久米 三四郎(くめ さんしろう、1926年3月22日 - 2… 久米 三四郎(くめ さんしろう、1926年3月22日 - 2009年8月31日)は、日本の核化学者。大阪府出身。 旧制大阪府立高津中学校、旧制高知高等学校、大阪帝国大学卒業。製薬会社勤務を経て、大阪大学理学部講師を務めるかたわら、反原発の運動家として全国各地で多数の講演を行った。反原発運動全国連絡会を結成し、『はんげんぱつ新聞』の発刊に携わるなどの活動もあった。 1973年、国内で初めて原発の安全性が問われた、四国電力の伊方原子力発電所設置許可取り消し請求訴訟において、原告(住民)側補佐人を務めた。 高速増殖原型炉もんじゅの設置許可の無効確認を求めた行政訴訟(もんじゅ訴訟)でも、原告側の特別保佐人として、建設に反対の論陣を張った。
児島 英一(こじま えいいち、1922年5月14日 - 20… 児島 英一(こじま えいいち、1922年5月14日 - 2007年11月23日)は、日本の経営者。近畿日本ツーリスト社長を務めた。 東京都出身。1945年に大阪帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に近畿日本鉄道に入社。1972年11月に取締役、1975年5月に常務、1978年6月に専務を経て、1981年6月に副社長に就任。1985年3月に近畿日本ツーリスト副社長に就任し、1987年3月には社長に昇格。1993年3月に取締役相談役に就任し、1996年3月には相談役に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章。 2007年11月23日に急性心不全のために死去。85歳没。
松原 武生(まつばら たけお、1921年4月3日 - 201… 松原 武生(まつばら たけお、1921年4月3日 - 2014年12月15日)は、日本の物理学者。 大阪市出身。旧制北野中学、旧制大阪高校を経て、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業。同大学院に進み「結晶によるX線散漫散乱の理論的研究」で博士号。同大助教授を経て北海道大学で教授に就任。その後は京都大学教授、岡山理科大学教授を歴任。元日本物理学会会長。 場の量子論の手法を統計物理学に適用することで、グリーン関数 に関する統計力学の手法を提案した。 豊沢豊と行った半導体の不純物バンドに関する研究は、ランダム格子内の電子の運動を記述する松原-豊沢モデルとなった。 他には誘電体、超伝導、超流動も研究した。
角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 200… 角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 2005年1月14日)は、日本の化学者。大阪大学蛋白質研究所所長、姫路工業大学学長を歴任。 兵庫県出身。甲陽中学校(15回卒)を経て、大阪帝国大学卒。大阪大学工学部教官などを任官したのち、1971年8月15日から1982年4月1日まで大阪大学蛋白質研究所所長を務めた。1982年10月に姫路工業大学学長に就任。 解析化学を専門とする。関西6GeV-SR計画世話人会代表などを務め、関西への科学研究施設誘致に活動していた。
神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1… 神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1997年4月23日)は、日本の物理学者。神戸大学名誉教授。理学博士。大阪府大阪市出身。
公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 … 公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 - 1995年〈平成7年〉7月25日)は、日本の数学教育者。「公文式」学習指導法の考案と普及に尽力した。 高知県長岡郡大津村(現:高知市大津)の農家に生まれる。下知尋常小学校(現:高知市立昭和小学校)から土佐中学校を経て1933年に高知高等学校を卒業。1936年、大阪帝国大学理学部数学科を第1期生として卒業。高知県立海南中学校(現:高知県立高知小津高等学校)の数学教師となるが、翌年の1937年、召集令状により退職をして同県の朝倉連隊に二等兵として入隊し、満洲国に出兵。3年後の1940年に召集解除となって帰国。海軍兵学校海軍文官海軍教授の試験に合格し、茨城県の土浦海軍航空隊で教鞭を執るが、後に奈良県の天理海軍航空隊に勤務し、1944年に高知県の浦戸航空隊に転属をして、終戦を迎える。
太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 … 太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 - 1998年〈平成10年〉9月14日)は、昭和期の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)議長、元宇部窒素(現・宇部興産→UBE)企画課長。春闘方式を定着させた人物。 岡山県林田村(現・津山市)生まれ。旧制津山中学、旧制第六高校を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒業。1935年に大日本特許肥料(現・三菱レイヨン)に入社するも入社4年目に重役と喧嘩をし、宇部窒素(現・宇部興産)に移る。宇部窒素入社後は窒素工場硫酸課長を経て、同工場企画課長と順調に昇進を果たすが、経営陣より八幡製鐵所の親和会をモデルに従業員組合を組成するよう命じられ、1946年に同社の初代労働組合長に推されると、それまでのポストを捨て、企業エリートから労働エリートへと転身を果たした。
天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月… 天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長。米子ゴルフ倶楽部社長。 鳥取県米子市出身。山内定次郎の二男。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される。 松山高等学校理科乙類を卒業。1937年、大阪帝国大学を卒業。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する。 1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する。1946年に現地において産婦人科医院を開業する。
八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - … 八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - 1970年3月23日)は、日本の技術者、実業家。日本触媒化学工業(現・日本触媒)第2代社長(実質の創業者)。高杉良の経済小説『炎の経営者』の主人公として実名で登場する日本の石油化学工業のパイオニア。 広島県比婆郡山内東村(現・庄原市)出身。三次中学(現三次高等学校)卒業。代用教員を経験した後、大阪高等工業学校を経て一旦就職し、働きながら苦学して1932年、大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業。由良染料を経て。1935年にヲサメ硫酸工業事務所へ入社。研究責任者としてバナジウム触媒の開発を行う。 1941年にヲサメ硫酸工業事務所から、大阪桃谷(現在の大阪市生野区桃谷)の長屋の2階にヲサメ合成化學工業株式會社が設立。
真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、18… 真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、1874年(明治7年)11月13日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、京都市生まれの有機化学者。大阪帝国大学総長などを歴任。