武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、… 武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、日本の経済学者、九州大学名誉教授。 福岡県出身。旧制山口高等学校を経て、1953年九州大学経済学部卒、55年助手。73年「国民経済計算の基礎」で経済学博士。1958年九大助教授、70年教授、86年経済学部長。92年定年退官、名誉教授、九州産業大学教授、兵庫大学教授。近代経済学、国民経済論が専門。
旧制山口高等学校:62人
※有名人ナビに登録されている62人を職業別に数えました。複数の職業を持つ人は、それぞれの職業に数えています。
武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、… 武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、日本の経済学者、九州大学名誉教授。 福岡県出身。旧制山口高等学校を経て、1953年九州大学経済学部卒、55年助手。73年「国民経済計算の基礎」で経済学博士。1958年九大助教授、70年教授、86年経済学部長。92年定年退官、名誉教授、九州産業大学教授、兵庫大学教授。近代経済学、国民経済論が専門。
河野 稠果(こうの しげみ、1930年(昭和5年)10月29… 河野 稠果(こうの しげみ、1930年(昭和5年)10月29日 - )は日本の人口学者、麗澤大学名誉教授。 広島県の生まれ。1949年旧制山口高等学校卒業、1953年山口大学文理学部社会学専攻卒業、1958年、アメリカ・ブラウン大学大学院社会学研究科博士課程修了(Ph.D.in sociology)。同年厚生省人口問題研究所入所。1961年から1963年、インド・ボンベイ国際連合人口研修・研究センター教授として出向。1963年厚生省人口問題研究所厚生技官。1965年、ユーゴスラビア世界人口会議では座長を勤めた。1967年、国際連合本部人口部専門官へ転任。1973年から1978年まで同人口推計課長。
辻 哲夫(つじ てつお、1928年2月24日 - 2012年… 辻 哲夫(つじ てつお、1928年2月24日 - 2012年9月18日)は日本の物理学者、科学史家である。 横浜市生まれ。1944年(旧制)山口高等学校入学、1951年(新制)京都大学理学部に編入、1954年同大学院進学、1956年修士課程修了。1959年東海大学工学部講師、助教授、1967年教授、1993年名誉教授。1973年『日本の科学思想』で毎日出版文化賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田原 陶兵衛(十二代)(たはら とうべえ(じゅうにだい)、1… 田原 陶兵衛(十二代)(たはら とうべえ(じゅうにだい)、1925年(大正14年)6月19日 - 1991年(平成3年)9月27日)は、日本の陶芸家。萩焼の第一人者。 1925年6月19日、山口県長門市に生まれる。1944年、旧制山口高等学校在学中に召集を受けて満州に渡る。1945年、シベリアに抑留され、1948年に復員。復員後は長兄の11代田原陶兵衛に師事。1956年、長兄の急逝により12代陶兵衛を襲名する。 1969年、第16回日本伝統工芸展に「萩茶碗」を初出品。翌年、日本工芸会正会員となり、1981年から1988年まで同会理事を務める。1981年、山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定される。
窪田 隼人(くぼた はやと、1924年9月5日 - 2002… 窪田 隼人(くぼた はやと、1924年9月5日 - 2002年)は、日本の法学者。専門は労働法。立命館大学名誉教授。 山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒、同大学院修了。 大阪市立大学講師、助教授、立命館大学法学部教授、1988年定年、名誉教授、京都学園大学法学部学部長・教授。1998年退職。労働法が専門。
荻野 恒一(おぎの こういち、1921年6月19日 - 19… 荻野 恒一(おぎの こういち、1921年6月19日 - 1991年10月15日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。南山大学文学部教授、金沢大学教育学部教授、慶應義塾大学客員教授を務めた。 1921年、大阪で生まれた。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学医学部医学科に進学。1944年9月に同大学を卒業。 1944年10月、京都帝国大学医学部精神医学教室副手に採用され、実施修練に入った。後に助手、講師昇格。1952年、学位論文『易感性関係妄想の成立機転』で京都大学より医学博士の学位を取得。1953年3月から1955年12月まで、パリ大学医学部精神医学教室にに研究留学。 1956年1月、南山大学文学部教育家助教授に就任、のち教授に昇格。
高村 忠也(たかむら ただなり、1919年6月18日 - 1… 高村 忠也(たかむら ただなり、1919年6月18日 - 1992年9月4日)は、日本の商学者。専門は海運論。神戸大学名誉教授。元日本海運経済学会副会長。 島根県鹿足郡生まれ。1941年山口高等学校文科甲類卒業。1943年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。野村寅三郎ゼミ出身。同年東亜海運入社。 指導教官野村に相談して退社し、1946年に神戸経済大学(現神戸大学)経営学専門部講師嘱託となる。野村が学生課の実質的責任者であったため、1947年には文部教官兼文部事務官に任官し、神戸経済大学学生課主事となった。1949年には野村の推薦で、海技専門学院(現海技大学校)教授に着任。 1951年長崎大学経済学部助手。
玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月1… 玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月16日 - 1997年7月26日)は、大韓民国の教授、実業家、政治家。第6代韓国国会議員。 平安南道順川生まれ、ソウルまたは慶尚南道統営出身。平壌公立中学校、山口高等学校文科、東京帝国大学法律学科卒。株式会社朝鮮ポンプ製作所重役、新興大学校・慶熙大学校法科大学教授、漢陽大学校政経大学講師、国家再建最高会議交逓委員会諮問委員、高等考試委員、民主共和党京畿第13区党委員長・国会対策委員、民主共和党所属の第6代国会議員を務めた。 1997年7月26日、持病によりソウル大病院で死去。享年79。
中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31… 中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の医師。詩人の中原中也は兄で、弟に伊藤拾郎がいる。山口県吉敷郡(現:山口市)出身。 中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。 1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。 1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。 1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。 1946年、中原医院の事務員となる。 1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。 1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。
安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年… 安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年4月25日)は、日本の医師。医学博士。元帝京大学副学長。 山口県長門市の網元の家に生まれる。旧制大津中学校、旧制山口高等学校を首席卒業、1941年東京帝国大学医学部医学科卒。1951年医学博士(東京大学)。論文の題は「プロトロンビンに関する研究」。 海軍軍医大尉として従軍し、その後1946年東京大学医学部第一内科助手、コーネル大学留学等を経て、1964年東京大学医学部第一内科講師。1971年に帝京大学に招聘され医学部教授に就任、1980年から1987年まで帝京大学医学部長、のち帝京大学名誉教授。1987年から1996年まで帝京大学副学長。
平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 20… 平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 2000年3月5日)は、日本の天然物化学者。名古屋大学名誉教授。 1915年、山口県山口市生まれ。山口高等学校理科甲類を卒業し、1938年に東京帝国大学理学部化学科に入学。1941年に卒業した。卒業研究および同大学大学院においては、有機化学の久保田勉之助教授(ポール・サバティエ門下)の下で黄変米の有毒成分を研究した。 1943年より、母校である東京帝国大学助手になる。1944年1月、名古屋帝国大学に理学部講師として着任し、6月には助教授に就任。太平洋戦争中の戦時下では、研究室疎開先の長野県上田市で江上不二夫の指導の下、乏しい物資の中で研究に当たった。
見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - … 見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - 1992年10月21日)は、日本の日本語学者・辞書編纂者。『明解国語辞典』『三省堂国語辞典』の編纂者として知られ、「ケンボー先生」と親しまれる。 東京府出身(本籍は岩手県盛岡市)。青森県、福島県、当時の南満州を経て、1932年、旧制山口高校入学。1年の病気休学期間を経て卒業。 1936年、上京して東京帝国大学文学部国文科に入学。同期には後に『明解国語辞典』に補助的な立場で関わる山田忠雄がいる。1939年、卒業。その後、同大学大学院に進学。 大学院在学中、金田一京助の紹介で『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に当たる。この辞書は、基本的な項目は当時の『小辞林』に基づいているものの、ほぼ見坊の独力により編纂され、「金田一京助編」と冠して1943年に刊行された(1952年に改訂版)。
矢沢 利彦(やざわ としひこ、1914年(大正3年)2月- … 矢沢 利彦(やざわ としひこ、1914年(大正3年)2月- 2008年(平成20年)4月11日)は、日本の東洋学者。 1914年生まれ。旧制山口高等学校を経て、1936年東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。在学時は、加藤繁や和田清の指導を受けた。 卒業後は埼玉大学助教授となり、後に教授昇進。1978年に埼玉大学を定年退官し、名誉教授。その後も群馬県立女子大学教授として教鞭をとり、また東洋文庫専任研究員として研究著述を行った。 近世中国(明清時代)の東西交渉の研究や「喫茶の歴史」が著名で、マテオ・リッチをはじめ、多くの原典史料の訳注解を行った。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 200… 時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 2001年9月30日)は日本の動物学者。京都大学名誉教授。 1913年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、1936年に京都帝国大学理学部動物学科を卒業した。 卒業後は母校である同大学の理学部助手に着任。1946年、京都大学に『日本動物分類』を提出して理学博士号を取得。農学部助教授、農学部教授、理学部附属瀬戸臨海実験所助教授を経て、同実験所教授に昇進。1975年から1977年には同実験所の所長を務めた。1977年、京都大学を停年退官し、京都大学名誉教授となった。 私人としてはピアノ演奏の技術に長けていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
松崎 壽和(まつざき ひさかず、1913年6月7日 - 19… 松崎 壽和(まつざき ひさかず、1913年6月7日 - 1986年5月30日)は日本の東洋考古学者。 1913年、山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)生まれ。旧制山口高等学校を経て東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。1939~1940年、北京へ滞在し、興亜院嘱託を務める。その後、文部省嘱託の後、1948年旧制広島高等学校教授、1949年広島大学文学部助教授、1965年に教授となる。 広島大学では草戸千軒町遺跡、帝釈峡遺跡の発掘を指揮した。また、1971年にイラン学術調査隊の一員としてカスピ海東南岸で遺跡の調査を行った。1976年に広島県文化財審議会委員を務める。1977年に広島大学退官後、広島県埋蔵文化財調査センターの常務理事を務めた。
木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2… 木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2006年4月3日)は、日本の植物学者・科学史家。東京大学名誉教授。 1912年、山口県山口市生まれ。旧制長崎中学、旧制山口高校を経て、東京帝国大学理学部に進んだ。大学では中井猛之進に師事。卒業後の1938年、東京帝国大学副手に着任。1939年、同大学助手に昇進。1944年、学位論文『おとぎりそう科ノ研究』を提出して理学博士号を取得。 太平洋戦争後の1949年より、東京大学教養学部生物学科助教授。1960年に同教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は中央大学教授として教鞭をとった。学界では、日本植物分類学会の創設に尽力し、1977年から1980年まで会長を務めた。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994年3月8日)は、日本の法学者。専門は民法。第8代目八幡大学(現・九州国際大学)学長。 1911年、関東州大連生まれ。兵庫県出身の実父は幼少時に漢学を学んだ後に満州に渡った人物で、豪商として財を成していた。旧制大連一中より旧制山口高等学校に入学。1931年(昭和6年)、京都帝国大学法学部に入学。末川博教授の薫陶を受け民法・労働法を学んだ。1933年に京都帝国大学で滝川事件が起こった際には、時の文部大臣鳩山一郎に面会を強要し上京。強烈な抗議文をつきつけた法学部数名の中に吉田五郎の名があった。この抗議文は当時の新聞にも掲載された。1934年、京都帝国大学法学部を卒業。
亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002… 亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002年7月24日)は、日本の生物学者、医師。医学博士(長崎医科大学・論文博士・1940年)。寄生虫学の世界的権威として知られた。岐阜県出身。紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章。 山口高等学校を経て長崎医科大学を卒業。1939年、満鉄入社。1940年、医学博士(長崎医科大学)の学位を取得。「生体内の銅について特に其系統発生学的、個体発生学的並性別的差異 」。1943年、満州国立厚生研究所留学。1945年、奉天衛生試験所勤務。1947年に帰国、日本生物科学研究所入所。1948年、目黒に内科小児科診療所を開設。1953年、私財を投じて寄生虫専門の研究機関「目黒寄生虫館」を設立した。
南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - … 南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、日本の小説家・経済学者。本名:古賀 英正。「條」は旧字のため南条範夫とも表記される。残酷ものと呼ばれる独特の作品や剣豪小説をはじめ、幅広い歴史小説、時代小説で知られる。東京市出身。 東京銀座の南紺屋町に、代々の医師の家に生まれる。8歳から中国・青島の小中学校を出て、山口高等学校から1930年東京帝国大学法学部卒業、1933年同経済学部卒業、助手となる。1936年満鉄調査部東京支社に入り、1937年宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。
末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 19… 末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 1997年4月28日)は、日本の洋画家。多摩美術大学名誉教授。 1908年、新潟県新発田市に生まれた。1930年、旧制山口高等学校卒業。1933年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわらでレニ・リーフェンシュタール出演の映画『聖山』(1927年、アーノルト・ファンク監督)に感銘をうけ、ドイツの前衛舞踏「ノイエ・タンツ」に関心をもつ。この時期、舞踊家の執行正俊が主宰するスタジオに通い始める。 1939年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。第二次世界大戦開戦後もパリに留まるが、ドイツの進駐をうけてマルセイユに逃れ、現地の領事館に勤務する。
谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 -… 谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の政治家。弁護士。鳴門市長。京都帝国大学法学部法科卒業。徳島県鳴門市出身。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。父は撫養町長を務めた谷伊七郎。旧制山口高等学校を経て、1931年(昭和6年)に京都帝国大学法学部法科卒業。 大学卒業後、京都市と徳島市で弁護士として務め、徳島市選管委員長、徳島県出納長、徳島県弁護士会会長を経て1959年(昭和34年)に鳴門市長に初当選。その後、28年間、7期に渡り鳴門市長を務めた。1978年(昭和53年)には、西ドイツ政府からドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章が贈られた。
田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 199… 田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 1998年5月17日)は、日本の教育者、哲学者。山口大学第2代目学長。同大名誉教授。文学博士(1944年、九州大学にて取得)。雅号は周陽。 1906年山口県防府市の生まれ。旧制山口高等学校を経て、1930年九州帝国大学哲学科を卒業。1938年に広島高等学校教授兼九州帝国大学助教授、1944年より九州帝国大学専任となる。1952年より山口大学文理学部西洋哲学科教授。1944年8月、九州大学にて、「プラトンとアリストテレス」で文学博士。1958年山口大学第2代目学長に就任(1962年まで)。同大名誉教授、1970年より山口女子大学(現・山口県立大学)学長・名誉教授。
山本 源左衛門(やまもと げんざえもん、1906年(明治39… 山本 源左衛門(やまもと げんざえもん、1906年(明治39年)10月16日 - 1987年(昭和62年)10月26日)は、昭和期の実業家である。元東京海上火災保険会長。 1906年、兵庫県の生まれ。1925年に旧制山口高等学校卒業。1930年に京都帝国大学法学部を卒業。同年、東京海上火災保険に入社。1938年満州火災海上に出向し、営業部長として活躍した。 1947年東京海上火災に復帰。1966年同社の5代目社長として就任。1968年6月より1974年まで日本損害保険協会会長。1972年6月、同社会長に就任。1987年10月26日に81歳にて他界。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
竹腰 重丸(たけのこし しげまる、1906年2月15日 - … 竹腰 重丸(たけのこし しげまる、1906年2月15日 - 1980年10月6日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、サッカー審判員、東京大学教授、芝浦工業大学教授。 大分県北海部郡臼杵町海部(現:臼杵市)出身。1918年に臼杵尋常小学校(現:臼杵市立臼杵小学校)を卒業。中学生の頃に大連に転居し大連第一中学校に入学。ここでサッカーと出会った。 1925年、山口高等学校から東京帝国大学(現在の東京大学)に進学し、その年の8月に開催された第7回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて5月20日の中華民国代表戦で初出場した。 翌1926年にはア式蹴球部で関東大学リーグを初制覇、その後6連覇と続く東大黄金期の礎を築いた。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28… 佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28日 - 1980年(昭和55年)1月19日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。旧姓は永井。 島根県大原郡春殖村(大東町を経て現雲南市)で、永井伊太郎の三男として生まれる。1925年(大正14年)弁護士佐野正雄の養子となった。旧制山口高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 1933年(昭和8年)出雲電気に入社。その後、代議士櫻内幸雄の秘書となる。戦後、中国電力島根支店次長、同東京支社長を歴任。その他、島根県農村電化協会会長、同体育協会理事長、日本バレーボール協会参与、ラジオ山陰(現山陰放送)相談役、民主党島根支部連幹事長、自由民主党島根支部連会長などを務めた。
楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 199… 楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 1997年9月14日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。 1903年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、東京帝国大学経済学部に進む。大学では矢内原忠雄に師事した。 太平洋戦争後、東京大学経済学部教授となり、経済学部長をつとめた。1959年、「アメリカ帝国主義史論」を提出して経済学博士号を取得。1964年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も日本大学教授、立正大学教授、帝京大学教授として教鞭をとり、1990年に退職した。
町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年… 町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年10月12日)は、日本の都市計画家、土木技師。第二次世界大戦後の戦災復興都市計画事業や首都建設委員会事務局長として一時期、東京の首都高の計画にも関わる。山口県旧徳山市出身。 旧制山口高等学校理科甲類をへて、1926年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。東京市を経て、1928年(昭和3年)、内務省に入省。大臣官房都市計画課技手から都市計画地方委員会福岡地方委員会技師。その後新設の都市計画局から防空総本部技師を経て、1945年から戦災復興院土地局工務課長。戦災復興都市計画では出身の徳山市に派遣され、指導助言。後1963年にも市長から依頼で、周南団地建設のための「周南住宅地区開発基本計画」作成調査委員会委員長就任している。
植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 19… 植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 1987年5月27日)は、日本の東洋史学者。実兄は作家の直木三十五。 1901年、大阪市で父惣八、母しづの次男として大阪市南区内安堂寺町通に生まれる。父は古着屋であった。1908年4月、大阪市桃園第一尋常小学校に入学。1913年4月には大阪府立天王寺小学校に入学。1919年4月、山口高等学校(文科乙類)に入学。1922年4月、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。1923年7月には華北を旅行する。学生時代は近藤健一から奨学金を与えられていた。1925年、東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。 卒業後は、母校の東京帝国大学文学部東洋史学科副手に採用される。
矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1… 矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1982年2月23日)は、日本の教育学者。ソビエト教育学研究会会長。 1900年、長崎県長崎市に生まれた。1919年、旧制山口高等学校に入学。1926年、京都帝国大学文学部英文学科を卒業。戦前は日本大学工学部予科教授などを務めた。英語教育に携わる傍ら、科学読物の英和注釈本などの出版を通して、科学教育の実践を試みた。独学でロシア語を習得し、ソビエト教育理論や実践を紹介した。 太平洋戦争後は、教育学者として民間教育運動の理論的指導者として活躍した。学界では1960年以降、ソビエト教育学研究会会長を務めた。1982年に死去。 これらの他にロシア共和国教育科学アカデミー編『ソビエト教育科学アカデミヤ版ソビエト教育科学辞典』明治図書出版、1963をソビエト教育学研究会が編訳。
長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6… 長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、日本の内務・警察官僚、教育者。最後の官選香川県知事、和洋女子大学学長。位階は従四位。 山口県出身。長瀬栄三郎の長男として生まれる。山口高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、警視庁警部補となる。 以後、青山警察署長、浅草警察署長、蔵前警察署長、沖縄県経済部長、福島県経済部長、茨城県経済部長などを歴任。 その後、香川県内務部長に就任し、1947年3月、前任の増原惠吉が知事選に出馬のため辞任したことに伴い同県知事に昇格した。
兼常 清佐(かねつね きよすけ、1885年〈明治18年〉11… 兼常 清佐(かねつね きよすけ、1885年〈明治18年〉11月22日 - 1957年〈昭和32年〉4月25日)は、日本の音楽評論家、文芸評論家、音楽学者。 山口県萩町土原(現:萩市土原)に生まれる。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に入学。同校を1910年(明治43年)7月に卒業。卒業後、同大学大学院に進学。音楽理論と音楽美術を研究するため、一時的に東京音楽学校ピアノ科に入学し、貫名美名彦に師事する。この間に『日本の音楽』を著した。 1922年(大正11年)3月、下中弥三郎らの教員が結成した教育団体「啓明会」の研究員としてドイツに留学、1924年(大正13年)4月に帰国。 1925年「日本ノ音楽ニ就テノ一観察」により、京都帝国大学文学博士の学位を受けた。
牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月… 牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月26日 - 1961年(昭和36年)6月1日)は、日本の政治家。 岐阜県大野郡高山町上向町(現・高山市)に旅館主・牧野伊平の三男として生まれた。斐太中学、旧制山口高等学校(旧旧山高)を経て東京帝国大学法科大学に進学し、卒業後、官界・法曹界を経て政界に入った。総選挙に通算12回立候補し、10回当選した。 戦前は立憲政友会に所属した。政友会内にあっては自由主義の立場に立ち、1939年(昭和14年)の政友会の分裂に際しては自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)に所属し、翌1940年(昭和15年)に反軍演説による斎藤隆夫除名問題に際しても同じ政友会正統派所属の芦田均や宮脇長吉らとともに斎藤除名に対し反対票を投じた(反対票は7票のみ)。
福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月… 福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月2日 - 1929年〈昭和4年〉1月30日)は、日本の内務官僚。県知事。 北海道厚岸郡太田村で福永磨理輔の長男として生まれる。山口高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り樺太庁属となる。 以後、樺太庁事務官、同理事官兼専売局副参事(函館専売支局樺太出張所長)、青森県理事官、和歌山県警察部長、警視庁衛生部長、東京府内務部長などを歴任。 1924年6月、清浦内閣により福井県知事に登用されたが、翌月、加藤高明内閣により更迭された。1927年5月、千葉県知事に就任。
青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日 - 1… 青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日 - 1964年12月16日)は、日本の小説家、俳人。法政大学名誉教授。本名は井本 健作(青木家より井本家に養子)。国文学者・井本農一の父。 1883年(明治16年)11月27日、山口県都濃郡富田村(現・周南市河内町)に生まれる。1905年(明治38年)旧制山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学哲学科を卒業し、千葉県成田中学教諭として勤務。同僚の鈴木三重吉の影響により小説を執筆。 1910年(明治43年)「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」等を発表。1915年(大正4年)旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭。
斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治… 斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治16年)5月18日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、福井県知事、福井市長。 宮城県出身。斎藤忠治郎の三男として生まれる。山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り警視庁見習となる。以後、徳島県理事官、福井県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、奈良県書記官・内務部長、富山県書記官・内務部長などを歴任。 1930年8月、福井県知事に就任。1931年12月18日まで在任して休職し、同月24日に依願免本官となり退官した。
三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30… 三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30日 - 1957年〈昭和32年〉11月8日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 広島県西地方町(現・広島市中区)出身。三浦新平の二男として生まれる。山口高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、大学院に進んだ。1907年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務に入省し保険事務官補となる。 以後、山林事務官兼農商務書記官、林務官、山林局書記官兼農商務書記官、秋田大林区署長、農商務書記官兼同参事官、製鐵所理事、特許局次長、農商務省山林局長などを歴任。 1924年(大正13年)12月17日、山形県知事に就任。
百済 文輔(くだら ぶんすけ / ふみすけ、1883年〈明治… 百済 文輔(くだら ぶんすけ / ふみすけ、1883年〈明治16年〉4月21日 - 1952年〈昭和27年〉8月4日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選県知事、川崎市長、小倉市長。 山口県厚狭郡高千帆村(現山陽小野田市)出身。神職百済忠敬の息子として生まれる。山口高等学校を卒業。1908年、京都帝国大学法科大学政経学科を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1911年3月、山梨県東山梨郡長に就任。1913年、関東都督府参事官となる。以後、大阪府事務官、三重県警察部長、群馬県内務部長、愛媛県内務部長、東京府産業部長、同書記官・内務部長、北海道庁内務部長など歴任。
豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治1… 豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治15年)12月27日 - 1939年(昭和14年)11月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選福井県知事、樺太庁長官、台湾総督府内務局長、萩市長を歴任。 山口県阿武郡萩町細工町(現萩市細工町)出身。豊田三蔵の長男。旧制山口高等学校を経て、1908年東京帝国大学法科大学法律学科卒業。内務省に入省し、埼玉県属となる。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、鹿児島県事務官、同理事官、秋田県警察部長、静岡県警察部長、台湾総督府警務官、台北高等商業学校長兼総督府参事官などを歴任。 1924年7月、福井県知事就任。郡役所廃止後に備えた吏員講習所の設置、県営印刷所の設置、自作農創設の新政策の実施などを推進した。
河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12… 河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12月24日 - 1960年(昭和35年)2月22日)は、日本の大蔵官僚。会計検査院長、枢密顧問官。 山口県美祢郡岩永下郷村(現:美祢市秋芳町岩永下郷)で、河本勝の四男として生まれ、河本兵四郎の養嗣子となる。山口高等学校を経て、1907年7月、京都帝国大学法科大学経済科を卒業。 1907年8月、大蔵省に入省し税務監督局税務属兼大蔵属となり、東京税務監督局に配属された。1908年11月、文官高等試験に合格。以後、宇都宮税務監督局経理部長、税務監督官、秋田税務監督局所得審査委員、税務監督局事務官・仙台税務監督局直税部長、熊本税務監督局直税部長、税務副監督官・札幌税務監督局関税部長、広島税務監督局経理部長事務取扱、大蔵省主計局書記官・臨時官有財産課長、臨時国有財産整理部書記官・総務課長兼管理課長、国有財産整理局書記官、臨時震災救護事務局事務官、兼臨時営繕局書記官、大蔵省参事官兼臨時営繕局書記官・臨時営繕局総務部長心得、兼臨時議院建築局理事などを歴任。
菊屋 孫輔(きくや まごすけ、1882年〈明治15年〉6月1… 菊屋 孫輔(きくや まごすけ、1882年〈明治15年〉6月10日 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地主・家主、山口県多額納税者。族籍は山口県平民。 山口県阿武郡萩町(現萩市)出身。菊屋剛十郎の長男。1905年、山口高等学校大学予科を卒業する。1908年、京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年、家督を相続する。農業を営む。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は浄土宗。趣味は謡曲宝生流。住所は山口県萩市呉服町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月… 塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月26日)は日本の弁護士、また大審院判事、最高裁判所判事。日本弁護士連合会会長。 1881年、大分県に生まれる。1903年旧制山口高等学校を卒業し、1908年(明治41年)4月、法学士として京都帝国大学法科大学を卒業。北浜銀行が設立した日本醤油醸造に秘書として入社し、副支配人に昇進して尼崎支店に勤務した。 日本醤油醸造は品質不正の発覚により株価が暴落するが、時期を同じくして1909年に弁護士となり、1910年2月、中央弁護士会で開業、同年8月には東京弁護士として登録した。日本弁護士協会にも所属した。
山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 193… 山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 1936年1月9日)は、日本の内務官僚。県知事。 山口県出身。庄屋・山県政吉の長男として生まれる。山口高等学校(旧旧山高)を経て、1907年月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。石川県事務官・警察部長、神奈川県事務官・警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1915年に内務監察官に就任。内務省参事官・大臣官房会計課長兼地理課長を経て、1922年、都市計画局長となる。 1922年10月、石川県知事に就任。広島県知事、兵庫県知事を歴任し休職。1929年7月、神奈川県知事として復帰。
横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年… 横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年(明治13年)9月23日 - 1931年(昭和6年)10月11日)は、内務官僚、南洋庁長官。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に横田稲稔の長男として生まれる。旧制山口高等学校卒業を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、神奈川県属に任じられた。同年11月に高等文官試験に合格し、翌年から樺太民政署事務官を務めた。1909年(明治41年)に徳島県事務官となり、群馬県事務官を経て、1912年(大正元年)に群馬県内務部長に就任した。1915年(大正4年)からは三重県内務部長となり、1918年(大正7年)には賞勲局書記官に転じた。
雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、… 雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、1880年(明治13年)7月16日 - 1956年(昭和31年)8月3日)は、明治末から昭和前期の農業技術者、政治家、実業家。衆議院議員、山口県豊浦郡豊東村長。 山口県豊浦郡上保木村(豊東村上保木、菊川町を経て現下関市菊川町大字上保木)で、雑賀敬二郎の息子として生まれる。山口高等学校を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学農科大学を卒業した。1908年(明治41)12月、一年志願兵として入営し、1911年(明治44年)4月、陸軍歩兵少尉に任じられ、のち歩兵中尉に昇進。 島根県農業技師に任官。熊本県農業技師に転じ、同県農商課長、熊本県農会幹事、同県産牛馬組合連合会副組長、同県茶業組合連合会顧問、熊本商業会議所特別議員、大日本産業組合熊本支部理事、大日本蚕糸業組合熊本支会商議員、同県実業団体連合会顧問などを務めた。
河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)… 河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)6月16日 - 1930年(昭和5年)11月4日)は、朝鮮総督府官僚。 山口県出身。山口高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、大蔵省に入省して主税局属となる。その後、統監府財政監査官、朝鮮総督府事務官、度支部司計課長、財務局長、専売局長を歴任。退官後は朝鮮火災海上保険株式会社社長を務めた。
牧田 孫太郎(まきた まごたろう、1880年(明治13年)1… 牧田 孫太郎(まきた まごたろう、1880年(明治13年)1月 - 没年不明)は、日本の実業家。 福岡県・牧田嘉三郎の長男。山口高等学校を経て、1907年、京都帝国大学経済科を卒業。大阪合同紡績に入社。成宗電鉄創立と共に入社、支配人に就任。1910年、鞍手軽便鉄道に転じる。1913年、日之出生命(現住友生命)に勤務する。 1918年、分家する。1921年、瀬戸内海横断電力創立に当たる。同社常務取締役をつとめる。1925年、広島電気に入り、取締役兼総務部長に進む。1933年、同社監査役。1938年、同社常務取締役に選ばれる。 常務になってからも総務部長を兼務し、技術関係の仕事を除いた一切の社務を切り回す。
阿部 寿準(あべ ひさのり、1879年(明治12年)10月2… 阿部 寿準(あべ ひさのり、1879年(明治12年)10月24日 - 1955年(昭和30年)8月4日)は、日本の内務・農林官僚、実業家。官選鳥取県知事、農林次官。 山口県阿武郡徳佐村(現山口市)出身。山口高等学校を卒業。1905年7月、東京帝国大学法科大学を首席で卒業。内務省に入省し内務属・大臣官房秘書課兼地方局勤務となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、千葉県事務官・第二部長、神奈川県事務官、兵庫県事務官、法制局参事官、兼内閣恩給局審査官、兼法制局書記官、内務監察官、兼内務省参事官などを歴任。 1919年4月、鳥取県知事に就任。災害復旧、教育振興などに尽力。1920年9月、国勢院第二部長に転任。
片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月2… 片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月29日 - 1933年〈昭和8年〉12月18日)は、明治から昭和前期にかけての日本のドイツ文学者・評論家。本名は正雄(まさお)。 1897年、山口県佐波郡八坂村(現:山口市)で生まれた。山口高等学校在学中に登張竹風の影響を受けてドイツ文学を志し、東京帝国大学文科大学独文科に進んだ。1902年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授などを務めた。1905年に「神経質の文学」を発表して評論家として注目を集め、1907年にはオットー・ワイニンゲルの『男女と天才』の翻訳、1908年に『最近獨逸文学の研究』を著してドイツ文学の紹介にも努めた。1909年から1913年にかけてドイツに留学し、帰国後はドイツ語辞書の編纂に専念した。
若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 19… 若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 1962年7月22日)は、日本の劇作家、演劇研究家、翻訳家、歌人。本名の若月 保治での著作も多い。 山口高等学校を経て、1903年東京帝国大学卒業。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、1908年「万朝報」の記者となり、1921年「人と芸術」を創刊。1922年万朝報を辞職、新劇研究所を設立した。 千代田高等女学校教諭、1928年東洋大学教授として国文学を教え、1933年千代田女子専門学校および帝国女子専門学校教授を兼任。紫蘭の号を捨てて人形浄瑠璃の研究に専念した。 1945年戦災に遭い帰郷、1950年より山口大学講師。メーテルリンクの『青い鳥』を翻訳した。