加藤 圭朗(かとう けいろう、1926年 - )は昭和期の日… 加藤 圭朗(かとう けいろう、1926年 - )は昭和期の日本の官僚。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1943年卒業)、東亜同文書院大学予科を経て、九州帝国大学法文学部を卒業した。 1949年に人事院に入庁する。近畿事務局長、給与局次長、公務員研修所長、管理局長を経て、1983年に人事院事務総長となる。1986年に退官した。退官後は日本体育・学校健康センター理事を務めた。
大野 文男(おおの ふみお、1926年 - 2001年)は、… 大野 文男(おおの ふみお、1926年 - 2001年)は、東京都出身のプロ野球選手。 聖学院中学校、東亜同文書院大学(専門部第44期生)、中央工業を経て1949年に東急フライヤーズへ入団。同年退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
大城 立裕(おおしろ たつひろ、1925年〈大正14年〉9月… 大城 立裕(おおしろ たつひろ、1925年〈大正14年〉9月19日 - 2020年〈令和2年〉10月27日)は、日本の小説家。 沖縄県中城村出身。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)を経て、1943年上海の東亜同文書院大学に入学し、1946年、敗戦により中退。高校教師を経て琉球政府、引き続き沖縄県庁の職員となり、主に経済・歴史編集畑を歩む。1967年、『カクテル・パーティー』で芥川賞を受賞し、沖縄初の芥川賞作家となる。「沖縄」の矛盾と苦しみと誇りをみつめた小説、戯曲やエッセーなど多くの作品を発表した。県の文化行政にも積極的に関わり、1983年から1986年まで沖縄県立博物館長を務めた。
秋岡家栄(あきおか いえしげ、1925年(大正14年) - … 秋岡家栄(あきおか いえしげ、1925年(大正14年) - )は、日本の作家、元新聞記者。 元朝日新聞社北京支局長、朝日中国文化学院創設者兼初代院長、日中友好99人委員会創設者兼総代表。中国の文化大革命期に中国政府から国外退去を命じられずに中国に残った9人の外国人記者のうち、ただ1人の日本人記者である。 1943年、上海東亜同文書院に公費留学生として留学。 1967年11月 - 1972年11月、朝日新聞社北京支局駐在。
王 宏(おう こう、1925年 - )は、中国の日本語学者。… 王 宏(おう こう、1925年 - )は、中国の日本語学者。元の名は「王康緒」。 1925年、台湾で生まれた。1932年の夏、家族で満洲国新京に移り、1939年北京日本中学校に入学。1943年に同校を卒業した。1944年10月、東亜同文書院大学予科に進学したが、翌年中退し、北京を経て新四軍の勢力圏に入った。 戦後は北平の華北学院商学院経済系に学び、1948年卒業すると華北軍政大学台湾隊で学んだ。1949年10月1日の中華人民共和国開国大典には華北軍政大学台湾隊として参列している。朝鮮戦争では中国人民志願軍に志願し従軍した。 1960年、上海外貿学院、上海外語学院の日本語教員となり、1972年には上海外国語大学の日本語教員、同大の日本語学部の初代主任となった。
神谷 信之助(かみたに しんのすけ、1924年3月15日 -… 神谷 信之助(かみたに しんのすけ、1924年3月15日 - 1999年1月8日)は日本の政治家。参議院議員(日本共産党公認、通算3期)。日本共産党中央委員会名誉幹部会委員。 京都府京都市下京区出身。日活撮影所の表具師の長男。1941年(昭和16年)旧制京都第二中学校卒業後、学徒出陣して久留米陸軍予備士官学校に入学。1945年(昭和20年)に東亜同文書院大学を卒業。翌年西日本新聞政治部記者となるが、二・一ゼネスト参加を理由に解雇される。1948年(昭和23年)京都府職員となり労働組合活動を始め、翌年には京都府職員労働組合書記長に就任した。1952年には日本共産党へ入党すると共に府職員労働組合書記長となる。
那谷敏郎(なた としろう、1923年2月25日- )は、日本… 那谷敏郎(なた としろう、1923年2月25日- )は、日本の紀行作家、文化史家。 石川県金沢市生まれ。東亜同文書院大学卒業。朝日新聞出版局編集委員、名古屋商科大学、光陵女子短期大学講師。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
高田 富佐雄(たかだ ふさお、1923年 - 1991年10… 高田 富佐雄(たかだ ふさお、1923年 - 1991年10月30日)は、日本のジャーナリスト、中国研究家。 佐賀県出身。東亜同文書院大学卒。毎日新聞記者となり、中国に勤務、江頭数馬らと文化大革命に遭遇。1966年ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。のち毎日を退社、大森実の「東京オブザーヴァー」に参加。
藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1… 藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1994年5月2日)は、日本の映画監督・演出家・市民運動家。群馬県富岡市出身。
信元 安貞(のぶもと やすさだ、1920年8月19日 - 2… 信元 安貞(のぶもと やすさだ、1920年8月19日 - 2003年5月8日)は、日本の経営者。曙ブレーキ工業社長、会長を務めた。位階は従四位。前妻の満智子との子に信元久隆、信元真佐江、後妻トミ子との子にリップシャッツ信元夏代がいる。 東京都出身。1943年に東亜同文書院大学商学部を卒業し、1950年に曙産業(のちの曙ブレーキ工業)に入社。取締役、常務、専務を経て、1960年5月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1990年6月に会長に就任し、信元久隆氏代表取締役社長を継いだ。1994年6月には名誉会長に就任。 1981年4月に藍綬褒章を受章し、1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。「自動車部品産業の黎明期に多大な貢献」をしたとして、日本自動車殿堂者(Japan Automotive Hall of Fame)に認定されている。
伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2… 伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2008年2月27日)は日本のジャーナリスト、中国研究者、中日新聞東京支社記者・論説委員。旧姓は中山。 京都府生まれ。戦前の上海にあった東亜同文書院大学を卒業。 その後中日新聞社に入社し、中日新聞記者として文化大革命当時の中国に駐在し、中国の内情を報道した。1967年2月、1966年度ボーン国際記者賞(現・ボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
春名 和雄(はるな かずお、1919年3月15日 - 200… 春名 和雄(はるな かずお、1919年3月15日 - 2002年3月3日)は、日本の経営者。神奈川県横浜市出身。 1940年に東亜同文書院大学を卒業し、同年に丸紅の前身である大同貿易に入社。 ロンドン支店長などを経て、1968年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を歴任し、1983年に社長に就任した。1987年から1997年までに会長を務めた。 経済界における中国通とも知られており、社長時代には対中ビジネスを切り開き、1991年から1999年までに日中経済協会副会長を務めた。 2002年3月3日心不全のために死去。82歳没。
田中 徹雄(たなか てつお、1918年2月22日 - 昭和5… 田中 徹雄(たなか てつお、1918年2月22日 - 昭和54年(1979年)12月21日)は、日本の陸軍軍人(大尉)、地方公務員。山梨県副知事。 山梨県出身。上海の東亜同文書院を出て、南満州鉄道本社に勤めているうちに応召となり、日中戦争に参加した。 戦後、上海連絡班として中国に残った。総連絡班長は南京にいた今井武夫少将である。昭和21年(1946年)12月に上海発の最後の引揚船に今井少将たちと乗船し、翌月日本に帰国した。その直前に上海に拘束されていた嵯峨浩(満州国皇弟・溥傑夫人)・愛新覚羅嫮生母娘を救出した。 引揚後、郷里の山梨県庁に勤務し、のちに副知事まで務めた。1967年の第31回衆議院議員総選挙で山梨県から自民党公認で立候補したが落選した。
田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1… 田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1997年8月22日)は日本の政治家。参議院議員(3期)。熊本県天草郡河浦町(現天草市)出身。東亜同文書院大学卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
魚返 善雄(おがえり よしお、1910年1月8日 - 196… 魚返 善雄(おがえり よしお、1910年1月8日 - 1966年3月27日)は、日本の言語学者、中国文学研究者。信濃憂人の別号を持つ。 1910年、大分県玖珠郡北山田村(現・玖珠町)に生まれた。1926年より上海の東亜同文書院に学ぶが、病気のため1929年に中退して帰郷。1933年に文部省検定試験に合格し、英語と支那語の教師資格を取得して東亜学校で教職に就いた。1937年より日華学会理事、NHK嘱託として北京語放送を担当。1939年より東京帝国大学(新制後は東京大学文学部)非常勤講師を27年務めた。戦時中、東京高等師範学校教授。 太平洋戦争後は東洋大学、駒澤大学、東洋大学客員教授として教鞭をとった。
福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 -… 福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 - 1990年10月5日)は日本の政治家。参議院議員(2期)。旧姓は辻。東与賀村長の辻武一郎の子。祖父は佐賀の干拓の父と呼ばれた辻演年。兄は陸軍兵器学校の校長などを務めた陸軍中将の辻演武。 佐賀県佐賀郡出身。旧制佐賀県立佐賀中学校卒業後、上海の東亜同文書院大学に進むが中退。明治28年創業の蔵元「窓の月」を営む福岡家に養子に迎えられる。海外経営に熱心でハルビンや蘇州で酒造を手がけた。戦後、翼賛事務長などを理由に公職追放となり、1948年に生コン、酒類、建築資材などを販売する福岡商店を創業した。 追放解除後の1955年から佐賀県議会議員を5期務めた後、国政に進出。
山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月… 山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月8日 - 1980年(昭和55年)2月10日)は、満州国で活動した日本人の翻訳家・文芸評論家。主な筆名は大内隆雄(おおうち たかお)。その他の筆名には矢間恒耀、徐晃陽、大藤巍がある。 1925年、長春商業学校を卒業すると、20人に1人という満鉄派遣留学生試験に首席で合格し上海の東亜同文書院に入学、4年間学業は常に首位だったという。 東亜同文書院の教育の特徴であった学生による中国調査旅行では、森本辰治、日高清磨瑳、中崎一之とともに「華南、滇越南沿線経済調査班」として1928年5月29日から7月25日にかけて上海、汕頭、廈門、香港、広東、仏印、雲南、台湾を巡っている。
西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は… 西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は、日本の社会主義運動家。戦後は日本共産党熊本県委員長を務めた。 熊本県出身。東亜同文書院大学に26期生として入学。在学中、「日支闘争同盟」を結成し、海軍陸戦隊に反戦ビラをまく事件を起こした。安斎庫治、中西功らとともに反戦運動を行う。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月… 檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月20日 - 1943年(昭和18年)1月29日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。太平洋戦争(大東亜戦争)時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長、七〇一空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮、多大な戦果をもたらした。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。レンネル島沖海戦において被弾後、敵艦へ突撃。戦死による二階級特進で最終階級は海軍大佐。 1906年(明治39年)11月20日、千葉県佐倉町(現・佐倉市)に、海軍機関大佐・檜貝秀次郎(海軍機関学校4期)の、三男三女の二男として生まれる。
尾崎 庄太郎(おざき しょうたろう、1906年 - 1991… 尾崎 庄太郎(おざき しょうたろう、1906年 - 1991年)は、日本の評論家、中国評論家。 徳島県生まれ。東亜同文書院卒業。南満州鉄道調査部勤務ののち、中国国内で反戦運動を行うが、日本の敗戦後、旧法下で思想犯として懲役十年の判決を受け下獄、しかし1945年10月釈放。 46年中国研究所の創立メンバーとなり、論文・翻訳を発表。『毛沢東選集』の翻訳を行う。はじめ尾崎五郎の名を用いた。文化大革命以後は、中共礼讃から離れてほぼ沈黙、80年代に入り、民主化運動を支持する方向へ向かった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5… 宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5月23日 - 1995年)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞記者を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世民の実弟、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を経て(1922年卒業)、東亜同文書院大学(当時は旧制専門学校の扱い)を卒業した。 朝日新聞社に入社し、上海通信局員として第一次上海事変を取材した。1935年には、日本人記者として初めて蔣介石と単独会見をおこなう。1943年に朝日新聞社南京支局長兼上海総局次長、1945年に上海総局長となった。 戦後は朝日新聞東京本社東亜部長、編集局次長、朝日新聞社社友などを歴任した。
香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3… 香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3月27日 - 1985年 <昭和60年> 6月7日)は、日本の経営者。広島県出身。位階は正四位。 1928年に東亜同文書院大学を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社した。1955年11月に取締役に就任し、1957年11月に常務、1960年5月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1962年6月から1971年6月までに社長を務めた。 1974年に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月7日肺炎のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
鈴木 択郎(すずき たくろう、1898年7月6日-1981年… 鈴木 択郎(すずき たくろう、1898年7月6日-1981年1月6日 )は、日本の中国研究者。愛知大学名誉教授。 1898年7月6日、栃木県に生まれる。1915年9月、上海の東亜同文書院商務科入学(第15期生)、1918年6月同卒業、江商入社。1920年9月、東亜同文書院助教授。1921年9月、東亜同文書院派遣北京留学(1923年4月まで)。1924年5月、東亜同文書院教授。1939年4月、東亜同文書院大学予科教授。1946年12月、愛知大学(旧制)予科教授。1949年4月、愛知大学(新制)文学部教授。門下生には今泉潤太郎(愛知大学名誉教授)がいる。1955年4月、中日大辞典編纂委員長(1968年4月まで)。
斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)… 斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)12月15日 - 1972年(昭和47年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。斎藤と表記されることが多い。 宮崎県宮崎郡住吉村(現宮崎市)で、斉藤東作の四男として生まれる。1922年(大正11年)東亜同文書院商務科を卒業(第20期生)した。 東京中央金庫を経て天津隆和公司に入社。1927年(昭和2年)天津正栄洋行を設立した。その後、満州国の創立に尽力し、同国国務院総理秘書、満州日日新聞社顧問、大連日日新聞社顧問などを務めた。また1940年(昭和15年)財団法人宮崎県斉藤奨学会を設立し会長に就任した。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け宮崎県全県区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
吉田 正(よしだ ただし、1896年〈明治29年〉10月20… 吉田 正(よしだ ただし、1896年〈明治29年〉10月20日 - 1969年〈昭和44年〉8月19日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 長野県北安曇郡池田町村(現池田町)生まれ。旧制大町中学(現・長野県大町高等学校)卒業。1918年(大正7年)、上海東亜同文書院商務課卒業。一旦は岩井産業(現日商岩井)に入社するが、すぐに帰郷し、1925年(大正14年)、旧制池田実科中学(現・長野県池田工業高等学校)教諭となる。 その後、農業界に転身し、全国農業会の常務理事として活躍する。同時に「協同党」を結成した。1942年(昭和17年)、長野県第4区から第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会推薦候補で立候補して、当選する。
成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975… 成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975年1月7日)は、日本の経営者。新東京国際空港公団総裁を務めた。 東京都出身。1914年に東亜同文書院大学商務学科を卒業。中国貿易で活躍し、1934年に満州国建国に携わり、1936年に東洋パルプ専務、1939年に日本米穀副理事長を経て、その後は全国米穀商組合連合会理事長、朝鮮食糧営団理事長、中央食糧営団総裁、全国米穀小売組合連合会会長などを歴任。戦後は、1955年に農地開発機械公団理事長、1961年10月に愛知用水公団理事長を経て、1966年7月から1967年10月までに新東京国際空港公団総裁を務めた。 1975年1月7日、心臓衰弱のために死去。
清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1… 清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉12月8日)は、日本の外交官、書家、教育者。書画家として号を東翠。兄は画家の清水登之。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)出身。1915年東亜同文書院政治科卒。1919年東亜同文書院教授(中国語担当)。1929年外務省嘱託、1933年外務省翻訳官、1943年中華民国大使館一等書記官。1946年同大使館参事官、1955年中華民国台北大使館公使、1956年外務審議官。1959年外務省退官、その後は外務省、日本クラブなどで書画を教えた。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。
山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月… 山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月8日 - 1963年(昭和38年)1月17日)は、日本の外交官。外務次官、大東亜次官、駐タイ大使。 山口県出身。1912年(明治45年)、東亜同文書院を卒業。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、高等文官試験に合格し、1920年(大正9年)に外務事務官となり、トルコ大使館三等書記官、外務省通商局勤務、イギリス大使館二等書記官、満州国大使館二等書記官、同一等書記官、外務省調査部第五課長、同通商局長を歴任した。1940年(昭和15年)東亜局長となり、1941年(昭和16年)10月にはアメリカ局長を兼任した。さらに1942年(昭和17年)外務次官に就任し、同年11月1日大東亜次官に転じた。
宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 -… 宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 - 1967年10月10日)は、日本の実業家。 滋賀県犬上郡東甲良村(現:甲良町)に生まれる。東亜同文書院卒業後に、伊藤忠商事に入社。 1955年から丸紅飯田取締役会長社長を務めた。その一方で、神戸商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、ラジオ関西会長、神戸高速鉄道社長なども歴任した。 1964年には勲三等旭日中綬章を受章した。 1967年10月10日、尿毒症のために神戸市の病院で死去。79歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松本 忠雄(まつもと ただお、1887年(明治20年)7月2… 松本 忠雄(まつもと ただお、1887年(明治20年)7月2日 - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 長野県上水内郡瀬戸川村(現在の小川村)に、松本八重作の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東亜同文書院を卒業。卒業後はやまと新聞の記者となるが、加藤高明憲政会総裁に見出され、その秘書となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回連続当選を果たした。加藤高明内閣では内閣総理大臣秘書官を務め、第1次若槻内閣では東京市助役を務めた。さらに齋藤内閣・岡田内閣で外務参与官を務め、第1次近衛内閣では外務政務次官を務めた。
石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 19… 石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 1954年2月8日)は、日本の外交官。 日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた。戦争拡大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる。外務省東亜局長(海外の外務省では、次官補クラス、のち大東亜省)、駐タイ特命全権大使、駐ブラジル特命全権大使、駐ビルマ特命全権大使を歴任。 1887年、福島県西白河郡川崎村に石射文五郎の長男として生まれた。福島中学(現:福島県立福島高等学校)を経て、1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父(福島県山白石村の農家で多額納税者)から生活援助を受けながら外交官及領事官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。
一宮 房治郎(いちのみや ふさじろう、1884年(明治17年… 一宮 房治郎(いちのみや ふさじろう、1884年(明治17年)9月12日 - 1948年(昭和23年)7月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 大分県速見郡豊岡町(現在の日出町)出身。1904年(明治37年)、東亜同文書院を卒業。北京で順天時報記者・大阪朝日新聞通信員を務めた後、奉天で盛京時報を創設し、主幹・主筆を務めた。その後は内地に戻り、大阪朝日新聞記者を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は7回を数えた。その間、高橋内閣で山本達雄農林大臣の秘書官を、濱口内閣で内務参与官を、第1次近衛内閣で海軍政務次官を務めた。
神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日… 神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日 - 1946年(昭和21年)5月10日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 福島県石川郡川東村(現在の須賀川市)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、1909年(明治42年)に東亜同文書院商務科を卒業した。大阪朝日新聞社南京通信員となり、上海特派員、北京特派員を歴任した。さらに大阪朝日新聞社の支那部長、東亜部長、編集局顧問、論説委員を務めた。また陸軍梅機関(影佐禎昭機関)に配属され、大使館嘱託も兼ねた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を得て福島2区(当時)から出馬し、当選を果たした。
森 啓蔵(もり けいぞう、1881年〈明治14年〉2月 - … 森 啓蔵(もり けいぞう、1881年〈明治14年〉2月 - 没年不明)は、日本の実業家。 鳥取県西伯郡夜見村(現・米子市夜見町)出身。森磯吉の二男。1905年、東亜同文書院政治科(第2期生)を卒業。陸軍通訳官、満鉄奉天駅貨物主任、山東鉄道事務官等を歴職、1922年(大正11年)に辞す。 銀行会社の重役である。洞海汽船、昭和商事各社長、洞海汽船専務、山陰銀行代表取締役・同専務、山九運輸取締役、日本産業貯蓄銀行、山陰製糸所各監査役などをつとめる。 日本産業貯蓄銀行専務の門脇孝一、その妹婿で同行監査役の森啓蔵らにかかる産貯行金横領、背任事件で、1933年(昭和8年)9月に森啓蔵は検事の取り調べを受け勾引状を発せられ、刑務所へ収容された。
矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12… 矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12月4日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。 静岡県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。広州領事官補、漢口領事官補、天津領事官補、清国外交官補、イタリア大使館二等書記官、ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事を歴任。1929年(昭和4年)、駐スイス公使に任命された。 退官後は満州国参議府参議を経て、1940年(昭和15年)より東亜同文書院院長・東亜同文書院大学学長を務めた。
山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)… 山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)5月18日 - 1960年(昭和35年)2月18日)は日本の革命運動家、大陸浪人。孫文の革命活動に参加した山田良政の実弟である。 青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会の清国派遣留学生選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄に孫文を紹介されている。卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。