スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
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画家
4人
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漫画家
2人
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2
俳優
2人
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詩人
1人
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4
音楽家
1人
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4
研究者
1人
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4
作家・小説家
1人
※有名人ナビに登録されている11人を職業別に数えました。複数の職業を持つ人は、それぞれの職業に数えています。
小山 宙哉(こやま ちゅうや、1978年9月30日 - )は… 小山 宙哉(こやま ちゅうや、1978年9月30日 - )は、日本の漫画家。京都府生まれ。男性。妻は漫画家・イラストレーターのこやまこいこ。 京都市立西陵中学校、京都市立銅駝美術工芸高等学校、大阪市立デザイン教育研究所卒業。デザイン会社勤務を経て、『モーニング』に持ち込みをした『ジジジイ』で第14回MANGA OPEN審査委員賞(わたせせいぞう賞)受賞。『劇団JET'S』で第15回MANGA OPEN大賞受賞。こしのりょうの下でアシスタントをしながら『ハルジャン』の連載準備をし、モーニング2006年3・4合併号から『ハルジャン』を連載。続いて『ジジジイ-GGG-』を連載。2007年12月からモーニングで連載している『宇宙兄弟』は初の週刊連載作品。
三代目魚武濱田成夫(さんだいめうおたけはまだしげお、1963… 三代目魚武濱田成夫(さんだいめうおたけはまだしげお、1963年11月12日 - )は、日本の詩人、芸術家、音楽家、俳優。兵庫県西宮市出身。1982年、京都市立銅駝美術工芸高等学校漆芸科卒。 自分を讃える詩しか詠わないことをコンセプトにした詩人であり、全ての作品は自分の為に製作している。1988年、25歳の時に実家の寿司屋「魚武」の三代目魚武を襲名したことが名前の由来。それを機に1989年、自叙伝を出版しデビュー。映画『仁義なき戦い』が大好きで自身の作品には『仁義なき戦い』の影響を受けたものが多い。1998年、女優の大塚寧々と結婚し、男児をもうけるもその後2001年に離婚。長男の親権は大塚寧々にある。
木村 光久(きむら みつひさ、1930年 京都市 - 199… 木村 光久(きむら みつひさ、1930年 京都市 - 1996年9月10日 京都市)は、日本の漫画家。のちに剪紙作家となり木村 祥刀(きむら しょうとう)を名乗る。本名:木村 祥一(きむら しょういち)、漫画家としてのペンネームはほかに木村 ただし(きむら ただし)、京 さゆり(きょう さゆり)などがあり、近年再評価の気運にある劇画作家木村 仁(きむら じん)と同一人物である。 以下に筆名を整理する。 1930年(昭和5年)、京都市東山区五条坂に生まれる。祖父は陶芸家6代目木村清山(木村仙之助)、父は同7代目木村清山であり歌人の木村二瓶子、母は華道家であり茶道家の木村宗良、同志社大学教授の稲本健二は従弟、映画プロデューサーでエッセイストの木村立哉は甥である。
草間 彌生(くさま やよい、1929年〈昭和4年〉3月22日… 草間 彌生(くさま やよい、1929年〈昭和4年〉3月22日 - )は、日本の芸術家。長野県松本市出身。京都市立美術工芸学校(旧・京都市立銅駝美術工芸高等学校)絵画科卒業。 幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めた。1957年(昭和32年)に渡米すると絵画や立体作品の制作だけではなくハプニングと称される過激なパフォーマンスを実行し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。 草間彌生のいくつかの作品は、水玉模様や網模様などの同一のモチーフの反復によって絵画の画面や彫刻の表面を覆うことが特徴の一つである。「無限の鏡の間」(インフィニティ・ミラー・ルーム英語: Infinity Mirrored Room)(1965年制作)など合わせ鏡を用いて光やオブジェを無限に広がるように見せるインスタレーションや、男根状のソフト・スカルプチュアによるオブジェを日用品などに張り付ける立体作品も制作している。
加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 20… 加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 2004年4月6日)は、日本画家、版画家である。京都府京都市上京区相国寺東門前町生まれ。 祖父・田辺玉田は北陸若狭の出身で、京都で活動の後、旅をしながら各地の風景を描いていく「旅の絵師」となり、旅先の一つ、広島県で結婚し、父・田辺勝也も広島で生まれた。祖父は広島を中心に中国地方で画家として活躍し、作品が二点広島県立美術館に収蔵されている。父は幼少期を広島で過ごした後に父(又造の祖父)と共に京都に移り住み加山勝也と改名。西陣織の図案家(デザイナー)となり、1927年、又造は京都で生まれた。 京都市立美術工芸学校(現 京都市立銅駝美術工芸高等学校ならびに京都市立芸術大学)、東京美術学校(現 東京芸術大学)を卒業。
佐野 猛夫(さの たけお、1913年10月22日 - 199… 佐野 猛夫(さの たけお、1913年10月22日 - 1995年10月2日)は、日本のろうけつ染作家。京都市立芸術大学名誉教授。第4回改組日展出品作「噴煙の島」により日本芸術院賞を受賞した。 滋賀県野洲郡守山町(現在の守山市)に生まれる。1927年に京都市立美術工芸学校(現在の京都市立美術工芸高等学校)図案科に入学し、山田江秀、山鹿健吉に学んだ。1932年に京都市立美術工芸学校を卒業し、1933年の第20回商工省工芸美術展図案部に創作図案「祭礼の図額」で、同年の第14回帝展に「大阪天満祭ノ図鑞染壁掛」でそれぞれ初入選を果たした。 1930年代には京都市展や工芸院展でも受賞を重ね、京都染織繍芸術協会にも参加した。
杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - … 杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - 1997年12月28日)は、昭和・平成期の日本史研究者である。 京都市埋蔵文化財研究所所長や、近畿大学理工学部教授を務めた。 京都府京都市下京区にて生まれる。ただし少年時代を過ごしたのは聖護院近く(現在の左京区)であった。 京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に京都高等工芸学校図案科を卒業する。 学校卒業後は京都府庁古社寺修理技手、法隆寺国宝保存工事事務所技手(1934年 - 1935年)、朝鮮総督府技手(1935年 - 1945年)、京都帝国大学→京都大学工学部助手(1945年 - 1952年)を経て、1953年より奈良国立文化財研究所勤務となる。
上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉1… 上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉11月4日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は日本画家。花鳥画の近代化に貢献し、文化功労者となりさらに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学教授。 本名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。未婚で松篁を出産した松園はその父について自ら語ることはなかったが、一部の書籍では松園の師の日本画家・鈴木松年が父であるとみなされている。松年が実の父であることは、松篁が著作中で明らかにしており、13歳のころに初めて松年を父と紹介されたとしている。 息子は同じく日本画家の上村淳之。 1902年(明治35年)、上村松園の長男として京都府京都市中京区四条堺町に生まれる。
深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年… 深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は植岡 隆逸(うえおか たかいつ)。 1901年(明治34年)1月22日、宮崎県に生まれる。実家は旅館業を経営していた。京都府立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)中退。 1926年(大正15年)5月、坪内士行(1887年 - 1986年)等の宝塚国民座の創立に参加し俳優となる。1929年(昭和4年)、松竹大阪の専属俳優となり、同年8月には大阪浪花座で旗揚げした関西歌舞伎の阪東壽三郎(1886年 - 1954年)を中心とする第一劇場に参加した。同劇場には小堀誠、吉田豊作、進藤英太郎、八雲恵美子などがいた。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4… 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は西山 夘三郞(にしやま うざぶろう、新字体:卯三郎)。 1879年(明治12年)に京都伏見に生まれる。1893年(明治26年)に 竹内栖鳳の門下に入り日本画を学ぶ。翌年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、若くして頭角を現して同門の西村五雲や橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せた。後に翠嶂は栖鳳の女婿となっている。その後京都市美術工芸学校に入学し日本画の更なる研鑽に励んだ。 1907年(明治40年)の第1回文展に「広寒宮」を出品して三等を受賞したのを皮切りに、その後の文展にも出品を重ねて受賞や特選が相次いだ。