スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
大熊 謙一(おおくま けんいち、1966年3月7日 - 20… 大熊 謙一(おおくま けんいち、1966年3月7日 - 2022年7月22日)は、日本の作曲家、編曲家。主にゲームミュージックを手掛けた。別名義におおくまけんいち、渋谷公園がある。埼玉県越谷市出身。 正則高等学校卒業、尚美音楽短期大学音楽情報学科中退。高校時代は軽音楽部に所属していた。 友人の岩垂徳行に誘われCUBEにアルバイトとして入社。これがゲーム制作に携わるきっかけとなる。1991年に溝口功と岩垂と共にツーファイブを立ち上げる。1996年の退社後も、同社の契約アーティストとして活動していた。 2022年7月22日に食道癌で死去したことが、契約していたツーファイブより発表された。56歳没。
中西 一善(なかにし かずよし、「なかにし いちぜん」とも … 中西 一善(なかにし かずよし、「なかにし いちぜん」とも 1964年4月19日 - )は、日本の政治家、元実業家。 父は株式会社ベンカン会長や東京商工会議所副会頭、日経連常任理事などを歴任した中西真彦(1930年1月10日 - 2018年8月17日)。 東京都大田区大森出身。正則高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業。旅行会社経営を経て、1997年7月の第14回東京都議会議員選挙に出馬し初当選する。2001年6月の第15回東京都議選では43886票を獲得して大田区でトップ当選。2003年の第43回衆議院議員総選挙では自民党公認で東京4区に出馬し、初当選。 2005年3月10日午前2時頃、東京六本木の路上で若い女性に抱きついてビルの壁に押しつけ、服の中に手を入れて胸を触ったとして警視庁麻布警察署に強制わいせつの現行犯で逮捕された。
尾形 純(おがた じゅん、1962年 - )は、東京都大田区… 尾形 純(おがた じゅん、1962年 - )は、東京都大田区出身の日本の画家、抽象画家。雅号を用い「尾形仮山」と記す事もある。祖父は伝統工芸の水戸の彫金家である大津陽信。 東京都大井で育つ。両親・兄の4人家族の次男。彫金家の祖父の影響から幼少より絵を描くことを好んだ。芝公園の正則高等学校を卒業後、1991年武蔵野美術大学短期大学部を卒業、和光大学人文学部芸術学科卒業を経て、東京藝術大学大学院美術研究科を修了。大学院の研究室では、坂本一道教授の研究室にて西洋の伝統的な絵画技法を研究。大学〜大学院時代より東京中野にある絵画保存研究所で勤務、絵画修復の実務にあたる。大学院修了後、和光大学で非常勤講師として教鞭を執る。
園田 明人(そのだ あきひと、1961年5月 - )は、日本… 園田 明人(そのだ あきひと、1961年5月 - )は、日本の心理学者(学習心理学)。学位は博士(心理学)(上智大学・1993年)。静岡県立大学国際関係学部教授・大学院国際関係学研究科教授。 静岡県立大学国際関係学部講師、静岡県立大学国際関係学部助教授などを歴任した。 1961年生まれ。1981年3月、正則高等学校を卒業する。国際商科大学(現東京国際大学)に進学し、教養学部の人間関係学科にて学ぶ。1986年3月、国際商科大学を卒業した。その後、立教大学の大学院に進学し、文学研究科の心理学専攻にて学ぶ。1988年3月、立教大学の大学院にて博士前期課程を修了する。それにともない、文学修士の学位を取得した。
宮川 知久(みやかわ ともひさ、1958年12月8日 - )… 宮川 知久(みやかわ ともひさ、1958年12月8日 - )は、日本の俳優。東京都出身。身長176cm、体重67kg、血液型はAB型。木山事務所俳優養成所5期生でPカンパニー所属。
桑野 信義(くわの のぶよし、1957年4月4日 - )は、… 桑野 信義(くわの のぶよし、1957年4月4日 - )は、日本のトランペット奏者、歌手、俳優、タレント。ラッツ&スターのメンバー。愛称は桑マン(クワマン)。 東京都大田区出身。ジャパン・ミュージックエンターテインメント(エキサイティング・トリガー)所属。長男はミュージシャンのMASA(桑野将直)、次男は俳優の桑野将春。 東京都大田区出身。父はプロトランペッターの先名信勝(本名・桑野信勝、1931年 - 2024年)。祖父は軍隊でラッパ手をしていた人物で、桑野曰く「ある意味、親子3代ラッパを生業とした家」。 父は1963年に放送のテレビアニメ『エイトマン』主題歌の演奏にトランペットで参加しており、信義自身も30年後にリメイクされたOVA『エイトマンAFTER』で主題歌のトランペット演奏および歌唱を担当している。
蔵 忠芳(くら ただよし、1955年11月28日 - 200… 蔵 忠芳(くら ただよし、1955年11月28日 - 2001年6月13日)は、日本の俳優である。『アッちゃん』、『コメットさん』などでの子役として知られる。本名同じ。 1955年(昭和30年)11月28日、東京都江東区亀戸に生まれる。小学校2年在学中の1963年(昭和38年)、テレビ映画『てんてこまい物語』に出演してデビューする。1965年(昭和40年)には『アッちゃん』に主演、一躍スター子役としてブレイクする。1967年(昭和42年)の九重佑三子主演版『コメットさん』では、弟役の河島明人とともにやんちゃな昭和の現代っ子像を描き出した。当時の同世代の名子役には四方晴美、宮脇康之、金子吉延、雷門ケン坊らがいた。
ハービー・山口(ハービー やまぐち、1950年1月20日 -… ハービー・山口(ハービー やまぐち、1950年1月20日 - )は、写真家、エッセイスト。 作家名の由来は、自身が傾倒していたジャズ・フルート奏者のハービー・マンから。 正則高等学校を経て東京経済大学経済学部卒業後、渡英。ロンドンでデビュー前のボーイ・ジョージと共同生活するなどして、ロンドンのミュージシャン達と交流した。 中山美穂、福山雅治、大江千里、THE BOOM、THE MODS、桑田佳祐、岡村孝子、稲垣潤一、BOØWY、ASKA、エレファントカシマシ、由紀さおり、林浩司などのCDジャケットを手がける。また、布袋寅泰のアルバム、『GUITARHYTHM』で8曲の英語詞での作詞を行った。写真集、エッセイ集発表の他、ラジオDJや俳優として映画出演などの活動も行う。
森田 健作(もりた けんさく、1949年〈昭和24年〉12月… 森田 健作(もりた けんさく、1949年〈昭和24年〉12月16日 - )は、日本の政治家、歌手、俳優、司会者、タレント。本名は、鈴木 栄治(すずき えいじ)。 千葉県知事(公選第18・19・20代)、文部政務次官(第2次橋本改造内閣・小渕内閣・小渕第1次改造内閣)、沖縄開発政務次官(第1次橋本内閣)、衆議院青少年問題に関する特別委員会筆頭理事、同文部科学委員会理事、衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)、自由民主党情報調査局長、21世紀クラブ代表、同幹事長などを歴任。 知事業務における法的書類には本名を使用した。タレントとしてサンミュージックに所属しており、同社に所属するタレントの1期生。また、千葉県知事退任後は同社最高顧問に就任。
中村吉三郎(なかむら きちさぶろう、本名:佐藤實(さとうみの… 中村吉三郎(なかむら きちさぶろう、本名:佐藤實(さとうみのる)、1949年10月21日 - )は、歌舞伎役者。屋号は「播磨屋」・定紋は「揚羽蝶」。東京都出身。日本大学芸術学部中退。
奥山 英志(おくやま えいし、1949年〈昭和24年〉5月6… 奥山 英志(おくやま えいし、1949年〈昭和24年〉5月6日 - 2011年〈平成23年〉4月10日)は、リポーター、ナレーター。圭三プロダクションを経てよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。血液型B型。 東京都出身。正則高等学校卒業。俳優・政治家の森田健作は同級生。当初はナレーターの仕事をしていたが、1982年にフジテレビジョンのワイドショー『3時のあなた』で事件現場を自らの足で取材する事件リポーターに転身。以後もフジテレビのワイドショーの『おはようナイスデイ』や『ビックトゥデイ』にてロス疑惑やオウム真理教など3,000件以上の事件を手掛けた社会派リポーターとして活動し、「元祖・事件レポーター」の異名をとった。
榊 寿之(さかき としゆき、1947年3月25日 - )は、… 榊 寿之(さかき としゆき、1947年3月25日 - )は、元NHKアナウンサー。 東京都出身。正則高校、早稲田大学法学部卒業後、1970年にNHK入局。初任地は釧路。現役時代は新潟、札幌、東京アナウンス室、名古屋などで勤務し、長く報道・情報番組で活躍してきた。エグゼクティブアナウンサーから日本語センター専門委員。役職定年に伴い、現在は日本語センターに完全移籍している。 ※後継は同じ日本語センターの栗田敦子
美川 憲一(みかわ けんいち、1946年5月15日 - )は… 美川 憲一(みかわ けんいち、1946年5月15日 - )は、日本の演歌歌手、俳優、タレント、シャンソン歌手である。
梅野 泰靖(うめの やすきよ、1933年〈昭和8年〉7月14… 梅野 泰靖(うめの やすきよ、1933年〈昭和8年〉7月14日 - 2020年〈令和2年〉8月25日)は、日本の俳優。本名同じ。 東京市(現東京都千代田区)神田出身。明治大学中退。劇団民藝に所属。 新児童劇団(現・劇団新児童)への在籍を経て、1951年、民藝少年劇の『山びこ学校』で主役デビュー。 大学中退後の1954年、劇団民藝へ入団。 第14回紀伊國屋演劇賞受賞。 たびたび三谷幸喜作品に起用されていた。 「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた。 2020年8月25日午前8時50分、老衰のため死去。87歳没。
五代目 春風亭 柳朝(しゅんぷうてい りゅうちょう、1929… 五代目 春風亭 柳朝(しゅんぷうてい りゅうちょう、1929年10月29日 - 1991年2月7日)は、東京市芝区(現:東京都港区)新橋出身の落語家。本名:大野 和照。生前は落語協会所属。出囃子は『さつまさ』。 旧制正則中学在学中に、志願して海軍に衛生兵として入隊。 その後は職を転々とし、1950年3月、五代目蝶花楼馬楽(後の八代目林家正蔵、林家彦六)に入門し小照を名乗る。翌1951年に一旦は転職するも、翌1952年に再入門。林家正太を名乗る。翌1953年5月、二ツ目に昇進し、照蔵に改名。1962年5月、真打に昇進し、五代目春風亭柳朝を襲名する。 亭号が「春風亭」になったのは、師匠が「林家正蔵」の名跡を七代目正蔵の遺族である初代林家三平より一代限りの条件で借り受けていたことから、三平に配慮して自分の弟子が真打に昇進したときは他の亭号に変えさせていたためである。
近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 199… 近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 1992年7月5日)は、東京都出身の歌手、作曲家、映画監督である。本名大蔵 敏彦(おおくら としひこ)。兄は新東宝、大蔵映画社長を務めた大蔵貢、姉はコロムビア専属歌手となった香取みほ子。孫にアイドルグループ「エレクトリックリボン」の元メンバー、ericaがいる。 正則中学校卒業。武蔵野音楽学校在学中に教授と進級試験の方法を巡って対立し、1936年(昭和11年)に退学した。タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷(すべ)ろよスキー」でレコードデビュー。ポリドール・レコード専属になるまで、マイナーレコードを転々とし、その間に大友博(リーガル)、大久良俊(アサヒ)など改名を重ねるが、ヒットに結びつく作品はなかった。
磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11… 磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11月9日)は、日本の哲学者。 東京出身。成蹊小学校、東京市立第一中学校、正則中学校、早稲田大学文学部哲学科卒、同文学部助教授、教授、85年定年、名誉教授。1966年『哲学逍遥 懐疑主義と動物的信』(ジョージ・サンタヤーナ)で日本翻訳文化賞受賞。
三谷 栄一(みたに えいいち、1911年7月8日 - 200… 三谷 栄一(みたに えいいち、1911年7月8日 - 2007年8月29日)は、日本の国文学者(中古文学)。学位は、文学博士(國學院大學・論文博士・1961年)。子息は日本文学者の三谷邦明。 1935年、國學院大學国文科卒業、1944年、青森師範学校教授、1949年、弘前大学教授、1950年、山梨県立図書館長、1953年、実践女子大学教授。1961年、「民族文学の成立に関する基盤的研究」で國學院大學より文学博士号取得、1987年、実践女子大を定年退職、名誉教授。2003年、勲三等瑞宝章受章。 平安朝の物語文学を中心として研究。特に狭衣物語についての業績がある。
仁戸田 六三郎(にえだ ろくさぶろう、1907年(明治40年… 仁戸田 六三郎(にえだ ろくさぶろう、1907年(明治40年)5月5日 - 1981年(昭和56年)4月2日)は、昭和時代の宗教哲学者、文学博士、早稲田大学名誉教授。 日本統治時代の台湾の台北にて生まれる。仁戸田家は佐賀藩士で、千葉氏の一族の末裔であった。1920年、不入斗尋常小学校を卒業。1925年、正則中学校を卒業。1928年、早稲田大学附属第二早稲田高等学院文科を卒業。1931年、早稲田大学文学部哲学科西洋哲学専攻を卒業後の1932年から同大学の非常勤講師となる。 1943年より助教授となり、1948年から1978年まで教授を務め宗教哲学の講義を行った。定年後に名誉教授となった。文化学院や駒沢大学、明星大学の講師も務めた。
安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年… 安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年9月16日)は、大韓帝国出身の作曲家、指揮者。本貫は順興安氏。 平壌出身。崇実中学校を修了後、1921年に渡日し正則中学校(現・正則高等学校)に入学、その後東京高等音楽学院でチェロを専攻した。 1930年渡米し、フィラデルフィアのカーティス音楽学校に入学、その後シンシナティー音楽学校でチェロと作曲を専攻した。1936年渡欧してウィーンへ留学し、アジア人で唯一リヒャルト・シュトラウスに学び、現在の大韓民国の国歌である愛国歌を作曲した。1939年、ブダペスト音楽学校に入学し、卒業後指揮者として各国を回り、ウィーン交響楽団、ベルリン交響楽団、ローマ交響楽団、ブダペスト交響楽団で指揮した。
知葉 友雄(ちば ともお、1905年6月2日 - 1974年… 知葉 友雄(ちば ともお、1905年6月2日 - 1974年4月13日)は、昭和初期の日本の元ラグビー選手。戦後は指導者としても活動した。 正則中等学校から明治大学へ進む。相撲部に在籍していたが北島忠治に誘われてラグビー部に入部。木元規矩男(後の九州ラグビー協会会長、RKB毎日放送副社長)とセカンドローを組み、活躍。4年連続で明早戦に出場し、1929年度には主将を務めた。 1930年の日本代表カナダ遠征に明治大学ラグビー部初の日本代表として選出され22人のメンバー中で唯一7戦全戦に出場。ブリティッシュコロンビア州代表戦でキャップ1を獲得した。 大学卒業後は、朝鮮総督府鉄道に入社しプレーを継続。1934年主将兼監督に就任。
金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳… 金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名は金村 春夫(かねむら はるお)など。日活大将軍撮影所や日活太秦撮影所などで長く活躍した、伊藤大輔監督映画の常連である。特技は乗馬、水泳、ビリヤード。 1904年(明治37年)3月27日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる。 1915年(大正4年)、11歳の時に養父である若月一郎の新歌劇の一座で初舞台を踏む。正則中学校(現在の正則高等学校)に進学し、学業の傍ら西野薫一座の芝居に参加する。 1922年(大正11年)、同中学校を卒業して日活向島撮影所に入社。金村春夫名義で数本の作品に出演。
横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 19… 横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 1936年8月28日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。本名同じ。撮影助手、撮影技師、助監督、監督、脚本家を経て、映画スターになった稀有な人材である。脚本家・俳優としての名は宇留木 浩(うるき ひろし)である。 1903年(明治36年)8月27日、東京市麹町区内幸町1-5(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子(本名・横田冬)である。 当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校(現在の正則高等学校)在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年(大正9年)に横浜の大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年(大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる。
大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975… 大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日)は、日本の考古学者。國學院大學教授。旧姓は谷川だが、昭和3年(1928年)、母方の大場家を相続し、以後、大場姓となる。楽石と号す。 古代日本の信仰あるいは精神世界に関心を持ち、神道や祭祀遺跡などの遺跡を研究した。中でも、神道考古学を体系化した。本人が「私の考古学はただの考古学ではない。考古民俗学(または民俗考古学)だ」と言うように、文献史学・民俗学・考古学三位一体のスケールの大きな古代日本の研究が特徴である。主著は『大場磐雄著作集』(全8巻)にまとめられている。
小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年… 小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年)3月18日- 1944年(昭和19年)1月11日)は、日本の囲碁棋士。東京出身、方円社、日本棋院、棋正社などに所属、八段。院社対抗戦などで活躍し、強腕で鬼田強太郎の異名を取った。登山家としても著名。 東京京橋に金融業を営む父を持って生まれ、8歳頃から父が打っているのを見て碁を覚える。9歳の時には当時14歳の加藤信に七子で打ったといい、また本因坊秀栄、吉田菊子などに教えを受け、1907年12歳から方円社塾生となる。その後関星月発起で少年囲碁会が催された際に、坊門で2歳下の小岸壮二と対戦するが4連敗で先相先に打ち込まれ、次いで頭山満の計らいで数度の十番碁を打つが定先に打ち込まれた。
羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20… 羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月30日)は、日本統治時代の台湾の官吏。群馬県勢多郡富士見村大字石井(現・前橋市富士見町石井)出身。台湾総督府中央研究所職員を経て、日本人最後の台南市長を務めた。台南市長在任中、第二次世界大戦中という時勢の中、赤崁楼の修復作業を進めたことで知られる。 羽鳥又男は1892年(明治25年)4月20日に富士見村の村長・羽鳥多三の四男として生まれた。1906年(明治39年)4月に石井尋常高等小学校(現・前橋市立石井小学校)を卒業、同年12月、東京私立正則予備学校(現・正則高等学校)にて中学校第二学年の修了証を得る。
前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4… 前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4月19日 - 1975年〈昭和50年〉3月14日)は、日本の建築家。位階は正五位。 逓信省・第一銀行勤務を経て独立。戦前から戦後にかけてモダニズムとは一線を画した作品を多く残す。「コンペの前健さん」の異名を取り、戦前の数々のコンペティションに入選したが、実施実現できたものは少ない。 加賀藩出身(士族)の父前田信兆は裁判官。父の赴任地福島で生まれる。 正則中学校(現・正則高等学校)から東京美術学校図案科第2部(東京芸術大学建築科の前身)に進学する。在校中、商工省輸出工芸図案展に出品し2等受賞。1916年(大正5年)東京美術学校卒業。 1917年(大正6年)逓信省経理課(のち逓信省営繕課)に勤務。
谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1… 谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1971年12月14日)は、日本の英文学者、小説家。早稲田大学教授。小説家谷崎潤一郎の弟。 東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋人形町)出身。谷崎倉五郎の二男。生家は母方の祖父が事業に成功したため、当初は裕福だったが、父が事業に失敗し、次第に零落、兄潤一郎は家庭教師をして糊口を凌いだが、精二は阪本尋常小学校高等科を経て工手学校(現在の工学院大学)に通った。卒業後は通信技手をしていたが、しかし兄の影響もあって文学を志し、国民英学会、正則予備校に通い、1909年、早稲田大学高等予科英文科入学、同期に広津和郎があり、坪内逍遥、相馬御風、島村抱月らの指導を受けた。
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12… 熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12月18日 - 1966年〈昭和41年〉6月11日)は、日本の皇位僭称者。大延天皇、または熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。 戦前は皇位や皇族を僭称することは不敬罪として処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。 熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - … 関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - 1959年6月28日)は、大正・昭和期の日本の建築家。 初期においてはユーゲント・シュティール風の作品、後には京王閣、聖蹟記念館などドイツ表現主義の要素も取り入れたモダンな作品を設計している。不動貯金銀行との縁が深く、全国の支店を建設した(今も数件が残る)。函館支店(1918年)の建設を機にして函館とのゆかりが出来、2度の函館大火(1921年、1934年)では被害調査にあたり、復興建築も手掛けた。第2次世界大戦後は主に埼玉県内の学校建築を設計した。 埼玉県秩父市に生まれ、秩父の街道沿いで旅籠を営む母の実家で育つ。1904年、秩父大宮尋常高等小学校を卒業し、秩父郡立農学校(現埼玉県立秩父農工高等学校)に入学。
岡見 義男(おかみよしお、1888年(明治21年) - 19… 岡見 義男(おかみよしお、1888年(明治21年) - 1963年(昭和38年))は、日本の造園家。園芸家。ラン栽培家、花卉装飾家。フラワーデザイナー。宮内省の宮廷造園や花卉装飾で活躍。この他恵泉女学園にて後進育成にもまい進する。東京生まれ。 園芸文化協会評議員、日本蘭協会顧問、全日本蘭協会顧問、浜松蘭友会顧問などを歴任。ラン栽培界に多大な功績をのこす。 1907年(明治40年)芝の旧制正則尋常中学校(現・正則高等学校)を卒業するが、病を患う。その後、宮内省内匠寮に入省し、新宿御苑に配属。 これは病気静養の後について、医師の勧めにより園芸を志したからで、当時上級の園芸学校がなく、やむを得ず新宿御苑を管理運営する宮内省に奉職したもの。
李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年… 李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年9月20日または1896年10月26日 - 1979年4月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、弁護士、検察官、裁判官、政治家。米軍政庁大法院長代理、第4代米軍政庁検事局検事総長、過渡政府大検察庁検察総長、初代法務部長官、制憲・第3・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は慶州李氏、号は愛山。李益斎の子孫で、性理学者の李寛俊は祖父、自彊会と大韓協会の中心人物だった李宗栄は父、独立運動家の李始栄(朝鮮語版)は叔父。元国会議員の李泰九(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚道大邱都護府(現・韓国大邱広域市)出身だが、先祖代々は慶州に在住。
加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日… 加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日 - 1943年〈昭和18年〉6月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。広島市会議長(19代)。広島市会副議長(27代)。 愛媛県新居郡新居浜村(現在の新居浜市)出身。加藤省吾の長男。 東京正則中学校、日本大学専門部法律科を修業。1908年より広島市に出て、日の丸電線株式会社広島出張所を経営するなどし、さらに広島市場信用組合専務理事を務めた。 1921年、広島市会議員に当選、同副議長、同議長、広島県会議員、同議長を歴任する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では広島1区(当時)から非推薦で立候補して当選した。当選後は翼賛政治会に入り、大政翼賛会広島県協力会議長、同中央協力会議員となった。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9… 岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9月13日 - 1939年(昭和14年)9月2日)は、社団法人の同盟通信社初代社長を務めた通信事業経営者。 東京市神田区駿河台に内務省衛生局局長(勅任局長)長與專齋の四男(第6子)として生まれる。7歳で母方の叔父に当たる岩永省一の養子となり、正則中学などを経て旧制第一高等学校を卒業する。1909年に京都帝国大学法科大学を卒業すると、内務省衛生局で父の部下だった後藤新平のコネで南満州鉄道株式会社に就職したが(1911年)、1917年に鉄道院へ移り後藤総裁(寺内内閣内相と兼任)の秘書官、次いで同院参事・文書課長となる。翌年、寺内内閣が総辞職すると鉄道院を退官して渡米、さらに新渡戸稲造や鶴見祐輔らとヨーロッパを訪問する。
福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月… 福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月25日 - 1948年(昭和23年)11月4日)は、日本の実業家、写真家。資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長。弟に写真家の福原路草がいる。 東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座)で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。 中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ。千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学。
上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月… 上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月11日 - 1973年〈昭和48年〉4月11日)は、日本の美学者。日本学士院会員、東京藝術大学名誉教授。 出典:(日本美術年鑑)・(百年史) 1882年(明治15年)、上野昭道の長男として神戸市に生まれた。慶應義塾幼稚舎、東京正則中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業。 1911年(明治44年)から1921年(大正10年)まで、美学者である大塚保治教授の主宰する東京帝大文科大学美学研究室の副手をつとめた。その在任中の1916年(大正5年)に東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得て、絵巻物の調査研究に当たった。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月… 佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。 旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。
13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治1… 13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治12年)11月21日 - 1966年(昭和41年)9月4日)は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家13代、貴族院多額納税者議員。旧姓・江角、旧名・徳次郎。 島根県出雲郡原鹿村(現出雲市斐川町原鹿)で、地主・江角勝太郎の二男として生まれた。1900年、東京正則中学校を卒業し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、1901年に鉄師糸原家12代・絲原武太郎の養子となり中退した。1911年、養父の死去に伴い家督を継承し武太郎を襲名した。 家業の製鉄業を1922年に廃業し、新たな事業として、先代が推進した植林を継続する中で製炭に着目して、島根木炭として関東地方にも出荷した。
上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - … 上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - 1940年5月8日)は日本の経営学者、経済学者。経営学という概念を命名・提唱した。1937年、帝国学士院会員。1932年、勲二等瑞宝章。1940年、正三位勲二等旭日重光章。 上田家は祖父の代まで町人であったが、父上田章が漢学をやったために、士族に引き上げられた。 旧制正則中学校(現正則高等学校)を経て、1902年に高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒、同年福田徳三に師事。卒業後イギリスやドイツ等に留学し、アシュレーやシドニー・ウェッブ夫妻等の下で学ぶ。1919年、法学博士。1925年、如水会常務理事。 1902年、高等商業学校嘱託講師となり、1905年に同教授。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日… 吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓:竹内(たけうち)。 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松學舎大学舎長(第5代)、日本自由党総裁(第2代)、民主自由党総裁、自由党総裁(初代)を歴任した。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(… 長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(明治11年)4月6日 - 1941年(昭和16年)8月16日)は、日本の病理学者、男爵。癌研究の世界的権威。号は雷山。 1878年、医学界の重鎮・長與專齋の三男として東京神田で生まれた。慶應義塾幼稚舎、正則学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に進学。1904年12月に卒業。その後、医学修行のためドイツのフライブルク大学に留学した。 1910年に帰国し、東京帝国大学助教授に就いた。翌年に教授に小学し、病理学講座を担当した。夏目漱石の主治医でもあり、1916年に漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。
樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1… 樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1949年)は、日本の橋梁技術者。構造家。 設計思想のうち橋梁については「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」と、外観の重要性を強調している。 新常盤橋、一石橋、神宮橋、三原橋、鍛冶橋、今川橋、九道橋、高橋、二ノ橋、猫俣橋、羽衣橋、荒川鉄管橋、中川鉄管橋、安倍川橋、犬山橋、大井川橋、南旨橋、鼎岩橋、水郷大橋、境橋、南洋町パラオの橋梁、日本橋呉服橋、大阪四ツ橋、富士川橋など、後世に残る著名橋梁の設計や、日本製鉄工場貯炭場起重機設計など、多くの構造設計に関わったことで知られる。
神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2… 神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2月27日) - 1923年(大正12年)12月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。
外山 正一(とやま まさかず、1848年10月23日(嘉永元… 外山 正一(とやま まさかず、1848年10月23日(嘉永元年9月27日) - 1900年(明治33年)3月8日)は明治時代の日本の社会学者、教育者。文学博士。号は丶山(ちゅざん)。
玄田 哲章 は、日本の声優、舞台俳優、ナレーター。岡山県出身… 玄田 哲章 は、日本の声優、舞台俳優、ナレーター。岡山県出身。81プロデュース所属。既婚。デビュー当時は、本名の横居 光雄 名義で活動していた。
高村 智庸 は、日本のテレビリポーター、元俳優。芸名: 高… 高村 智庸 は、日本のテレビリポーター、元俳優。芸名: 高村玄二。
章 士釗(しょう ししょう)は中華民国の政治家・革命家・教育… 章 士釗(しょう ししょう)は中華民国の政治家・革命家・教育者・ジャーナリスト。清末は華興会に属する。北京政府で教育総長などの要職についた。字は行巖。筆名は黄中黄、爛柯山人、弧桐、青桐、秋桐など。 1901年(光緒27年)、武昌の両湖書院で学ぶ。その後、朱啓鈐の塾で教師の1人となった。翌年、南京陸軍学堂で軍事を学び、上海愛国学社に加入する。1903年(光緒29年)5月、上海で『蘇報』の編修となり、冬には、黄興らと華興会を組織した。 1905年(光緒31年)、章士釗は日本へ渡り、正則学校で英文を学び、法政大学法政速成科に入学する。1908年(光緒34年)、エディンバラ大学に留学して、法律・政治を学んだ。
富山 敬 は、日本の声優、俳優、歌手。ぷろだくしょんバオバブ… 富山 敬 は、日本の声優、俳優、歌手。ぷろだくしょんバオバブ最終所属。