小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 19… 小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 1990年2月11日)は日本の経済学者。証券経済論。
1906年(明治39年)生まれ:553人
小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 19… 小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 1990年2月11日)は日本の経済学者。証券経済論。
内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 -… 内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本の軍医。1950年、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業。医学博士。 京都府綾部町出身。茨木中学校、旧制三高を経て、1927年(昭和2年)京都帝国大学医学部に入学し、1931年(昭和6年)に卒業。1936年(昭和11年)に京大大学院を卒業。「バクテリオファージ研究補遺」で医学博士となる。 1937年(昭和12年)からヨーロッパ、アメリカでの研究、情報収集を行った後、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験にも関わったとされる。帰国後、東京・戸山の陸軍軍医学校で終戦まで軍医教官として勤務した。
立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月… 立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月26日 - 1990年 <平成2年> 10月13日)は、日本の銀行家。山陰合同銀行頭取を務めた。位階は正五位。 東京都出身。1929年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月から1975年12月までに山陰合同銀行頭取を務めた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年10月13日肺炎のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - … 松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - 1991年1月7日)は、日本の仏教学者、真宗学者。金子大栄、 曽我量深に師事。 大谷大学名誉教授、元学長。 1906年、福井県大野市生まれ。旧制福井県立大野中学校(現福井県立大野高等学校)卒。大谷大学卒。大谷大学教授、学長。1980年退任、名誉教授。真宗大谷派円徳寺元住職。
石澤 守雄(いしざわ もりお、1906年12月24日 - 1… 石澤 守雄(いしざわ もりお、1906年12月24日 - 1979年4月8日)、日本の内務官僚。京都府副知事。 東京帝国大学法学部卒業。内務省役人として京都府に赴任、鹿児島県庁に転勤後、蜷川虎三京都府知事の要請で京都に呼び戻され、京都府副知事として、蜷川府政7期(28年間)のうち3期を支え、赤字財政を立て直した。 蜷川は退任後こう語る。 夫人の石澤千恵子(日本女子大出身)の父は初代・岡田春夫で、実兄は2代目・岡田春夫(衆議院副議長を2期務める)で、実弟は岡田晃(外交官)。他に岡田豊(フジサンケイグループ取締役)がいる。 石澤守雄亡き後も、石澤千恵子は保護司や更生保護女性会長、名誉会長として活動した。
岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は… 岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は、日本のヤクザ、実業家。暴力団・三代目山口組舎弟。三友企業 社長。神戸生コン運輸社長。全国港湾荷役振興協会理事兼神戸副支部長。岡山県倉敷市出身。 明治39年(1906年)12月、 岡山県倉敷市で生まれた。岡精義は、幼少の頃から叔母の元で育った。 岡精義は、旧制中学校を卒業した。 大正12年(1923年)、神戸市へ移住し、港湾荷役の沖仲仕として働き始めた。 昭和5年(1930年)、神戸の賭場で、田岡一雄(後の三代目山口組組長)と知り合った。その後、金銭的に苦しかったこともあり、田岡一雄の借り上げた部屋に、度々滞在し寝食を共にするようになった。
河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 … 河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 - 1985年6月12日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友本社に入社。1946年に井華工業(のちの住友金属鉱山)に転じ、取締役に就任し、1948年に常務、1956年6月に専務を経て、1963年5月に社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1979年4月に会長に就任。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月12日呼吸器疾患のために死去。78歳没。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月… 秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月22日 - 1979年(昭和54年)3月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 神奈川県三浦郡、のちの横須賀市で秋山清平の長男として生まれる。1924年(大正13年)横須賀市立実業補習学校を卒業した。 横須賀海軍工廠員として勤務。その後、横須賀市吏員、川崎市吏員を歴任。社会民衆党、社会大衆党に入党した。労働運動に加わり、全日本自治団体労働組合(自治労)特別執行委員、横須賀市労連顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)神奈川県議会議員に選出された。日本社会党清掃特別委員会事務局長、同選挙制度対策特別委員会事務局長、地方公営企業対策特別委員会事務局長、地方公務員定年制反対特別委員会事務局長、同神奈川県連副会長、同横須賀支部長などを務めた。
竹本 孫一(たけもと まごいち、1906年12月21日 - … 竹本 孫一(たけもと まごいち、1906年12月21日 - 2002年5月30日)は、日本の政治家。元民社党衆議院議員。 山口県に生まれる。第五高等学校を経て1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。国際労働機関嘱託として浅利順四郎の下で働いた後、1935年に内閣調査局に入局。奥村喜和男らと経済統制政策の立案に関わり、4年後に企画院調査官となる。企画院調査官として「新政治体制確立要綱(試案)」等を作成し近衛文麿らの新体制運動の政策策定に関与した。その後大政翼賛会制度部副部長・情報局出版課長を経て、1943年12月に満州国国務院総務庁参事官に就任。 戦後、逓信省嘱託から片山内閣での首相秘書官になるが、1947年に公職追放。
原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 20… 原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 2000年11月13日)は、日本の光源研究者。 浜磯太郎の二男として、福岡市に生まれ、原田あやめ(金次郎未亡人)の養子となる。東京大学医学部名誉教授で、日本学士院会員に選ばれた医学者浜清は実弟。1924年福岡県立中学修猷館を経て、1929年東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1929年芝浦製作所(現・東芝)に入社。光源及び放電管の研究に従事し、1942年綜合電灯研究所副所長兼電灯第一課長、光学工業研究所所長、1949年マツダ研究所所長、1961年中央研究所次長、1962年5月取締役、1964年5月常務取締役を経て、1966年5月専務取締役に就任。
林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 198… 林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 1985年4月1日)は、日本の教育哲学者。東北大学名誉教授。宮城教育大学学長。専攻はギリシア哲学。プラトンについての論文がある。 栃木県矢板市の生まれ。東北学院に学び、のち1934年旧制の東北帝国大学法文学部哲学科を卒業。 東北学院では山川丙三郎に師事した。東北帝国大学では阿部次郎に親炙し全集の編集に携わった。またA.E.テイラーの『ソクラテス』の注釈つき翻訳を出版したために、バーネット・テイラー説の信奉者として知られた。 第二次世界大戦の敗戦後、東北大学教育学部で教育史を担当。森有礼について研究した。またソクラテスの問答法を下敷きにした人間形成論を構想した。
竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)1… 竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)12月18日 - 1988年4月8日)は、日本の挿絵画家、労働運動家、実業家。 長男は評論家の竹中労。『琉球共和国』、『仮面を剥ぐ』、『左右を斬る』、『浪人街 天明餓鬼草紙』などの労の著作や、労が制作したレコードのジャケットなどの装画を数多く手掛けた。次女の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長。 福岡県福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。
兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 197… 兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 1973年4月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。元東京大学教授。従三位勲一等瑞宝章。
高田 三九三(たかだ さくぞう、1906年12月18日 - … 高田 三九三(たかだ さくぞう、1906年12月18日 - 2001年1月29日)は、日本の作詞家である。 東京都出身。明治39年生まれの三男だから「三九三」と名付けられた。東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科卒業。マンドローネ奏者。大使館勤務の経験あり。戦後は日本交通公社に勤務。欧米の民謡の訳詞でも知られる。晩年には全日本児童音楽協会会長を務めた。2001年1月29日、心不全で94歳にて死去。 海沼實作曲の曲などでの作詞がある。 アメリカ、イギリス、フランスなどの民謡、クリスマス・キャロル等の訳詞を手がけている。
湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1… 湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1994年4月17日)は、日本の実業家。ユアサコーポレーション、ユアサ商事社長、会長を務めた。京都府出身。 1930年に京都帝国大学法学部を中退し、父親が経営する金物問屋湯浅七左衛門商店に入社した。取締役、専務を経て、1945年から社長に就任し、1983年から会長に就任した。 関西経済同友会初代代表幹事、関西経済連合会副会長、関西経営者協会会長、湯川記念財団理事長などを歴任し、関西財界の重鎮として活躍した。また、1975年から日本高校野球連盟最高顧問も務めた。 1964年に紺綬褒章を受章し、1973年に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章し、1987年に第3回ヒューマン大賞を受賞し、1989年に京都府スポーツ賞特別栄誉賞を受賞した。
岡本 隆一(おかもと りゅういち 1906年(明治39年)1… 岡本 隆一(おかもと りゅういち 1906年(明治39年)12月16日 - 2004年(平成16年)10月9日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(5期)。 1906年に京都市で生まれる。 1930年京都府立医科大学卒。同大学の助手となり、父親が運営していた京都府にある診療所を受け継ぎ、1954年に医療法人岡本病院を設立し、院長となる。京都府議会議員を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本社会党左派で京都府第2区から立候補し、当選する。1977年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。5期を務め、その後、1990年から岡本病院の会長となる。社会民主党の京都府連合の名誉顧問を務めていた。 2004年10月4日に京都市伏見区の病院で老衰のため死去、97歳。
山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)1… 山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。
手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1… 手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1981年12月1日)は、日本の文学研究者、作家である。 山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。維新の英蘭学者手塚律蔵は曾祖父の弟にあたる。 旧制徳山中学から慶應義塾大学に進学する。徳山中学在学中に19世紀ロシア文学を愛読、特にトルストイの影響を受ける。慶應在学中に社会運動に参加するようになり、その後当時非合法だった日本共産党に入党し、文化団体の活動をする。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の新人作家であったこの時期の作品に1932年に発表した「虱」がある。 1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。
伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年… 伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年5月6日)は、日本の俳優。
遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2… 遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2004年2月27日)は、日本の農学者・園芸学者。鳥取大学名誉教授。中国内モンゴル自治区のクブチ砂漠の約2万ヘクタールの砂漠の緑化に成功し、その取り組みが高く評価されている。 1906年12月14日、山梨県南都留郡瑞穂村新倉(後の旧下吉田町新倉、現・富士吉田市新倉)に生まれる。実家は浄土真宗本願寺派の寺院である大正寺で、6人兄弟の3番目だった。旧制山梨県立日川中学校(現:山梨県立日川高等学校)、旧制第二高等学校を卒業。高校時代に旧制第二高等学校の先輩である、菊池秋雄教授に出会い農学を志す。京都帝国大学農学部農学科に入学。京都大学で卒業後は同大で助手として働いた。
八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - … 八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - 1970年3月23日)は、日本の技術者、実業家。日本触媒化学工業(現・日本触媒)第2代社長(実質の創業者)。高杉良の経済小説『炎の経営者』の主人公として実名で登場する日本の石油化学工業のパイオニア。 広島県比婆郡山内東村(現・庄原市)出身。三次中学(現三次高等学校)卒業。代用教員を経験した後、大阪高等工業学校を経て一旦就職し、働きながら苦学して1932年、大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業。由良染料を経て。1935年にヲサメ硫酸工業事務所へ入社。研究責任者としてバナジウム触媒の開発を行う。 1941年にヲサメ硫酸工業事務所から、大阪桃谷(現在の大阪市生野区桃谷)の長屋の2階にヲサメ合成化學工業株式會社が設立。
松尾 信資(まつお のぶすけ、1906年12月14日 - 1… 松尾 信資(まつお のぶすけ、1906年12月14日 - 1991年10月28日)は、日本の内務官僚。愛知県副知事を務めた。新潟県出身。 1925年に加茂農林専門学校を卒業し、1932年から1940年までに旧制中学校で教諭として勤務し、1940年に内務省に入省。1947年に愛知県庁に転じ、1963年から1970年までに副知事を務め、桑原幹根知事の下で、県政の企画、立案に携わった。 県文化会館館長、名古屋高速道路公社理事長、名城大学理事長なども務めた。1983年に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年10月28日心不全のために死去。84歳没。
平井 富三郎(ひらい とみさぶろう、1906年12月13日 … 平井 富三郎(ひらい とみさぶろう、1906年12月13日 - 2003年5月20日)は、日本の商工官僚。経済審議庁次長や通商産業事務次官を経て、退官後新日本製鐵(現日本製鉄)社長。東京府(現東京都)出身。1973年に藍綬褒章、1979年に勲一等瑞宝章を受章。2003年、脳梗塞のため死亡。 旧制東京高校(現東京大学教育学部附属中等教育学校)を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、1931年に商工省(現 経済産業省)へ入省。製鉄所書記。同期には、長村貞一(ジェトロ副理事長、経済審議庁次長、特許庁長官)、山地八郎など。 第二次世界大戦後の1949年、石炭庁管理局長から商工省化学局長(1949年2月12日 - 同年5月24日)に。
重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1… 重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1990年5月21日)は、日本の中国哲学者。京都大学名誉教授。 1906年、東京で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、支那哲学科で小島祐馬に師事した。1932年に卒業 卒業後は第三高等学校教授に就いた。1942年、母校の京都帝国大学文学部助教授に任じられた。 戦後の1950年、学位論文『経学研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。同1950年、教授に昇格。1970年に定年退官し、名誉教授となった。 学風は小島祐馬や侯外廬に近く、マルクス主義歴史学的手法をとった。戦後の京大の学内政治に左翼的立場から関与した。指導学生には戸川芳郎や加地伸行がいる。
澤山宗海(さわやま むねおみ、1906年12月12日 - 1… 澤山宗海(さわやま むねおみ、1906年12月12日 - 1977年9月27日)は、奈良県出身の武道家。日本拳法の開祖。本名は勝(まさる)。 澤山宗海は1906年に奈良県に生まれ、幼くして養子となり、山陰地方の名門として知られる、豪族・山名氏の門流である澤山家の人となる。生来病弱であったうえに養父母が溺愛し、少しでも危険と見れば、わずかな運動すらさせなかったゆえに、小学生の頃は通学するだけで疲れるほどひ弱だったという。 自分の体力のなさに一念発起し、大正8年(1919)、偕行社小学校の尋常科を終え、日進商業学校に進学したときにボディービルと柔道を始め、のちに五段の腕前になる。しかし、柔道において一般に当身の攻防の練習が軽視されていたことに失望し、のちに糸東流を創始する摩文仁賢和との出会いを機に彼に師事して空手(当時は「唐手」と呼ばれていた)を学び、昭和5年(1930)6月、通っていた関西大学に「唐手研究会」を立ち上げる。
石島 渉(いしじま わたる、1906年12月12日- 198… 石島 渉(いしじま わたる、1906年12月12日- 1980年7月19日)は日本の地質学者、古生物学者である。石灰藻の研究者。 東京出身。1931年東北帝国大学理学部地質古生物学科卒。1942年 - 1945年台北帝国大学地質学科、1945年立教大学助教授、教授。1975年定年、名誉教授。1954年「Cenozoic coralline algae from the western pacific(西部太平洋地域の新生代珊瑚藻)」 で東北大学理学博士。 総計で139タクサの化石石灰藻類の記載を行っており (Iryu, 2004)、この中には少なくとも114種のサンゴモ目(Corallinales)の種が含まれ、45報以上の石灰藻の分類に関する論文を発表している。
叶沢 清介(かのうざわ せいすけ、1906年12月12日 -… 叶沢 清介(かのうざわ せいすけ、1906年12月12日 - 2000年6月26日)は、福島県出身の図書館員。第3代県立長野図書館長(1949年-1965年)。 1929年(昭和4年)に文部省図書館講習所を卒業し、同年に県立長野図書館の司書となる。乙部泉三郎のもとで開館の準備にあたり、県立長野図書館は同年9月に開館している。1934年(昭和9年)には栃木県教育会図書館の司書となり、1935年(昭和10年)の新館の開館準備にあたったが、新館の開館3か月前に日本赤十字社図書館の主任となっている。1938年(昭和13年)には日本大学高等師範部国語漢文科を卒業している。1942年(昭和17年)には内閣技術院科学資料課参技官となった。
寺内 石夫(てらうち いしお、1906年〈明治39年〉12月… 寺内 石夫(てらうち いしお、1906年〈明治39年〉12月12日 - 1980年〈昭和55年〉1月10日)は、日本の実業家。「ファンビ寺内」の寺内株式会社創業者。元参議院議員で、衆議院議員・学校法人近畿大学理事長の世耕弘成は孫。 兵庫県洲本市出身。銀蔵、ゑつの四男。1921年に学校を卒業し、15歳で東京の海渡商店(現・エトワール海渡)に商売の修業として丁稚奉公にでる。1932年に海渡大阪支店を設立する。 1947年に寺内株式会社を設立、社長に就任する。1951年に寺内通商、1958年にバイオレット産業、1964年にテリカ工芸を夫々設立、社長に推される。1966年に近畿大学短期大学部通信教育学科を卒業する。
伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月1… 伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の詩人。京大の友人と同人雑誌『呂』を創刊し、毎号、詩を発表した。保田與重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。 長崎県北高来郡諫早町(現 長崎県諫早市)出身。魚屋の丁稚の子として生まれる。父の惣吉は、魚屋の後に家畜仲買業で成功し、木綿商に転業した。四男の静雄は、兄たちの早世により嗣子として裕福に育った。 長崎県立大村中学(現:長崎県立大村高等学校)から旧制佐賀高等学校(現:佐賀大学)を経て、京都帝国大学文学部国文科に学んだ。
田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 199… 田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 1998年5月17日)は、日本の教育者、哲学者。山口大学第2代目学長。同大名誉教授。文学博士(1944年、九州大学にて取得)。雅号は周陽。 1906年山口県防府市の生まれ。旧制山口高等学校を経て、1930年九州帝国大学哲学科を卒業。1938年に広島高等学校教授兼九州帝国大学助教授、1944年より九州帝国大学専任となる。1952年より山口大学文理学部西洋哲学科教授。1944年8月、九州大学にて、「プラトンとアリストテレス」で文学博士。1958年山口大学第2代目学長に就任(1962年まで)。同大名誉教授、1970年より山口女子大学(現・山口県立大学)学長・名誉教授。
音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 19… 音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、大正、昭和時代に活躍した日本の歌手。本名:永井 満津子。東京市麻布区(現在の東京都港区)麻布箪笥町生まれ。 1906年(明治39年)12月8日、麻布の老舗履物屋の店主永井幾吉の一人娘として生まれる。常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。17歳のときには春日派の小唄を始めている。 しかし1930年、25歳のときに溺愛していた弟の幸太郎が亡くなり、重いノイローゼになる。その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。
金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月… 金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月7日または1907年 - 1960年7月30日)は、大韓民国の海軍軍人(海軍少将)、政治家、弁護士。大韓民国海軍創設の功労者で第3代韓国国会議員。キリスト教徒。 咸鏡北道明川郡出身、本籍は慶尚南道昌原郡。間島永信中学校を経て日本大学専門部法科卒、満州国司法要員養成所修了。弁護士試験合格。満州国法院書記官、高等保護審判官を経て、解放後は軍に投身し、軍法務官、海軍参謀長、鎮海特設基地司令官、海軍鎮海統制府司令官、海軍本部行政参謀副長を歴任した。海軍少将として予備役編入後、自由党所属の民議員、第3代国会国防委員会委員を務めた。 1960年7月30日に死去し、1984年6月27日に国立ソウル顕忠院へ改葬された(将軍第1墓域141号)。
安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年… 安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年9月16日)は、大韓帝国出身の作曲家、指揮者。本貫は順興安氏。 平壌出身。崇実中学校を修了後、1921年に渡日し正則中学校(現・正則高等学校)に入学、その後東京高等音楽学院でチェロを専攻した。 1930年渡米し、フィラデルフィアのカーティス音楽学校に入学、その後シンシナティー音楽学校でチェロと作曲を専攻した。1936年渡欧してウィーンへ留学し、アジア人で唯一リヒャルト・シュトラウスに学び、現在の大韓民国の国歌である愛国歌を作曲した。1939年、ブダペスト音楽学校に入学し、卒業後指揮者として各国を回り、ウィーン交響楽団、ベルリン交響楽団、ローマ交響楽団、ブダペスト交響楽団で指揮した。
岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12… 岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12月6日 - 1954年(昭和29年)11月23日)は、日本の物理学者である。 岡村輝彦の七男として東京に生まれる。1930年(昭和5年)に東北帝国大学(現在の東北大学)卒業後、同大学の金属材料研究所に勤務する。同研究所の所長だった本多光太郎に師事し、主に磁気研究に携わり1937年(昭和12年)に理学博士を取得した。1938年(昭和13年)には助教授となり同大学で教鞭を執り、5年後の1943年(昭和18年)には教授に昇格する。 1948年(昭和23年)から1954年に死去するまで東北大学の教授の傍ら同大学の科学計測研究所の所長を務め、磁気のよって熱による変化を主とした強磁性体を研究し「岡村・エルウーフ効果」と呼ばれる磁気効果を発見した。
西沢 権一郎(にしざわ ごんいちろう、古い文書では「西澤權一… 西沢 権一郎(にしざわ ごんいちろう、古い文書では「西澤權一郎」 1906年12月5日 - 1980年12月31日)は、長野県上水内郡小川村生まれの官僚で、元長野県知事。
池田 浩三(いけだ こうぞう、1906年(明治39年)12月… 池田 浩三(いけだ こうぞう、1906年(明治39年)12月5日 - 2003年(平成15年)2月20日)は、日本の検察官、弁護士。最高検察庁検事などを務めた。
梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 19… 梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 1991年1月5日)は、日本の教育心理学者。東京大学文学部名誉教授。 岩手県花巻市生まれ。1931年東京帝国大学文学部心理学科卒。1952年盲聾教育研究会を設立、東大教養学部助教授、教授、1955年東大文学部心理学教授。1958年『心理学事典』の編纂で毎日出版文化賞受賞、1961年「盲ろう二重障害者の言語行動形成についての心理学的研究」で文学博士。1967年定年退官、関西大学教授、1971年国際基督教大学教授、1977年重複障害教育研究所理事長、勲三等旭日中綬章受章、1981年日本学士院会員。実験心理学を応用した障害者教育法を確立、山梨県立盲学校などで実践した。
大谷 藤之助(おおたに とうのすけ、1906年12月3日 -… 大谷 藤之助(おおたに とうのすけ、1906年12月3日 - 1989年2月8日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。元参議院議員(4期),大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍中佐。 レイテ沖海戦にて戦艦「大和」の副砲長として乗艦していた深井俊之助が、栗田艦隊がレイテ湾に突入せずに反転したのは当時、栗田司令部の作戦参謀を務めていた大谷による電報の捏造が原因だったと主張しているが、当時通信士として栗田らの板第一艦橋に配属されていた都竹卓郎は、月刊「歴史街道」2015年1月号において、深井氏のレイテ沖海戦での数々の証言を否定しており、他の生存者の証言でも深井の主張と辻褄が合わない点が多くあり、現在は否定的に考えられている
三淵 乾太郎(みぶち けんたろう、1906年〈明治39年〉1… 三淵 乾太郎(みぶち けんたろう、1906年〈明治39年〉12月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月22日)は、日本の裁判官。初代最高裁長官三淵忠彦の長男であり、千代田生命保険社長の兄であり、初期の女性法曹であった三淵嘉子の後夫であった。正六位。 1906年12月3日、後の初代最高裁長官・三淵忠彦の長男として生まれる。1930年、高等試験司法科に合格した。1931年に東京帝国大学法学部を卒業して司法省に入省した(司法官試補)。1932年、東京地方裁判所の予審判事となる。1935年、東京民事地方裁判所判事に転じる。1941年、総力戦研究所第一期研究生として司法官では唯一選抜され入所、第1回総力戦机上演習模擬内閣において司法大臣兼法制局長官を務めた。
金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月… 金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月2日 - 1973年7月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲国会議員。 忠清南道扶余郡出身。京城徽文高等普通学校中退。東京正則英語学校、早稲田大学専門部政経科卒。ジャーナリストとして中国の華中地域で歴遊した後、京城評論社社長、忠南興業株式会社専務取締役を経て、朝鮮建国準備委員会扶余郡副委員長、大韓独立促成国民会扶余郡支部副委員長を歴任した。 1973年7月3日、ソウル市城北区の自宅で死去。享年67。
星野 力(ほしの つとむ、1906年12月2日 - 1994… 星野 力(ほしの つとむ、1906年12月2日 - 1994年3月11日)は日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党参議院議員(1期)。同党中央委員会委員などを歴任。
有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 19… 有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 1992年4月8日)は、日本のフランス文学者。東北大学名誉教授、文学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県築上郡千束村(後の豊前市)野田出身。1924年3月、旧制福岡県立築上中学校(福岡県立築上中部高等学校および福岡県立青豊高等学校の前身)卒業。1927年3月、旧制福岡高等学校(九州大学教養部の前身)文科丙類卒業。1930年3月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業。1931年4月から1932年3月まで東京帝国大学大学院に在籍。1932年4月から1933年8月まで広島文理科大学・広島高等師範学校(現広島大学)講師。1933年9月、東京帝国大学文学部副手となる。
河西 静夫(かさい しずお、1906年12月1日 - 200… 河西 静夫(かさい しずお、1906年12月1日 - 2003年11月13日 )は、日本の実業家。元帝国ホテル代表取締役副社長、元 帝国商事 取締役社長、元 帝国ホテルハイヤー取締役社長、元 帝国ホテル列車食堂 取締役、元 ニューフジヤホテル代表取締役会長、元 監査役、元 芝パークホテル取締役、元 熱海富士屋ホテル取締役。 1906年生まれ。1932年旧制巣鴨高等商業学校(現・千葉商科大学)卒業。1933年株式会社帝国ホテル入社。1948年社団法人日本ホテル協会(現・一般社団法人日本ホテル協会)常務理事、および社団法人日本観光通訳協会(現・一般社団法人日本観光通訳協会)理事、1950年株式会社帝国ホテル副支配人、1951年取締役、1955年株式会社芝パークホテル取締役、1957年株式会社帝国ホテ常務取締役、1961年帝国商事株式会社取締役、1963年財団法人日本船舶振興会(現・公益財団法人日本財団)専門委員会委員、1967年内閣観光政策審議会委員、1968年株式会社帝国ホテル専務取締役、1969年財団法人観光資源保護財団(現・公益社団法人日本ナショナルトラスト)理事、1970年帝国ホテル代表取締役副社長、1971年帝国商事株式会社 取締役社長、および学校法人千葉学園 (千葉県)評議員、1973年帝国ホテルハイヤー取締役社長、1974年株式会社ニューフジヤホテル監査役、1976年代表取締役会長、および株式会社熱海富士屋ホテル取締役就任。
小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12… 小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校56期。サイパン島で戦死。最終階級は海軍大佐。旧姓は堂本。 広島県呉市西谷町、堂本永次郎二男。辰川尋常小学校、呉市立工業補習学校卒業後、呉海軍工廠で造船製図見習工として働きながら海軍兵学校を志し、1928年(昭和3年)海軍兵学校(56期)を卒業(卒業席次5番/111人中)。 1929年少尉、1931年中尉任官。1933年「灘風」砲術長。1934年海軍通信学校高等科学生(同年大尉任官)となり、翌年「北上」通信長。以後通信分野を歩む。結婚2年後の1936年、妻の実父小野弥一中将(海兵第33期、予備役)と養子縁組し、小野と改姓した。
浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 -… 浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 - 1944年12月27日)は、日本の俳優である。本名は金谷 幸太郎(かなや こうたろう)。 1906年(明治39年)12月1日、北海道函館区に「金谷幸太郎」として生まれる。 1927年(昭和2年)、日活太秦撮影所に入社する。翌1928年(昭和3年)、デビュー作である志波西果監督の『無念丸橋忠弥』に主演した。同作以降、脇を固める役が多くなる。1932年(昭和7年)には日活を退社し、フリーランスの役者として、日活太秦作品にも日活と配給提携をしていた片岡千恵蔵プロダクション作品にも出演した。1935年(昭和10年)、第一映画設立に参加、高島達之助・溝口健二共同監督によるトーキー『お嬢お吉』に出演する。
中村外二(なかむら そとじ、1906年12月 - 1997年… 中村外二(なかむら そとじ、1906年12月 - 1997年5月17日)は、京都の数奇屋大工棟梁。裏千家御家元御用達の作事方大工。富山県小矢部市(旧石動町)出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - … 杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - 1997年12月28日)は、昭和・平成期の日本史研究者である。 京都市埋蔵文化財研究所所長や、近畿大学理工学部教授を務めた。 京都府京都市下京区にて生まれる。ただし少年時代を過ごしたのは聖護院近く(現在の左京区)であった。 京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に京都高等工芸学校図案科を卒業する。 学校卒業後は京都府庁古社寺修理技手、法隆寺国宝保存工事事務所技手(1934年 - 1935年)、朝鮮総督府技手(1935年 - 1945年)、京都帝国大学→京都大学工学部助手(1945年 - 1952年)を経て、1953年より奈良国立文化財研究所勤務となる。
八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月… 八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月30日 - 1963年)は、日本の商人(米穀商)、実業家。西宮酒精社長。 兵庫県西宮市出身。八馬永蔵の五男。三代八馬兼介、八馬安二良の弟。八馬眞治の兄。 1928年、同志社専門高商部卒業。1929年、分家した。米穀商を営んだ。兵庫県武庫郡良元村小林字ハクサリ(現宝塚市)で果樹園を経営した。宝梅園土地建物代表社員、多聞土地代表社員を務めた。 1949年、新朝日自動車取締役、西宮酒精社長に就任した。1950年、宝梅園農場社長を兼任した。八馬汽船取締役、同監査役を務めた。 趣味は、乗馬・読書・謡曲・運動。宗教は真宗。住所は兵庫県宝塚市小林字ハクサリ。
伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月… 伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月30日 - 2002年〈平成14年〉8月3日)は、日本の詩人、近代文学研究者。 萩原朔太郎、室生犀星、草野心平の知遇を得て、詩人として活動を開始する。戦前にはプロレタリア文学運動に参加していた。最初の詩集『故郷』刊行後に詩作を止め、詩人論や現代詩鑑賞などの評論著述に専念、萩原や室生などの詩人全集の編集に携わった。 70歳で第二詩集『上州』を刊行して詩作を再開。群馬県立土屋文明記念近代文学館初代館長をつとめ、郷土出版で『群馬文学全集』の編纂にも携わった。 1906年(明治39年)11月30日、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現・前橋市元総社町)の農家に父実太郎・母みねの長男として生まれる。
高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11… 高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11月29日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。珊瑚海海戦に空母「翔鶴」艦上爆撃機搭乗員として参加し、米空母「レキシントン」攻撃後に戦死。最終階級は海軍大佐。 徳島県出身。旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)より海軍兵学校56期で入校。 あだ名は「親分」。妻マツエの妹の夫は真珠湾攻撃の第二次攻撃隊長嶋崎重和少佐(海軍兵学校57期)。海兵での同期に久住忠男、田辺弥八、前田実穂、唐島辰男、白相定男、橋口喬らがいる。 1931年(昭和6年)12月、第22期飛行学生となり1932年(昭和7年)11月に修了。