スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
中田 歩夢(なかた あゆむ、2004年6月27日 - )は、… 中田 歩夢(なかた あゆむ、2004年6月27日 - )は、青森県弘前市出身のプロ野球選手(内野手・育成選手)。右投右打。読売ジャイアンツ所属。 小学校3年から福村ガッツで野球を始め、弘前市立東中学校では軟式野球部に所属。高校は東奥義塾高等学校に進学し、1年夏からベンチ入りしたが、甲子園に出場することはできなかった。 2022年10月20日に行われたプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツから育成ドラフト4位指名を受け、11月13日、支度金290万円、年俸360万円(金額は推定)で仮契約を結んだ。背番号は002。担当スカウトは円谷英俊。 2023年は主に三軍戦に出場。二軍のイースタン・リーグでは5試合の出場で3打数1安打の成績だった。
鎌田 紗綾(かまた さや、1988年11月27日 - )は、… 鎌田 紗綾(かまた さや、1988年11月27日 - )は、ぐっどもーにんぐ所属のフリーアナウンサー。元富山テレビ放送のアナウンサー。愛称は、さぁや、さぁやんなど。 放送局名がないものは富山テレビの番組。
原崎 政人(はらさき まさと、1974年8月13日 - )は… 原崎 政人(はらさき まさと、1974年8月13日 - )は、青森県南津軽郡藤崎町出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー。 1993年、東奥義塾高等学校からフジタ工業サッカー部(現・湘南ベルマーレ)に入部。1999年には大宮アルディージャ、2004年にはベガルタ仙台へ移籍。3チーム通算で公式戦261試合に出場し24得点を記録。 2004年に現役を引退し、大宮の普及部コーチ、仙台のトップチームコーチを歴任。2015年5月10日のJ1 1stステージ第11節・浦和レッズ戦では監督代行を務めた。2017年、ユース監督に就任。 2018年、大宮のヘッドコーチに就任 し、2年間務める。
中村 有(なかむら たもつ、1973年4月10日 - )は、… 中村 有(なかむら たもつ、1973年4月10日 - )は、青森県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは、ミッドフィールダー(MF)。 選手として1992年から3年間フジタサッカークラブ及びベルマーレ平塚でプレー。 現役引退後の1997年、ベルマーレ平塚の下部組織で指導者としてのキャリアをスタートさせた。その後は横浜FC、ガイナーレ鳥取、東京ヴェルディなどでコーチを歴任。2013年からは、2年間V・ファーレン長崎のヘッドコーチを務めた。 2015年、大分トリニータのヘッドコーチに就任。2016年はU-18監督に配置転換された。 2021年、福井ユナイテッドFCのヘッドコーチに就任 2025年、ハノイFCのコーチに就任 2026年、ラインメール青森FCのヘッドコーチに就任。
古川 純一(こがわ じゅんいち、1972年2月12日 - )… 古川 純一(こがわ じゅんいち、1972年2月12日 - )は、日本の元ノルディック複合スキー選手。1994年リレハンメルオリンピック代表、1998年長野オリンピック代表。ザコパネユニバーシアードノルディックコンバインド金メダリスト。青森県北津軽郡金木町(現五所川原市)出身。東奥義塾高等学校、近畿大学卒業。 高校時代、インターハイ個人優勝、団体2連覇。特待生として近大に入学しインカレ等で活躍。1993年3月12日ではFISワールドカップホルメンコーレン大会で3位(自己最高位)入賞。また、ザコパネユニバーシアードでは金メダルを獲得する。1994年、リレハンメルオリンピック複合個人19位。大学卒業後リクルートに入社。
木村 公宣(きむら きみのぶ、1970年10月24日 - )… 木村 公宣(きむら きみのぶ、1970年10月24日 - )は青森県弘前市生まれのアルペンスキー指導者、解説者。元アルペンスキー選手(1985-2003年)である。冬季オリンピックに4大会連続して出場した。 15歳からナショナルチーム入り。インターハイ、全日本スキー選手権大会アルペンスキー競技優勝(1991年SL、1993年GS、1996年SL、2001年SL)等で10代から頭角を現し、1991年冬季ユニバーシアード回転で日本人初優勝。 1992年アルベールビルオリンピックではコンバインドの回転で3位のタイムを出し総合15位、スーパーG33位、大回転21位、回転棄権だった。 近畿大学卒業後、1994年リレハンメルオリンピックスーパーG33位、大回転26位、回転18位、アルペンスキー・ワールドカップでも徐々に好成績を収め、長野オリンピックのプレ大会となった1996/97シーズンの回転・志賀高原大会では表彰台間近の4位。
谷川 政人(たにかわ まさと、1969年(昭和44年)11月… 谷川 政人(たにかわ まさと、1969年(昭和44年)11月21日 - )は、日本の政治家。青森県弘前市長(1期)。元青森県議会議員(3期)、元弘前市議会議員(3期)。 東奥義塾高等学校を経て、1992年に道都大学(現:星槎道都大学)社会福祉学部社会福祉学科を卒業。民間企業への勤務を経て、1998年に衆議院議員であった木村太郎の秘書に就任。 2003年の弘前市議会議員選挙に出馬し当選(3期)。2015年には青森県議会議員選挙に出馬し初当選。3期目の途中、弘前市長選挙出馬のため2026年2月23日付けで辞職。 2026年4月12日に行われた市長選挙は、3選目を目指す現職の櫻田宏らとの決戦となったが、宮下宗一郎青森県知事の支援を受け初当選を果たした。
佐藤 生朗(さとういくお、1968年7月10日 - 2026… 佐藤 生朗(さとういくお、1968年7月10日 - 2026年2月25日)は 青森県弘前市出身の作曲家・歌手である。
関 和典(せき かずのり、1967年2月24日 - )は、日… 関 和典(せき かずのり、1967年2月24日 - )は、日本の政治家、元青森県西目屋村長(4期)。 1967年、西目屋村にて出生。東奥義塾高等学校、青山学院大学文学部史学科卒業。1989年STT開発入社。その後、越智通雄衆議院議員秘書・木村守男衆議院議員公設第2秘書、木村太郎衆議院議員秘書を経験し、西目屋村社会福祉協議会事務局長、1999年西目屋村議会議員および副議長を務める。 2006年に38歳で村長選挙へ立候補し当選。2010年・2014年・2018年にそれぞれ無投票で当選。 1967年、世界遺産・白神山地で有名な西目屋村にて出生。東奥義塾高等学校卒業後青山学院大学進学。同大学卒業後、1989年STT開発入社。
三ヶ田 礼一(みかた れいいち、1967年1月14日 - )… 三ヶ田 礼一(みかた れいいち、1967年1月14日 - )は、1990年代に活躍したスキーノルディック複合の選手。
佐々木 一成(ささき かずなり、1962年11月25日 - … 佐々木 一成(ささき かずなり、1962年11月25日 - )は、日本、青森県平内町出身の元クロスカントリースキー選手。1980年代から1990年代にかけて活躍した。 東奥義塾高等学校→専修大学→北野建設 冬季オリンピックに4回出場、1992年アルベールビルオリンピックでは選手団主将を務めた。全日本スキー選手権大会では個人四冠を3度達成するなど通算26勝(歴代1位)を記録した。 ソルトレークシティオリンピックコーチ。
孫内 あつし(まごない あつし、1940年 - 2025年1… 孫内 あつし(まごない あつし、1940年 - 2025年12月1日)は、もっぱらクレヨン画によって知られた日本の画家。 青森市生まれ。生家は遊郭街に近い神社で、次男として生まれた。 1958年に東奥義塾高等学校を卒業し、1960年に美術担当として青森放送に入社し、1972年に退社するまで、自社制作番組の美術制作に携わった。 青森放送退社後は、青森市を中心に、複数の飲食店やブティックを経営するかたわら、クレヨン画による創作活動を始めた。 1990年、初の個展を、青森市の五拾壹番館ギャラリーで開催した。 1992年以降、公募展に入選するようになり、1993年には東京都に転居して、1996年からは東京でも個展を開くようになった。
田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 200… 田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 2001年12月12日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党所属の衆議院議員。青森県南津軽郡田舎館村出身。姓のうち「沢」の戸籍上の表記は「澤」。 津島文治元青森県知事の娘婿で、1947年、29歳で青森県議会議員に初当選。1960年、「津軽のケネディ」を名乗って衆議院議員選挙に立候補し、初当選。以来12回連続当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・藤井勝志など)。 自民党内では宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に属し、衆議院議院運営委員長、国土庁長官、自民党国会対策委員長、農林水産大臣、防衛庁長官などを歴任。
柳谷 寛(やなぎや かん、1911年11月8日 ‐ 2002… 柳谷 寛(やなぎや かん、1911年11月8日 ‐ 2002年2月19日)は、日本の俳優。本名同じ。長男は俳優の柳谷慶寿、次男は数学者・作家の柳谷晃。 1911年11月8日、青森県青森市に生まれる。旧制東奥義塾中等部(現在の東奥義塾高等学校)を経て、日本映画俳優学校卒業後、P.C.L.に入社して映画『坊つちやん』のガキ大将役でデビューする。1938年にP.C.L.が東宝に改編された後も、同社の作品に多く出演した。 戦後は菅井一郎らの俳優グループ第一協団に所属して、東宝・大映・東映・日活など幅広く活躍。独特の演技で才能を発揮し、朴訥()とした雰囲気を持つ個性派の脇役俳優として知られた。東映の映画『月光仮面』には五郎八役で全シリーズに出演。
今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日… 今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の小説家。 青森県弘前市西茂森町に藤田三次郎(藤田匡の一族)の孫、今宮吾の三男として生まれる。東奥義塾の学生時代、1926年(昭和2年)に中田重治より洗礼を受ける。 早稲田大学露文科中退。同郷の太宰治と親しく、桜桃忌の名は今によって名付けられた。 1956年(昭和31年)、『壁の花』で第三十五回直木賞を受賞。
木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985… 木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985年)は、昭和時代日本の作曲家、音楽研究者。 青森県出身。兄は作曲家・民俗音楽収集家の木村弦三。 1908年(明治41年)、弘前市に生まれる。東奥義塾再興後の1回生であり、1933年(昭和8年)に法政大学英文科を卒業した後は小松耕輔、近衛秀麿らの師事を仰ぐ。 1947年(昭和22年)から1969年(昭和44年)まで県立弘前高校の音楽教諭を務める傍ら津軽地方の民謡を採譜・収集し、その成果を合唱曲「津軽の旋律」として1958年(昭和33年)に陸奥新報社より刊行した。作曲家としては元青森県副知事の横山武夫が作詞したものが多く、2代目「青森市民歌」をはじめ県内各地の校歌を数多く手掛けている。
今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10… 今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1973年〈昭和48年〉10月27日)は、日本の建築学者、民俗学研究者。考現学の第一人者。 医学者今裕の甥。銅版画家今純三の兄。息子の今保太郎は東映の美術監督。 早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家、服装研究などで業績があり、考古学に対し現在の通常の人々の日常生活や行動を考察する「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。
黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月1… 黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月12日 - 1967年〈昭和42年〉2月9日)は、日本の教育者。横浜中学校・高等学校創立者。青森県今別町名誉町民。位階は従四位。 青森県東津軽郡一本木村(現今別町)奥平部で旧弘前藩士の黒土形衛の二男として生まれた。父は維新後に始めた商売に失敗し、津軽半島北端の地に移り海藻を採るなどして生計を立てた。12歳で父と死別し、翌年に青森地方裁判所の給仕となった。その後、進学するために弘前にある寺の住職を務めていた伯父の養子となり、東奥義塾に入学した。1908年(明治41年)に東奥義塾を卒業して東京高等師範学校博物学科に進み、1912年(明治45年)に卒業した。
十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月2… 十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月27日 - 1914年10月9日)は、青森県北津軽郡中里町出身で二十山部屋に所属した力士。本名は岩田 金四郎。170cm、120kg。最高位は西前頭9枚目。 東奥義塾を卒業し、二十山部屋に入門。非常に文章・文筆巧みであったという。当時としては体格が良く、「アンコウ」の異名をとり、左四つからの寄りには威力があった。1903年5月初土俵、1909年6月十両昇進。新橋倶楽部事件では力士側の書記役を務めた。1911年2月に入幕し、前頭9枚目まで昇進。しかし病の為に不振に陥り幕下まで転落。1914年1月に廃業したが、年内に没した。
葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉… 葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉 - 1945年〈昭和20年〉12月)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県南津軽郡田舎館村長、弘前市長。 青森県南津軽郡豊蒔村(現在の田舎館村豊蒔)出身。東奥義塾から第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進む。1905年(明治38年)文学部講師嘱託となり、市村瓚次郎の助手として満州へ渡る。帰朝後は、東奥義塾教師、千葉県成田中学校長など全国各地の校長を歴任し、1926年(大正15年)大館中学校から弘前中学校の第14代校長となる。 1931年(昭和6年)同校生徒の「嶽温泉籠城ストライキ」の責任を取り、翌春校長を辞職。1940年(昭和15年)田舎館村長となり、1942年(昭和17年)7月には弘前市長に就任した。
菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10… 菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10月1日 - 1945年(昭和20年)2月25日)は、大正から昭和前期の日本の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。中国通(支那通)として知られた。天文学者・一戸直蔵の義弟。 青森県中津軽郡弘前城下(現弘前市)で、旧弘前藩士の政治家・菊池九郎、久満子の長男として生まれる。東奥義塾、第二高等学校を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業した。 青年時代から中国問題に関心を持ち、中国で貿易商を営み、日支商事会社長、山口商事取締役、東海漁業取締役などを務めた。その後、新聞記者、弁護士となる。また、合資会社ボルネオ物産商会代表者に就任した。
山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)… 山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)5月18日 - 1960年(昭和35年)2月18日)は日本の革命運動家、大陸浪人。孫文の革命活動に参加した山田良政の実弟である。 青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会の清国派遣留学生選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄に孫文を紹介されている。卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。
平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1… 平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1月29日 - 1960年(昭和35年)3月18日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)、豪農、篤農家、実業家。五所川原銀行頭取。津軽鉄道社長。松木屋呉服店社長。陸奥銀行、佐々木銀行、青森貯蓄銀行、松木屋呉服店、津軽酒造各取締役。鳴海銀行監査役。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市)生れ。平山雄太郎の長男。東奥義塾及び慶應義塾に学んだ。農業を営んだ。村会議員、青森県会議員同参事会員、衆議院議員に挙げられた。陸奥鉄道社長、国有化後に津軽鉄道の初代社長。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市大字湊)にある平山為之助の住居は、1769年(明和6年)建立の古民家で、「旧平山家住宅」として国の重要文化財に指定され保存されている。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 … 宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、朝鮮総督府官僚。青森県弘前市長。 青森県弘前市出身。東奥義塾を経て、1891年(明治24年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。1895年(明治28年)、自由新聞社に入社し、翌年に警視庁警部となり、同外事係長となった。1906年(明治39年)、統監府に転じ、理事庁警視となった。朝鮮総督府警務総監部庶務課長、朝鮮総督府事務官、群山府尹、平壌府尹、大邱府尹を歴任した。1926年(大正15年)に退官した後は、京城府の英字新聞『セウル・プレス(英語版)』の社長に就任した。 1930年(昭和5年)7月、弘前市長に選任されたが、1933年8月に病のため辞職した。
長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2… 長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1937年(昭和12年)5月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 長内泰民の子として陸奥弘前藩領西津軽郡穂積村(青森県西津軽郡稲垣村を経て現つがる市)に生まれる。東奥義塾を経て弘前公立病院附属医学校に入る。1885年(明治18年)同校閉校に伴い東京慈恵医学専門学校に入学するが、政治家を志し中退し新聞記者となる。その後、北海道に渡り材木商を始めるが挫折し、帰郷する。また、日清戦争に従軍した。 1899年(明治32年)稲垣村助役、1903年(明治36年)郡議から青森県会議員に転じ、1906年(明治39年)第3代稲垣村長に就任する。
西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868… 西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868年11月5日) - 明治45年(1912年)1月8日)は、日本の内務官僚、佐賀県知事。 陸奥国津軽郡妙堂崎村(後青森県西津軽郡水元村、現在の北津軽郡鶴田町)出身。西村孫兵衛の長男として生まれる。東奥義塾を卒業し、1887年(明治20年)から1889年(明治22年)まで北津軽郡立高等小学校で雇教員として働いた。1890年(明治23年)、東京専門学校政学部(現早稲田大学政経学部)を卒業。1891年(明治24年)、青森県内務部雇となり、1893年(明治26年)には青森県会に異動となった。翌年、職を辞して上京し、法律学の勉強に励んだ。1895年(明治28年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、翌年に内務省属・県治局勤務となった。
山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1… 山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1月25日) - 明治33年(1900年)10月22日?)は、日本の革命運動家、大陸浪人である。熊本の宮崎滔天らと共に孫文の支援者となり辛亥革命に参加。実弟の山田純三郎も兄の遺志を継いで孫文を支援した。 陸奥国弘前(後の青森県弘前市)に津軽藩士の子として生まれる。山田家は思想家の陸羯南の実家と真向かいにあったこともあり、良政は少年時代から羯南の影響を受けていたとされる。伯父の菊池九郎が経営する東奥義塾で学んだ後に地元の青森師範学校へ進学したが、2年時に全寮制の寮内での賄経費を巡る騒動(賄征伐)が発生した際に、騒動の首謀者となった友人をかばう形で退学処分を受けた。
笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応… 笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応3年1月14日〉 - 1911年〈明治44年〉6月12日)は日本の牧師、教育者である。 津軽(弘前)藩士の家に生まれ、1885年(明治18年)に東奥義塾を卒業し、1885年8月に本多庸一より洗礼を受ける。同年9月からアメリカに渡り、デポー大学で学び哲学博士号を取得する。 1893年(明治26年)に帰国し、1894年(明治27年)より長崎市の出島メソジスト教会牧師に就任する。 そして、鎮西学館(のちの鎮西学院)の哲学講師を務めた。1904年(明治37年)鎮西学館の副館長になる。 そして、1906年(明治39年)日本人初の鎮西学館の館長に就任する。
五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年… 五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年(1866年) - 明治42年(1909年)11月25日)は、明治期の日本の篆刻家である。 名は裕、字は有孚、蔵六を号し、別号に無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。陸奥国弘前出身。 三谷大足の次男として生まれ、東奥義塾で洋学を修めた。23歳のとき上京。金子蓑香に篆刻を学び、その後四世浜村蔵六の門下となる。四世蔵六に継嗣がいなかった為請われてその養子となり、明治27年(1894年)5月浜村蔵六を嗣ぎ、永らく向島に住む。各地を遊歴後、二度にわたって清国を訪問。康有為ら政治家と親交した。また呉昌碩や徐三庚と交わり、その奥義を伝えられる。このため浜村家に代々伝えられた印法が変容したとされるが、四世蔵六のとき代々伝えられた印籍類が火災で焼失したことが原因とも考えられる。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年… 平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年3月22日〉 - 1933年〈昭和8年〉2月14日)は、日本の牧師。 万延元年(1860年)3月22日、青森県弘前城下に生まれる。明治8年(1875年)に朝陽小学校、明治12年(1879年)に東奥義塾を卒業し、明治12年(1879年)に耕教学舎(後の青山学院大学)に入学する。同年9月に横浜神学校に転校し、明治16年(1883年)に卒業する。 明治15年(1882年)に美以教会(メソジスト派)の伝道師になる。明治20年(1887年)に按手礼を受けて、牧師になる。 明治21年(1888年)に東京英和学校を卒業し、神田、飯田、松本、四谷の美以教会を歴任する。
山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政… 山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政7年1月25日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月1日)は、日本のメソジストの牧師、教育者、文筆家。 万延元年(1860年)に弘前藩の江戸藩邸に生まれる。津軽に帰郷し藩学を経て、東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1877年(明治10年)、イングより洗礼を受ける。 弘前教会資産係を経て、勧士になる。1879年、横浜山手の美會神学校開校と同時に入学する。1887年に東京英和学校を卒業すると、母校の教師になる。 1887年、長老の按手礼を受け、名古屋中央教会に赴任し、岐阜・高山の開拓伝道を行う。名古屋清流女学校の創設にも関わる。
中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8… 中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8月13日) - 1905年(明治38年))は、メソジストの牧師。禁酒運動、廃娼運動に大きな働きをした。弘前ではリバイバル運動の先鋒だった。中田重治の実兄。 弘前藩足軽の父兵作、母千代の間に3人兄弟の長男として現在の青森県弘前市に生まれる。明治維新後、一家は南津軽郡大光寺村へ移住する。1875年、父の兵作が脳溢血で死去する。その後は弘前に戻り東奥義塾に通う。1878年、軍人養成所に入所して、西南戦争に出征するも、実戦に参加せずに1883年に弘前へ帰郷する。スパルタ式教育で弟の重治を教育する。 1884年(明治17年)軍隊へ戻り、金沢連隊の営所に転勤する。
山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5… 山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5年12月30日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月31日)は、日本のメソジストの牧師、教育者。文筆家である。弘前教会牧師を長年務める。 津軽藩士の古田家の次男として江戸藩邸に生まれる。山鹿素行の後の津軽山鹿家の養子になり、別家を継いだ。帰郷し東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1875年(明治8年)10月3日にイングより洗礼を受ける。 養家の山鹿家の都合で新聞社経営に参加し、記者の筆禍事件の責を負って禁錮7ヶ月判決を受けた。獄中で聖書を読んで、献身の召命を受ける。1882年に本多庸一の勧めで、弘前教会内の女学校(弘前学院)の校長になる。
陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857… 陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日) - 明治40年(1907年)9月2日)は、日本の国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育て、池辺三山、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された。幼名は巳之太郎、のち実、号は羯南。 弘前藩の御茶坊主頭・中田謙斎と妻・なほ(旧姓、種市)の子として、陸奥国弘前(現・弘前市)在府町に生まれた。長男・次男 の両説がある。謙斎は微禄であった。 明治4年(1871年)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学び、明治6年(1873年)、旧藩校の後身・東奥義塾へ進み、明治7年(1874年)に宮城師範学校に転じたが、明治9年(1876年)に校長・松林義規(旧大村藩士)に逆らい退校処分を受けた。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22… 佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22日〈安政4年3月28日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月12日、満76歳没)は、日本のメソジスト派牧師、外交官(特命全権大使)、宮中顧問官。 弘前藩家老山中逸郎泰靖の次男として生まれる。幼名は次郎。勘定奉行佐藤清衡の養子になり、20歳の時に愛麿と改名。 1875年(明治8年)ジョン・イングより洗礼を受け、弘前バンドの一人として伝道に従事。東奥義塾創設と同時に入学し、弘前公会の設立に参画した。 1876年(明治9年)に菊池九郎、本多庸一、イングに引率されて、東北巡幸中の明治天皇に謁見し、珍田捨巳、伊東重らと共に英文演説を奉呈した。 1877年(明治10年)イングの紹介で、珍田捨巳らとともにアメリカのインディアナ・アスベリー大学(現・デポー大学)に留学し、Bachelor of Arts 及び Master of Philosophy を取得。
珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年1… 珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年12月24日〉- 1929年〈昭和4年〉1月16日)は、日本の外交官。侍従長・枢密顧問官・外務次官。位階・勲等・爵位は従一位勲一等伯爵。キリスト教牧師(メソジスト派)。 弘前藩の下級藩士・珍田有孚の長男として、現在の青森県弘前市で生まれる。藩校の稽古館を経て、東奥義塾に学び、本多庸一の薫陶を受けて学び卒業。本多庸一校長の下で1874年(明治7年)東奥義塾の職員になる。1877年(明治10年)勇躍渡米しインディアナ・アスベリー大学で4年間学び、25歳のときに帰国した。当時、アメリカ事情と語学への通暁者は貴重な存在だった。1886年(明治19年)メソジストの弘前教会(現在の日本基督教団弘前教会教会堂)の副牧師になった。
芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - … 芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - 1923年(大正12年)2月)は日本の政治家。青森県青森市長。 陸奥国津軽郡弘前で津軽藩士芹川高正の家に生まれる。東奥義塾に入り、キリスト教に入信する。卒業後は同塾の教師となった。1889年、弘前市発足後の弘前市会議員選挙に出馬して当選する。2年後の1891年の府県制施行後の青森県会議員選挙に出馬して当選し、連続5期務める。この間、県参事員も務めた。 1904年1月に青森市長に就任。在任中に青森港の外国貿易特別輸出港の指定に尽力、それが実現した。また、1908年に青森を発着とする青函連絡船が就航した。さらに上水道整備に着手した。 市長は1908年まで務め、退任後は第五十九銀行頭取に就任した。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年… 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。 教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 19… 江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 1916年〈大正5年〉11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章。 文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。