スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
板井 麻衣子(いたい まいこ、1984年5月21日 - )は… 板井 麻衣子(いたい まいこ、1984年5月21日 - )は、日本の女性モデルである。BOSSA 2010年(平成22年)度 『ミス・ユニバース・ジャパン』 優勝者として知られる。 1984年(昭和59年)、大分県臼杵市出身。大分県立臼杵高等学校を経て、上智大学外国語学部ポルトガル語学科卒業。 大学卒業後は公務員となり、大分市役所教育総務課に勤務していた。2009年(平成21年)12月5日、ミスコンテスト、2010年度 『ミス・ユニバース・ジャパン』の、11人のファイナリストに入選、さらに翌年3月9日に行われた日本最終選考会で、2010年度 ミス・ユニバース・ジャパンに選出された。大分市役所は、コンテスト途中の2009年12月を以って退職している。
徳丸 哲史(とくまる さとし、1973年8月9日 - )は、… 徳丸 哲史(とくまる さとし、1973年8月9日 - )は、大分県出身の元社会人野球選手(投手)。右投右打。 臼杵高では2年夏にエースとして県大会ベスト4、3年夏は県大会決勝へ進むが柳ヶ浦高の岡本克道と投げ合って敗れた。明治大学に進学、野球部でプレーした。3年次には春のリーグ戦で優勝に貢献する活躍を見せている。高校からの2学年先輩に鳥越裕介がおり、同期にはバッテリーを組んだ野村克則や中村豊が、1学年下に筒井壮、2学年下に川上憲伸らがいた。 大学卒業後の1996年に三菱自動車川崎に入社。チームのエースとして同僚の谷村逸郎らと投手陣の屋台骨を支え、第70回都市対抗野球では東芝の補強選手として、第71回・第74回・第76回は自チームで優勝に貢献した。
鳥越 裕介(とりごえ ゆうすけ、1971年7月1日 - )は… 鳥越 裕介(とりごえ ゆうすけ、1971年7月1日 - )は、大分県臼杵市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 愛称は「トリさん」「ゴエ」。 現役引退後は福岡ソフトバンクホークス・千葉ロッテマリーンズでコーチ、二軍監督を務めた。その後は野球解説者として活動したのち、2025年シーズンからは埼玉西武ライオンズの一軍ヘッドコーチを務める。 大分県立臼杵高等学校を経て明治大学へ進学。大学時代は「3番・遊撃手」として活躍し、1991年の第20回日米大学野球選手権大会、1993年の第22回日米大学野球選手権大会おいては小久保裕紀や井口資仁らとともに全日本メンバーにも選ばれる。リーグ
広瀬 真二(ひろせ しんじ、1965年3月17日 - )は、… 広瀬 真二(ひろせ しんじ、1965年3月17日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 臼杵高から、九州産業大学へ進むも中退し社会人野球のあけぼの通商入りするが、解散し九州三菱自動車を経て、1988年オフにドラフト外で福岡ダイエーホークスへテスト入団。 一軍公式戦への出場がないまま、1990年限りで現役を引退。引退後は、球団に残り打撃投手を務めた。 2005年に大分ソーリンズ野球倶楽部のテストに合格し、最年長選手となった。2006年に酒気帯び運転などの罪で逮捕。
三浦 雅子(みうら まさこ、1959年11月29日 - )は… 三浦 雅子(みうら まさこ、1959年11月29日 - )は、日本の声優。大分県臼杵市出身。アーツビジョン所属。 大分県臼杵市生まれ。中学時代はテニス部に所属、高校時代は陸上部のマネージャーをしていた。大分県立臼杵高等学校卒業後、幼稚園の先生を目指して、神戸市の夙川学院短期大学幼児保育科へ入学。テレビアニメ『あらいぐまラスカル』を見たこと、子供向けオペレッタを卒業制作で自作自演したことから芝居を志すようになり、声優の勝田久による勝田話法研究所の声優講座を受講し、短大卒業後には上京して1980年に俳協付属養成所に入所した。入所10か月でオーディションで合格し、養成所在籍中だった1981年にテレビアニメ『タイムボカンシリーズ ヤットデタマン』の姫栗コヨミ役でデビュー。
吉田 敏浩(よしだ としひろ、1957年9月11日 - )は… 吉田 敏浩(よしだ としひろ、1957年9月11日 - )は、日本のジャーナリスト。 大分県臼杵市出身。大分県立臼杵高等学校、明治大学文学部卒業。在学中は明治大学探検部に所属。1985年3月から1988年10月まで、ビルマ(現ミャンマー)北部のカチン人などの少数民族を長期取材し、マラリアに感染して生死の境をさまよう。その長期取材の記録をNHK番組「回想のジャングル」で発表。記録をまとめた「森の回廊」を出版し、第27回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。「赤紙と徴兵」(彩流社)で第2回いける本大賞を受賞。『「日米合同委員会」の研究』で第60回JCJ(日本ジャーナリスト会議)賞を受賞。戦争のできる国に変わるおそれのある日本の現状について主に取材している。
塩屋 俊(しおや とし、1956年8月5日 - 2013年6… 塩屋 俊(しおや とし、1956年8月5日 - 2013年6月5日)は、日本の俳優・映画監督。 大分県大野郡野津町(現・臼杵市)出身。本名 塩屋 智章(しおや のりあき)。 息子は俳優の塩屋准。実兄は英語指導者の塩屋孔章(しおや よしあき)。 慶應義塾大学文学部教育学科卒業。大学在学中、「モデル・プロダクション」(東京学生英語劇連盟)に参加し奈良橋陽子に師事する。元々演出家志望だったが、1977年に英語ミュージカル『ヘアー』で主役を演じ、その後芸能界へ進出。ネイバーフッド・プレイハウスのメソッド演技のレッスンを受け、以後国内外を問わず、テレビ、映画作品などへの出演を重ねる。 1994年、「塩屋俊アクターズクリニック」を設立(現「アクターズクリニック」)。
川野 雄一(かわの ゆういち、1950年12月16日 - )… 川野 雄一(かわの ゆういち、1950年12月16日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(捕手)。 臼杵高校では、遊撃手であったが捕手に転向。1968年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、大田卓司のいた津久見高に完封を喫する。 強肩と正確なスローイングは定評があり、打撃もシュアで高校時代の通算打率は3割8分。ランニングもベース一周14秒台の俊足であった。 社会人野球の丸善石油の就職が内定していたが、1968年のプロ野球ドラフト会議で西鉄ライオンズから8位指名を受け入団。 プロ1年目の1969年にはジュニアオールスターにも出場する。1970年に一軍に上がり、1973年、1974年にはそれぞれ10試合に先発マスクを被るが、宮寺勝利、片岡新之介らの壁を破れず、1975年限りで現役を引退した。
重野 安正(しげの やすまさ、1941年12月1日 - 20… 重野 安正(しげの やすまさ、1941年12月1日 - 2021年4月9日)は、日本の政治家。従四位。衆議院議員(3期)、大分県議会議員(7期)、社会民主党幹事長(第6代)、同国会対策委員長(第6代)を歴任。 1962年、農業改良普及員として大分県庁に入庁。その後、労働組合活動に没頭するようになり政治に目覚めた。自治労大分県職員連合労働組合の加盟労組である大分県職員労働組合(大分県職労)から大分県議会議員に転身。2000年、大分2区から衆議院議員に立候補し比例復活で初当選。 国政では、社会民主党の国会対策委員長を経て幹事長に就任した。民社国連立政権下でも引き続き幹事長を務め、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画担当)として入閣した党首の福島瑞穂に代わり党務全般を指揮した。
和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009… 和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009年6月22日)は、大分県臼杵市出身(鹿児島県生まれ)のプロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ・監督、評論家。 1955年から1956年までの登録名は和田 博美。 鹿児島で生まれたが、父親の転勤で幼少時に臼杵へ転居。小学校5年から捕手となり、臼杵高校でも野球部に入部するが、父が「息子を医者にさせたい」と考えており一旦退部。後に「血を見るのは苦手だった」という事情で野球部に復帰。捕手として2年次の1953年に秋季九州大会へ進むが、1回戦で長崎商に延長15回サヨナラ負け。3年次の1954年も夏の甲子園県予選を勝ち抜き東九州大会に進出するが、1回戦で黒木基康のいた高鍋高に完封を喫し、甲子園には届かなかった。
和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009… 和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009年6月22日)は、大分県臼杵市出身(鹿児島県生まれ)の元プロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ・監督、評論家。
下川 辰平(しもかわ たっぺい、本名;下川 辰典<しも… 下川 辰平(しもかわ たっぺい、本名;下川 辰典<しもかわ ときふみ>、1928年12月11日 - 2004年3月25日)は、日本の俳優。福岡県福岡市出身。武蔵野美術大学中退。
巌 浩(いわお ひろ、1925年 – 2019年6月12日)… 巌 浩(いわお ひろ、1925年 – 2019年6月12日)は、大分県出身の編集者。 書評紙『日本読書新聞』の黄金時代の編集長、雑誌『伝統と現代』の編集・発行人として知られる。 おさない頃におじ(父の兄弟)の、大分県津久見市の西教寺住職の巌義円(元津久見町長・市長、元大分県議会副議長)の養子となる。臼杵中学を卒業。 1942年に鹿児島の旧制七高に入学。のちに政界の黒幕といわれた四元義隆が柔道部の先輩にいた。1944年9月に東京大学に入学。だが同年12月に召集され、国内で陣地構築を行い、終戦を迎える。 戦後、復学して東京大学文学部卒業後の1949年、田所太郎が編集長をつとめていた『日本読書新聞』(刊行元:日本出版協会)に入社。
合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年… 合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年)5月22日 – 1986年(昭和61年)12月25日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県北海部郡一尺屋村(佐賀関町を経て現大分市)の農家に生まれる。臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を経て、1943年(昭和18年)大分高等商業学校を卒業。海軍飛行予備学生となり、海軍中尉で解員(復員)し帰郷した。 1946年(昭和21年)一尺屋農業会に務めた。その後、佐賀関農業協同組合長、大分県果実農協連常務理事、同県経済農業協同組合連合会会長、全国購買農業協同組合連合会理事、全国農協観光協会理事、大分協和飼料取締役、東九州協同食品取締役、大分協同建設事業団代表取締役、大分陸運社長などを務めた。
小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1… 小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1999年11月16日)は、大分県津久見町(現・津久見市)出身のプロ野球選手、高校野球指導者。2020年現在、九州(沖縄除く)で唯一、春夏の甲子園大会で優勝を経験している高校野球監督。 1921年7月7日、津久見町に生まれた。少年時代から野球センスが高く、1933年に開催された北海部郡少年野球大会ではエースとして、津久見小学校を優勝に導いた。津久見小学校卒業後、臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に入学してここでもエースとしてチームを引っ張ったが、甲子園の壁は厚く、遂に在学中に出場を果たす事は出来なかった(大分県予選に出場していたが、1936年夏は大分商業(現・大分県立大分商業高等学校)に1-19、1937年夏は大分工業(現・大分県立大分工業高等学校)に4-8といずれも1回戦で大敗している)。
木梨 鷹一(きなし たかかず、1902年(明治35年)3月7… 木梨 鷹一(きなし たかかず、1902年(明治35年)3月7日 - 1944年(昭和19年)7月26日)は、日本の海軍軍人。海兵51期。伊19潜水艦長として、アメリカ海軍の正規空母ワスプを撃沈した武勲で知られる。最終階級は海軍少将。 大分県出身。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を経て海軍兵学校(51期)に入校。海兵51期の同期生には、クラスヘッドの樋端久利雄・大井篤・実松譲・井浦祥二郎・稲葉通宗ら著名な者が多い。木梨の兵学校入校席次は150番であったが、1923年(大正12年)7月の卒業時の席次は255名中255番と最下位であった。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。 帝国海軍では、兵学校卒業席次を基礎とする「ハンモックナンバー」が進級・補職に大きく影響した。
柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3… 柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3月1月 - 1981年(昭和56年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、大分県北海部郡佐賀関町長。 大分県北海部郡佐賀関町(現大分市)で、海産物問屋「かしわや」に生まれる。1909年(明治42年)臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を卒業。1913年(大正2年)第七高等学校造士館に進学し、1916年(大正5年)中学校以上の在学生の親睦と町発展のための「摘星郷友会」を立上げ会長に就任した。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 卒業後、朝日信託 (株) に入社し、昭和恐慌を迎えて帰郷した。1930年(昭和5年)に佐賀関町助役に就任し、1930年(昭和6年)同町長となり4期在任した。
庄武 憲太郎(しょうたけ けんたろう、1893年2月22日 … 庄武 憲太郎(しょうたけ けんたろう、1893年2月22日 - 1952年5月27日)は、昭和時代戦前の日本の作詞家、歌人、旧制中学校教諭。号は春鳥(しゅんちょう)。大分県出身。 1893年(明治26年)2月、大分県西国東郡朝田村(現在の杵築市大田地区)の農家に四人兄弟の長男として生まれる。小学校を卒業後、田原村の準教員養成所を経て西国東郡高田町(現在の豊後高田市)で代用教員を務め、大分師範学校へ進学する。 大分師範学校を卒業した後は日本大学へ進み国語と漢文を学んだ。帰郷後は県立臼杵高等女学校(現県立臼杵高校)や徳島師範学校、旧制宮崎中学(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)で教諭を務める。旧制宮崎中学在職中の1933年(昭和8年)、宮崎市で開催された祖国日向産業博覧会のテーマ曲募集で応募作「祖国日向の四季」が一等入選となる。
日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - … 日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - 1945年4月25日)は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。 八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。 5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学部理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。 学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斎藤素巌と共に構造社を結成。
野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 -… 野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。「臼川」(きゅうせん)と号した。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者。 1883年、大分県臼杵市生まれ。臼杵中学、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。 東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる。1909年に法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職)。
三遊亭 栄馬(さんゆうてい えいば)は、落語家。