丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868… 丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日)は、日本の動物学者。高等師範学校教授を歴任。 1868年、遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。大坂英語学校に入学し抜群の成績を修め、その後に旧制第一高等学校の前身である東京大学予備門に入学するも、歴史科目のみ成績が極端に悪く、2年続けて落第したため退学処分となった。このため大学の正規課程への入学資格を持たず、1886年帝国大学理科大学動物学科選科に入学した。1891年から3年間ドイツに留学し、フライブルク大学でアウグスト・ヴァイスマンに、またライプツィヒ大学でカール・ロイカルトに師事。
桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元… 桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元年11月17日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の法学者。学位は法学博士。貴族院多額納税者議員。工場法実現のために尽力した。 現在の鳥取県倉吉市に大地主・桑田藤十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。さらに大学院に進み、労働問題を専攻する。1896年(明治29年)金井延らとともに社会政策学会を起こし、社会問題研究のためにヨーロッパに留学。帰国後は労働者の実態調査に従事し、1904年(明治37年)法学博士。 1920年(大正9年)中央大学教授。1930年(昭和5年)中央大学経済学部長等を歴任した。
北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治… 北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治元年11月16日〉- 1894年〈明治27年〉5月16日)は、日本の評論家・詩人。本名、北村 門太郎(きたむら もんたろう)。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。 相模国小田原(現:神奈川県小田原市浜町)に生まれた。幼少時代、両親から離れて厳格な祖父と愛情薄い継祖母に育てられ、のちに神経質な母親の束縛を受けたことが性情の形成に大きな影響を与えたといわれる。 1881年に東京数寄屋橋の近くに移住。東京専門学校(現:早稲田大学政治経済学部)政治科に入学し、東京の三多摩地方を放浪して壮士たちと交わるが、民権運動が過激になり離脱。
中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日… 中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日 - 1945年4月1日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、電気技師。 明治元年11月13日(グレゴリオ暦1868年12月26日)、吉敷毛利家の御家人であった中原衛人の三男として周防吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市吉敷)に生まれる。幼少期に木から落ちて顔に傷が残り、そのことで勉学に打ち込むようになったという。1885年(明治18年)2月に上京し第一高等中学校に入学、工科を専攻し1889年(明治22年)7月に卒業した。1892年(明治25年)7月東京帝国大学電気工学科を卒業。 卒業後すぐ東京電燈に入社し、1897年(明治30年)5月には社命でベルリンに留学する。
伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868… 伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868年12月25日) - 大正6年(1917年)10月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会)。農商務官僚。 陸奥国弘前(青森県弘前市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学を卒業。林務官、農商務参事官、山林局事務官、札幌鉱山監督署長を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
斎藤 二郎(さいとう じろう、明治元年11月10日(1868… 斎藤 二郎(さいとう じろう、明治元年11月10日(1868年12月23日) - 大正6年(1917年)7月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 片倉氏の家臣斎藤良知の二男として白石城下(現在の宮城県白石市)に生まれる。1886年(明治19年)、上京して英吉利法律学校(現在の中央大学)に入学し、1889年(明治22年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、星亨の法律事務所で訴訟事務を扱った。1895年(明治28年)、星が李氏朝鮮の法律顧問官に就任すると、法部補佐官・法官養成所教授として招かれた。翌年に帰国してからは再び弁護士業務に従事し、星が駐米公使を務めている間はその事務所を預かり、のちに自らの事務所を開業した。
宮本 嘉楽(嘉樂、みやもと からく、1868年12月23日〈… 宮本 嘉楽(嘉樂、みやもと からく、1868年12月23日〈明治元年11月10日〉 - 1956年〈昭和31年〉10月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡長井村長。 武蔵国幡羅郡西野村(のち埼玉県大里郡長井村、現:熊谷市)で、大地主・宮本楽只の長男として生まれる。漢籍を修めた。 長井村収入役、同村長、大里郡会議員、埼玉県会議員、所得税調査委員などを務めた。 1904年3月、第9回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めて政界を引退した。 実業界では、埼玉実業銀行頭取、深谷商業銀行取締役などを務めた。 甲源一刀流の師範免状を授けられ、高野佐三郎に師事して小野派一刀流(一刀流中西派)の研鑽を積んだ。
浅山 正名(あさやま まさな、明治元年11月9日(1868年… 浅山 正名(あさやま まさな、明治元年11月9日(1868年12月22日) – 没年不詳)は、名古屋市助役、長崎市助役、東京市牛込区長。 陸奥国三戸郡八戸村(現在の青森県八戸市)出身。盛岡藩士・青森県会議員浅山正美の長男として生まれる。1897年(明治27年)、三戸郡書記となり、青森県属を経て、内務属となり、県治局や地方局に勤務。その間、和仏法律学校(現在の法政大学)で学んだ。1912年(大正12年)、北海道庁上川支庁長に就任した。 1917年(大正6年)、名古屋市助役に就任。その後、1923年(大正12年)には長崎市助役に選ばれた。さらに1927年(昭和2年)からは牛込区長を務めた。
和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈186… 和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈1868年12月21日〉 - 1921年〈大正10年〉3月15日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。逓信技師を経て実業界に入り名古屋電灯常務などを務めた。子に気象・地震学者の和達清夫がいる。 明治元年11月8日(新暦:1868年12月21日)、和達孚嘉の長男として東京の浅草に生まれる。父・孚嘉は江戸幕府の旗本であったが、明治維新後に移住先の静岡県を振り出しに宮城県や山形県で役員生活を送り、晩年には第5代仙台市長(1907 - 1910年)を務めた人物である。 1889年(明治22年)7月東京の第一高等中学校工学部を卒業したのち、1892年(明治25年)7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省へ入る。
佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明… 佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1959年(昭和34年)7月20日)は、日本の明治から昭和における外科医。初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長・女子美術大学理事長を歴任。福井県出身。 1868年(明治元年)11月、若狭国三方郡西郷村(現福井県三方郡美浜町金山)の漢方医河合貞輔の次男として誕生した。1884年(明治17年)、上京して獨逸学協会学校で学び、大学予備門に入学。1887年(明治20年)6月第一高等中学に転入し、1892年(明治25年)東京帝国大学医科大学に入学した。1896年(明治29年)12月同大学を卒業、明治30年度卒業同期生としては後に軍医総監になる佐藤恒丸・京城帝国大学総長となった志賀潔らがいる。
磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(… 磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1939年(昭和14年)10月26日)は、明治期の官僚、実業家、貴族院議員。 豊前国中津生まれ。慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。益田孝と面会し三井物産に入社。北海道炭礦汽船に移り社長に就任。日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。また、1929年(昭和4年)7月1日には貴族院議員に勅選され、研究会に所属して死去するまで在任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治… 井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治元年11月4日)- 1947年(昭和22年)3月14日)は、日本の応用化学者。東北帝国大学総長、工学博士。号・青崖。 蘭方医・井上勤所の二男として京都に生まれる。京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1892年(明治25年)第一高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学工科大学応用科学科を卒業し、横浜瓦斯に入社。1899年(明治32年)東京帝大工科大学助教授に就任した。1903年(明治36年)ドイツのドレスデン大学に私費留学し、日露戦争のため1905年(明治38年)に帰国し東京帝大教授に昇任し応用化学第1講座を担任した。
奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日… 奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日(明治元年11月2日)- 1942年(昭和17年)2月10日)は、明治から昭和前期の大地主、農業経営者、林業家、実業家、政治家。衆議院議員、14代奥田家当主。 因幡国高草郡猪子村(鳥取県高草郡大和村、気高郡大和村字猪子を経て現鳥取市猪子)で、大地主、大庄屋・奥田長十郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)1月、家督を相続した。漢籍を修めた 国民協会に加わり、その解散後、同志と政治結社・因幡同志会を結成した。1895年(明治28年)大和村会議員となる。気高郡会議員も務め、1899年(明治32年)鳥取県会議員に選出され1期在任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で鳥取県郡部から出馬して初当選。
横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈… 横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈明治元年11月1日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(広島県第三区選出、当選9回)。文部政務次官。第16代広島市長。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡東城村(後の東城町、現在の庄原市)で、行商人の家庭に生まれる。横山要平の長男。3歳の時に父・要平が死去する。家督を相続する。 役場の書記をつとめる。1886年(明治19年)、代言人・渡邊又三郎を頼って家出、渡邊は「見処がある」と直覚して世話することにしたという。 横山は玄関番・書生となり広島法律学校に入り、1890年(明治23年)3月に同校を卒業、同年4月に東京法学院(現在の中央大学)3年級に編入。
堤 定次郎(つつみ ていじろう、1868年12月14日(明治… 堤 定次郎(つつみ ていじろう、1868年12月14日(明治元年11月1日) - 1935年(昭和10年)8月18日)は、日本の裁判官、検察官、内務官僚、実業家。官選岩手県知事。位階および勲等は従四位・勲四等。 常陸国、後の茨城県真壁郡上野村(現筑西市)出身。堤恵次郎の長男として生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。 以後、東京区裁判所判事、東京地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、東京控訴院検事、宮城控訴院検事、函館地方裁判所検事正、熊本県事務官・警察部長、香川県事務官・内務部長などを歴任。 1913年3月、岩手県知事に就任。1914年6月、知事を休職となる。その後、実業界に転じ、安田保善社理事、五十銀行頭取などを務めた。
藤原 利三郎(ふじわら りさぶろう、明治元年11月1日(18… 藤原 利三郎(ふじわら りさぶろう、明治元年11月1日(1868年12月14日) - 昭和10年(1935年)5月9日)は、平鹿ゴールデンを生み出した秋田県出身の果樹園芸家で、「リンゴ栽培の父」と称されている。 利三郎は1868年に養蚕振興の先駆者として名高い茂木亀六の六男として出羽国(現在の秋田県)の雄勝郡(現在の湯沢市、昔の稲川町)で生まれた。 18歳で藤原家の養子となった後、養蚕業の代わりとなる産業を探していた利三郎は、果樹の栽培の視察で山形に行った際にりんごの苗を手に入れた。それをもとに20歳の時に利三郎は杉林を切り開いて苗を植え、周囲の目を跳ね除けてリンゴ栽培に励んだものの、1894年の綿虫大量発生で大損害を受けた後にブドウやサクランボ、梨なども取り扱う多角的な経営を始めた。
一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(… 一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(明治元年10月20日) - 1939年(昭和14年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国知多郡成岩村(現愛知県半田市)で、名主・一柳浅右衛門の二男として生まれる。苦学して三井物産社員を経て、1897年に北海道に渡る。 ニシン漁で失敗し、1900年、札幌に移り、リンゴ、タマネギの販売を手掛け、海外への輸出なども行った。札幌区会議員、北海道会議員、同議長、日露貿易商組合長、札幌果実蔬菜輸出商同業組合長、札幌果実商組合長、札幌商業会議所副会頭、北海道拓殖倉庫取締役、北海道信託社長、一柳物産社長、合資会社一柳商会代表社員などを務めた。
山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(… 山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(明治元年10月17日) - 1914年(大正3年)5月18日)は、日本の弁護士、特許弁理士、政治家。 埼玉県北埼玉郡小曽根村(現・熊谷市小曽根)出身。山田充八の息子。熊谷中学校に学ぶ。1885年に上京し、東京電信学校の官費生として入学する。卒業後逓信技手となり函館郵便電信局に在勤し、傍ら英米人に就き英学を修め兼ねて哲学法律学を独修する。 1894年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。判検事試験に及第し、司法官試補に任ぜられる。横浜地方裁判所の判事を経て、渡米してコロンビア大学に学び、帰国後横浜で弁護士を開業する。大日本共同運輸監査役、横浜市会議員、横浜英語学校校長、横浜商業会議所特別議員などをつとめる。
岡田 泰蔵(おかだ たいぞう、明治元年10月16日(1868… 岡田 泰蔵(おかだ たいぞう、明治元年10月16日(1868年11月29日) - 昭和28年(1953年)8月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。妻由衛の父・義父は京都府多額納税者、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人、衆議院議員、郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)初代社長羽室嘉右衛門。義叔父は郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)第2代社長波多野鶴吉。同じく義叔父に比叡山鉄道株式会社初代社長、愛宕山鉄道取締役で京都法政学校(現・立命館大学)設立評議員・理事の羽室亀太郎。義叔母の羽室亀太郎の妻ゆうは、衆議院議員河原林義雄の妹。義弟は郡是製絲株式会社第4代社長、参議院議員波多野林一。
桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年1… 桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年10月16日) - 1938年4月3日)は、日本の中国文学者。現在の新潟県新潟市新津の出身。湖村は故郷近くの福島潟に由来する号で、本名は五十郎。雷庵など、他の号も使用した。 生家は国学や漢学を修めた学者の家系で、自身も幼少から漢籍等に触れて育った。東京専門学校専修英語科(現・早稲田大学)に進学し、1892年に卒業。日本新聞に客員社友として属したのち、中国に渡航して陶芸や書画について学ぶ。帰国後は東洋大学・國學院大學で教壇に立ち、その後母校の早稲田大学教授に就任した。 1905年(明治38年)、『漢籍解題』を明治書院から刊行した。近年刊は『湖村詩存』(村山吉廣編、明徳出版社、2017年)がある。
十文字 大元(じゅうもんじ だいげん、1868年11月28日… 十文字 大元(じゅうもんじ だいげん、1868年11月28日(明治元年10月15日) - 1924年12月21日)は、日本の実業家、活動写真弁士、自彊術家である。金門製作所創立者、日本初の活動写真弁士のひとりであり、自彊術の命名者である。 1868年(明治元年)、陸奥国遠田郡涌谷(現在の宮城県遠田郡涌谷町)に生まれる。父親は陸前仙台藩の支藩である涌谷藩の師範家・十文字秀雄、兄に政治家・実業家の十文字信介がいる。 1890年(明治23年)にアメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア州サンフランシスコで過ごす。帰国して、1894年(明治27年)、東京・神田須田町に兄信介ともに十文字商会を開業する。のちに独立して開業する金門商会は、同地のゴールデンゲートブリッジ(金門橋)にちなんだものである。
卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治… 卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治元年10月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉11月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(埼玉県郡部選出、当選1回、立憲国民党)。中央大学理事。東京弁護士会会長、東京弁護士会常議員会議長などを歴任。族籍は埼玉県平民。 1868年(明治元年)、武蔵国児玉郡沼和田村(埼玉県児玉郡旭村を経て現本庄市沼和田)に生まれた。卜部喜平の長男で、先代キンの養子である。幼くして怜悧であり、よく物の理義を悟った。児玉中学校を卒業した。18歳の時埼玉県師範学校に於いて小学校教員試験に応じて及第し、埼玉県小学校訓導に任ぜられ本庄小学校に在勤した。 1887年(明治20年)、家督を相続した。
大村 西崖(おおむら せいがい、明治元年10月12日(186… 大村 西崖(おおむら せいがい、明治元年10月12日(1868年11月25日) - 昭和2年(1927年)3月8日)は、日本の美術史家・美術評論家。幼名は、塩沢峰吉。雅号は、無記庵、など。多数の著書、美術書を刊行した。 駿河国富士郡水戸島村(現在の静岡県富士市)で、塩沢茂三郎の次男として生まれる。庵原郡富士川村岩淵(現・静岡県富士市)の大村桂蔵の養子として、明治25年(1892年)12月19日大村家に入籍。新間雲屏に師事して絵画・彫刻・鑑定を学ぶ。 1893年に東京美術学校彫刻科を卒業(第1回の卒業生であった)後、京都に赴き、教員や雑誌編集者を務める。1896年に母校である東京美術学校の助教授に採用される。
福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(… 福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(明治元年10月12日)- 1921年(大正10年)4月4日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、三重県阿山郡東柘植村長。 伊賀国阿拝郡上柘植村(三重県阿山郡東柘植村上柘植、柘植町、伊賀町を経て現伊賀市)で、福地次郎の長男として生まれる。第三高等学校で学んだ。農業を営む。 伊賀筵叺同業組合長、阿山郡連合産業組合理事、東柘植村産業組合長、第八十三銀行取締役、東海製糸監査役などを務めた。 政界では、東柘植村長、阿山郡会議員、三重県会議員(1911年-1920年)などに在任し、学務委員、所得税調査委員なども務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に三重県第10区から立憲国民党公認で出馬し、川崎克との激しい選挙戦を制して当選したが、議員在任中の1921年4月に死去した。
松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明… 松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明治元年10月11日) - 1928年(昭和3年)1月12日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島、旧名・賢二郎。 肥前蓮池藩主・鍋島直紀の六男として生まれる。母は鍋島直永の娘・謁女。1896年(明治29年)10月、子爵・松平乗命の養子となる。1897年(明治30年)1月、乗長と改名。養父の死去に伴い、1905年(明治38年)12月13日に子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)東京美術学校日本画科を卒業。1915年(大正4年)皇子浴場之儀鳴弦控となる。 1910年(明治43年)8月20日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治… 原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治元年10月10日)- 1938年(昭和13年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。篤農家。日清戦争での平壌の戦いにおいて「玄武門破り」の英雄として知られた。名前は十吉とも表記される。 三河国加茂郡日明村(のち愛知県東加茂郡豊栄村、松平村、松平町を経て現・豊田市)に原田幸吉の次男に生まれる。家業の農業に従事し、1888年、徴兵検査に合格し、豊橋歩兵第18連隊に入隊する。3年後に除隊、除隊後は帰郷し、農業に従事した。 1894年、日清戦争が勃発し、召集された重吉は平壌の戦いに参加した。9月15日に平壌総攻撃の命令が下り、部隊は玄武門に近づいた。
佐藤 慶太郎(さとう けいたろう、1868年11月22日〈明… 佐藤 慶太郎(さとう けいたろう、1868年11月22日〈明治元年10月9日〉 – 1940年(昭和15年)1月17日)は、福岡県出身の実業家。
津原 武(つはら たけし、1868年11月22日(明治元年1… 津原 武(つはら たけし、1868年11月22日(明治元年10月9日) - 1953年(昭和28年)5月20日)は、日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員、加悦鉄道社長、宮津銀行監査役、丹後縮緬工業組合理事長。 1868年11月22日(明治元年10月9日)、因幡国鳥取に生まれた。関西法律学校、明治法律学校、和仏法律学校(現・法政大学)で学び、京都府与謝郡宮津町(現・宮津市)で弁護士を開業した。 与謝郡会議員・議長、宮津町長、京都府会議員などを経て、1915年(大正4年)に第12回衆議院議員総選挙に当選した。民政党に所属して5回の当選を果たしている。 また、加悦鉄道社長、宮津銀行・橋北汽船などの役員、丹後縮緬工業組合理事長などを歴任した。
谷内 清巌(たにうち せいがん、1868年11月19日(明治… 谷内 清巌(たにうち せいがん、1868年11月19日(明治元年10月6日) - 1953年(昭和28年)9月6日)は、日本の真言宗の僧、仏教学者。京都・高雄の神護寺の貫主を務めた。京都大学教授。 兵庫県淡路島生まれ。嵯峨大覚寺の宗務総長を務めた後、神護寺の貫主となる。 書道を能くし、号は白雪道人。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
高井 利平(たかい りへい、旧姓・臼井、前名・竹次郎、186… 高井 利平(たかい りへい、旧姓・臼井、前名・竹次郎、1868年11月18日〈明治元年10月5日〉 - 没年不明)は、日本の実業家・地主・資産家。万里銀行頭取。五十六銀行常務取締役。三十八銀行、高井織物各監査役。姫路莫大小取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県加東郡上福田村字木梨(現・加東市)に生まれた。臼井庄吉の二男。小野中学校卒業後、東京、大阪、琉球等の各地の銀行に勤務した。高井家の養子となり、1898年に養祖父利平の後を承け家督を相続し、前名竹次郎を改め襲名した。 資性温厚、誠直であった。趣味は謡曲、仕舞囃子。宗教は曹洞宗。住所は兵庫県姫路市大黒町。
仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(… 仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(明治元年10月5日)- 1945年1月17日)は、日本の法学者・裁判官・弁護士。学位は、法学博士。京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授を歴任。 守山藩士県吏仁井田隠重の長男。妻は貴族院議員奥山政敬の娘アイ、甥の陞は中国法制史家、東大教授。 富井政章付きの民法典起草補助委員として活躍し、ドイツ民法草案第一・第二を翻訳して富井に提供したほか、各国の法制度を調査して貢献した。 他の起草補助委員との合著『帝国民法正解』は、民法典施行後出版された最初の書物であり、大体純粋なドイツ法学派の見解から書かれたものであった。 京都帝国大学では民事訴訟法、商法の講座を担当し、東京帝国大学では民事訴訟法、民法、ドイツ法の講座を担当。
下坂 藤太郎(しもざか とうたろう、1868年11月17日(… 下坂 藤太郎(しもざか とうたろう、1868年11月17日(明治元年10月4日) - 1941年(昭和16年)1月12日)は、日本の大蔵官僚、実業家。理財局銀行課長を最後に退官し、台湾銀行理事、副頭取を歴任。東洋製糖(のち大日本製糖)、東洋海上保険(のち日新火災海上保険)、日商(のち日商岩井)の各社長。 会津藩士下坂藤次郎の長男。三春中学、第一高等学校を経て、1894年(明治27年)東京帝国大学を卒業。大蔵省に入省し、翌年の第二回文官高等試験に次席合格する。秋田県収税長、本省参事官、書記官、監督局銀行課長などを経て、1899年(明治32年)6月辞職。翌月台湾銀行理事に就任し、副頭取に進む。1906年(明治39年)から翌年にかけて銀行制度調査のため欧米出張。
石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治… 石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治元年10月3日(1868年11月16日) - 1941年8月18日)は、日本の養蚕学者。 蚕の雌雄鑑別法で成果を上げた。 1901年に、蚕に卒倒病を引き起こす病原細菌を発見した。石渡はこの細菌を卒倒病菌と名付け、後にバチルス・チューリンゲンシスと命名された。 妻は政治家中村舜次郎の二女のトシ。正五位勲五等。 明治元年(1868年)、現在の神奈川県逗子市出身。明治25年(1892年)東京帝国大学農科大学を卒業し、農商務技師兼蚕業講習所技師、明治41年(1908年)に京都蚕業講習所長、明治44年(1911年)に原蚕種製造所技師、蚕業試験所技師、東京農業大学教授などを歴任した。
上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年… 上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1937年〈昭和12年〉5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 美濃国不破郡矢道村(青墓村、赤坂町を経て現岐阜県大垣市矢道町)で上田半右衛門の長男として生まれ、1909年(明治42年)に家督を相続した。 1888年(明治21年)岐阜県第一中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。1892年(明治25年)7月、陸軍士官学校(3期)を卒業し、1893年(明治26年)3月、陸軍歩兵少尉に任官。日清戦争に従軍。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し参謀本部に配属された。日露戦争では大本営兵站総監部副官として出征した。
早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年… 早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1926年〈大正15年〉9月13日)は、明治・大正期の日本の実業家、政治家。初代大蔵政務次官、農林大臣及び大蔵大臣。 安芸国沼田郡新庄村(現:広島市西区新庄町)出身。出生名は中山米吉。 中山源蔵の二男として生まれ苦学して、旧制広島中学を経て1887年(明治20年)に東京専門学校政治経済英学科(現:早稲田大学)を卒業。前年、秀才で通りながら遊び過ぎて卒業試験に失敗した事から「爾(なんじ)を整(ととの)へよ」と自省し整爾と改名し、中山整爾となった。卒業前に埼玉英和学校校長代理兼教頭を務めた。 1889年(明治22年)、芸備日日新聞社主の早速勝三の養子となり、早速整爾に名を改め、同年、社長兼主筆として新聞を経営、優秀な頭脳と速筆で活躍。
坂本 素魯哉(さかもと そろや、1868年11月10日(明治… 坂本 素魯哉(さかもと そろや、1868年11月10日(明治元年9月26日) – 1938年(昭和13年)8月3日)は、日本の銀行家、政治家(衆議院議員)。実弟は、衆議院議員を務めた坂本志魯雄。 1868年、土佐国長岡郡瓶岩村亀岩(現・高知県南国市)出身。1885年、高知師範学院卒業。1893年、大阪の関西法律学校(関西大学の前身)を卒業。1896年、明治法律学校(明治大学の前身)卒業後、日本銀行に入行。台北出張所に赴任し、台湾銀行創設に参画。1905年、彰化銀行設立に伴い、支配人として招聘され、1914年、専務取締役に就任。1920年、第14回衆議院議員総選挙で立憲政友会から高知県第3区に立候補して当選。
西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868… 西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868年11月5日) - 明治45年(1912年)1月8日)は、日本の内務官僚、佐賀県知事。 陸奥国津軽郡妙堂崎村(後青森県西津軽郡水元村、現在の北津軽郡鶴田町)出身。西村孫兵衛の長男として生まれる。東奥義塾を卒業し、1887年(明治20年)から1889年(明治22年)まで北津軽郡立高等小学校で雇教員として働いた。1890年(明治23年)、東京専門学校政学部(現早稲田大学政経学部)を卒業。1891年(明治24年)、青森県内務部雇となり、1893年(明治26年)には青森県会に異動となった。翌年、職を辞して上京し、法律学の勉強に励んだ。1895年(明治28年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、翌年に内務省属・県治局勤務となった。
鹿島 房次郎(かじま ふさじろう、旧姓・田部、1868年11… 鹿島 房次郎(かじま ふさじろう、旧姓・田部、1868年11月5日(明治元年9月21日) - 1932年(昭和7年)7月29日)は、日本の実業家、政治家。神戸市会議員を経て第4代神戸市長(在任:1910年2月28日 - 1920年)。 自治体官僚主導による都市経営手法の源流を創った人物の一人とされ、その人格および手腕は、歴代神戸市長中の白眉と称される。族籍は兵庫県平民。 広島県比婆郡庄原村(現・庄原市)出身。裕福な農家、田部香蔵の弟。鹿島家に入り慶應義塾幼稚舎を経て、慶應義塾大学部理財科を卒業し、次いで東京高等商業学校(後の一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退、さらにアメリカ合衆国のミシガン大学に4年間留学した。
矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年1… 矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年11月4日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の農学者(醸造学)、大蔵技師。清酒酵母の発見者であり、醸造試験所(酒類総合研究所の前身)の設立に関わるなど、日本の酒造業の発展に貢献した。また、科学的に納豆を研究した先駆者としても知られている。 位階・勲等は正三位勲二等。学位は農学博士。 前橋藩士の長男として、上野国勢多郡一毛村(現在の群馬県前橋市城東町)で生まれた。 群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後、1886年(明治19年)に第一高等学校に進学。東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に進み、農芸化学を専攻した。
上松 泰造(うえまつ たいぞう、1868年11月1日(明治元… 上松 泰造(うえまつ たいぞう、1868年11月1日(明治元年9月17日) - 1949年(昭和24年)8月2日)は、明治から昭和時代前期の大地主、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 関谷與藤治の二男、関谷醇三の弟としてのちの岐阜県に生まれ先代上松治郎一の養子となり1905年(明治38年)1月、家督を相続する。岐阜県師範学校を経て、東京法学院を卒業する。農業を営む傍ら、濃飛農工銀行、岐阜貯蓄銀行、第十六銀行各取締役、鏡島銀行頭取、岐阜不動産、岐阜信託各取締役、岐阜県農会長、稲葉郡農会副会長などを歴任した。 1915年(大正4年)岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月2日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
吉田 重貞(よしだ しげさだ、1868年(明治元年)11月 … 吉田 重貞(よしだ しげさだ、1868年(明治元年)11月 - 没年不明)は、日本の実業家。札幌毎日新聞社社長。衆議院議員・立憲民主党代表の泉健太は曽孫。 吉田亀次郎の長男として千葉県山武郡豊成村に生まれる。1898年(明治31年)家督を相続し、1921年(大正10年)前名・辰蔵を重貞に改名する。 日本法律学校(現・日本大学)を卒業後、1902年(明治35年)「北政日報」を札幌に創刊し、続いて1916年(大正5年)3月、旬刊「北海時報」を同地に創刊。1925年(大正14年)2月28日には「北海時報」を「北海道毎日新聞」と改め、日刊とした。 1934年(昭和9年)10月16日、株式会社に組織を改め、1936年(昭和11年)11月、再び吉田の個人経営となった。
吉倉 汪聖(よしくら おうせい、1868年(明治元年)11月… 吉倉 汪聖(よしくら おうせい、1868年(明治元年)11月 - 1930年(昭和5年)12月30日)は、日本のジャーナリスト、アジア主義者、大陸浪人。 1868年(明治元年)、金沢藩士の子として生まれる。東京法学校(現・法政大学)を卒業し、民権運動に参加した後、朝鮮に渡る。釜山貿易新聞を経て、元山時事、遼東新報を創刊し、ジャーナリストとして活躍する。1895年(明治27年)に天佑侠団に加わり、1901年(明治33年)に内田良平らとともに黒龍会を創設する。内田の『露西亜論』は吉倉の執筆によるものといわれている。 詩人・評論家の北村透谷と交友があった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元… 百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元年9月12日〉- 1939年〈昭和14年〉4月21日)は、長野県出身の医師、政治家。松本市長。旧姓・柳野。 信濃国松本城下(現:長野県松本市)に松本藩士・柳野興一の次男として生まれ、百瀬元章の養子となる。1888年(明治21年)東京帝国大学医科大学別科を卒業。翌年、松本に医院を開業。医院を経営する傍ら、従兄弟の木下尚江らとともに普選運動や禁酒運動に参加する。1901年(明治34年)東筑摩郡看護婦会を組織する。1922年(大正11年)5月1日、松本信用組合(現:松本信用金庫)を設立し組合長に就任。 1898年(明治31年)松本町会議員に当選。
羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明… 羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明治元年9月11日) - 1944年(昭和19年)12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県出身。1890年、東京工業学校(現・東京工業大学)機械科卒。私立中学鳳鳴義塾教師となる。その後、農商務省製鉄所技手となり、ドイツに留学、住友製鋼所副支配人、羽室鋳鋼所所長、日本水道衛生、大阪機械工作所(株)監査役を歴任する。御影師範学校附属小学校保護者会役員であったことから、近隣の新中学として1923年から灘校設立運動を支援。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において大阪3区から立候補したが落選。1926年の補欠選挙の再選挙に実業同志会公認で立候補して当選した。
人見 米次郎(ひとみ よねじろう、1868年10月24日(明… 人見 米次郎(ひとみ よねじろう、1868年10月24日(明治元年9月9日) - 1935年(昭和10年)1月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1879年、彦根初等師範学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)卒。数学とドイツ語を学ぶ。第百三十三国立銀行(現・滋賀銀行)、日本生命保険、神戸井上倉庫各(株)勤務を経て、運送業と日豪貿易を営み、欧米各国を巡遊する。また、神戸市会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1935年に死去した。
大久保 忠均(おおくぼ ただひら、1868年10月24日(明… 大久保 忠均(おおくぼ ただひら、1868年10月24日(明治元年9月9日) - 1909年(明治42年)10月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 下総国相馬郡高柳村(のち千葉県南相馬郡風早村→東葛飾郡風早村→東葛飾郡沼南村→沼南町、現在の柏市)に生まれる。儒学者蒲生重章に漢学を学ぶ。風早村書記、同村会議員、東葛飾郡会議員、千葉県会議員、同参事会員、地方衛生会員、所得税調査委員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において千葉県から立憲政友会公認で立候補して初当選する。1903年の第8回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。その後は東葛飾郡農会幹事長、同副会長となり、1907年風早村長に就任した。
手島 兵次郎(てしま へいじろう、1868年10月22日(明… 手島 兵次郎(てしま へいじろう、1868年10月22日(明治元年9月7日) - 1918年(大正7年))は、日本の検察官、官僚。台湾総督府法務部長、覆審法院検察官長を歴任した。また台湾法制起草委員なども務め、台湾の法制度整備に尽くした。
赤星 典太(あかほし / あかぼし てんた、1868年10月… 赤星 典太(あかほし / あかぼし てんた、1868年10月22日(慶応4年9月7日)- 1958年(昭和33年)6月13日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、錦鶏間祗候。 肥後国熊本城下手取本町(現熊本市)出身。熊本藩士・赤星晋作の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主税局属となる。 1897年(明治30年)司税官・金沢税務管理局在勤となる。以後、根室税務管理局長、札幌税務管理局長、会計検査官補、司法省参事官兼司法書記官、同書記官・総務局会計課長、農商務書記官、行政裁判所評定官などを歴任。
松田 道(まつだ みち、慶応4年9月7日(1868年10月2… 松田 道(まつだ みち、慶応4年9月7日(1868年10月22日) - 1956年(昭和31年)1月15日)は、丹後国中郡峰山(現在の京都府京丹後市峰山町)出身の、明治期から昭和前期の女子教育者。女性として初めて、同志社女子専門学校(現在の同志社女子大学)の校長を務めた。 松田道は、1868年(慶応4年9月7日)、丹後国中郡峰山(現在の京都府京丹後市峰山町室)にて、松田甚八の次女として誕生した。生家は旧峰山藩主の屋敷跡にあったという。時の京都府知事・槇村は学業をよく奨励したので、松田道の父母もこれに倣い、子ども達を学校に通わせるのを好んだ。 創立当時の峰山小学校在学中は冬は藁靴を履いて通い、習字を習いに自宅を訪ねても面倒がらずに面白い話をしてくれた壮年の「高木先生」と、その近所に住み、積雪の日などは自ら背に負って自宅まで送り届けてくれた若い「柴崎先生」のことは晩年まで忘れることはなかった。
松村 貞雄(まつむら さだお、1868年10月21日〈慶應4… 松村 貞雄(まつむら さだお、1868年10月21日〈慶應4年9月6日〉 - 1923年〈大正12年〉2月21日)は日本の外交官。ウラジオストック総領事、サンパウロ総領事等を歴任。 1868年10月21日(慶應4年9月6日)、土佐国土佐郡鴨部村(現・高知県高知市)に土佐藩士の二男として生まれる。1886年(明治19年)に獨逸学協会学校に入り、ドイツ語とラテン語を修業し、1891年(明治24年)に和仏法律学校(現・法政大学)に入学し、1894年(明治27年)に卒業する。1897年(明治30年)に外交官及領事官試験に合格、外務省に入省し、上海領事官補として勤務する。北清事変のときには上海、日露戦争のときにはヨーロッパにあって活躍し、漢口総領事時代には第一革命がおこり、居留地の保護及び列国領事等との折衝にその手腕を振るう。