」として掲載され、関の紹介で柳田を自宅に訪ねる。
高松 俊夫(たかまつ としお、1913年 <大正2年> 12… 高松 俊夫(たかまつ としお、1913年 <大正2年> 12月14日 - 2004年 <平成16年> 4月28日)は、日本の経営者。不二越社長を務めた。 静岡県出身。1934年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1967年11月に監事に就任し、1969年7月に不二越副社長に就任し、1972年1月には社長に昇格。1979年5月に会長を経て、1985年2月から相談役を務めた。 1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年4月28日心不全のために死去。90歳没。
河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1… 河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1998年8月12日)は、日本の俳優、声優である。本名は河村 弘仁(読み同じ)。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)出身。府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)卒業。創作座、P.C.L映画製作所、文学座、東宝、森の会、プレーヤーズセンター、東京俳優生活協同組合に所属していた。 3人兄弟の次男で、兄は医者の金田義人、妹は女優の河村久子。 中学校卒業後、劇団プレイボーイズを経て、創作座に入団し『デット・エンド』『大地』などに出演する。 1936年、P.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『彦六大いに笑ふ』で映画デビュー。
天田 勇(あまだ いさむ、1913年 <大正2年> 12月1… 天田 勇(あまだ いさむ、1913年 <大正2年> 12月13日 - 1997年 <平成9年> 1月20日)は、日本の経営者。アマダの創業者。位階は正五位。 東京都出身。1934年に早稲田高等工学校を卒業。 1946年に個人創業し、1953年には天田製作所(のちのアマダ)社長に就任。1983年11月には会長に就任。 1975年10月に紫綬褒章を受章し、1984年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年1月20日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
奈良本 辰也(ならもと たつや、1913年12月11日 - … 奈良本 辰也(ならもと たつや、1913年12月11日 - 2001年3月22日)は、日本の歴史学者。立命館大学教授、部落問題研究所所長などを歴任。日本中世史、幕末史、特に郷里でもある長州藩に関係した著作多数。 1913年、山口県大島郡小松志佐村(後に大島町を経て現・周防大島町)で生まれた。旧制岩国中学校(現:山口県立岩国高等学校)を経て、1935年3月旧制松山高等学校文科甲類を卒業。 京都帝国大学文学部国史学科に進学し、西田直二郎に師事した。1938年、同大学を卒業。卒業論文は『近世に於ける市民的世界観への通路-主として思想史に於ける商業資本の問題-』であった。 1938年、兵庫県立豊岡中学校(現:兵庫県立豊岡高等学校)教諭となった。
園田 直(そのだ すなお、1913年〈大正2年〉12月11日… 園田 直(そのだ すなお、1913年〈大正2年〉12月11日 - 1984年〈昭和59年〉4月2日)は、日本の政治家、陸軍軍人。位階は正三位。 挺進第1連隊第2中隊長等を務める。階級は陸軍大尉。戦後一町田村助役・同村長を経て衆議院議員に当選。内閣官房長官、外務大臣、厚生大臣等を歴任。熊本県天草島出身。弟の幹男は陸軍少佐。後妻・よし子との間に生まれた長男の博之は内閣官房副長官・自由民主党衆議院議員を務めた。また後々妻・天光光との間に生まれた次男の直飛人は自身の議員秘書にしている。 町長・熊本県議会議員を務めた園田二三四の長男として生まれ、天草中学校(現:熊本県立天草高等学校)を卒業し大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)に進学するが徴兵される。
佐藤 志満(さとう しま、1913年(大正2年)12月11日… 佐藤 志満(さとう しま、1913年(大正2年)12月11日 - 2009年(平成21年)7月23日)は、日本の歌人。福岡県出身。夫は佐藤佐太郎。昭和20年代後半の5年間の作品を収めた第一歌集「草の上」では、戦後の貧しい日常生活を抒情豊かに詠じた。歌誌「歩道」の発行に力を注ぎながら生涯にわたり精力的に作歌を続け、晩年には、文芸評論家梶木剛が「志満調」と呼んだ、自宅庭前を中心とする独自の歌風を確立した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大木 実(おおき みのる、1913年(大正2年)12月10日… 大木 実(おおき みのる、1913年(大正2年)12月10日 - 1996年(平成8年)4月17日)は、日本の詩人である。 東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)の生まれ。幼年の頃は実母が病気により死去し、さらに関東大震災により継母および実弟、実妹が犠牲となる等不遇の生活を過ごした。その後は電機学校(現在の東京電機大学)に入学したが、中退しその後は大蔵省土木寮の工員や出版社に勤務し、埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の大宮市役所の職員となる等職を転々とした。 その後は少年時代から北原白秋や西條八十の童謡に親しんだことや学生時代に佐藤春夫や室生犀星といった日本人詩人のみならず、フョードル・ドストエフスキーやシャルル=ルイ・フィリップ等の海外の小説家が執筆した作品に傾倒し詩人としての活動を始める。
堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10… 堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、東京都出身のコメディアン、喜劇俳優である。本名は栗原 正至。 実兄は浪曲師の港家小柳丸(初代)、次男はマルチタレントの堺正章。甥にボンボンブラザースの鏡味繁二郎(本名:栗原重夫)がいる。 東京府東京市本所区太平町1丁目(現:東京都墨田区太平1丁目)の桶製造業の家に8人兄弟の末子の3男として生まれる。芝居好きの母の勧めで尋常小学校を中退し11歳で新派の伊村義雄一座に入る。伊村は師匠の伊井蓉峰と河合武雄から一字ずつもらって芸名とした新派俳優で、20代半ばで一座を立ち上げ、浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍していた。
桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月… 桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。
森下 二次也(もりした ふじや 1913年(大正2年)12月… 森下 二次也(もりした ふじや 1913年(大正2年)12月9日 - 2005年12月29日)は、日本の経済学者。 大阪府に生まれる。富田林中学校を卒業後、大阪商科大学 (旧制)高商部を経て、1937年(昭和12年)、同大市政科を卒業。1958年(昭和33年)大阪市立大学商学部長に就任。退任後、同大名誉教授。その後、大阪学院大学教授を務めた。 2005年12月29日午後0時55分、心不全のため大阪府羽曳野市内の病院で死去、92歳。 主な著作は次の通り。
大島 清(おおしま きよし、1913年12月9日 - 199… 大島 清(おおしま きよし、1913年12月9日 - 1994年10月8日)は、日本の経済学者。筑波大学名誉教授。専攻はマルクス経済学における経済原論、金融論。東京教育大学教授、筑波大学副学長、立正大学・帝京大学教授を歴任。妻は作家の芝木好子。元住所(現在は退去済み)「東京都杉並区高円寺北497」。 1913年、北海道室蘭市の網元の家に生まれる。小樽高等商業学校を経て、東北帝国大学卒業。東北帝大では宇野弘蔵に師事し、卒業後は宇野経済学の立場から経済原論、金融論の研究で成果をあげた。 大島が入学した当時の東北帝国大学は旧制高等学校卒業生以外の枠外学生も入学を許可されており(傍系入学という)、傍系入学者の中に優秀な2人の大島清(もう一人はのちの法政大学教授の大島清)がいて、しばしば間違われた。
三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日… 三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日 - 1983年(昭和58年)4月26日)は、元体操選手。 日本体育大学出身。1936年ベルリンオリンピックに出場した。引退後は、中京大学の教員となった。 この項目は、体操に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:スポーツ/Portal:スポーツ)。
杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1… 杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は、日本の考古学者。 1913年に東京市日本橋区小舟町に生まれた。府立三中(現都立両国高校)の時代に考古学を志すも、家業の和紙問屋を継ぐ。東京考古学会の同人として活躍。1935年東京外国語学校専修科(仏語)を卒業し、1937年上智大学外国語学校独語科卒業。1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学し、1943年首席卒業。同年、卒業論文『原史学序論』を上梓。卒業とともに軍務に服し、1946年の春に復員する。同年4月から文部省嘱託教科書局に勤務し、国定歴史教科書『くにのあゆみ』の編輯などにあたった。1948年から明治大学専門部助教授、翌年に同大学文学部助教授、1953年には文学部教授となる。
岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月… 岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月6日 - 1995年(平成7年)2月24日)は日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校(第63期)卒。最終階級は、海軍で海軍少佐、海自で海将補。 1913年(大正2年)12月6日、熊本県に生まれる。熊本中学を経て1932年(昭和7年)4月、海軍兵学校に第63期生として入校。1936年(昭和11年)3月19日に卒業し海軍少尉候補生としてアメリカ・ニューヨークまでの遠洋航海に出る。終了後、重巡洋艦「足柄」乗組。1937年(昭和12年)4月、海軍少尉任官。同年9月、海軍練習航空隊飛行学生を拝命。同課程終了後、延長教育を受け、以後戦闘機搭乗員としての道を歩む。
今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 20… 今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 2004年12月28日)は、日本の動物学者で、ミズダニ研究の世界的権威。兵庫県出身。 1946年から1971年に国内外で収集されたミズダニ類の標本1,541点が、本人の生前からの希望もあり茨城大学理学部森野浩教授および茨城大学広域水圏科学教育研究センター菊地義昭教授ならびに日本大学大学院生物資源科学研究科安倍弘教授の尽力により、2005年に遺族からミュージアムパーク茨城県自然博物館(館長:菅谷博)へ寄贈された。 標本の中には、28科59属154種10亜種のホロタイプ(正基準標本)が含まれており、学術的に大変貴重なものである。寄贈された標本は、「今村泰二ミズダニ類コレクション」として同博物館で保管されている。
石原 俊輝(いしはら としてる、1913年12月3日 - 1… 石原 俊輝(いしはら としてる、1913年12月3日 - 1993年2月26日)は、日本の経営者。信濃毎日新聞社社長、信越放送社長を務めた。山形県出身。 1939年に早稲田大学法学部独法科を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)入社。1940年に朝日新聞社へ移籍、椎名悦三郎、中山素平に深く食い込むなど経済記者として活躍する。 朝日新聞経済部の同僚だった信濃毎日新聞一族・小坂徳三郎からの要請で、1951年7月に信濃毎日新聞に転じ、1953年に編集局長、1954年1月に取締役に就任し、1960年7月に常務、1973年11月に社長に就任、1992年に新聞制作システム「ニュー・コスモス」の開発・導入が評価され、日本新聞協会賞「経営・業務部門」を受賞した。
嘉門 安雄(かもん やすお、1913年12月1日 - 200… 嘉門 安雄(かもん やすお、1913年12月1日 - 2007年1月5日)は、日本の西洋美術研究者、美術評論家。ブリヂストン美術館館長、東京都現代美術館長、全国美術館会議議長を務めた。 1913年、石川県生まれ。1937年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。西洋美術史を専攻し、児島喜久雄の助手を務めた。 1947年より東京国立博物館で勤務。表慶館で開催されたマチス展、ブラック展、ルオー展などを担当した。1959年に国立西洋美術館が開館したことに伴い、異動。事業課長としてコレクションの収集、各種の展覧会開催に関わった。1964年には、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展のコミッショナーを務めた。
葦葉山 七兵衛(あしばやま しちべえ、1913年12月1日 … 葦葉山 七兵衛(あしばやま しちべえ、1913年12月1日 - 1962年2月28日)は、東京都港区出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は横山 希雄。最高位は東前頭12枚目。身長177cm、体重116kg。得意手は右四つ、寄り。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区元麻布)生まれ。1928年5月場所に初土俵、1943年5月場所に新入幕を果たした。初土俵から十両昇進まで10年、さらに入幕まで5年を掛けた晩成型であった。1945年11月場所限りで引退、年寄・高田川、のち枝川を襲名。木戸主任から師匠に人柄と豊富な知識を買われ、在京理事に昇進した。1962年心臓病で48歳で死去。相撲の取り口は当時としては恵まれた体格を生かした突進型であったが、足を痛めて威力が激減した。
岩上 二郎(いわかみ にろう、1913年(大正2年)11月2… 岩上 二郎(いわかみ にろう、1913年(大正2年)11月29日 - 1989年(平成元年)8月16日)は、日本の政治家。茨城県知事(第4・5・6・7代)、参議院議員(3期、自民党)。茨城高等学校中学校校長。清真学園高等学校・中学校初代理事長。 茨城県那珂郡瓜連町(現那珂市)生まれ。茨城中学校、水戸高等学校から1940年に京都帝国大学法学部を卒業、ブリヂストンに入社したものの、直後に応召し太平洋戦争を戦う。 1946年に復員し、青年文化運動に参加、1947年に瓜連町長となる。1951年に一旦町長の座を退きペパーダイン大学に留学、地方自治や社会福祉を研究し帰国後の1955年に町長に復帰する。 1959年初めての民選・茨城県知事選挙に、自らが地元組合長をしていた農協組織を中心に設立された茨城県興農政治連盟に擁立され、日本社会党と県職員組合の支援を得て立候補。
鈴木 實治郎(すずき じつじろう、1913年 <大正2年> … 鈴木 實治郎(すずき じつじろう、1913年 <大正2年> 11月29日 - 1994年 <平成6年> 4月9日)は、日本の逓信官僚、実業家。旧姓は中西(なかにし)。位階は正四位。 逓信省(後の郵政省→総務省)での勤務を経て、鈴木自動車工業株式会社社長(第3代)、鈴木自動車工業株式会社会長(第2代)などを歴任した。 1913年に生まれ、静岡県の志太郡にて育った。浜松高等工業学校に進学し、1934年に卒業した。卒業後は逓信省(後の郵政省→総務省)に入省し、日本発送電に関する案件などを手掛けた。このころ、実業家の鈴木道雄の三女との縁談が持ち上がった。1940年、道雄の三女と結婚に伴い、逓信省を退官して道雄が経営する鈴木式織機に入社した。
澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月… 澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月28日 - 2007年〈平成19年〉7月20日)は、日本の解剖学者、医師、トンボ研究家。医学博士。広島大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員、日本蜻蛉学会名誉会員、広島虫の会名誉会長。 新潟県新潟市関屋松波町(現 新潟市中央区関屋松波町)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学を卒業。 1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学副手に就任、1942年(昭和17年)に新潟医科大学助手に就任、1944年(昭和19年)に新潟医科大学臨時附属医学専門部助教授に就任、新潟医科大学講師を兼任。
臺 弘(うてな ひろし、1913年11月28日 - 2014… 臺 弘(うてな ひろし、1913年11月28日 - 2014年4月16日)は、日本の医学者・精神科医。東京大学医学部教授、群馬大学医学部教授を歴任。医学博士(東京大学・1952年)。栃木県足尾町生まれ。『台弘』と表記されることもある。 1913年栃木県足尾町生まれ。1937年東京帝国大学医学部医学科卒業。1952年、論文「精神分裂病者腦組織の含水炭素代謝について」で東京大学より医学博士の学位を取得。東京大学病院精神科、松沢病院医員、群馬大学医学部教授、1966年東京大学医学部精神医学教室教授、1974年3月東大を定年退官。山田病院(東京都調布市)を経て坂本病院(埼玉県新座市)勤務。
相良 八重(さがら やえ、1913年11月27日 - 196… 相良 八重(さがら やえ、1913年11月27日 - 1967年4月29日)は、日本の元陸上競技選手である。ロサンゼルスオリンピック日本代表。田中英光の小説「オリンポスの果実」のヒロイン、“熊本秋子”のモデルとして知られる。身長166cm、体重55kg。 千葉県生まれ、高知市土佐市育ち。日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)出身。 女子体専在学中の1932年、第19回日本陸上競技選手権大会の女子走高跳で優勝し、同年のロサンゼルスオリンピックでも女子走高跳に出場した。この種目には6つの国から10人の選手が出場して、予選なしの決勝のみで実施された。結果は10人中の9位(1m46cm)に終わる。
岡本 道雄(おかもと みちお、1913年(大正2年)11月2… 岡本 道雄(おかもと みちお、1913年(大正2年)11月25日 - 2012年(平成24年)7月24日)は、日本の医学者。京都大学名誉教授・総長。位階は従三位。専門は脳神経解剖学。 1913年11月25日京都府舞鶴市生まれ。旧制第三高等学校を経て、1941年京都帝国大学医学部卒業。同大学院特別研究生修了(脳神経解剖学)。1946年(昭和21年)京都大学医学博士。博士論文の題は「腫瘍の発育より観たる淋巴の解剖学」。 その後、三重県立医科大学教授、神戸医科大学教授を経て、1959年(昭和34年)京都大学教授となり、1970年(昭和45年)医学部長、1972年(昭和47年)に再任の後、1974年(昭和49年)に総長に就任した。
竹之内 静雄(たけのうち しずお、1913年11月25日 -… 竹之内 静雄(たけのうち しずお、1913年11月25日 - 1997年12月19日)は、日本の小説家、筑摩書房社長。 静岡県生まれ。旧姓・桑原。1932年第三高等学校に入学、野間宏、富士正晴と、竹内勝太郎に師事して雑誌『三人』を刊行する。大学では吉川幸次郎に師事、1940年京都帝国大学文学部哲学科卒、河出書房に入社する。のち筑摩書房に移り、戦時中は海軍に応召した。1950年「ロッダム号の船長」で芥川賞候補となる。1966年から1972年まで古田晁の後を受けて筑摩書房2代目社長を務めた。
松本 新八郎(まつもと しんぱちろう、1913年11月24日… 松本 新八郎(まつもと しんぱちろう、1913年11月24日 - 2005年12月10日)は、日本の歴史学者、専修大学教授。 愛媛県で生まれる。1931年愛媛県立松山中学校を卒業、1934年に松山高等学校を卒業し、同年、東京帝国大学文学部国史学科に入学。同期入学に、家永三郎、石母田正らがいた。1937年、東京帝国大学を卒業。 1937年から東京帝国大学史料編纂所に勤務する傍ら、1940年からは早稲田実業学校第二本科で講師も勤めた。戦後の1945年、松山経済専門学校(現・松山大学)教授となった(1948年まで)。 1947年4月20日に行われた第1回参議院議員選挙に愛媛県選挙区から立候補するが落選。
三浦 豊彦(みうら とよひこ、1913年11月24日 - 1… 三浦 豊彦(みうら とよひこ、1913年11月24日 - 1997年12月31日)は、日本の労働衛生学者。 台湾生まれ。日本医科大学卒、1948年「産業従業員の履物に関する研究」で医学博士。1940年大原記念労働科学研究所に入り、1971年副所長。温度や騒音などの労働環境を幅ひろく研究、白蝋病の職業病認定に力をそそいだ。1980年大気汚染研究協会賞(斎藤潔賞)受賞。
江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日… 江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日 - 1938年〈昭和13年〉12月2日)は、大正時代から昭和時代前期にかけての女流歌人。 河井酔茗と島本久恵に師事し、貧困の中で多くの歌を詠んだが最期は自殺した。「薄幸の天才歌人」「女啄木」と呼ばれた。ただし作風は啄木とは大きく異なり万葉調であった。 群馬県利根郡川場村大字谷地に、1913年(大正2年)11月23日に父熊吉、母ユワの長女として生まれる。父は博徒で生活能力がなく、兄廣寿は幼時の脳膜炎の後遺症で知的障害があった。母が飲食店を切り盛りして三人の子どもを育てた。川場村尋常高等小学校での学業成績は優秀だったが進学は諦めた。 1930年(昭和5年)2月から沼田の郵便局に勤めるが、6月3日に母が急逝したため帰郷し家族の世話のために家業を継ぐ。
大竹 富江(おおたけ とみえ、1913年〈大正2年〉11月2… 大竹 富江(おおたけ とみえ、1913年〈大正2年〉11月21日 - 2015年〈平成27年〉2月12日)は、日本からブラジルに帰化した美術家。 長男は建築家のルイ・オオタケ、次男はサンパウロ州文化長官を務めたリカルド・オオタケ。 京都府京都市で材木商の子として生まれる。富江は6人兄弟の末子。 京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)中途退学、同志社大学文学部卒業。 1936年、ブラジルに渡り、現地の日本人(兄の友人)と結婚。1951年、日本に一時帰国する。 1952年、絵画の制作を始める。1968年、ブラジル国籍取得。 2015年2月12日、気管支肺炎による敗血症性ショックのため入院先のサンパウロの病院で死去。
西村 貞二(にしむら ていじ、1913年11月20日 - 2… 西村 貞二(にしむら ていじ、1913年11月20日 - 2004年3月15日)は、日本の西洋史学者。東北大学名誉教授。兄はイギリス文学者の西村孝次で、従兄に文芸評論家の小林秀雄がいる。 京都府生まれ。1937年に東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。 東北大学文学部助教授、教授を務める。1977年に定年退官、名誉教授。 ルネサンス期を専門とし、近世・近代ヨーロッパの歴史家でも、伝記研究・訳書を多く出版した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
横山 正松(よこやま しょうまつ、1913年11月19日 -… 横山 正松(よこやま しょうまつ、1913年11月19日 - 1992年8月14日)は、日本の生理学者。医学博士。新潟県北魚沼郡小千谷町(現・小千谷市)出身。旧制新潟医科大学卒業。同大学助手、米子医学専門学校助教授、福島県立医科大学教授を歴任した。この間、結核により数度療養したが、その度に復帰してのロヨラ大学とパリ大学での在外研究にも取り組んだ。