堀内 三郎(ほりうち さぶろう、1951年5月16日 - )… 堀内 三郎(ほりうち さぶろう、1951年5月16日 - )は、青森県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
海軍兵学校:165人
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堀内 三郎(ほりうち さぶろう、1951年5月16日 - )… 堀内 三郎(ほりうち さぶろう、1951年5月16日 - )は、青森県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
小川 陽一郎(おがわ よういちろう、1941年12月11日没… 小川 陽一郎(おがわ よういちろう、1941年12月11日没)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は中佐。福岡県出身。駆逐艦「早苗」や「如月」の艦長を務め、ウェーク島沖にて1941年12月11日に戦死した。 旧制福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)を卒業後、海軍兵学校に入校(第57期卒業)。1941年4月15日に「早苗」艦長。1941年10月1日、「如月」艦長となる。 第6水雷戦隊第30駆逐隊所属の「如月」は、1941年12月の太平洋戦争開戦劈頭、ウェーク島攻略(ウェーク島の戦い)任務に就き、第6水雷戦隊旗艦である軽巡洋艦「夕張」等とクェゼリン環礁を出撃した。12月11日、「如月」はウェーク島ピーコック岬の南で、島内のアメリカ海兵隊基地に所属するF4F戦闘機の機銃掃射を受けて爆沈し、その際に小川は戦死した。
岡田 善雄(おかだ よしお、1928年3月10日 - 200… 岡田 善雄(おかだ よしお、1928年3月10日 - 2008年1月16日)は、日本の医学者(細胞工学)、医師。位階は従三位。勲等は勲一等。大阪大学名誉教授、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪大学微生物病研究所教授、大阪大学細胞工学センターセンター長、財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長などを歴任した。 広島県呉市出身の細胞生物学者である。バイオテクノロジーの基本技術である「細胞融合現象」を発見した細胞工学のパイオニアとして知られている。大阪大学名誉教授。 大阪大学微生物病研究所助手となった後の1955年、ウイルスをがん細胞に注射したところ、見たこともない巨大細胞ができた。「生物の細胞は互いに細胞膜で隔てられ、受精などを除いて合体はありえない」という生物学の常識を覆す大発見の瞬間だった。
小渡 三郎(おど さぶろう、1925年12月14日 - 19… 小渡 三郎(おど さぶろう、1925年12月14日 - 1988年7月28日)は、琉球政府及び日本の政治家。琉球政府行政副主席。衆議院議員(2期、自由民主党)。海兵76期。 1925年、朝鮮京城で弁護士の小渡良忠の長男として生まれる。1938年、沖縄に戻り、沖縄県立第二中学校2年に編入。スポーツ万能で勉強は理系が得意だった。1944年、沖縄県立第二中学校卒業後、海軍兵学校入学。 1958年、沖縄県中頭郡美里村議会議員に初当選。1963年、琉球政府八重山地方庁長。労働局長、通商産業局長を経て、1967年、琉球政府行政副主席となる。琉球政府職員として経済復興、自治権拡大、軍用地問題、祖国復帰対策に尽力する。
左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正14年… 左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正14年)2月11日 - 2013年(平成25年)6月30日)は、大日本帝国海軍の軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大尉、海将。鹿児島県出身。海兵72期。 海軍中将左近允尚正の次男。多号作戦で駆逐艦「島風」砲術長として「島風」沈没時(多号作戦)に戦死した海軍大尉左近允正章(まさふみ)は兄にあたる。 兄の正章と同じく旧制横須賀中(30期)から海軍兵学校へ入校。1943年(昭和18年)9月に卒業(第72期)、海軍少尉候補生。伊勢型戦艦1番艦「伊勢」乗組。乗艦実習の後、11月15日附で最上型重巡洋艦4番艦「熊野」乗組を命ぜられる。なお、兄の正章も太平洋戦争開戦時に海軍少尉として「熊野」に勤務している。
坂元 正一(さかもと しょういち、1924年(大正13年)1… 坂元 正一(さかもと しょういち、1924年(大正13年)1月20日-2006年(平成18年)12月28日)は、日本の産婦人科学者。医学博士(東京大学)。元東京大学医学部教授、東京大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。 東京都出身。神戸一中を経て、海軍兵学校を卒業(72期)。第二次世界大戦期は艦上爆撃機操縦員であった。 1950年(昭和25年)東京大学医学部卒。1956年(昭和31年)東大医学博士、東大助手。関東中央病院産婦人科部長、1963年東大医学部講師、1965年助教授、1970年教授となる。1984年定年退官、名誉教授、東京女子医科大学教授・母子総合医療センター所長、1992年埼玉医科大学教授。
北条 浩(ほうじょう ひろし、1923年〈大正12年〉7月1… 北条 浩(ほうじょう ひろし、1923年〈大正12年〉7月11日 - 1981年〈昭和56年〉7月18日)は、日本の海軍軍人、政治家、宗教家。公明党所属の参議院議員(1期、1965年 - 1971年)、第4代創価学会会長。 前任会長の池田大作が執筆した小説『人間革命』の登場人物「十条潔」のモデルとなる。 神奈川県三浦郡葉山町生まれ。北条釐三郎の長男として生まれる。先祖は、後北条氏河内狭山藩初代藩主の北条氏盛(後北条氏第3代北条氏康の孫の一人)であり、その嫡流にあたる。ただし、祖父・北条氏恭が伊達政宗の子孫(伊達氏→堀田氏→狭山藩北条氏と養子入りした家系)であるため、男系の血筋上は伊達氏の末裔である。
仁科 関夫(にしな せきお、1923年(大正12年)4月10… 仁科 関夫(にしな せきお、1923年(大正12年)4月10日 - 1944年(昭和19年)11月20日)は、日本の海軍軍人。海兵71期。太平洋戦争(大東亜戦争)の末期、人間魚雷「回天」を創案するとともに自らも出撃して戦死した。最終階級は海軍少佐。 1923年(大正12年)4月10日に滋賀県大津市で生まれる。その後大阪府へ転居し、大阪府女子師範附属小学校を卒業後に大阪府立天王寺中学校を四年で修了し、海軍兵学校(71期)へ入学する。地理学や各訓練などに才能を如何なく発揮し、1942年(昭和17年)11月14日に優秀な成績で卒業。当時の海軍兵学校校長は井上成美海軍中将。卒業式には高松宮宣仁親王(軍令部大佐、昭和天皇弟宮)が出席した。
関 行男(せき ゆきお、1921年(大正10年)8月29日 … 関 行男(せき ゆきお、1921年(大正10年)8月29日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。最終階級は海軍中佐。 レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」(爆装零戦5機)を指揮して、アメリカ海軍の護衛空母「セント・ロー」を撃沈し、さらに護衛空母3隻を撃破した武功で知られる。 1921年8月29日に、愛媛県新居郡大町村(現:西条市)で、父・勝太郎(骨董商)と母・サカエの一人息子として生まれた。 大町尋常小学校(現:西条市立大町小学校)、愛媛県立西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1938年12月に海軍兵学校(70期)へ入校。
豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 … 豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 - 1994年〈平成6年〉1月30日)は、日本の小説家、作家、海軍軍人。海兵68期。最終階級は海軍中尉。本名は豊田 稔(とよだ みのる)。 満州の四平街に生まれる。その後、郷里の岐阜県本巣郡穂積町(現・瑞穂市)へ戻り、1937年(昭和12年)3月、岐阜県立本巣中学校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)を卒業。 1937年(昭和12年)4月、海軍兵学校に入校。1940年(昭和15年)8月、卒業(68期)。同期に鴛淵孝、伴勝久、広尾彰、松永市郎、酒巻和男がいる。 1941年(昭和16年)4月、第36期飛行学生になる。12月8日、真珠湾攻撃が行われ、特潜で出撃した10名のうち、酒巻和男が捕虜となる。
酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8… 酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人、後にビジネスマン。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となる。最終階級は海軍少尉。 徳島県阿波郡林村(現:阿波市)で、8人きょうだいの次男に生まれた。徳島県脇町中学校を経て1940年(昭和15年)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)した。同期生に豊田穣、広尾彰がいる。その後、日本海軍に入隊した。 太平洋戦争(大東亜戦争)における第一撃として、日本海軍は日本時間の1941年(昭和16年)12月8日、米領ハワイのオアフ島真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊や周辺の軍事基地に対する奇襲(真珠湾攻撃)を実施。
白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944… 白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944年11月24日)は、大日本帝国海軍の軍人。第二次世界大戦時の戦闘機搭乗員で、日中戦争での1機を含む9機の総撃墜数を持つエース・パイロットである。最終階級は戦死による一階級特進で海軍中佐。岡田内閣の内閣書記官長だった白根竹介は実父。 1916年(大正5年)8月7日に白根竹介の四男として東京都で生まれる。東京府立四中を経て、1937年(昭和12年)3月、海軍兵学校第64期を卒業。同期生に空母「赤城」艦上爆撃機隊分隊長として真珠湾攻撃に参加し、太平洋戦争を戦い抜いた阿部善次や「特攻に反対した指揮官」として知られる美濃部正がいる。1938年(昭和13年)7月に第31期飛行学生となり、1939年(昭和14年)3月に修了し、戦闘機搭乗員となった。
志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)3月28日 … 志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)3月28日 - 2005年(平成17年)11月25日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。最終階級は海軍少佐。東京都出身。旧姓は四元。 大正3年、東京府(現・東京都)で四元賢助海軍少将の三男として生まれる。本籍は鹿児島。父の賢助は、海軍兵学校教官として山本五十六、豊田副武らを教えており、子供の教育にも厳格であった。山口中学を経て、1931年(昭和6年)4月海軍兵学校62期に入学。同期に伏見宮博英王がおり、伏見宮が掃除の時間に列に割り込んだ際、志賀はそれを注意してバケツを蹴飛ばした。その件が殴ったという噂に飛躍して多少の摩擦も生じたが、後に父の訃報を受けた志賀に帰宅許可が出たのは伏見宮の計らいであった。
黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913… 黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日)は、大日本帝国海軍少佐、戦闘機操縦士、政治家。 群馬県上野村村長を10期連続40年務めた。日本航空123便墜落事故の事故処理に尽力したことで知られる。また「御巣鷹の尾根」の命名者でもある。称号は上野村名誉村民。正五位、旭日重光章。 1913年(大正2年)12月23日、群馬県多野郡上野村の酒造業を営む家に生まれた。父は後に上野村村長となっている。群馬県立富岡中学校を卒業。 1932年(昭和7年)4月に海軍兵学校に第63期生として入隊した。1936年(昭和11年)、兵学校を卒業し、アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た。
山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6… 山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6日 - 1991年(平成3年)11月1日)は、東京都出身の日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は、海軍少佐、海将補。 内務官僚・山岡国利の二男として東京で生れる。鹿児島一中を経て、1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校(第63期)を卒業、遠洋航海終了後、戦艦「霧島」乗組となる。翌年4月、海軍少尉に任官し1937年(昭和12年)8月、新造の駆逐艦「涼風」乗組となり、以後、「伊号第五十七潜水艦」、「呂号第三十四潜水艦」乗組み、1938年(昭和13年)8月、呉鎮守府第四特別陸戦隊付となる。同年12月、重巡洋艦「三隈」乗組となり、重巡洋艦「筑摩」、水雷艇「鳩」乗組を経て、1940年(昭和15年)10月、駆逐艦「霞」砲術長となり太平洋戦争を迎えた。
飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日… 飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 1913年(大正2年)2月12日、山口県都濃郡富田村 (現周南市)で旧家の一人息子として生まれた。1925年(大正14年)4月、徳山中学校 (現山口県立徳山高等学校)に進学、1931年(昭和6年)4月、海軍兵学校に入学し、1934年(昭和9年)11月17日、同校(62期)を125名中5番の成績で卒業した。少尉候補生として艦隊勤務や遠洋航海など実務練習を経て、1936年(昭和11年)4月、海軍少尉に任官、軽巡洋艦「那珂」に配属された。
国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10… 国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10日 - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争の敗戦を受けて、一家四人で自決した海軍少佐である。 岡山県出身。幼少期に北海道へ移り、室蘭中学4年修了で海軍兵学校入校。1932年(昭和7年)11月卒業。国定は海兵60期で、席次4番の恩賜組である。 国定は第26期飛行学生を修了した搭乗員であった。1937年(昭和12年)、海軍中尉で空母「龍驤」乗組であった国定は、第二次上海事変に出征し、日本国内で度々報じられる奮戦振りであった。岩国海軍航空隊飛行長として太平洋戦争の開戦を迎え、第12連合航空隊参謀、三重海軍航空隊教官、練習連合航空隊参謀などを歴任した。
板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18… 板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18日 - 2005年(平成17年)10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。福岡県小倉市(現、北九州市)出身。 3人兄弟の次男。当初は画家を志していたが、関門海峡を通過する聯合艦隊の美しさに魅せられ、海軍兵学校に志望を変更したという。旧制福岡県立小倉中学校より海軍兵学校の第61期に入校した。卒業席次は116名中7位。少尉候補生時代には問題児として名を馳せ、遠洋航海時には始末書を8枚という記録を作った。一方では、誰もが調査を諦めた訓練時のトラブルの原因を、根気よく調べ続けてついにつきとめるといった功績も残している。 1935年(昭和10年)少尉任官。
兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 194… 兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 1942年(昭和17年)11月14日)は、日本の海軍軍人。空母艦上戦闘機搭乗員として、日中戦争及び太平洋戦争で撃墜王となる。ガダルカナルへの高速輸送船団の上空直衛の戦闘にて戦死。最終階級は海軍少佐。本籍は山形県西村山郡谷地町。
板谷 隆一(いたや たかいち、1911年〈明治44年〉8月2… 板谷 隆一(いたや たかいち、1911年〈明治44年〉8月20日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海兵60期次席。海兵同期に鈴木實、進藤三郎など。第7代海上幕僚長、第5代統合幕僚会議議長。 農業・板谷儀市の二男として佐賀県三養基郡中原村に生まれる。兄は真珠湾攻撃作戦時に空母「赤城」分隊長で、第一次攻撃隊制空隊長を務めた板谷茂(海軍中佐・海兵57期首席)。 旧制三養基中学を経て、海軍兵学校60期を次席で卒業。 海兵次席のエリートながら、日中戦争から太平洋戦争までほとんどの期間を第一線で勤務した。 1937年(昭和12年)8月9日に発生した大山事件(上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉(板谷と海兵同期)が殺害され、第二次上海事変のきっかけの一つとなった)を受け、8月11日に大山中尉の後任として上海海軍特別陸戦隊附 兼 第三艦隊司令部附となる。
野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月1… 野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月18日 - 1945年(昭和20年)3月21日)は、日本の海軍軍人。特攻兵器「桜花」を擁する神雷部隊指揮官として九州沖航空戦に参加。最終階級は戦死による二階級特進で海軍大佐。海兵61期卒。
鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日… 鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日- 2001年(平成13年)10月28日)は、東京麹町生まれの大日本帝国海軍の軍人、実業家。旧海軍時代の最終階級は海軍中佐。本籍は新潟県岩船郡村上本町。
江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4… 江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4日 - 1944年(昭和19年)6月15日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。五二一空陸上爆撃機搭乗員として参加したあ号作戦で戦死した。最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)9月4日、広島県芦品郡有磨村下有地(現・福山市芦田町)に農家の九右衛門とキタの三男として生まれる。江草家は旧家で代々地主である。江草姓は、同地方の戦国時代の豪族などに見られ、広島と岡山の県境に多く見られる。 1925年(大正14年)、海軍兵学校と陸軍士官学校の両方を合格。江草は海兵に行く気だったが、入校直前の身体検査で結核と誤診されて海兵57期には入校できなかった。
奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月… 奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月27日 - 2007年(平成19年)2月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将。高知県出身。航空主兵論の急先鋒であり、戦艦無用論を主張した。 1909年(明治42年)7月27日、高知県に父・奥宮正治と母・虎の三男として生まれる。生家は土佐藩藩校の教授であった奥宮慥斎の本家になる。母は土佐の旧家である入交家の出身。市岡中学卒を経て、1926年(大正15年)11月、海軍兵学校58期入校。1930年(昭和5年)11月、海軍兵学校卒業。1932年(昭和7年)4月、海軍少尉任官。 1933年(昭和8年)11月、海軍練習航空隊第24期飛行学生を卒業、大村海軍航空隊付(延長教育を受ける)。
村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9… 村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9日 - 1942年〈昭和17年〉10月26日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死した。二階級特進により最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)4月9日、長崎県南高来郡島原村新馬場に父円の次男として生まれる。村田家は士族で、祖父・重太郎は戊辰の役に兵士として参加している。重治の幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかったが、相撲と剣道は強かった。中学時代の渾名は「ガジ」であり、当時の級友によれば「決してガジガジの性格から来たものではなく、背が低くてがっしりしていたので、その感じから自然と“ガジ”という渾名が付いたものと思う」という。
嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月… 嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月9日 - 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の海軍軍人。空母「瑞鶴」飛行隊長として真珠湾攻撃で第二次攻撃隊長を務めた。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 本籍は大分県。鉄道局技師・澤重元の三男として奈良市で生れ、嶋崎家の養子となる。上野中学校(現・三重県立上野高等学校)、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を経て、1929年(昭和4年)3月、海軍兵学校(第57期)を卒業。1930年(昭和5年)12月、海軍少尉任官。高橋赫一の薦めにより、高橋の妻の妹と結婚する。 1932年(昭和7年)12月から翌年7月まで、第23期飛行学生として訓練を受けた。
鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日… 鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。枢密院議長や内閣総理大臣を歴任した鈴木貫太郎海軍大将は伯父(父の長兄)。 千葉県出身。東京府立四中を経て海軍兵学校に入校(第55期)。席次4番、恩賜組で卒業した。同期生に藤村義一、寺内正道、のちに義兄となる岡田貞外茂がいる。鈴木は搭乗員であり専門は飛行艇であった。中尉に進級後の1930年(昭和5年)12月、第21期飛行学生を命ぜられ、首席で修了。
大谷 藤之助(おおたに とうのすけ、1906年12月3日 -… 大谷 藤之助(おおたに とうのすけ、1906年12月3日 - 1989年2月8日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。元参議院議員(4期),大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍中佐。 レイテ沖海戦にて戦艦「大和」の副砲長として乗艦していた深井俊之助が、栗田艦隊がレイテ湾に突入せずに反転したのは当時、栗田司令部の作戦参謀を務めていた大谷による電報の捏造が原因だったと主張しているが、当時通信士として栗田らの板第一艦橋に配属されていた都竹卓郎は、月刊「歴史街道」2015年1月号において、深井氏のレイテ沖海戦での数々の証言を否定しており、他の生存者の証言でも深井の主張と辻褄が合わない点が多くあり、現在は否定的に考えられている
高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11… 高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11月29日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。珊瑚海海戦に空母「翔鶴」艦上爆撃機搭乗員として参加し、米空母「レキシントン」攻撃後に戦死。最終階級は海軍大佐。 徳島県出身。旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)より海軍兵学校56期で入校。 あだ名は「親分」。妻マツエの妹の夫は真珠湾攻撃の第二次攻撃隊長嶋崎重和少佐(海軍兵学校57期)。海兵での同期に久住忠男、田辺弥八、前田実穂、唐島辰男、白相定男、橋口喬らがいる。 1931年(昭和6年)12月、第22期飛行学生となり1932年(昭和7年)11月に修了。
中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月… 中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月16日 - 1995年(平成7年)1月16日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵54期恩賜。第4代海上幕僚長。島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった。長男は第10代明治学院長の中山弘正。 旧制島根県立大社中学校より海軍兵学校第54期入校。席次は入校時は79名中4番、卒業時は68名中3番で恩賜の短剣を拝受。 海兵54期は、ワシントン軍縮会議の結果、艦船のみならず海軍士官も余剰と判断され、海軍兵学校生徒の採用数が通常年度の半分以下になった2期目のクラスである。 佐官になってからは、軍政部門での勤務が多かった。海軍大学校甲種第36期在校中に日中戦争が勃発、人手不足も手伝って、大学校在校者も駆り出され、中山は中国在勤を命ぜられる。
田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月1… 田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。ミッドウェー海戦において、伊号第百六十八潜水艦長として米空母ヨークタウンを撃沈した武功で知られる。最終階級は海軍中佐。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第21回)を経て海軍兵学校(56期)を卒業。海兵56期の同期生に高橋赫一、大谷藤之助、三上作夫らがいる。 田辺は通信学校甲種を修了していわゆる「通信屋」となったが、次いで潜水艦水雷長養成過程である潜水学校乙種を修了し、潜水艦乗りとなる。海軍大尉時代は「伊八潜」通信長を5ヶ月、第二潜水戦隊参謀を1年8ヶ月務め、1940年(昭和15年)11月海軍少佐へ進級。
大橋 勝夫(おおはし かつお、1905年(明治38年)1月1… 大橋 勝夫(おおはし かつお、1905年(明治38年)1月11日 - 1945年(昭和20年)7月16日)は、日本の海軍軍人(海兵53期卒)。太平洋戦争において四艦の潜水艦長を歴任し、交通破壊戦に戦果を挙げた。その一方で漂流していた連合国将兵を攻撃せず、戦後になってこの大橋の行為が明らかとなった。神龍特別攻撃隊を構成した「伊13」潜水艦長として戦死し、一階級昇進により最終階級は海軍大佐。 大橋は三重県出身で、横須賀中学校を経て海軍兵学校に入校した。1925年(大正14年)に卒業した(53期)の同期生には海軍青年士官運動の中心人物である藤井斉がおり、他の10名が特別高等警察作成のブラックリストに掲載されているが、大橋の名はない。
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年… 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。
庵原 貢(いはら みつぐ、1903年(明治36年)10月3日… 庵原 貢(いはら みつぐ、1903年(明治36年)10月3日 - 1979年(昭和54年)3月31日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵52期・海大35期。第3代海上幕僚長。 兵庫県出身。豊岡中学校(現・兵庫県立豊岡高等学校)を経て海軍兵学校に入校。太平洋戦争中は第三艦隊参謀としてスラバヤ沖海戦などに従軍。1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎首相秘書官に出向し「日本のいちばん長い日」を体験した。戦後は保安庁警備隊を経て海上自衛隊に入隊。第3代自衛艦隊司令を務めたのち、第3代海上幕僚長に就任。
内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17… 内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人(海兵52期、海大36期卒)。太平洋戦争において艦隊参謀職を歴任した後、海軍乙事件で殉職。殉職による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 山形県出身。山形中学卒。海軍兵学校52期。席次は236名中6番。高松宮宣仁親王、入佐俊家、淵田美津雄らは同期生である。海軍大学校甲種36期。内藤は戦闘機の源田實と並び、爆撃機の内藤雄として知られ、樋端久利雄らとともに海軍爆撃術の体系化に功績があった。1939年(昭和16年)1月から10月まで独出張。第二次世界大戦勃発直後の独空軍は目覚しい活躍を見せていたが(電撃戦)、内藤は海上攻撃における問題点を指摘した。
黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日… 黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日 - 1933年(昭和8年)3月10日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。水上機機長としての不時着水時の行動で責任感の鑑と称えられた。のちに殉職し最終階級は海軍少佐。
山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月1… 山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月17日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)で戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少将。
淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月… 淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月3日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月3日、奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)で教師の父・弥蔵と母・シカの三男として生まれる。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、1921年(大正10年)、海軍兵学校に海兵52期として入学する。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。1924年7月24日、海軍兵学校を卒業、少尉候補生。 1925年12月、巡洋艦「矢矧」乗組。1926年12月、海軍砲術学校普通科学生。1927年4月、海軍水雷学校普通科学生。1927年7月、駆逐艦「秋風」乗組。
木梨 鷹一(きなし たかかず、1902年(明治35年)3月7… 木梨 鷹一(きなし たかかず、1902年(明治35年)3月7日 - 1944年(昭和19年)7月26日)は、日本の海軍軍人。海兵51期。伊19潜水艦長として、アメリカ海軍の正規空母ワスプを撃沈した武勲で知られる。最終階級は海軍少将。 大分県出身。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を経て海軍兵学校(51期)に入校。海兵51期の同期生には、クラスヘッドの樋端久利雄・大井篤・実松譲・井浦祥二郎・稲葉通宗ら著名な者が多い。木梨の兵学校入校席次は150番であったが、1923年(大正12年)7月の卒業時の席次は255名中255番と最下位であった。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。 帝国海軍では、兵学校卒業席次を基礎とする「ハンモックナンバー」が進級・補職に大きく影響した。
渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月1… 豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月13日 - 1995年(平成7年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 大分県杵築市出身。旧制大分県立宇佐中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中146番、卒業時255名中84番。海軍大学校は首席卒業。 戦後、復員庁第二復員局に勤める。在職中は極東国際軍事裁判の対策に携わる。 日中戦争当時には台湾からの中攻による渡洋爆撃を考案、自ら搭乗してこれを指揮し、金鵄勲章を拝受している。しかしこの時の賞金1万円はついに支払われず、戦後佐藤首相より金杯を受けたのみで、請求権を放棄させられたという。戦場にあっては勇猛果敢な航空参謀、海軍武官補佐官としては、誠実かつ有能な外交官であった。
柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 -… 柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 - 1970年(昭和45年)1月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。 農業・阿部作次郎の二男として千葉県で生まれた。私立大成中学校(現千葉県立長生高等学校)を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業、翌年9月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、島風水雷長を経て、水雷学校専攻科で学んだ。綾波水雷長を経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を卒業する。 沼風艦長、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官、響艦長、海大教官、軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。海軍省軍務局第1課付、同課局員などを歴任し、軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。
佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 … 佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 - 1990年(平成2年)3月14日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第2代航空幕僚長。海兵50期・海大32期。帝国海軍での最終階級は海軍大佐。自衛隊での最終階級は航空幕僚長たる空将。 現在の愛媛県新居浜市で出生。父は教員・佐薙喜志太。1919年(大正8年)3月、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業(50期。卒業席次は19位)。 1923年(大正12年)9月、海軍少尉に任官。1925年(大正14年)12月、海軍中尉。1926年(大正15年)3月、第4期偵察学生。
鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月… 鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月11日 - 1944年(昭和19年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 福島県出身。医師・鹿岡貫治の四男として生れる。旧制石川中学校を経て、1921年7月、海軍兵学校(49期)を卒業。皇族2名を除いた席次は172名中5番。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を首席卒業し、「加古」分隊長、アメリカ駐在(イェール大学)、「夕霧」航海長、「夕凪」水雷長、「羽黒」分隊長などを経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を首席で卒業。 軍令部出仕、「嵯峨」艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀、海軍省軍務局第1課局員などを歴任し東條英機首相秘書官となった。
久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治3… 久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治34年〉2月2日 - 1959年〈昭和34年〉12月7日)、または久邇 朝融(くに あさあきら)は、日本の旧皇族、海軍軍人。久邇宮第3代当主。官位は海軍中将大勲位功三級。香淳皇后の兄、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたる。 1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第1王子として誕生し、2月9日に朝融と命名された。 1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった。4月19日に成年式が執り行われた。同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。
長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29… 長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29日 - 1967年(昭和42年)4月17日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第2代海上幕僚長。海兵49期、海大甲種30期。 福島県福島市出身。福島県立福島中学校(現・福島県立福島高等学校)を経て、海軍兵学校に進む。海軍時代は主に人事畑を歩む。 戦後、公職追放を経て、山本善雄元少将、保科善四郎元中将、野村吉三郎元大将のラインで海軍再建計画を進める。これが後にY委員会に発展、同委員会において渉外及び制度、機構、定員等の立案する部門を担当する。海上幕僚長に就任後は掃海隊、練習隊群、需給統制隊、海上訓練指導隊、術科学校、遠洋航海など今日の海上自衛隊の骨格となる部門を次々に発足させ、海上自衛隊の実質的な開祖とされる。
和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日… 和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日)は、日本の海軍軍人、僧。最終階級は海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。二男三女の父。僧名は恒阿弥。 和智熊太の養子となる。横須賀中学を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業。海軍大学校選科学生の時に、東京外国語学校にてスペイン語を学んだ。この学生時代の休暇中に陸軍騎兵第一連隊付になり、馬術を修める。1931年、1932年の二度、海軍通信学校高等科学生として学ぶ。「大泊」航海長、「那珂」通信長などを歴任。1934年11月、第三艦隊付となり上海に駐在して特務機関に勤務。その後は、東京無線電信所付兼軍令部出仕(大和田傍受所長)、東京通信隊分隊長兼軍令部出仕、練習艦隊参謀などを務める。
横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月… 横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印式に出席した人物でもある。 神奈川県横須賀市生まれ。横山家は高知県で農業を営んでいたが長男であった父・横山傳は海軍兵学校(20期)に進み、日清戦争及び日露戦争に出征。黄海海戦で、第三艦隊参謀(海軍少佐)として戦死した。母は黒岩家の出身で、夫の死後は高知に戻り洗礼を受けクリスチャンとなった。当時の遺族扶助料は僅少で生活は厳しかったという。 父の母校である高知県立海南中学校に進んだ。
大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28… 大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1900年1月28日、高知県で大石寛の長男として生れる。中学海南学校(同級生に横山一郎が首席でいた)を経て、1920年7月、海軍兵学校(48期)を卒業。1921年6月、海軍少尉任官。1923年12月、海軍中尉に昇進し、砲術学校普通科学生を拝命。1925年12月、海軍大尉に昇進し、海軍大学校航海科に入学。1926年12月、「浦風」航海長に就任。1928年12月、練習艦隊参謀に就任。1929年12月、「迅鯨」航海長に就任。1930年4月、「対馬」航海長に就任。
神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日… 神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日 - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍兵学校48期生。 1900年(明治33年)1月23日、鹿児島県出水郡高尾野村(現在の出水市)の神焼酎製造(現神酒造)を営む父・神惣士の長男として生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校から1917年海軍兵学校を受けたが不合格となり、同年10月10日、第48期補欠募集で 166名中29番の成績で入校。1919年10月8日、成績優等章授与。1920年7月16日、171名中10番の成績で海兵48期を卒業。海軍少尉候補生となり装甲巡洋艦「浅間」に乗組。 1920年8月21日、練習艦隊遠洋航海( 基隆〜馬公〜香港〜シンガポール〜コロンボ〜ダーバン〜ケープタウン〜リオデジャネイロ〜サントス〜モンテビデオ〜バイアブランカ〜バルパライソ〜イキケ〜カヤオ〜タヒナ〜トラック〜サイパン〜母島〜父島方面巡航の西廻り世界一周)に出発。