西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月… 西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月27日 - 1934年(昭和9年)9月18日)は、日本の実業家。福井県を人絹織物王国にした立役者。福井県今立郡岡本村(現・越前市定友町)にて、西野市兵衛(源助)の四男として誕生。 福井撚糸染工を経て福井精錬加工(現在のセーレン株式会社(英: SEIREN CO.,LTD.))、福井紡績(現在のダイワボウホールディングス株式会社)などを設立し、代表を務める。 1932年(昭和7年)に福井人絹取引所を開設し初代理事長となる。1934年(昭和9年)9月18日死去。享年57歳。福井県多額納税者、没後に正六位の位記を追賜。
山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)… 山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)12月26日 - 1958年(昭和33年)2月2日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。極洋捕鯨(現・極洋)の創業者である。 東京府京橋区新富町(現・東京都中央区)で、警視庁勤務・山地享吉の長男として生まれる。山地家は土佐国安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)の出身で、先祖代々「津呂組」という鯨組の株主だった。父が西南戦争従軍後、一家は1880年(明治13年)に高知県へ帰郷した。土佐太郎は1888年(明治21年)、安芸郡羽根尋常小学校を卒業。同県土佐郡第一高等小学校に進学したが、父の死去に伴い1891年(明治24年)に高等小学校を中退し、家業に従事した。
鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 -… 鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 - 1943年4月8日)は中華民国の司法官、政治活動家。江蘇高等法院第二分院首席検察官、鄭蘋如の父。鄭英伯、鄭越原とも言う。 1878年、浙江省蘭渓県に生まれる。1906年に日本に留学し、岩倉鉄道学校に入学する。同時期に政治結社の中国同盟会に入会する。岩倉鉄道学校を中退し、法政大学法政速成科に入学し、法政速成科を卒業後、専門部法律科に進学し、1912年に卒業する。留学中に、木村はな(鄭華君)と出会い、結婚する。 1916年に上海に帰国し、律師(弁護士)資格を取得する。1919年、陝西靖国軍に参加し、一等秘書に任命される。陝西靖国軍解散後は、上海に戻り、律師をしながら、復旦大学で法学を教える。
前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 -… 前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 - 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。グレイシー柔術の祖。本名・旧名前田 栄世(まえだ ひでよ)。ブラジル帰化後の本名はオタービオ・ミツヨ・マエダ。1908年にスペインで得た通り名コンデ・コマ(Conde Koma)の名でも知られていた。 青森県中津軽郡船沢村(のちの弘前市)出身。1895年(明治27年)、青森県第一中学校(青森県尋常中学校)(のちの青森県立弘前高校)に入学、運動委員の一員として同校の柔術部創設に関わったことで、旧弘前藩の柔術師範である斎藤茂兵衛(本覚克己流)への師事も指摘される。1995年の講道館機関誌『柔道』で青森県柔道連盟総務理事の岡本一雄は、前田は本覚克己流の免許を在学中に得た、と述べている。
野間 清治(のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17… 野間 清治(のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17日 - 1938年〈昭和13年〉10月16日)は、明治から昭和時代前期の日本の実業家、剣道家。講談社創業者、元報知新聞社社長。「雑誌王」と呼ばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。 父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母の文は森要蔵の長女である。清治も剣道に励んだが、1912年(明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。
伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)1… 伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)12月17日 - 昭和15年(1940年)12月17日)は、衆議院議員(4期)、鉄道実業家。昭和会所属。 三重県河曲郡、のちの河芸郡若松村(現鈴鹿市)出身。慶應義塾で学ぶ。 若松村長、三重県会議員、三重県参事官、三重県議会副議長を経て、三重県会議員議長(26代)を歴任。鉄道会議員となり、伊勢鉄道会社社長、その後の伊勢電鉄株式会社取締役。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以降3回当選)。のちに昭和会の結成に参加し、所属する。 他には、「開国曙光碑」の発起人となる。 五私鉄疑獄事件で贈賄罪で公判に付される。
安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月1… 安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月14日 - 1950年〈昭和25年〉)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 大分県宇佐郡若林村(津房村、安心院町を経て、現宇佐市)出身。安倍寛吾の四男。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1928年(昭和3年)3月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第8連隊長、1930年(昭和5年)8月に近衛師団兵器部長を経て、1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 退役後は軍需会社顧問を歴任した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
高橋 其三(たかはし きぞう、1878年(明治11年)12月… 高橋 其三(たかはし きぞう、1878年(明治11年)12月13日 - 1934年(昭和9年)11月23日)は、日本の宮内官僚。判事、検事。宮中顧問官。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)出身。旧高遠藩士・山崎就正の次男に生まれ、のち高橋佐次郎の養子となる。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり、東京区裁判所検事代理、東京地方裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所判事、横浜区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事を歴任。1913年(大正2年)、帝室会計審査官に転じ、帝室会計審査局主事、宮内事務官、内匠寮経理課長、宮内書記官、帝室林野局次長を歴任した。
谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月… 谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月9日 - 1951年(昭和26年)9月16日)は、日本の台湾総督府官僚、政治家、実業家。衆議院議員。 富山県下新川郡仏田村(現富山県魚津市)で、谷平吉の長男として生まれ、1897年4月、谷順平の長女・寿意と結婚し婿養子となる。第四高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年8月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1906年2月、台湾総督府に入り、同属、同専売局書記、同事務官、同脳務課長などを歴任した。1913年に退官。 1915年3月、第12回衆議院議員総選挙に富山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年… 与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほうまたはおおとり)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人の与謝野鉄幹。 雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。 鳳志やうは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東一丁・甲斐町西一丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。
米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12… 米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12月7日 - 1948年1月9日)は、大正から昭和前期の日本の新聞記者、ジャーナリスト、外交評論家、国際法学者、外交史学者。東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)論説委員長、同社編集顧問、同社初代外報部長。明治大学、立教大学で教授を務め、東京商科大学(現・一橋大学)、法政大学等でも講じた。専門は外交史。法学博士。別名(筆名)米田切水。20世紀前半の日本を代表する国際問題評論家である。 1878年(明治11年)12月7日、福岡県久留米に生まれる。 1893年(明治26年)、中学明善校を中退して上京する。立教学校(現・立教大学)、国民英学会で学ぶ。
大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)… 大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、日本の物理学者、実業家。 東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。身長は180cmと長身だった。妻は大河内信古の娘で、婿養子となった。息子は大河内信威、大河内信定、大河内信敬。孫の一人に女優の河内桃子がいる。無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。 旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家(江戸時代前期に活躍し、「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平伊豆守信綱の子孫の家系で、大多喜藩主家の遠縁)の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える。
安藤 幸(あんどう こう、1878年(明治11年)12月6日… 安藤 幸(あんどう こう、1878年(明治11年)12月6日 - 1963年(昭和38年)4月8日)は、日本における洋楽界揺籃期のヴァイオリニスト。幸田露伴、幸田延の妹。 東京府下谷区(現・東京都台東区)生まれ。1881年から西川喜舞に日本舞踊を、1883年から初代山勢松韻に箏曲を、1888年の10歳の頃からルドルフ・ディットリヒにヴァイオリンを習い、1896年東京音楽学校(現東京芸術大学)本科器楽部を卒業。同校研究科に進学。ディットリヒ、姉の幸田延(1895年にウィーン留学から帰国)、アウグスト・ユンケル(1899年に来日)らに学んだ。音楽学校時代に仲の良かった同級生として作詞家の東くめ(代表作に「お正月」「鳩ぽっぽ」など)がいる。
前田 慎吾(まえだ しんご、1878年〈明治11年〉12月5… 前田 慎吾(まえだ しんご、1878年〈明治11年〉12月5日 - 1966年〈昭和41年〉6月23日)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 鹿児島県給黎郡喜入郷麓(揖宿郡喜入村、喜入町を経て、現鹿児島市)に生まれる。1907年(明治40年)、京都帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格した。陸軍第13師団法官部理事、警視庁警視・四谷警察署長、東京府荏原郡長、同理事官、青島守備軍民政部事務官、愛知県産業部長、岐阜県内務部長、岩手県内務部長を歴任した。 1933年(昭和8年)に官を辞し、翌年に大牟田市長に選ばれた。退任後の1940年(昭和15年)からは鹿児島市助役を務めた。晩年は郷里の指宿温泉の発展に尽力した。
矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 196… 矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 1969年6月23日)は、日本の地球科学者。東京生まれ。東北大学名誉教授。東京大学卒業。
高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 196… 高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 1967年9月4日)は、日本の朝鮮学者。 1878年、新潟県中魚沼郡川治村の大字高山一番地に、父・高橋茂一郎、母・きいの長男として生まれた。1898年、第四高等学校を卒業すると東京帝国大学文科に入学し、漢文科で学んだ。1902年、同大学を卒業。卒業論文は『漢易を難して根本博士の易説に及ぶ』であった。 卒業後の同1902年、九州日報の主筆となり、博多に移った。しかし、1903年に大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となった。1909年、『韓語文典』を、1910年、『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し、寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し、採用された。
月村清次郎(つきむら せいじろう、1878年12月3日 - … 月村清次郎(つきむら せいじろう、1878年12月3日 - 1942年1月28日)は日本の弁護士、裁判官。 静岡県君沢郡(現在の三島市)で商家の長男として生まれる。上京して旧制第一高等学校に入学するも、祖父の意向により中退を余儀なくされる。1896年、学費を貯めて東京専門学校(現在の早稲田大学)へ入学する。ここで、同学の講師であり、実質的な創立者の一人であった高田早苗に薫陶を受ける。また、在学中、新美卯一郎と親交を深める。1901年、一度の浪人の末に判事検事登用試験に合格する。裁判官として任官し、宮城県の仙台地方裁判所へ赴任する。1904年、司法省参事官の娘と結婚。しかし、仕事の都合もあり、衣食を共にすることは少なかったという。
作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを… 作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを「そういち」とするのは誤り 1878年12月1日 - 1973年2月9日)は、日本の経済学者。満洲建国大学初代副総長、同名誉教授。経済学博士。作田啓一(京都大学名誉教授)の父。戦前日本における統制経済の権威である。 山口県に藤本家の5男として生まれる。藤本家の家計の都合により高等小学校から上級学校への進学が困難であったため作田家の養子となり作田姓となる。山口高等学校(旧制山高)を経る。1905年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。1908年から1911年まで、中国の武昌湖北法政学堂(現在の武漢大学法学院)で経済学を教える。高等文官試験に合格し逓信事務官となる。
結城弘毅(ゆうき こうき、1878年12月 - 1956年)… 結城弘毅(ゆうき こうき、1878年12月 - 1956年)は、鉄道省(国鉄を当時運営)の局員であった人物。
久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11… 久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11月30日 - 1957年(昭和32年)8月18日)は、日本の政治家、鉄道官僚、弁護士。衆議院議員(2期)。仙台鉄道局長等を歴任。 鹿児島県徳之島亀津(現在の大島郡徳之島町)生まれ、出身。鹿児島高等中学造士館補充科、予科を経て、学校制度の変更により鹿児島県立尋常中学造士館を1897年(明治30年)に卒業。熊本の第五高等学校を1900年(明治33年)に卒業して、東京帝国大学法科大学へ進学。泉二新熊は高等中学予科、高等学校、大学での先輩で、第五高等学校時代には熊本の丹後寺に同宿した。また、法科大学では、泉二に相談して助言を受け、独法科を選んだ。
長島 隆二(ながしま りゅうじ、1878年(明治11年)11… 長島 隆二(ながしま りゅうじ、1878年(明治11年)11月29日 - 1940年(昭和15年)10月8日)は、日本の大蔵官僚、衆議院議員(立憲同志会→革新倶楽部→立憲政友会)。桂太郎の娘婿。
寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月… 寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人 日本派。吉村 冬彦(1920年から使用)、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)の筆名も使用している。俳号寅日子。高知県出身(出生地は東京市)。 東大物理学科卒。熊本の五高時代、物理学者田丸卓郎と、夏目漱石と出会い、終生この2人を師と仰いだ。東大入学後、写生文など小品を発表。以後物理学の研究と並行して吉村冬彦の名で随筆を書いた。随筆集に『冬彦集』(1923年)などがある。 1878年(明治11年)11月28日東京市麹町区(現在の千代田区)に高知県士族(旧足軽)寺田利正・亀夫妻の長男として誕生。
緑川 兼吉(みどりかわ けんきち、1878年〈明治11年〉1… 緑川 兼吉(みどりかわ けんきち、1878年〈明治11年〉11月26日 - 1906年〈明治39年〉6月1日)は、青森県平川市(旧南津軽郡)出身で高砂部屋、中村部屋(大坂相撲時代)に所属した元大相撲力士。本名は一戸 兼吉。身長173cm、体重89kgと小兵だった。 1894年1月初土俵(序ノ口)。1899年1月新十両。十両では順調に勝ち星を重ね、1900年1月には6勝2敗の成績で優勝相当成績を挙げた。 しかし、翌1900年5月新入幕を果たすも、突然脱走。大坂相撲に加入して相撲を取っていたが、1904年5月にまたも脱走し、源氏山頼五郎一派に加わって各地を巡業した。1906年5月になって漸く帰参を許されたが、脳充血に罹り、6月1日に27歳で急死した。
宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月2… 宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員。
宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月2… 宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員。 三重県一志郡八ツ山村(後に白山町、現在は津市)の村長で酒造を営む素封家宮田宇吉の長男として、同村八対野の屋敷に於いて生まれる。愛知一中、三高、帝国大学法科大学卒業(のちの東京大学法学部)。 貴族院官僚として奉職するも、衆議院議員として三重県より立候補、その後は貴族院勅選議員として活躍した。原敬首相の目にとまり1919年(大正8年)6月28日、福島県知事として赴任。1922年(大正11年)6月12日に加藤友三郎内閣で内閣書記官長として抜擢され、福島県知事を退任し、大腸癌を患う加藤友三郎首相にかわり国政を取り仕切る。
岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23… 岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23日 - 1968年(昭和43年)4月1日)は、日本の外交官。幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官。東京帝国大学卒業。秋田県出身。 岸太右衛門の長男として生まれる。東京帝国大学卒業後、外務省に入省し、内閣調査局調査官、在アントワープ領事を経て1940年(昭和15年)に幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官となる。東京帝国大学時代は内閣総理大臣を歴任した広田弘毅と同期であった。 また私生活では正則英語学校の校長である斎藤秀三郎の長女・ふみと結婚し1男4女を儲ける。 1968年(昭和43年)4月1日、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年… 斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年)11月20日 - 1951年(昭和26年)7月22日) は、日本の法学者。和議法、破産法の権威者で、神戸商業大学、京都帝国大学の各教授、会津短大学長を歴任した。「和議制度の研究」で、法学博士(京都帝国大学)。日本学士院会員。 実務経験を有する研究者であり、判事時代に著した『注釈訴訟記録』は実務家、研究者双方に貴重な著作として扱われた。日本の民事訴訟法は1890年(明治23年)に制定されたが、その学問的研究が発展を遂げるのは大正中期以降であり、斎藤はその先駆者の一人である。『日本破産法』は1922年(大正11年)制定された(新)破産法に関するもので、同法に関する書として加藤正治の『破産法要論』と並ぶ代表的著作である。
乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年… 乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年11月19日 - 1947年2月1日)は、明治から昭和期の文部官僚・教育者。日本に社会教育を体系的に紹介した人物とされている。 富山県出身(出生地は東京)。礪波市出町眞壽寺壽貞の次男。兄は乗杉教存である。 1904年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、同大大学院に進学して実践哲学を研究するが、同年秋より文部省に招かれて普通学務局に配される。 1909年に第五高等学校教授に就任する。 1913年に文部省に復帰して督学官に就任、1917年には教育と教授法研究のためにアメリカ・イギリスに1年半留学、更にフランス・イタリアの教育事情を視察して帰国した。
荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11… 荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11月18日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、日本の電気工学者。位階は正三位。九州帝国大学総長。工学博士。 神奈川県横浜生まれ。荒川省吾の長男。1886年、日本組合番町教会で小崎弘道から受洗。高等学校時代に信仰告白をなし、日曜学校教師、オルガニストとして活躍。後に福岡組合基督教会(現、日本基督教団福岡警固教会)に移り、福岡女学院理事長、日本基督教団常議員をつとめた。 九州帝国大学教授、同大総長の他、九州タイムズ社長も歴任する等、西日本での電気工学界の中心人物として活躍する。1946年3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年5月2日まで在任した。
川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月1… 川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月16日 - 1953年(昭和28年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、川原甚左衛門の三男として生れる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1904年(明治37年)6月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に出征した。 1906年5月、第6師団副官に就任。歩兵第45連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官を経て、1917年(大正6年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第10連隊付となる。
工藤治人(くどう はると、1878年11月16日 - 196… 工藤治人(くどう はると、1878年11月16日 - 1963年10月13日)は、日本の実業家。日産自動車社長。 日本独自のたたら製鉄の近代化に大きな足跡を残した。具体的には、砂鉄と木炭を回転式電気炉に入れて海綿鉄を製造する方法を開発し、旧日本軍の軍需用特殊鋼原料や日本で初めての本格的な高速度工具鋼製造普及に応用した。日本のものづくりの精神として「誠實生美鋼」という言葉を残し、日立金属安来工場には自筆の書が残されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治1… 実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治11年)11月15日 - 1947年(昭和22年)5月23日)は、日本の政治家、実業家、農業経営者。衆議院議員、福岡県嘉穂郡宮野村長。 福岡県嘉麻郡宮吉村(現嘉麻市宮吉)で、宮野銀行頭取・実岡半三郎の長男として生まれる。小学校卒業後、検定で資格を取得し代用教員、准教員、小学校訓導を15年間務めた。 その後、宮野村長、宮野村会議員、嘉穂郡会議員、同郡農会長、福岡県会議員、同県農会評議員、同県山林会評議員、地方森林会議員、消防組頭、福岡県消防評議員、宮野信用組合長、宮野銀行取締役頭取、大隈酒造 (株) 取締役などを務めた。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に福岡県第二区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11… 逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11月13日 - 1949年〈昭和24年〉2月11日)は、日本の医師、歌人、政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)。他の筆名に逢坂 蘭翠がある。 1878年11月13日、徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる。1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ。 1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる。
三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月1… 三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月12日 – 1949年(昭和24年)2月12日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県厚狭郡、のちの厚南村(現宇部市)で、豪農・三隅城介の長男として生まれる。山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。 1902年(明治35年)厚狭郡青年会を組織し、農会の活動にも参画した。1912年(明治45年)長門銀行の第3代頭取に就任し、1918年(大正7年)まで在任。その他、宇部軽便鉄道取締役、船木軽便鉄道取締役、美弥軽便鉄道監査役、山口県農会副会長、厚狭郡農会長、防長米同業組合副組長などを務めた。 政界では、山口県会議員、同参事会員を務めた。
大竹 謙治(おおたけ けんじ、1878年〈明治11年〉11月… 大竹 謙治(おおたけ けんじ、1878年〈明治11年〉11月12日 - 1956年〈昭和31年〉12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県頸城郡(のちの中頸城郡)大瀁村(現・上越市頸城区)出身。東京高等商業学校で学ぶ。中頸城郡議、同参事会員、頸城鉄道、頸城倉庫各(株)社長、(財)高田病院理事長となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において新潟4区から立候補したが次点で落選した。1956年に死去した。
石橋 長右衛門(いしばし ちょうえもん、1878年〈明治11… 石橋 長右衛門(いしばし ちょうえもん、1878年〈明治11年〉11月10日 - 1937年〈昭和12年〉10月31日)は、日本の政治家、実業家、島根県の大地主。雲陽実業銀行取締役。松江銀行監査役。族籍は島根県平民。 出雲国簸川郡古志村に生まれる。石橋助市の長男。幼い頃に父母が亡くなり、祖父母の鞠育を受け成長する。1881年、家督を相続する。1899年、青年実業会を起し、その会長となる。 1901年、村民の輿望を受け、村長に選任され、村政を統治する。古志貸金合名会社を創起し、その社長となる。古志銀行、雲陽実業銀行各取締役、松江銀行監査役などをつとめる。 住所は島根県簸川郡古志村(現・出雲市)。 石橋家は旧幕時代に累代組頭及び下郡役を勤め、苗字帯刀を許された閥閲で、郷党に推重された。
礒川 重作(磯川 重作とも、いそかわ しげさく、1878年〈… 礒川 重作(磯川 重作とも、いそかわ しげさく、1878年〈明治11年〉11月7日 - 1956年〈昭和31年〉12月26日)は、日本の教育家である。 東京府の生まれ。東京高等師範学校(現在の筑波大学)卒業後、東京府南多摩郡町田村(現在の東京都町田市)日新小学校の教師を務める。 その後同学校の校長を経て1902年(明治35年)から31年間、稲城第一小学校の校長を務め、地域教育の近代化に貢献した。校長就任中は徳富蘇峰の秘書であった並木仙太郎らと共に、蘇峰の葬儀に出席した。1956年(明治31年)に78歳で亡くなった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年… 川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。川喜田久太夫16代目。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。実業家としては、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行各頭取等を務めた。 大阪市東区本町で生まれ、津市の川喜田家の本宅で育つ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となり、久太夫(政令)を襲名。
大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)1… 大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)11月3日 - 1948年(昭和23年)4月28日)は、浄土真宗の僧で、真宗大谷派連枝。東洋学者。第13代大谷大学学長。院号は能浄院。別号は「禿庵」。 1878年、東本願寺第22世法主・大谷光瑩(現如)の次男として生まれた。幼名は英麿(ふさまろ)。父の意向で11歳から17歳まで親元を離れて上京し、福沢諭吉家で薫陶を受けた。1897年(明治30年)、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。 翌1898年(明治31年)、21歳で布教のため大谷勝信とともに日清戦争直後の中国上海や台湾に赴いて、台湾南支布教総督に就任。布教活動の第一線に立った。 3年間布教活動に従事した後、新知識を求めてイギリス・オックスフォード大学マンチェスターカレッジに入学し、3年間を過ごした。
佐藤 亀太郎(さとう かめたろう、1878年〈明治11年〉1… 佐藤 亀太郎(さとう かめたろう、1878年〈明治11年〉11月1日 - 1955年〈昭和30年〉6月25日)は、日本の政治家。帯広市長(3期)。 1878年(明治11年)、秋田市に生まれる。1905年(明治38年)に法政大学法律科を卒業する。東京府庁を経て、北海道庁に勤務する。桧山支庁長、後志支庁長を歴任後、1922年(大正11年)に退官する。 退官後、北海道製糖(現・日本甜菜製糖)に入り、常務取締役に就任する。1930年(昭和5年)から帯広町会議員、帯広市会議員を合わせて4期務める(このうち3期は議長)。 1947年(昭和22年)、帯広市長選に当選し、初の民選市長に就任する。3期連続当選するも、任期途中の1955年(昭和30年)に死去。
羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 192… 羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 1929年8月31日)は、日本の性科学者。 山形県山形市出身。文学に憧れながら医師を志し、済生学舎卒業、1900年(明治33年)医術開業試験に合格、故郷で開業するがのち上京し文筆活動をしながら医学研究を行い、1912年(明治45年)から一年半ドイツに留学して医学博士の学位を得、生理学を学び、1914年(大正3年)、神田小川町に泌尿生殖器科医院を開業。1920年(大正9年)に『性慾と人生』を創刊(-1921年)、多くの通俗性科学書を著した。その後本郷にいづま医院内で活動。文芸、芸術にも造詣が深く、当時の西欧における性科学の発達に応じて、性欲を中心とし、恋愛、売春、避妊、自慰など、当時変態性欲とされていたものなどを啓蒙的に縦横に論じた。
千明 賢治(ちぎら けんじ、1878年11月 - 1943年… 千明 賢治(ちぎら けんじ、1878年11月 - 1943年6月21日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル、華厳滝エレベーター株式会社で社長を務めた。上毛電力株式会社、上毛森林土地株式会社各取締役。千明牧場の創設者。 1878年11月、群馬県出身。片品村村長を務めた千明森蔵の長男。1900年に中央大学法律学科を卒業したのち1903年に渡米し、畜産と電力事業を視察した。1905年、片品村東小川の山林6009町歩および平川の山林6659町歩を払い下げ、1907年に畜産振興を目的とし白根に牧場を開設、岩手県より農耕馬30頭と牛20頭を購入し片品村の牛馬改良に努めた。1911年より電力事業に着手し、片品村一帯の発電用水利権を得ると、1925年に大川平三郎と上毛電力株式会社を設立し、6か所の発電所を建設。
下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)1… 下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)10月30日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の実業家。大阪府平民。 大阪府下・下河辺俊斎二男。大阪商業学校(現・大阪市立大学)卒業後、大阪百三十銀行に就職。兵役のため銀行を辞め、その後藤田組の小坂鉱山で働く。そこで藤田組創立者の甥である久原房之助を知り、久原が興した久原鉱業の一員として同社が買収した日立鉱山で働く。久原が病に倒れ久原鉱業が日本産業として再建されると、専務として新社長の鮎川義介を支える。のちに日本鉱業(現・ENEOS)の社長、日産農林工業(現・兼松サステック)の会長等を歴任した。 戦後、公職追放となった。
南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - … 南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - 1975年10月2日)は、日本の実業家。 兵庫県灘(現・神戸市)に生まれる。父は元加賀藩士の南郷茂光、兄に講道館2代館長の南郷次郎、弟に画家の九里四郎がいる。 1900年(明治33年)、高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。高商在学中は柔道部を創設するなどスポーツ面でも活動した。卒業同年に日本綿花(現・双日)に入社。1932年(昭和7年)に日本綿花社長に就任する。その後、尼崎土地をはじめ複数の企業で社長を歴任した。団体役員としては、日中輸出入協会理事長、日本貿易振興会会長、貿易統制会長、財団法人日本貿易振興協会副会長などを務めた。 1918年(大正7年)にアキレス腱断裂の怪我を負い、そのリハビリとしてゴルフを始める。
中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10… 中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 - 1920年(大正9年)8月9日)は、日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。 長野県伊那郡大草村(現・中川村)出身。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家であった。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に入学し、2年上の窪田空穂(後に歌人)、1年下の吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つようになる。中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学。ここで次第に西洋文学に興味を持つようになり、特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。
中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1… 中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1946年4月9日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。本名は茂一。 長野県北佐久郡三井村(現佐久市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1899年東京専門学校(現早稲田大学)卒業。坪内逍遥の門下生としてシェイクスピアを研究し、文学評論や海外文学の紹介などを新聞や雑誌に執筆した。『明星』『新小説』『読売新聞』等に文学評論を書き、1904年小説「新気運」を発表。1909年後藤宙外らと文芸革新会を組織して反自然主義をとなえ、島村抱月と対立。のち児童もの・歴史ものに移った。 グリム童話『赤ずきん』において「赤ずきん」という邦題を初めてつけたのは中島孤島であろうと言われている。
吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 19… 吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 1964年4月15日)は、日本の寄生虫学者。大阪大学名誉教授。
磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治1… 磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治11年〉10月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月31日)は、日本の実業家・政治家(貴族院議員、神奈川県会議員、衆議院議員)、商人(丸二商会、貿易商)、神奈川県多額納税者。 神奈川県橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田吾山の四男で、上郎清助の弟。生家の吉田家は醤油醸造業を営んでいた。磯野國四郎の養子となり1920年、分家した。 1900年、横浜商業学校を卒業し横浜正金銀行に入った。陸軍三等軍吏に任ぜられ第1師団経理部部員として日露戦役に従軍、陸軍二等主計に任ぜられた。輸出入商・丸二商会を起し経営した。貿易商を営んだ。 1928年の第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)で神奈川県第一区から立憲政友会所属で立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。
松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年… 松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年)10月24日 - 1935年(昭和10年)5月2日)は、日本の国語学者、文法学者。文学博士。國學院大學教授。号は曲水。 1878年、静岡県磐田郡下野部村(野部村、磐田郡豊岡村を経て、現在は磐田市)生まれ。父・久三郎は野部村村長。 明治19年(1886年)4月、野部尋常小学校(現・磐田市立豊岡北小学校)初等二級生に入学。同級生に河合亀太郎(日本薬剤師会会長、薬学博士)がいた。明治21年(1888年)2月、同校を卒業。 明治22年(1889年)7月、二俣高等小学校に進学。少年時代には落合直文・小中村義象共著の『中等教育日本文典』と『スキントン英文典』を比較研究していた。
田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24… 田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24日 - 1942年〈昭和17年〉2月11日)は、日本の建築家。陸軍技師として数多くの軍関連施設を手がけた人物。陸軍技師として特に旧陸軍航空飛行隊の施設計画に深く関与していたこと、陸軍技師の中では筆頭格であったことがわかっている。一関藩最後の藩主・田村崇顕の長男。 北の丸公園に立地する旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館分室、1910年、国重要文化財)が代表作。 他に田村が設計に大きく関わったと推定されるものには、樺太守備隊司令官宿舎(現ロシア陸軍法務局サハリン州軍管区裁判所、1908)、所沢飛行場飛行船庫(1913年)、広島陸軍被服支廠倉庫(1914年、国重要文化財)などが知られる。