上手 繁雄(かみて しげお、1953年2月19日 - )は、… 上手 繁雄(かみて しげお、1953年2月19日 - )は、元岐阜県副知事。岐阜県飛騨市出身。2023年、瑞宝中綬章受章。
職業が知事:32人
上手 繁雄(かみて しげお、1953年2月19日 - )は、… 上手 繁雄(かみて しげお、1953年2月19日 - )は、元岐阜県副知事。岐阜県飛騨市出身。2023年、瑞宝中綬章受章。
宮舘 寿喜(みやだて ひさき、1949年 - )は、岩手県副… 宮舘 寿喜(みやだて ひさき、1949年 - )は、岩手県副知事。 岩手県胆沢郡金ケ崎町に生まれる。岩手県立水沢高等学校、東北大学卒。1974年に岩手県庁入り。企画、財政、人事の各部門を歴任し、2005年から久慈地方振興局長、2007年から盛岡地方振興局長をめた。2008年2月 岩手県副知事に就任し、2012年2月 政策地域部長の千葉茂樹を後任として副知事を任期満了退任。
中島 孝之(なかしま たかゆき、1942年 - )は、元福岡… 中島 孝之(なかしま たかゆき、1942年 - )は、元福岡県副知事。 1964年に西南学院大学商学部商学科を卒業した後、福岡県庁に入庁。地方課(現・市町村支援課)課長、商工部長、企画振興部長などを歴任した。1999年、後に全国知事会長となった麻生渡県知事の指名と議会の承認により福岡県副知事に就任。 2009年12月16日、福岡県町村会汚職事件にからみ詐欺容疑で逮捕されていた福岡県町村会の業務課参事らが、裏金を使って中島を複数回接待したと供述していることが報道され、19日に辞任を表明。21日に辞表を提出し受理された。接待疑惑については沈黙を守っているが、高級クラブやマージャン店などでの飲食代、ゴルフの接待、プロ野球観戦のチケット代の支払いを肩代わりしてもらったなどと報道されている。
吉元 政矩(よしもと まさのり、1936年11月 - )は、… 吉元 政矩(よしもと まさのり、1936年11月 - )は、元沖縄県副知事、現在は沖縄21戦略フォーラム代表。
甲斐 一政(かい かずまさ、1929年 - 2024年9月1… 甲斐 一政(かい かずまさ、1929年 - 2024年9月16日)は、元愛知県副知事。宮崎県西臼杵郡高千穂町出身。勲位は勲三等瑞宝章。 このほか、日本国際連合協会評議員、総務省中部管区行政苦情処理委員会座長、愛知大学理事を務めた。
小川 亮(おがわ まこと、1924年(大正13年)5月12日… 小川 亮(おがわ まこと、1924年(大正13年)5月12日 - 2019年(平成31年)1月16日)は、山口県徳山市(現・周南市)市長、岡山県副知事。従四位。死の約3年前に第一生命多額詐取事件の主犯に成る、女性社員の勤続50年を祝う会に出席していた。
平松 守彦(ひらまつ もりひこ、1924年〈大正13年〉3月… 平松 守彦(ひらまつ もりひこ、1924年〈大正13年〉3月12日 - 2016年〈平成28年〉8月21日)は、日本の通産官僚、大分県知事。 「一村一品運動」の提唱者として有名である。その他、関西大学政策創造学部客員教授や立命館アジア太平洋大学 アドバイサリー・コミッティ名誉委員などを務めた。座右の銘は「継続は力なり」。マグサイサイ賞受賞者。 大分市出身。大分中学、第五高等学校を卒業。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学し1945年に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1949年(昭和24年)3月、東京大学法学部を卒業後、1949年(昭和24年)旧商工省(後の通商産業省、現・経済産業省)に入省。
岸 昌(きし さかえ、1922年1月22日 - 2011年1… 岸 昌(きし さかえ、1922年1月22日 - 2011年1月21日)は、大阪府出身の日本の官僚、大阪府知事。位階は従三位。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
荒井 政雄(あらい まさお、1921年〈大正10年〉3月12… 荒井 政雄(あらい まさお、1921年〈大正10年〉3月12日 - 没年不明)は、日本の銀行家(群馬銀行頭取)、群馬県副知事。 群馬県山田郡毛里田村(現・太田市)出身。旧制小泉農業学校(現・群馬県立大泉高等学校)、千葉高等園芸学校(現・千葉大学)に学ぶ。1943年に京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業。同年高等試験行政科に合格。1944年東部38部隊に入営し1945年召集解除。 内務省、神奈川県庁での勤務を経て、群馬県庁総務部長、出納長を歴任。1966年に司法試験二次試験に合格。1970年に群馬県副知事に就任。1974年4月には群馬銀行専務に就任し、1977年11月に副頭取を経て、1984年6月に副は頭取に就任。
徐 廷学(日本語読み: じょ ていがく、朝鮮語読み: ソ・ジ… 徐 廷学(日本語読み: じょ ていがく、朝鮮語読み: ソ・ジョンハク、서정학、1917年3月26日 - 2005年7月2日)は、大韓民国の警察公務員、ソウル市警察局長、第11代内務部治安局長、第6代江原道知事、大韓剣道会会長などを歴任した。 日本統治時代の京畿道の漣川郡に生まれる。日本名では大島陽輝(おおしまはるき)と名乗った。北陽商業学校(現・関西大学北陽高等学校)を経て、関西大学専門部第二部法律学科(現・関西大学法学部)に入学。大学では剣道部に所属して大阪代表選手として活躍すると共に、関西大学剣道部の部長に就任した。当時、朝鮮半島出身者が内地の大学で剣道部部長に就任するのは初めてであった。1940年(昭和15年)に卒業後、大阪府庁に入庁。
中川 平太夫(なかがわ へいだゆう、1915年3月18日 -… 中川 平太夫(なかがわ へいだゆう、1915年3月18日 - 1987年6月14日)は、公選第4代福井県知事(任期は1967年4月23日 - 1987年4月22日、5期)。福井県遠敷郡野木村(のちの遠敷郡上中町、現在の三方上中郡若狭町)出身。若狭町名誉町民(1983年11月3日、当時の遠敷郡上中町より称号贈呈)。息子は元福井県議会議長の中川平一。
松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 200… 松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 2003年9月23日)は、元愛媛県副知事。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学卒業、旧制松山高校卒業、1937年 京都帝国大学法学部卒業、内務省に入る。山形県勤務、広島県、熊本県、兵庫県の各課長を経て、1947年 奈良県教育民生部長、1948年 奈良県教育長、1949年 奈良県総務部長、1951年 愛媛県民生部長に転じ、1955年 総務部長、1963年 出納長を経て、1969年から1974年まで副知事を務めた。戦時中は一時陸軍司政官として転出した。推されて松山市長選挙に出馬するが落選した。1975年から愛媛県人事委員会委員長、1976年から1999年まで愛媛県社会経済研究財団専務理事。
山本敬三郎(やまもとけいざぶろう、1913年8月17日 - … 山本敬三郎(やまもとけいざぶろう、1913年8月17日 - 2006年5月6日)は、元静岡県知事。参議院議員。静岡県出身。
田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15… 田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15日 - 2002年(平成14年)8月10日)は、日本の政治家で、三重県知事(5期)、衆議院議員(1期)を務めた。三重県四日市市塩浜地区出身。学歴は東京帝国大学卒業である。元四日市市長の加藤寛嗣は従兄弟である。1944年(昭和19年)佐藤喜代子と結婚して、2女をもうける。喜代子と死別後の1975年(昭和50年)には元総理大臣三木武夫の妻睦子の妹である三重子と再婚した。元衆議院議員の松崎哲久は義理の息子、映画監督として人気のあった藤田敏八は甥(姉の子)である。 1909年(明治42年)12月15日、三重県四日市市蔵町の母の実家で生まれる。塩浜尋常小学校、塩浜高等小学校、三重県立第二中学校(現・四日市高校)から東京府立第五中学校(現・小石川高校)へ転校して、第八高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業した。
神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月… 神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月10日 - 2005年〈平成17年〉5月20日)は、元群馬県知事。海軍司政官。 1908年(明治41年)12月10日、新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市)出身。新潟県立新潟中学校、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等試験行政科に合格。卒業後は静岡県庁勤務を皮切りに内務省官僚として地方行政に携わった。戦後は鹿児島県経済部長を勤めた後、群馬県教育民生部長に就いたことから群馬県との関わりを持つこととなった。その後総務部長等を経て竹腰俊蔵知事のもとで群馬県副知事就任。竹腰知事の後任として1960年(昭和35年)の群馬県知事選挙に出馬し当選。
西沢 権一郎(にしざわ ごんいちろう、古い文書では「西澤權一… 西沢 権一郎(にしざわ ごんいちろう、古い文書では「西澤權一郎」 1906年12月5日 - 1980年12月31日)は、長野県上水内郡小川村生まれの官僚で、元長野県知事。
立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4… 立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4月13日)は、大分県知事(1971年 - 1979年)。官選も含めると第45・46代、公選のみでは第7・8代にあたる。 福岡県京都郡行橋町(※現在の行橋市、本籍は大分県大分市坂ノ市)出身。旧制大分中学校(現大分上野丘高校)、旧制第三高等学校を経て、1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、東京市社会局、京城府の小林鉱業に勤務。 終戦後に大分市役所に入り、1953年に大分県庁に移る。1955年に木下郁が県知事に当選すると、総務部長に抜擢され、総務部長、出納長、副知事として16年間の木下県政の女房役を務めた。 1971年に木下が引退すると、その後を継いで大分県知事に初当選。
細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991… 細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991年3月25日)は、内務省官僚、大分県知事(1945年 - 1947年、1947年 - 1955年)。官選も含めると第37・39・40代、公選のみでは初代・第2代にあたる。 茨城県水戸市出身。旧制水戸中学校(現在の水戸第一高校)、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学法科政治学科を卒業。1928年に内務省入省。厚生省医務課長、警視庁保安衛生部長、陸軍司政官、内務省河川課長、内閣総理大臣秘書官等を経て、1945年10月27日に大分県知事に発令された。 1947年3月14日には、地方自治法施行にともなう県知事選挙への出馬のため県知事を辞職。この後、選挙までの約1ヶ月は和久田鉄雄が第38代県知事に短期間発令されている。
島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25… 島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25日 – 1945年〈昭和20年〉6月26日)は、日本の内務官僚、沖縄県知事(官選第23代)。 第二次世界大戦末期、沖縄戦時の知事であり、「島守」として知られる。座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。 1901年(明治34年)、兵庫県武庫郡須磨村(現在の神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。須磨尋常高等小学校(現 神戸市立西須磨小学校)尋常科から兵庫県立第二神戸中学校(旧制神戸二中、現 兵庫県立兵庫高等学校)へ進学。須磨小、神戸二中では重成格(内務官僚、鹿児島県知事、参議院議員)と同期。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部へ入学。
青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6… 青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6日 - 1982年〈昭和57年〉4月21日)は、日本の内務・警察官僚、公選初代愛媛県知事(1期)。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)に青木善蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県警部となる。 以後、麻布警察署長、六本木警察署長、深川警察署長、西平野警察署長、関東局警務課長、同特別高等警察課長、同警察官教習所長、満州国治安部特務科長、福井県書記官・警察部長、内務事務官、厚生省監理課長、情報局第一部第二課長、首相秘書官、内務省監査官、千葉県書記官・警察部長などを経て、福島県内政部長に就任。
野村 萬作(万作、のむら まんさく、1899年 - 1978… 野村 萬作(万作、のむら まんさく、1899年 - 1978年)は、初代奈良県公選知事(在任1947年 - 1951年)。 旧制第八高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、終戦直後には官選奈良県知事を務めた。 1947年に行われた第1回公選知事選挙に立候補、社会党、日本共産党推薦の弁護士出身で同じく元官選知事の小野正一(生没年1898年 - 1978年)が5人の候補者中第1位となったが、法定得票の37.5%に達せず、決選投票に持ち込まれることになった。しかし再選挙直前、小野は突然公職追放となり、第2位の野村が初代公選知事に就任した。 在任中、自治体警察発足や県立高校新設などを手がけたが、1951年の知事選挙で同じ内務官僚出身の奥田良三に敗れた。
泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984… 泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984年10月21日)は、第二次世界大戦中の官選沖縄県・香川県知事。沖縄県知事として、沖縄戦前の住民保護や防衛態勢構築に携わったが、連合国軍上陸前に転任した。 山梨県北都留郡大原村(現・大月市)に教育者泉文作の三男として生まれる。旧制第七高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、青森県庁への赴任を皮切りに、全国各地の警察畑を歩む。この間に妻となる女性との交際を深めるが、親族の反対で入籍はできず、内縁関係として結婚生活を始めた。 1943年7月、北海道庁内政部長を務めていた泉に、沖縄県知事の辞令が下り、7月26日に赴任した。
北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1… 北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1965年3月29日)は日本の政治家、参議院議員、新潟県知事。 1897年、新潟県見附市出身。新潟県立加茂農林学校を経て1920年(大正9年)に中央大学商科を卒業後、堤商会(のちに旧日魯漁業、輸出食品と合同して社名を日魯漁業に、現マルハニチロ)に入社して樺太-カムチャツカ間を往復。この際ゲーペーウーに拿捕されるなどの苦労があったが、これによって堤清六社長の信頼を得た。戦後は自由党に所属し、1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に新潟地方区から出馬して初当選。2期にわたって議員を務め、農林政務次官、国土総合開発審議会、米価審議会各委員、参議院法務委員長、党の政務調査会副会長、参議院幹事長などを歴任した。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月2… 丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月25日 - 1956年(昭和31年))は、日本の内務官僚、官選岩手県知事。旧姓・両角。 長野県諏訪郡玉川村(現:茅野市)出身。両角彦五郎の二男として生まれ、丸茂米作の養子となり、のち養父の長女「まつよ」と結婚した。 諏訪郡立実科中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、[要出典]第一高等学校を卒業。1908年7月、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年1月、内務省に入省し、拓殖制度取調事務嘱託となり大臣官房台湾課及び地方局拓殖事務取扱を嘱託。同年5月、内務属となり鹿児島県揖宿郡長に就任。
池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月1… 池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月16日 - 1953年(昭和28年)4月17日)は、日本の内務官僚、官選府県知事。 鹿児島県出水郡武本村向江平良馬場(現在の出水市向江町)にて鹿児島県士族(元薩摩藩士)・池松静蔵の長男として生まれる。幼名・与一郎。父静蔵は西南戦争で戦死。1878年3月、家督を相続する。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り警視庁警部となる。 以後、佐賀県参事官、群馬県警部長、岩手県警部長、栃木県事務官・第四部長、愛知県事務官・第四部長、福井県内務部長などを歴任。
久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4… 久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、栃木県知事、三重県知事、東京府知事および内務次官を歴任した内務官僚。後に、横浜市長も務めた。称号は正四位勲一等。
小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1… 小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1869年11月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月22日)は、明治後期から大正初期にかけての日本の内務官僚・官選県知事、昭和戦前期にかけての弁護士・政治家・実業家である。 現在の長野県須坂市の出身で、政界では衆議院議員(当選2回)、実業界では信濃電気の副社長や長野商工会議所会頭を務めた。 小田切磐太郎は、明治2年10月3日(新暦:1869年11月6日)、小田切豊太郎の長男として生まれた。父・豊太郎は長野県上高井郡須坂町、現在の須坂市の豪商小田切家(屋号は「東糀屋」)の一族で、3代目小田切新蔵の弟にあたる。1875年(明治8年)より須坂の地場産業である製糸業(山ヨ製糸所)を経営していた。
西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868… 西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868年11月5日) - 明治45年(1912年)1月8日)は、日本の内務官僚、佐賀県知事。 陸奥国津軽郡妙堂崎村(後青森県西津軽郡水元村、現在の北津軽郡鶴田町)出身。西村孫兵衛の長男として生まれる。東奥義塾を卒業し、1887年(明治20年)から1889年(明治22年)まで北津軽郡立高等小学校で雇教員として働いた。1890年(明治23年)、東京専門学校政学部(現早稲田大学政経学部)を卒業。1891年(明治24年)、青森県内務部雇となり、1893年(明治26年)には青森県会に異動となった。翌年、職を辞して上京し、法律学の勉強に励んだ。1895年(明治28年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、翌年に内務省属・県治局勤務となった。
肥塚 龍(こいづか りゅう、嘉永元年1月10日(1848年2… 肥塚 龍(こいづか りゅう、嘉永元年1月10日(1848年2月14日) - 大正9年(1920年)12月3日)は、東京府知事、新聞記者の民権活動家。 自由民権運動に関し、大胆で新しい言論活動で注目を集めていた。 中島村(現・たつの市)の農家に生まれるが、武士たちが農民・町人を罵倒する現実に疑問を感じ、僧侶として身を立てるため14歳で網干にある大覚寺に入り、小坊主になり山空和尚の指導を受ける。後に京都に行き、賀茂神社の宮司の山本硯儒、高倉西念寺の諦導和尚に師事するが、明治維新の社会変動を目の当たりにする中で、東京に出ることを決意する。 東京曙新聞を経て横浜毎日新聞で急進的な民権論を訴え言論活動で注目を集めると、国会開設に伴い代議士を志す。
関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日〈1836… 関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日〈1836年10月26日〉 - 明治22年〈1889年〉5月17日)は、幕末の幕臣で、明治時代の政治家、初代静岡県知事および第2代山口県知事。 静岡女学校(後の静岡英和女学院)の創立者の一人。字は艮輔(ごんすけ)。号は黙斎。 天保7年(1836年)、江戸本所相生町(現・東京都墨田区)に幕臣関口隆船の次男として生まれる。関口家は今川一族の関口氏広の子孫であり、父・隆船は佐倉村(現在の静岡県御前崎市佐倉)の池宮神社出身。 天保10年(1838年)、父の隆船が与力に任ぜられ、牛込赤城町へ転居。 嘉永元年(1848年)、斎藤弥九郎の練兵館に入門する。当時の塾頭は兄弟子となる桂小五郎であった。
小河 一敏(おごう かずとし、文化10年1月21日(1813… 小河 一敏(おごう かずとし、文化10年1月21日(1813年2月21日) - 明治19年(1886年)1月31日)は、堺県知事、宮内省御用掛。通称は弥右衛門。 岡藩士の子として、豊後国竹田に生まれた。朱子学・陽明学を学び、また詩歌や文章も善くし、早くから尊皇攘夷の志をいだいた。嘉永6年(1853年)のマシュー・ペリーによる黒船来航を機に九州地方北部の各地を遊説して久留米藩の真木和泉や熊本藩の宮部鼎蔵らと交わった。安政6年(1859年)には気吹舎に入門して国学の徒となり、平田銕胤嫡男平田延胤とは懇意の間柄にあった。藩論が尊王派と佐幕派に分かれ対立すると、尊王派の指導者として活動し、薩摩藩と結んで倒幕を画策して挙兵を図るが文久2年(1862年)の寺田屋騒動で挫折した。