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奥村 宏(おくむら ひろし、1930年5月19日 - 201… 奥村 宏(おくむら ひろし、1930年5月19日 - 2017年8月11日)は、日本の経済学者。 「会社学」を提唱し、企業の株式持ち合いを批判した。 岡山県出身。旧制第六高等学校入学、在学中学制改革により1953年岡山大学法文学部卒(同級生に元検事総長吉永祐介、元通産事務次官小長啓一がいる)。 産経新聞記者、日本証券経済研究所主任研究員勤務を経て、1980年「法人資本主義の構造 日本の株式所有」で大阪市立大学商学博士。 1984年龍谷大学教授、1994年中央大学商学部金融学科教授、2001年定年退任。 日本の産業構造・財閥・企業グループ研究において、大企業の株式所有構造に焦点をあて、企業系列化の形成に伴う、企業間における株式の相互持合を分析し、法人による株式所有に日本型株式会社の特色を、法人資本主義と名づけた。
飯島 耕一(いいじま こういち、1930年2月25日 - 2… 飯島 耕一(いいじま こういち、1930年2月25日 - 2013年10月14日)は、日本の詩人、小説家、翻訳家。日本芸術院会員、元明治大学法学部教授。長男は建築評論家の飯島洋一。 岡山市生まれ。旧制第六高等学校時代、シュペルヴィエルに傾倒。1946年、初めて買った詩集は村上菊一郎訳の『惡の華』だった。翌1947年12月に初めて日本の詩人の書いた詩集、朔太郎の『青猫』を買った。1948年10月、創元選書の大岡昇平編『中原中也詩集』を買ったが、ここにはソネットや、四行四連の「定型詩」が多かった。 1949年に東京大学文学部仏文学科入学、1952年同大学を卒業。在学中、栗田勇らと『カイエ』を創刊する一方、1950 - 51年と鈴木信太郎の講義に出て、ヴィヨンの『大遺言詩』、マラルメのソネット、ヴァレリーの『若きパルク』の演習を受ける。
藤井 隆(ふじい たかし、1929年5月2日 - 2017年… 藤井 隆(ふじい たかし、1929年5月2日 - 2017年11月23日)は、日本の経済学者。専門分野は、経済政策論。名古屋大学名誉教授。慶應義塾大学総合政策学部教授、日本計画行政学会会長、日本学術会議会員等を務めた。 1929年、岡山県で生また。海軍経理学校を経て、第六高等学校 (旧制)で学んだ。卒業後は、一橋大学に進学し、中山伊知郎の指導を受けた。1962年、学位論文『経済進歩の理論』を一橋大学に提出して経済学博士号を取得。 卒業後は、中山の友人であった酒井正三郎名古屋大学経済学部教授の誘いを受けて、1963年に名古屋大学経済学部講師に就任。後に助教授、教授に昇格した。1992年、名古屋大学を定年退職し、名誉教授となった。
土井 茂(どい しげる、1928年2月5日 - 2013年5… 土井 茂(どい しげる、1928年2月5日 - 2013年5月29日 )は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家である。広島県府中市府中町出身。 第六高等学校を経て1951年、京都大学経済学部卒業。京都大学に入学後、映画部に所属する。同部員の同僚に映画監督となった松尾昭典と太田昭和がいた。映画好きが高じ、大映京都撮影所の助監督募集に合格し入社。助監督として溝口健二監督の『新・平家物語』(1955年)や木村恵吾監督の『初春狸御殿』(1959年)などの作品に参加。さらに監督として2本の映画に参加するが、映画の衰退でテレビ映画の演出家に転じる。以降、『東京警備指令 ザ・ガードマン』(1965年 - 1971年)、『赤い疑惑』(1975年 - 1976年)、『赤い衝撃』(1976年)、『夜明けの刑事』(1976年)、『噂の刑事トミーとマツ』(1979年 - 1981年)、『少女に何が起ったか』(1985年)など、大映テレビの名作のほとんどを手がけた。
木島 始(きじま はじめ、1928年2月4日 - 2004年… 木島 始(きじま はじめ、1928年2月4日 - 2004年8月14日)は、日本の詩人、英米文学者、翻訳家、童話作家、作詞家。本名は小島 昭三(こじま しょうぞう)。 新日本文学会、日本文芸家協会、各会員。 京都府京都市中京区生まれ。第六高等学校在学中に敗戦を迎える。1947年東京大学文学部英文科入学、学生運動に加わり、東京大学新聞を編集する。また在学中から詩誌「列島」などに加わり、発行人もつとめた。 1951年卒業、東京都立北野高等学校教諭として英語を教える。 1953年野間宏の跋文を得て『木島始詩集』を刊行、1954年専修大学講師、1963年法政大学第一教養部講師となり、助教授、教授を務める。
古川 哲(ふるかわ てつ、1928年 - 1990年)は、マ… 古川 哲(ふるかわ てつ、1928年 - 1990年)は、マルクス経済学者。法政大学経済学部教授。専攻は産業循環論・経済原論。 岡山市生まれ。1949年旧制第六高等学校文科甲類卒業。1952年東京大学経済学部卒業。旧制六高時代から東大時代以来宇高基輔、大学の演習以来山田盛太郎に師事。法政大学経済学部助教授を経て、教授。1963年に山田盛太郎が土地制度史学会のメンバーを母体に発足させた「再生産構造研究会」に参加した。同じく山田門下の南克巳と「冷戦研究会」を主催した。
豊藏 一(とよくら はじめ、1927年9月5日 - 2013… 豊藏 一(とよくら はじめ、1927年9月5日 - 2013年12月30日)は、日本の建設官僚。 1927年9月5日 東京府北多摩郡立川町(現在の東京都立川市)出身。 満州・大連第一中学校、第六高等学校を経て、1953年 東京大学法学部卒業後、建設省入省。都市局都市政策課長、総理府総理大臣官房会計課長、大臣官房人事課長、道路局次長、住宅局長などを経て、1982年6月 大臣官房長に就任。1985年10月 建設事務次官に就任。 退官後は、阪神高速道路公団理事長、住宅・都市整備公団総裁、東日本建設業保証社長などを歴任。 2001年にプロ野球のセントラル・リーグ会長に就任し、2008年末にセントラル・リーグ及びパシフィック・リーグが日本プロ野球コミッショナー事務局(日本プロフェッショナル野球組織)に統合され、リーグ会長職が廃止されるまで務めた。
山中 卓(やまなか たかし、1927年8月31日 - 200… 山中 卓(やまなか たかし、1927年8月31日 - 2004年1月11日)は、日本の実業家。元横河電機会長。 第六高等学校 (旧制)を経て、1951年京都大学工学部卒業、横河電機製作所(現・横河電機)入社。横河電機取締役システム機器事業部長等を経て、1988年横河電機社長。1993年横河電機会長。1997年退任。 1993年に藍綬褒章、1999年に勲二等瑞宝章を受章。2004年1月11日、肺炎のため死去。
佐藤 経明(さとう つねあき、1925年4月23日 - 20… 佐藤 経明(さとう つねあき、1925年4月23日 - 2014年8月5日)は、日本の経済学者、横浜市立大学名誉教授。比較経済体制論専攻。 日本領朝鮮平壌生まれ。旧制第六高等学校を経て、1952年東京大学経済学部卒、1954年同大学院修了。堤清二は友人。1956年愛知大学専任講師、1957年東京都立商科短期大学講師、助教授、1970年横浜市立大学商学部助教授、1972年教授、1988年定年退官、名誉教授、日本大学経済学部教授、1995年定年退職。 2012年胃癌のため胃を全摘出する。2014年8月5日、89歳で死去。
沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)… 沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)は、日本の建築家、都市計画家。通称「オキタネ」。 1925年(大正15年)、京都府峰山町に生まれる。1945年(昭和20年)第六高等学校 (旧制)を卒業後、東京大学に入学。1951年(昭和26年)同大工学部建築学科卒業後、大学院修士課程に進学。丹下健三計画研究室に所属し学ぶかたわら、広島平和記念会館本館、神奈川県立図書館・音楽ホール計画、外務省庁舎計画案、広島子供の家、愛知県民館を担当する。1954年(昭和29年)修士課程修了後、丹下健三のもとで清水市庁舎、図書印刷・原町工場(沼津市)、香川県庁舎を担当するほか、白百合学園(仙台市)や旭洋印刷社屋などを手がける。
大林 順一郎(おおばやし じゅんいちろう、1925年 - )… 大林 順一郎(おおばやし じゅんいちろう、1925年 - )は、日本の都市計画家。公務員として都市政策、建築行政に携わる。 愛媛県出身の一人っ子で、岡山の旧制第六高等学校理科に入学するが理科を選択したのは兵役の延期または免除を期待してのものであったが、機械学科のような理科の細かいことをやる気はなく、文化的なものを探して建築史があると知り、建築学科に進学した。 東京帝国大学第一工学部(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)に1945年に入学して1947年に研究室に配属され、1948年春に大学を卒業したが在学中は丹下健三の下で指導を受け、卒業論文は「国土計画の方法論に関する研究」を提出し卒業後、建設省に入省し、当初は戦災復興院技術研究所、のちに住宅局建築指導課に配属される。
味村 治(みむら おさむ、1924年2月6日 - 2003年… 味村 治(みむら おさむ、1924年2月6日 - 2003年7月25日)は、日本の官僚。東京高等検察庁検事長。第三次中曽根康弘内閣、竹下登内閣、宇野宗佑内閣の内閣法制局長官(1986年7月22日 - 1989年8月10日)、最高裁判所判事(1990年12月10日 - 1994年2月6日)。1996年(平成8年)11月3日、勲一等旭日大綬章受章。 旧満洲生まれ。第六高等学校を卒業し東京帝国大学法学部に入学。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年に卒業。呉軍需部に配属され庶務に従事。同年5月、京城第三衣料廠に転任し、同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎えた。
長井 和雄(ながい かずお、1923年 - 2008年)は、… 長井 和雄(ながい かずお、1923年 - 2008年)は、日本の教育学者、東京学芸大学名誉教授。 奉天生まれ。第六高等学校、1947年広島文理科大学卒業。高校はドイツ語科であったため、英語よりもドイツ語に堪能だった。したがって、ドイツの思想家・教育学者を研究対象にしていた。1964年「エドゥアルト・シュプランガーの教育思想体系」で広島大学教育学博士。神奈川大学助教授、教授、1970年東京学芸大学教授、1987年定年退官、名誉教授、日本女子大学教授。1992年退職。1992年~94年帝京大学文学部教育学科教授。
星島 一夫(ほしじま かずお、1922年9月10日 - 20… 星島 一夫(ほしじま かずお、1922年9月10日 - 2003年8月3日)は、日本の経済学者(社会政策論)。愛媛大学名誉教授。経済学博士。岡山県岡山市出身。 1922年(大正11年)岡山県岡山市生まれ。旧制釜山中学、旧制第六高等学校を経て、1948年(昭和23年)京都帝国大学法学部卒、昭和26年愛媛大学文理学部助手、昭和44年法文学部教授、附属図書館長、昭和60年法文学部長、愛媛大学退官後松山大学経済学部教授、平成5年今治明徳短期大学長。この間株式会社えひめ勤労者生活情報センター所長も務める。社会政策、労働問題を精力的に研究し、特に来島グループの坪内寿夫の経営姿勢や労務管理に批判的であった。後年には伊賀貞雪・愛媛県知事の推進した「生活文化」を賞賛した。
山田 稔(やまだ みのる、1921年7月23日 - 1995… 山田 稔(やまだ みのる、1921年7月23日 - 1995年5月1日)は、日本の実業家。ダイキン工業元社長・会長。ダイキン工業創業者の山田晁の長男。 福岡県出身。芦屋市立精道小学校、神戸第一中学校、第六高等学校、東京帝国大学工学部卒業。1946年に大阪金属工業(現・ダイキン工業)入社。1972年に3代目社長へ就任し、22年間務めた後、1994年より会長を務めた。その他には関西経済連合会副会長、関西経済同友会代表幹事、 太平洋人材交流センター初代理事長も務めた実績がある。 元サントリー会長の佐治敬三、森下仁丹2代目社長の森下泰とは長年の友人だった。
稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 20… 稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 2006年5月20日)は、日本の法学者(憲法)・弁護士。岡山大学名誉教授。 香川県高松市出身。第六高等学校卒、1947年東京帝国大学法学部政治学科卒、香川大学経済学部助教授、岡山大学法学部助教授、教授を務め、1987年定年退官、名誉教授となり、高岡法科大学法学部教授を務めた。弁護士。
石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月… 石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月14日 - 2014年(平成26年)6月15日)は、日本の実業家、元国際電信電話(現・KDDI)社長、元郵政事務次官。岡山県岡山市出身。長男の石井健一郎は名古屋大学名誉教授、次男の石井洋二郎は東京大学名誉教授で元東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長。 旧制岡山県第一岡山中学校、旧制第六高等学校文科甲類卒業。
古見 日嘉(ふるみ ひよし、1920年11月4日 - 197… 古見 日嘉(ふるみ ひよし、1920年11月4日 - 1973年1月2日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。主としてジャン・パウルを研究・翻訳した。 東京出身。1943年東京帝国大学文学部独文科卒。第六高等学校教授、埼玉大学助教授、旧・東京都立大学助教授、教授。1965年ジャン・パウル『美学入門』で日本翻訳文化賞受賞。
山田 信夫(やまだ のぶお、1920年2月17日 - 198… 山田 信夫(やまだ のぶお、1920年2月17日 - 1987年4月26日)は、日本の東洋史学者。大阪大学名誉教授。アジア遊牧民族、東西交渉史を専攻、中世ウイグル世俗文書を研究。 1920年、山口県山口市で生まれた。第六高等学校(現・岡山大学)を経て、東京帝国大学(現・東京大学)文学部に進学。東洋史学科で学び、1943年9月に卒業。 山田を含む6名が1943年10月海軍予備学生に採用され、江田島の海軍兵学校に入隊、12月末まで兵学校生徒に準じる教育を受けた。翌年には兵学校を去り、内地勤務で少尉、中尉となり、敗戦を迎えた。1945年末に帰郷。 1946年、東京帝国大学大学院へ復学。東洋史学科の先輩にあたる前田直典の提唱により、同年3月に北方史研究会を院生仲間らと組織。
西嶋 定生(にしじま さだお、1919年6月25日 - 19… 西嶋 定生(にしじま さだお、1919年6月25日 - 1998年7月25日)は、日本の中国史学者、東京大学名誉教授。京都大学の宮崎市定、東京大学の堀敏一、一橋大学の増淵龍夫等と共に戦後の中国古代史研究をリードする存在であった。 岡山県阿哲郡本郷村(現・新見市)で生まれた。第六高等学校を経て、1939年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。六高・東京帝大共に同級生であった中央アジア史学者の山田信夫とは終生を通じて親友であった。 修了後は、東方文化学院研究員に就いた。東京大学東洋文化研究所研究員を経て、1949年より東京大学文学部東洋史学科助教授。1967年に教授昇格。1961年に学位論文『二十等爵制の研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。
影山 衛司(かげやま えいじ、1919年 <大正8年> 2月… 影山 衛司(かげやま えいじ、1919年 <大正8年> 2月17日 - 1998年 <平成10年> 11月20日)は、日本の官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。位階は正四位。 広島県出身。第六高等学校を卒業。1939年10月、高等試験行政科試験に合格。1940年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、商工省に入省し燃料局属に任官。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進し、第101海軍燃料廠セラム支廠勤務で終戦を迎えた。 戦後、商工省、通商産業省での勤務を経て、1966年4月から1967年9月までに中小企業庁長官を務めた。
片山 光生(かたやま てるお、1918年(大正7年)9月27… 片山 光生(かたやま てるお、1918年(大正7年)9月27日 - 1985年(昭和60年)8月16日)は、日本の建築家。官庁営繕と民間の建築家として活躍。建設省近畿地方建築局時代の奈良県庁舎が代表作。 名古屋市生まれ。愛知県立第五中学校、奈良中学校、旧制第六高等学校(岡山)を経て、1943年京都帝国大学工学部卒業。海軍に入り、高知で終戦を迎える。 1946年以降、運輸技官、建設技官として高松、大阪に赴任。1956年以降、建設省近畿地方建設局(課長職)、関東地方建設局(同)、中国地方建設局(部長職)を経て、1969年、建設大臣官房庁舎営繕部建築課長。 1973年に退官し、京都の内藤建築事務所の代表取締役社長に就任。
岸本 英太郎(きしもと えいたろう、1914年〈大正3年〉5… 岸本 英太郎(きしもと えいたろう、1914年〈大正3年〉5月1日 - 1976年〈昭和51年〉3月11日)は、日本の経済学者。元京都大学教授。学位は、経済学博士(同志社大学)。 岡山県出身。第六高等学校を経て1937年京都帝国大学法学部卒業。出版社などの勤務を経て1946年専修大学講師、1948年京都大学経済学部助教授、1952年より広島大学、岡山大学の助教授を併任。同年学位論文「社会政策論の根本問題」により同志社大学より経済学博士の学位を取得。1957年京都大学経済学部教授、1965年同学部長。専門は労働問題・社会政策論。大河内一男らと社会政策本質論争を行う。教授在職中に逝去。享年61。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
中村 治朗(なかむら じろう、1914年2月20日 - 19… 中村 治朗(なかむら じろう、1914年2月20日 - 1993年8月24日)は、日本の裁判官。元最高裁判所判事。 香川県出身。旧制第六高等学校を経て東京帝国大学法学部在学中に高等試験司法科合格。1940年、判事任官。最高裁判所調査官、最高裁判所民事局長兼行政局長、最高裁判所首席調査官など最高裁内部での勤務期間が長かった。英米法に対する造詣が深く、学者的裁判官といわれた。 1972年に青年法律家協会問題が注目された際には、東京高裁判事として、再任拒否問題とは別に青法協問題が解決される必要があるとの立場を取って「①青法協は日本の政治的状況の中では新野党的位置に属する、②裁判官は一定の思想的立場や信条に深くコミットすることを避けるべきで一般市民に比べて思想信条の自由は制約される、③青法協を脱退しても裁判官が失うものは多くはないはずで、裁判独立のため裁判官が総力を上げて戦うのには青法協問題はふさわしい場ではない」と裁判所内部で表明して注目された。
松澤 卓二(まつざわ たくじ、1913年(大正2年)7月17… 松澤 卓二(まつざわ たくじ、1913年(大正2年)7月17日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の銀行家。富士銀行頭取、会長のほか、全国銀行協会連合会会長、経済団体連合会、日本経営者団体連盟副会長等を歴任した。その風貌と行動力がフランスの英雄を彷彿させるとして金融界のナポレオンと呼ばれた。 東京・日本橋蛎殻町に生まれる。父は弁護士で裕福な家庭に育った。 東京府立第六中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 安田財閥の持株会社である安田保善社の入社試験に合格し、富士銀行の前身となる安田銀行に入行。初任地として馬喰町支店に配属となる。その後、赤紙が来て満州に渡り、幹部候補生学校に入学し、少尉に任官となる。
佐藤 重夫(さとう しげお、1912年1月11日 - 200… 佐藤 重夫(さとう しげお、1912年1月11日 - 2003年11月23日)は、日本の建築家。建築史家。広島大学名誉教授。専門は建築意匠設計と建築史。広島県と岡山県の文化財保護審議会委員を歴任。日本民俗建築学会には佐藤重夫賞が設けられている。 1912年、岡山県都窪郡早島町で生まれた。旧制第六高等学校を卒業し、1931年に東京帝国大学工学部建築科に進学。1934年に卒業。 卒業後は渡辺仁建築事務所に勤務。1940年、逓信省航空局に勤務。以降、厚生省保健院、逓信省営繕課、防衛通信施設局、西部逓信総局、広島逓信局に勤務した。1947年から1950年、独立して建築設計事務所を運営し岡山市の復興に携わった。
谷 友幸(たに ともゆき、1911年5月13日 - 1981… 谷 友幸(たに ともゆき、1911年5月13日 - 1981年7月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都大学名誉教授。 東京市本郷区生まれ。1931年第六高等学校理科乙類卒業、1939年京都帝国大学文学部独文科卒業。戦後京大教養部助教授、1957年文学部助教授、1962年「ヘルダーリーン文学の基礎的研究」(未公刊)で文学博士、1967年教授、1975年定年退官、名誉教授。大谷大学文学部教授。初期にはライナー・マリア・リルケを主として研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
西村 尚治(にしむら しょうじ、1911年〈明治44年〉2月… 西村 尚治(にしむら しょうじ、1911年〈明治44年〉2月1日 - 1997年〈平成9年〉10月15日)は、日本の郵政官僚、政治家。参議院議員(4期)。国務大臣総理府総務長官兼沖縄開発庁長官。 鳥取県東伯郡大栄町(現・北栄町)出身。亀吉の二男。第六高等学校を経て、1936年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し逓信省に入省。中野郵便局属。 戦後は郵政省に移り、資材局調整課長、大臣官房文書課長、大臣官房資材部長、大阪郵政局長などを経て、1960年5月に簡易保険局長。1961年6月に郵務局長。1962年5月15日には郵政事務次官に就任した。1964年6月に退官。 1965年7月、第7回参議院議員通常選挙の全国区に自由民主党から出馬し初当選。
梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 199… 梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 1991年2月19日)は、日本の外科医。消化器外科の権威として知られた。岡山県出身。 1909年、岡山県総社市生まれ。岡山市にある第六高等学校を卒業、1932年、東京帝国大学医学部を卒業、塩田広重教授の第二外科に入局。1939年に癌研究会康楽病院(戦後、付属病院に改称)外科に異動。当時の外科部長の久留勝医師(のちに金沢大教授、大阪大学教授、国立がんセンター病院長)の指導を受け、2年後に久留のあとをついで、外科部長に昇格。胃がんを中心に乳がん、大腸がん手術に取り組んだ。1949年に日本で初めて膵頭十二指腸切除を行い、成功させた。また1965年には、門脈合併切除を伴う肝葉切除術を世界で初めて成功させた。
三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3… 三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月30日)は、昭和・平成期の日本の動物学者。農学博士。十脚目、特に異尾類の分類で功績を残した。九州大学名誉教授、日本甲殻類学会会長。 日本甲殻類学会設立時のメンバーの一人であり会長も務めるなど、甲殻類研究の発展に寄与した。 1908年(明治41年)3月23日、香川県小豆島に生まれ、1920年(大正9年)に岡山県へ移った。1931年(昭和6年)に岡山市の旧制第六高等学校を卒業し、九州帝国大学(現 : 九州大学)農学部に入学した。指導教官の大島広は棘皮動物研究者であったが、三宅の最初の論文はカクレガニの幼生についてのものであった。
岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1… 岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1971年11月29日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(1期、自由民主党)。 東京都出身。1927年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1930年東京帝国大学法学部政治学科卒。逓信省に入り、姫路郵便局長、朝鮮総督府逓信局海事課長、逓信省竿船局沿岸課海務員、運航部港運、第一輸送各課長、大東亜省南方事務局交通産業課長、企画院書記官、運輸省海運総局総務企画課長、神戸海運局(現神戸運輸監理部)管理部長、同局長、運輸省海運局長などを歴任する。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。1960年の第29回衆議院議員総選挙において兵庫3区から自由民主党公認で立候補して当選した。
小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 19… 小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 1990年7月6日)は、日本の地質学者。東京農業大学教授を務め、1980年定年。地すべりで一度崩れたところは当分は危険がない「地すべり免疫論」の論陣を張る。また、治水については水防林の効用を主張した。 兵庫県出身。実家はもとは出石藩の家老の家柄。第六高等学校から、1934年東京帝国大学農学部林学科卒業。同年から北海道帝国大学農学部に助手として勤務。その後東京帝国大学理学部地質学科に再入学する。 1943年地質調査所に勤務。その後林野庁勤務をへて東京農業大学、また経済安定本部資源調査会に勤めるかたわら、宇都宮大学や秋田大学で非常勤講師を務めた。
石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) -… 石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。ファッションデザイナー・石津謙介の兄。 岡山県岡山市片瀬町(現・岡山市北区天瀬)の老舗紙問屋「紙石津」の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に家業を継がないことを宣言し、これにより弟の謙介が家業を継ぐ羽目になった。昭和7年(1932年)大学を中退。帰郷し写真家を志す。 一時期、松竹キネマに入社。昭和9年(1934年)岡山在住の写真家・大森一夫、山崎治雄らと県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成(のちの岡山県知事・長野士郎が旧制第六高等学校時代、石津に憧れ同会に入会している)。
藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 198… 藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 1989年7月19日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 岡山県の吉備津神社の神職の家に生まれる。岡山県立第一岡山中学校から第六高等学校文科に進学。1927年に同校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。同期入学に山根徳太郎、池内義資らがいた。卒業論文「文藝復興期に於ける日本道への歸着」をまとめ、1930年に卒業。 大学卒業後は、六高における恩師でもある松本彦次郎の推薦により、その後任として第六高等学校講師となり、同年10月に同校教授。1950年に岡山大学法文学部教授。1972年に退官し、名誉教授となり、1978年まで山陽学園短期大学教授を務めた。
小野田 快雄(おのだ よしお、1905年〈明治38年〉10月… 小野田 快雄(おのだ よしお、1905年〈明治38年〉10月23日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政官。 岡山県御津郡今村中仙道(現・岡山市北区中仙道)に生まれる。第六高等学校を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科に合格し、1930年(昭和5年)3月に東京帝国大学法学部を卒業する。 同年5月、台湾総督府内務局地方課勤務を発令され、翌月渡台する。1934年(昭和9年)9月、地方理事官に進み、台北州羅東郡守に就任し、1936年(昭和11年)10月、高雄州警務部警務課長に転じた。ついで同州内務部勧業課長、府事務官官房外務部課長、台南州産業部長、同州警察部長を経て、1942年(昭和17年)10月、軍政部附として南方に転出。
錢高 輝之(銭高、ぜにたか てるゆき、1905年 <明治38… 錢高 輝之(銭高、ぜにたか てるゆき、1905年 <明治38年> 10月9日 - 1984年 <昭和59年> 11月22日 )は、日本の経営者。錢高組社長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1927年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1930年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1934年に錢高組に入社。1936年に取締役に就任し、1942年に専務を経て、1945年に社長に就任。1980年から会長を務めた。経済団体連合会理事なども歴任した。1960年に藍綬褒章を受章し、1973年1月に勲三等旭日中綬章を受章。 1984年11月22日急性肺炎で死去。79歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年… 帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年2月3日)は、日本の商工官僚、政治家。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 大分県日田市で生まれる。旧制第六高等学校、二度落第。1931年東京帝国大学経済学部卒。在学中は新人会で学生運動に身を投じた。 朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実、風見章、勝間田清一、穂積七郎らと共に近衛文麿の最高政治幕僚組織「昭和研究会」に所属した。商工省の革新官僚であり、第二次世界大戦中に重要産業統制協議会事務局長就任、統制経済を推進し、大日本帝国の国民経済を自由主義的市場経済から全体主義的計画経済へ移行させる経済新体制の確立を画策した。 昭和研究会には帆足ら革新官僚と尾崎ら転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者」(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理論的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった。
秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 200… 秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 2000年1月3日)は、日本の運輸官僚。海運総局長官・運輸事務次官を務めたのち、日本空港ビルデング初代社長や東京モノレール社長を歴任した。通産官僚の秋山收は子。 岡山県岡山市出身。1924年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1928年京都帝国大学法学部卒業。逓信省に入省(淀橋郵便局)。海運局次長、運輸省参事官、海運局長などを経て、1948年海運総局長官。1949年6月運輸事務次官。1952年1月退官。日本空港ビルデングの設立に参加、民間資本を集めて1953年に初代社長に就任した。のち相談役。このほか、東京モノレール社長(1965年)、東京シティ・エアターミナル会長、ロイヤルパークホテル社長、国際港湾協会初代事務総長、日本航空協会会長(1991年)も務めた。
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 … 坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 - 1990年〈平成2年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。財政政策に詳しく衆議院大蔵委員会理事、大蔵政務次官(第1次岸改造内閣)、自由民主党税制調査会長、厚生大臣(第44代)、大蔵大臣(第81代)などを歴任。 和歌山県伊都郡出身。旧制第六高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、都新聞、東京日日新聞記者を経て、大政翼賛会財務部副部長を務める。東日の大蔵省詰め記者時代に福田赳夫と知り合い、肝胆相照らす仲となる。1942年旧和歌山1区より翼賛政治体制協議会推薦で第21回衆議院議員総選挙に出馬するも落選する。
大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1… 大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1974年7月1日)は、昭和期日本のドイツ文学者。京都大学名誉教授。 香川県出身。旧制第六高等学校から京都帝国大学文学部独文科に進み1928年に卒業。学生時代は土井虎賀寿と下宿が同じで、親友であった。旧制第三高等学校講師、京都帝国大学文学部講師、法政大学予科講師などを経て、1946年に京都大学文学部助教授、1950年に同教授となり、1968年に京大を定年退官してからは関西学院大学教授を務めた。 文人気質の外国文学者としてゲーテやリルケをはじめとする多数の翻訳を著した。戦後まもなく出版された『洛中書問』は、中国文学者の吉川幸次郎との往復書簡で、東西古典の翻訳のあり方をめぐる論議である。
大野 勝三(おおの かつぞう、1903年《明治36年》12月… 大野 勝三(おおの かつぞう、1903年《明治36年》12月10日 – 1990年《平成2年》11月26日)は、日本の逓信官僚。 岡山県玉野市宇藤木出身。旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。初代郵政事務次官。在任期間は1949年6月1日~1954年2月1日。その後国際電信電話(現在のKDDIの前身の一)社長、エフエム東京社長。 三人兄弟の三男で、長兄は栄(さかえ)、次兄は哲生(てっせい)。次兄は岡山市議会議員を1回務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 英三(いとう えいぞう、1903年(明治36年)8月1… 伊藤 英三(いとう えいぞう、1903年(明治36年)8月15日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、警察官僚。嘉義市尹。 広島県広島市稲荷町に生まれる。第六高等学校を経て、1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年12月、高等試験行政科に合格し、翌年5月、台北州巡査部長に任ぜられる。ついで台北州警部補、司獄官練習所教官、新竹州警務課長、台中州警務課長兼理蕃課長、同保安課長、高等警察課長を経て、台南州教育課長に転じ、高雄州地方課長を経て、1936年(昭和11年)10月、嘉義市尹に就任した。 翌年、台中州警務部長に転じた。その後、帰朝し、秋田県書記官・学務部長を経て、滋賀県警察部長に就任し、1943年(昭和18年)7月まで務めた。
松浦 一六(まつうら いちろく、1903年 - ?<1999… 松浦 一六(まつうら いちろく、1903年 - ?<1999年時点で故人>)は、日本の日本文学研究者。近世日本文学、特に井原西鶴の研究などで知られ、「西鶴町人物研究の先覚」と評された。 兵庫県武庫郡須磨村(1912年に町に昇格、1920年に神戸市に編入)に生まれ、中学卒業まで地元で育つ。少年期には浪曲と野球に熱中した。中学卒業後、神戸を離れて岡山市の第六高等学校に進んだ。その後上京し、1927年に東京大学文学部国文科を卒業した。 大学卒業後すぐに、第七高等学校教授となり、以降、七高などから改組新設された鹿児島大学、さらに鹿児島県立短期大学、鹿児島短期大学で教授を歴任した。 なお、第二次世界大戦中には静岡市にいた時期があり、1945年6月の静岡大空襲で、収集していたレコード類などを始め全財産を失うという経験もしている。
間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1… 間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1979年(昭和54年))は、兵庫県神戸市出身の日本の建築家、一級建築士、ゴルフ場設計者。 間野貞吉は、1903年(明治36年)、兵庫県神戸市に生まれ、神戸一中から岡山の旧制第六高等学校を卒業、東京帝国大学工学部建築科に入学した。1926年(大正15年)、建築復興助成株式会社に入社、耐火建築の設計を主な仕事として勤務した。1929年(昭和4年)、東京帝国大学を卒業した。 間野は建築家として耐火建築物の設計を多く手掛けた。1932年(昭和7年)、母校の東京帝国大学から、論文『ゴルフ場の施設』により工学博士号を授与された。「相模カンツリー倶楽部」のメンバーとなり、ゴルフに打ちこんだ。
宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 198… 宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 1986年10月11日)は、日本の天文学者、理学博士。 広島県因島市(現・尾道市)出身。旧制第六高等学校を経て、1925年東京帝国大学理学部天文学科卒業。ジャワ島ボスカ天文台長、東京天文台国際報時所研究主任を経て東京大学教授兼東京天文台技官となり、東京天文台長を務めた。1964年測地学審議会長となり、日本地図センター長も務めた。
梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1… 梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1996年4月14日は、日本の哲学者(経済哲学)。立命館大学名誉教授。 ヘーゲル、マルクスを専門とし、京都学派左派の戦時下抵抗思想と三木哲学批判で知られる。 徳島県出身。1928年京都帝国大学文学部哲学科(社会学)卒。西田幾多郎・田辺元にも師事。唯物論研究会に所属するが、1938年に検挙され転向。戦後は第六高等学校教授を経て、1950年に立命館大学教授。1959年「資本論の学的体系性 マルクス主義経済哲学の基礎づけのために」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部教授、1963年定年退任、名誉教授。橘女子大学教授。1964年に廃止された立命館大学吉田寮の寮監を務めていた。
岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - … 岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - 1983年4月5日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。専門は理論経済学。「分配と価格」に関する基本原理を作り上げた。 岡山県出身。第六高等学校を経て1925年東京帝国大学経済学部卒、同大学院入学。1940年「価格の理論」で経済学博士(東京商科大学 (旧制))。法政大学経済学部長、東京高等師範学校教授を経て、1946年京都帝国大学教授・経済学部長となる。京都大学経済研究所の創設に尽くし1962年初代所長となる。1966年定年退官、名誉教授、國學院大學経済学部教授。その後、同経済学部長。1979年國學院大學栃木短期大学3代学長(~1981年)に就任。
吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月… 吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月7日 - 1976年 <昭和51年> 3月1日)は、日本の経営者。電源開発総裁を務めた。位階は正四位。 岡山県倉敷市出身。倉敷天城中学、第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。富士紡績、富士電力の勤務を経て、1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年に取締役に就任し、1953年9月に常務、1961年6月に副社長を経て、1964年8月から1966年8月までに電源開発総裁を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。1976年3月1日、死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
岡田 五郎(おかだ ごろう、1901年(明治34年)8月25… 岡田 五郎(おかだ ごろう、1901年(明治34年)8月25日 – 1965年(昭和40年)9月23日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県加東郡小野町長尾で岡田常次の三男として生まれる。第六高等学校を経て、1925年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、鉄道省に入省し鉄道属に任官し札幌駅貨物係に配属された。 以後、鉄道局参事、鉄道大臣官房人事課長、同秘書課長、鉄道監、札幌鉄道局長、大阪鉄道局長などを歴任し、1947年に退官した。 1949年1月の第24回衆議院議員総選挙で兵庫県第三区に民主自由党から出馬し当選。以後、第26回総選挙まで連続して当選し、衆議院議員を連続三期務めた。