山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈187… 山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈1870年12月30日〉 - 昭和40年〈1965年〉5月10日)は、明治時代から大正時代にかけて制作した浮世絵師で日本画家、石版画家で報道画家。名は茂三郎といい、昇雲のほか小斎、松谷と号す。 出身は高知県長岡郡後免町(現・南国市)、生家の古物商は江戸時代、旧土佐藩の郷士であった。二男として生まれた山本茂三郎が6歳頃から師事した柳本圭吾(号「洞素」)は駿河台狩野家・狩野洞白の門人で、元は山内家の御抱絵師も勤めた絵師である。9歳になる明治12年(1879年)に、柳本の斡旋で狩野永岳門人である河田小龍にも絵を学び、入門3年目に小龍から「小斎」の画号を受けた。
堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年… 堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年11月8日〉- 1955年〈昭和30年〉4月11日)は、明治から昭和期の宮内官。政治家。華族。貴族院子爵議員。旧名・雄麿。 山城国京都で華族・堤功長の次男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日に子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)東京美術学校日本画科を卒業。工手学校、京華中学校などで教師を務めた。1912年、祭官となる。以後、大喪使祭官、名誉掌典、青山御所祗候などを務めた。 1916年(大正5年)6月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した。
坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈… 坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈明治3年11月4日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の政治家、実業家、地主。米子市会議員。カギさ醤油醸造元坂口商店取締役社長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身で、生家は木綿問屋。木綿商・坂口平吉郎の四男。1902年、兄・平兵衛方より分家をする。 会社の重役であり、坂口商店代表取締役、大谷オフセット社長、米子家畜市場、日本製絲、山陰水産、米子電車軌道、米子製鋼所各取締役、米子電車軌道、博愛病院各監査役、有限責任米子信用組合第二代組合長などをつとめる。 1907年から1911年まで米子町収入役をつとめる。
玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治… 玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1946年(昭和21年)12月26日)は、日本の技術者、発明家。 福井県出身。1895年(明治28年)に東京帝国大学工科土木科を卒業した。1898年(明治31年)から足尾銅山に勤務し、銅山で使用されていたイギリス製の空中ケーブルの改良に従事した。1902年(明治35年)に自在運搬器を発明し、1907年(明治40年)に玉村工務所を開設した。同年1907年に有翼抱索子を発明して新型ケーブルを開発した。 1919年と1933年に全国発明表彰の有功賞が授与されている。
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治… 小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証]。 越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了。藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行する。その後、広島尋常中学校教諭、真言京都中学校教諭を務める。
殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3… 殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である。 旧海軍機関学校(横須賀)から海軍兵学校(18期)に編入。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において「三笠」最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について「有為の参謀であった」と評している。 1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。
網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治… 網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治3年11月2日)- 1947年(昭和22年)2月18日)は、明治時代後期から昭和時代の日本の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・静。妹の夫は貴族院議員 秋山源兵衛。 網蔵輝祖の孫、輝明の長男として生まれ、1889年(明治22年)2月に家督を相続する。本籍は山梨県北巨摩郡塩崎村(後の同郡双葉町、現在の甲斐市)で農業を生業にした。明治法律学校を修了した。 山梨証券監査役として山梨県多額納税者に列し、1915年(大正4年)貴族院議員に互選され、同年4月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。 ほか、北巨摩郡会議員、同郡塩崎村長を務めた。
北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870… 北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870年12月9日) - 昭和11年(1936年)10月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 駿河国豊田郡佐久間村出身(現在の静岡県浜松市天竜区)。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。翌年に弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。1898年(明治31年)、判事となり、五條区裁判所判事、名古屋区裁判所判事、岐阜地方裁判所判事を歴任した。1901年(明治34年)、退官して弁護士に復帰した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、福川汽船株式会社・セミ肥料株式会社取締役、福川林業株式会社・入山採炭株式会社・国光印刷株式会社監査役などを務めた。
喜屋武 朝徳(きゃん ちょうとく、1870年12月 - 19… 喜屋武 朝徳(きゃん ちょうとく、1870年12月 - 1945年9月20日)は、沖縄県の唐手(現・空手)家。戦前における空手の大家の一人である。 喜屋武朝徳は、1870年(明治3年)、喜屋武親雲上朝扶(のち親方位へ陞る)の三男として首里儀保村(現・那覇市首里儀保町)に生まれた。目が小さかったことから「喜屋武(チャン)・目(ミー)小(グヮー)」と呼ばれた。喜屋武家は尚清王(在位1526年 - 1555年)の第十王子、唐名・尚悦敬、羽地王子朝武を元祖とする首里士族であり、その家格は殿内(トゥンチ)と呼ばれ、代々喜屋武間切(現・糸満市喜屋武地区)を領する大名という名家であった。父朝扶は本部家の分家の本永家から喜屋武家に養子に入った。
酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870… 酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870年11月24日) - 昭和3年(1928年)8月1日)は、明治時代から昭和時代前期の華族。忠稠系小浜藩酒井家別家、越前国敦賀藩第8代藩主・酒井忠経の長男。幼名は松之助。正室は松平康英の娘鉚。子は酒井忠英、義男。 東京に生まれ、明治17年(1884年)7月8日の華族令により子爵となる。学習院高等科、帝国大学法科を卒業。明治34年(1901年)8月2日、補欠選挙で貴族院議員に選出され、研究会に属し常務委員を務めた。 大正2年(1913年)3月15日、伯剌西爾(ブラジル)拓殖株式会社が設立され、取締役会長となる。東華生命保険、東北電力、横浜倉庫の社長を務めたほか、横浜正金銀行、高砂商事、海外興産等の役員を務めた。
田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870… 田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870年11月21日) - 大正元年(1912年)9月7日)は、近代日本の文芸評論・思想家。本名は佐代治。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3… 今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3年10月26日)– 1952年(昭和27年)3月16日[要出典])は、高知県出身の自由民権運動家。自由党員、実業家、作家。 1870年11月19日(明治3年10月26日)、竹村九十九(つくも)の次男として高知県幡多郡中村町(現 高知県四万十市)に生まれる。のち今幡西衛(初代)の養子となり、その名を襲う。 1890年(明治23年)、自由党に入党して林有造、片岡健吉らに連れられ上京。代議士・三崎亀之助の書生となる。 1893年(明治26年)、中央大学を卒業。 竹内鉱業株式会社に入社して、北海道夕張炭鉱の取締役支配人となる。 1915年(大正4年)3月、竹内明太郎が立憲政友会の推薦を受けて、衆議院議員選挙(第12回)に立候補すると、故郷高知県に戻って選挙活動に奔走した。
紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年1… 紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年11月17日) - 昭和15年(1940年)9月20日)は、日本の政治家、実業家、日前神宮・國懸神宮宮司。栄典は正三位勲三等男爵。貴族院議員(通算6期29年)。 明治3年(1870年)10月24日、日前神宮・國懸神宮宮司・紀俊尚と鶴子の三男として紀伊国名草郡秋月村(現在の和歌山県和歌山市秋月)で生まれる。幼名は文麿(ふみまろ)。学習院高等学科卒業。明治24年(1891年)1月に名を俊秀と改め、同年10月に日前神宮・國懸神宮宮司となる。明治29年(1896年)8月26日、家督を相続して男爵を襲爵した。明治30年(1897年)7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任した。
多田 悦太郎(ただ えつたろう、1870年11月16日(明治… 多田 悦太郎(ただ えつたろう、1870年11月16日(明治3年10月23日) - 没年不明)は、日本の政治家、神奈川県多額納税者。 神奈川県人・多田勘兵衛の長男。1889年、家督を相続する。明治法律学校に学び、農業を営む。成瀬村会議員、同学務委員に選ばれる。中郡会議員、成瀬村農会長、同青年会顧問等に挙げられる。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は神奈川県中郡成瀬村(現伊勢原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治… 塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治3年10月20日) - 1945年(昭和20年)7月7日)は、茨城県水戸出身の経済学者、法学博士、早稲田大学第4代学長、第2代総長。 早稲田大学時代にボート競技に取り組んだことが縁で、晩年、日本漕艇協会会長に就任した。1940年(昭和15年)戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションでは、会長として70歳台艇に乗り込み舵手を務めた。
星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年… 星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年11月12日) - 昭和8年(1933年)11月25日)は、日本の商学者、教育者。東京商科大学(現一橋大学)商学専門部教授として簿記論や商品学を講じた。 駿河国(現静岡県)で旧幕臣星野鉄太郎(のちに初代静岡市長)の長男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年同校教授に就任。下野直太郎、鹿野清次郎らと簿記・商品学を講じた。同僚の志田鉀太郎、下野直太郎、關一、佐野善作、村瀬春雄、坂本陶一、石川文吾、瀧本美夫、横井時冬らとともに明治大学商学部設立にも尽力し、1904年に明治大学商学部が設立されると商品学講師に就任。1920年に東京高等商業学校が旧制東京商科大学に改組されると、同大学付属商学専門部教授や予科教授、同大学付属商業教員養成所主事を務めたが、在任中の1933年に死去した。
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英… 鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 - 1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10… 十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10日 / グレゴリオ暦 1870年12月31日 - 1955年5月17日)は、日本の教育者である。十文字学園の設立者である。旧姓は高畑。
工藤 英一(くどう えいいち、明治3年10月17日(1870… 工藤 英一(くどう えいいち、明治3年10月17日(1870年11月10日) - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 青森県弘前市出身。1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。農商務属となり、同年に高等文官試験に合格した。翌年、鉱山監督官・盛岡鉱山監督署長となった。以後、農商務書記官・福岡鉱山監督署長、特許局事務官・農商務省参事官などを歴任。1909年(明治42年)、韓国政府の招聘で農商工部鉱務局長となった。その後、朝鮮総督府農商工部商工局長、全羅南道長官、平安南道長官を歴任。1919年(大正8年)には京畿道知事に就任した。
植松 京(うえまつ みやこ、植松 京一、うえまつ きょういち… 植松 京(うえまつ みやこ、植松 京一、うえまつ きょういち、 1870年11月10日〈明治3年10月17日〉 - 1922年(大正11年)4月)は、明治から大正期の実業家。三菱造船常務取締役、三菱商事取締役、三菱海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)取締役。 1870年11月10日(明治3年10月17日)、植松有經(有経)の長男として東京府で生まれる。 実業を志し、立教学校(現・立教大学)に入学し英学を修めて、その後、米国に留学。 帰国後、三菱合資会社に入社し、同造船部副部長を務めたほか、同鉱業部副長も務めた。 明治期において、三菱の幹部として九州鉄道の株式を多く所有した。 1917年(大正6年)に、三菱造船常務取締役に就任。
関 和知(せき わち、1870年11月10日(明治3年10月… 関 和知(せき わち、1870年11月10日(明治3年10月17日) - 1925年(大正14年)2月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。族籍は千葉県平民。 千葉県長生郡東浪見村(現在の一宮町)出身。千葉県平民・関八蔵の長男。生家は富裕な農家であった。従って小学校を卒業する頃までの関は何の不自由もなく、気随気儘に父母の暖かい情愛に包まれて成長した。けれども中学に進もうとする時に父が慣れぬ事業に手を出して失敗、没落した。漢学者の塾に通って勉強する傍ら村の小学校の代用教員をつとめた。教員検定試験に合格した。 20歳の時、上京し、立教学校(現・立教大学)に入学して同校を卒業後、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学して1895年(明治28年)、邦語政治科を卒業した。
安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日〈明治3年1… 安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日〈明治3年10月15日〉- 1948年〈昭和23年〉6月8日)は、明治・大正・昭和期の日本の海軍軍人。海軍大将正三位勲一等功四級男爵。濱口内閣海軍大臣。佐賀県出身。 東京都新宿区にある道路「安保坂」は、安保の邸があったことに由来する。 海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐の三男として生まれる。前名は康三郎。佐賀中学、攻玉社を経て、海軍兵学校(18期)に入学し、1891年(明治24年)に61名中11位で卒業。同期生に加藤寛治がいる。在学中は父が兵学校次長であった。しかし在学中に父が病没する。規定局長林清康少将(のち海軍中将)が長女との縁談を進め、林家の養子となる。
相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870… 相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和29年(1954年)2月14日)は、長野県出身の社会事業家、実業家。妻の相馬黒光とともに東京新宿中村屋を創業した。
細野 正文(ほその まさぶみ、1870年(明治3年)11月8… 細野 正文(ほその まさぶみ、1870年(明治3年)11月8日 - 1939年(昭和14年)3月14日)は、明治期の鉄道官僚。日本人唯一のタイタニック号の乗客として知られる。 1870年、新潟県中頸城郡保倉村(後の直江津市、現在の上越市直江津地区)にて豪農の四男として生まれた[出典無効]。1896年、東京高等商業学校(現在の一橋大学)本科卒業。三菱合資会社入社。1897年、同社を退社し逓信省に入省。鉄道作業局に配属され、新橋駅(後の汐留駅)貨物係に配属。1906年、東京外語学校(現在の東京外国語大学)ロシア語科修了。1907年、帝国鉄道庁経理部調査課主事に就任。1908年鉄道院主事に就任。鉄道院時代の部下には大川博がいる。
平田 禎(ひらた てい / ただし、1870年11月8日(明… 平田 禎(ひらた てい / ただし、1870年11月8日(明治3年10月15日)- 1945年(昭和20年)9月30日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 大隅国肝属郡、のちの鹿児島県肝属郡鹿屋村(鹿屋町を経て現鹿屋市)で、大地主・平田五郎左衛門(のち五郎に改名)の息子として生まれる。普通学、和漢学を修め、1894年(明治27年)慶應義塾を卒業した。農業を営む。 父と和田井手の改築、和田新田の耕地整理事業の推進に尽力した。肝属郡会議員、同議長を務め、1911年(明治44年)鹿児島県会議員に選出された。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で鹿児島県郡部から立憲政友会所属で出馬して初当選。
河崎 清(かわさき きよし、1870年11月7日(明治3年1… 河崎 清(かわさき きよし、1870年11月7日(明治3年10月14日) - 1925年(大正14年)11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・小畑。 若狭国遠敷郡平野村(福井県遠敷郡平野村、松永村を経て現小浜市平野)で、小畑多四郎の三男として生まれた。福井県福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)で学ぶ。福井県議、同参事会員、地方森林会議員、南米殖民会社、海外興業各業務代理人、河野水電(株)専務取締役、公洲電気(株)監査役、永平寺鉄道(株)社長となる。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において福井5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。
井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3… 井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3年10月14日) - 1943年(昭和18年)11月22日)は、日本の官僚・政治家。元衆議院議員。岐阜県出身。岐阜中学(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。 東京帝国大学卒業後、高等文官試験行政科に合格。内務書記官などを経て、1908年に佐賀県知事に就任。1917年、富山県知事に就任。1919年、神奈川県知事に就任。1922年、大阪府知事に就任。1923年、内務次官に就任した。 1919年ごろ現職の知事も衆議院議員に立候補できる制度が制定された。当時この制度を利用していたのは井上孝哉と警視総監を務めた宮田光雄の2名だけであった。
神山 閏次(かみやま じゅんじ、1870年11月7日(明治3… 神山 閏次(かみやま じゅんじ、1870年11月7日(明治3年10月14日)- 1943年(昭和18年)3月8日)は、日本の内務・農商務官僚。官選群馬県知事、錦鶏間祗候。 熊本県出身。熊本藩士・神山譲の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し県治局属となる。 1896年(明治29年)5月、青森県参事官に就任。以後、司法大臣秘書官兼司法省参事官、衆議院書記官兼内務省参事官、農商務大臣秘書官兼衆議院書記官兼農商務省参事官、農商務省水産局長などを歴任。 1908年(明治41年)8月、群馬県知事に就任。
竹越 竹代(たけこし たけよ、明治3年10月12日(1870… 竹越 竹代(たけこし たけよ、明治3年10月12日(1870年11月5日)-昭和19年(1944年)12月19日)は、明治時代の婦人運動家である。日本初の女性記者として『國民新聞』で取材し記事を書いた。 明治3年(1870年)10月12日に岡山に生まれる。父は岡山藩の士族である中村秀人だったが、竹代が9歳時に死去。母である中村静子に育てられた。 女学校入学後の明治16年(1883年)に金森通倫から洗礼を受け、キリスト教徒となった。岡山の山陽女学校を卒業し、明治20年(1887年)に大阪の梅花女学校に入学した。 明治22年(1889年)に、新聞記者の竹越 與三郎と結婚した。同年に、夫とともに徳富蘇峰の民友社に招かれて上京し、明治23年(1990年)の『國民新聞』の創刊に参画した。
皿井 立三郎(さらい たつさぶろう、明治3年10月11日(1… 皿井 立三郎(さらい たつさぶろう、明治3年10月11日(1870年11月4日) - 昭和20年(1945年)12月18日)は日本の医師、俳人。大阪府士族。元皿井耳鼻咽喉科医院長。 妻・清江は本田親雄男爵の三女。五男五郎の妻昭子は女優司葉子の姉。長女慶子は旧伯太藩主家の渡辺英綱子爵に嫁いだ。 岡山県士族・武市文太郎の二男。皿井安太郎の養子となる。明治20年(1887年)家督を相続する。 明治28年(1895年)、岡山医専卒業。同校講師。独逸に留学しロストック大学に学び帰朝、耳鼻咽喉科医師となる。 趣味は俳句。俳人としても活動。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明… 安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明治3年10月10日) - 1930年(昭和5年)1月9日)は、日本の実業家、政治家。実業家伊臣忠一の子で、安田善次郎の婿養子。安田財閥を指導し、様々な企業の重役を務めた。高学歴の人材登用など財閥の近代化を図ったが、善次郎と対立し離縁される。貴族院議員。オノ・ヨーコの祖父。 1870年(明治3年)10月10日生まれ。宇和島藩士伊臣忠一の子で、旧名を伊臣貞太郎という。1892年、帝国大学法科大学卒業後、安田製釘所に入社。1895年、安田財閥総帥安田善次郎の次女・暉子と結婚(媒酌人は穂積陳重)。同時に善次郎の養嗣子となる。 明治商業銀行、京都銀行、安田商事、安田銀行、第三銀行などの監督、大垣共立銀行、帝国製麻の社長、百三十銀行、日本商業銀行などの頭取、信濃銀行取締頭取、東京火災海上運送保険、東京建物、横浜電気鉄道などの取締役、鐘淵紡績、共済生命保険、水戸鉄道、肥後銀行などの監査役を務めた。
早川 六三郎(はやかわ ろくさぶろう、1870年11月3日(… 早川 六三郎(はやかわ ろくさぶろう、1870年11月3日(明治3年10月10日) - 1946年(昭和21年)4月21日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。 早川勇治郎の長男として、岐阜県武儀郡八幡村(南武芸村、武芸村、武芸川町を経て現関市)に生まれる。1893年(明治26年)12月、家督を相続する。 農業を営み、南武芸村会議員、学務委員、武儀郡会議員、同参事会員を歴任した。また財界では、美濃銀行、美濃電気軌道各取締役、八幡産業会社重役、上有知銀行監査役を務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
大渡 忠太郎(おおわたり ちゅうたろう、1870年11月1日… 大渡 忠太郎(おおわたり ちゅうたろう、1870年11月1日〈明治3年10月8日〉- 1953年〈昭和28年〉)は、日本の植物学者。 肥前国佐賀郡、のちの佐賀県佐賀郡与賀町(現佐賀市与賀町)で生まれた。 東京帝国大学植物学科を卒業し、同学で助手を務めるが、1899年に一年志願兵として入隊したため退官した。学位は理学士。その後、1901年に岡山県岡山市の第六高等学校(現・岡山大学)教授に着任し、中世以来途絶えたとされていたキクザクラを発見、校庭に植えた。松本高等学校(現・信州大学)では第2代校長(在任:1921年10月 - 1927年8月)を務め、同校跡のあがたの森公園には、在任中に購入・植栽したヒマラヤスギの大木が残っている。
阿川 甲一(あがわ こういち、1870年(明治3年)11月 … 阿川 甲一(あがわ こういち、1870年(明治3年)11月 - 1948年(昭和23年)6月)は、日本の実業家。満洲阿川組社長、長春倉庫運輸株式会社社長、長春日本人商工会議所会頭などを務めた。 作家阿川弘之の父で、法学者阿川尚之、エッセイスト阿川佐和子の祖父。 山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町)の農家に生まれる。父は阿川利七(阿川家の7代目)、母はのし。阿川家について阿川弘之によると「我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という。甲一は8代目を継ぐ立場だったが、数え20歳になって早々、代言人(いまの弁護士)を志して郷里をはなれ、家督を甥の太七に譲る。
石田 新太郎(いしだ しんたろう、1870年11月(明治3年… 石田 新太郎(いしだ しんたろう、1870年11月(明治3年11月)- 1927年(昭和2年)1月26日)は、明治・大正期の官僚、大日本帝国外地統治の陸軍教育者、慶應義塾幹事。 陸奥国田村郡三春町(現福島県田村郡三春町)生まれ。中学校を卒業し、明治22年(1889年)上京して国民英学会に入り、明治24年(1891年)1月慶應義塾大学部文学科に入学し、明治26年(1893年)12月卒業。卒業後に上野図書館において独学で教育及び心理の二学を修めて、高等師範学校教授谷本富と論戦を開く。 明治30年(1897年)の春、陸軍士官学校に出仕し、校長・安東貞美少将の下にて教程編述に参与し、幾ばくもなく寺内正毅少将の幕僚として策をたすける。
円城寺 清(えんじょうじ きよし、1870年(明治3年)11… 円城寺 清(えんじょうじ きよし、1870年(明治3年)11月 - 1908年(明治41年)10月21日)は、日本のジャーナリスト。号は天山。 1870年11月、佐賀県小城郡晴田村(現小城市)に生まれる。1889年12月11日、東京専門学校邦語政治科に入学する。 1892年7月15日に卒業した後に、郵便報知新聞に入社する。1893年9月1日号の第109回から1894年10月13日号の第296回までの「大隈伯昔日譚」の筆録者に抜擢される。1894年、郵便報知新聞を辞める。 1898年5月、憲政党の組織に伴い、『憲政党党報』の編集を主宰する。憲政党の分裂後、『憲政本党党報』の主任記者及び発行兼編輯人となる。
松本 健次郎(まつもと けんじろう、明治3年10月4日(18… 松本 健次郎(まつもと けんじろう、明治3年10月4日(1870年10月28日) - 昭和38年(1963年)10月17日)は、日本の実業家。父・安川敬一郎とともに炭鉱で安川財閥を築いた。 旧自宅は旧松本家住宅(国の重要文化財)として保存されている。カトリック。既婚、7男6女。 安川財閥の創始者安川敬一郎の二男として、筑前国福岡藩(現・福岡県福岡市中央区)に生まれる。1887年(明治20年)、福岡県福岡中学を卒業。しかし、卒業試験中に急性脚気となり、進学を断念。同年上京、イーストレーキの国民英学会に通う。同期に小野塚喜平次がいる。1890年(明治23年)安川敬一郎の兄、松本潜(ひそむ)の子が亡くなったため、松本家に養子として入籍。
跡田 直一(あとだ なおいち、明治3年10月4日(1870年… 跡田 直一(あとだ なおいち、明治3年10月4日(1870年10月28日) - 昭和10年(1935年)7月17日)は日本の実業家。 1870年10月、大分県に跡田善策の長男として生まれる。1893年法學院(現・中央大学)を卒業し、逓信省鉄道局(後に鉄道省を経て日本国有鉄道の前身となる)に入省。1910年名古屋運輸事務所長(戦後の名古屋鉄道管理局長に相当)に就任。 1912年、名古屋電気鉄道(現名古屋鉄道の前身)の経営陣に請われ、官職を辞して支配人(現在の鉄道部長に相当)に就任。以後は1920年に同社取締役、1921年の(旧)名古屋鉄道(名古屋電気鉄道の郊外線部門を分社化)発足時も、引き続き取締役兼支配人を務め、1925年には常務取締役、1933年には取締役社長(当時の社名は名岐鉄道)に就任。
菊池 幽芳(きくち ゆうほう、明治3年10月27日(グレゴリ… 菊池 幽芳(きくち ゆうほう、明治3年10月27日(グレゴリオ暦 1870年12月18日) - 1947年7月21日)は、日本の小説家。本名は菊池 清(きくち きよし)。大阪毎日新聞社取締役を歴任した。 常陸国水戸長者町(現在の茨城県水戸市)に生まれる。弟に英文学者の戸沢正保がいる。 1888年、茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業、同県北相馬郡取手(現在の同県取手市)の取手高等小学校(現在の取手市立取手小学校)の教師となる。 21歳を迎える1891年に小学校を退職、大阪毎日新聞社に入社する。同年、宇田川文海、丸岡九華らと大阪文藝会を興し、文芸雑誌『大阪文藝』を創刊する。翌1892年、『大阪文藝』誌上に、小説『鴬宿梅』を発表してデビューする。
武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻、1870年10月27日… 武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻、1870年10月27日(明治3年10月3日) - 1963年(昭和38年)8月11日)は日本の政治家・実業家。岐阜県知事・衆議院議員、岐阜県名誉県民。岐阜商工会議所会頭。 元衆議院議員の武藤嘉一は長男。衆議院議員を務め外務大臣、総務庁長官などを歴任した武藤嘉文は孫にあたる。曾孫は衆議院議員の武藤容治。 岐阜県山県郡千疋村(現:関市千疋)出身。辻丈助の二男。岐阜県岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て、東京法学院(現:中央大学)を中退。 その後、稲葉郡会・岐阜県会の議員をつとめる一方、家業の酒造業(『菊川』)を経営するほか、食糧営団・電力会社・地方鉄道・地方新聞(岐阜日日新聞、岐阜合同新聞)の会社などを経営して経済界の発展のために数数の業績を残した。
久保田 権四郎(くぼた ごんしろう、久保田 權四郎、明治3年… 久保田 権四郎(くぼた ごんしろう、久保田 權四郎、明治3年10月3日(1870年10月27日) - 昭和34年(1959年)11月11日)は、広島県尾道市出身の実業家。発明家。久保田鉄工所(現クボタ)創業者。前名・大出權四郎。 備後国御調郡大浜村(因島、現尾道市)の貧しい農家の末子として生まれる。学校へはあまり行かず瀬戸内海を通る蒸気船に憧れ「いつかはあんな大きな船をつくる鍛冶屋に」と願った。早く出世して両親に楽をさせてあげたいと15才の時、大阪市へ出て鋳物屋に丁稚奉公。利発にして誠実、また器用で根気よく、節約して資金を貯め1890年、19歳の時早くも大阪市南区(現中央区)に「大出鋳物」を創業し、秤の分胴などを製造した。
加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年1… 加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1939年(昭和14年)2月9日)は、明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身。元福井藩士、海軍大尉・加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。
下岡 忠治(しもおか ちゅうじ、1870年10月26日(明治… 下岡 忠治(しもおか ちゅうじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1925年(大正14年)11月22日)は、日本の内務・農商務官僚、政治家。衆議院議員、朝鮮総督府政務総監。号・三峰。 庄屋・酒造業、下岡直一の二男として摂津国川辺郡広根村(現:兵庫県川辺郡猪名川町)で生まれる。一時東京に転居し、麹町小学校を卒業。その後は、官立大阪中学校、泊園書院、第三高等中学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。第三高等中学校、帝国大学時代を通じての同級生に浜口雄幸と幣原喜重郎がいる。大学卒業後内務属となり内務省大臣官房文書課勤務となる。同年11月、文官高等試験に首席で合格。 1896年1月、熊本県参事官に就任し、京都府参事官、茨城県書記官、法制局参事官、兼法制局書記官などを歴任。
松寺 竹雄(まつでら たけお、明治3年9月26日〈1870年… 松寺 竹雄(まつでら たけお、明治3年9月26日〈1870年10月26日〉[要検証 – ノート] - 1935年〈昭和10年〉2月5日)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。正三位勲二等。 加賀国出身。金沢藩士、戸水信義の二男として生まれ、1886年(明治19年)、松寺敦行の養子となり、1891年(明治24年)に家督相続。 1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。司法官となり、京城地方法院検事正、平壌覆審法院検事長、大邱覆審法院検事長、朝鮮総督府法務局長を歴任し、1929年(昭和4年)から朝鮮総督府高等法院検事長を務めた。1932年(昭和7年)12月、退官。 1935年(昭和10年)2月5日、病気療養中に東京府東京市豊島区池袋の自宅で死去、64歳。
正岡 律(まさおか りつ、明治3年10月1日〈1870年10… 正岡 律(まさおか りつ、明治3年10月1日〈1870年10月25日〉 - 昭和16年〈1941年〉5月24日)は、財団法人子規庵保存会初代理事長である。愛媛県出身。俳人・正岡子規の妹。 正岡隼太と八重の長女として生まれる。兄は俳人の正岡子規である。幼少時に父が亡くなったため、母が女手一つで子規と律を育てた。 最初は明治18年(1885年)にいとこの陸軍軍人 恒吉忠道と結婚するが同20年(1887年)に離縁、2度目は明治22年(1889年)に旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)教師の 中堀貞五郎と結婚するも翌年に離縁。 明治25年(1893年)11月より看病のため母八重とともに東京の子規のもとで暮らし始める。
小橋 一太(こばし いちた、1870年10月25日〈明治3年… 小橋 一太(こばし いちた、1870年10月25日〈明治3年10月1日〉- 1939年〈昭和14年〉10月2日)は、日本の官僚、政治家。族籍は熊本県士族。 熊本県士族・小橋元雄の長男。旧制第五高等学校卒業。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業。内務省の各局長を歴任。1918年(大正7年)、原内閣で内務次官に就任。1920年(大正9年)、立憲政友会より衆議院議員に当選(以後、3期連続当選)。1924年(大正13年)、清浦内閣で内閣書記官長に就任。 政友本党に参加し、政務調査会長・幹事長を歴任。1927年(昭和2年)、立憲民政党の結成に関わる。1929年(昭和4年)、濱口内閣で文部大臣に就任。
武藤 針五郎(むとう しんごろう、明治3年10月1日(187… 武藤 針五郎(むとう しんごろう、明治3年10月1日(1870年10月25日) - 大正15年(1926年)5月5日)は、台湾総督府官僚。桃園庁長、新竹庁長、台北市尹。 愛知県に岡本多丸の五男として生まれ、武藤寿蔵の養子となった。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1895年(明治28年)、大本営附として渡台し、以後は地方官を歴任した。 桃園庁長、新竹庁長、台北市尹、台湾総督府土木局長などを務めた。
小山田 信蔵(おやまだ しんぞう、1870年10月25日(明… 小山田 信蔵(おやまだ しんぞう、1870年10月25日(明治3年10月1日) - 1924年(大正13年)9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 常陸国茨城郡水戸(現茨城県水戸市)で、水戸藩士・小山田勝貞の長男として生まれた。太田鉄道、豆相鉄道、隅田川倉庫各(株)社長、水戸商業銀行頭取、北海道炭礦鉄道(株)監査役となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において水戸市選挙区から立候補して当選する。1908年の第10回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して再選し、1912年の第11回衆議院議員総選挙でも三選した。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙で復帰。