小澤 諒祐(こざわりょうすけ、2004年〈平成16年〉4月2… 小澤 諒祐(こざわりょうすけ、2004年〈平成16年〉4月27日 - )は、日本の起業家、ドローンパイロット、カメラマン。 愛知県江南市PR大使。 2004年、愛知県江南市出身。ラジコン全般が好きな父親の影響で、幼い頃からラジコンカーやラジコン飛行機で遊んでいた。ドローンとの出会いは小学5年生の時で、当時ドローンはアメリカから入ったばかりだった。13歳の時、レースで初入賞。スポンサー企業が8社にまで増え、収入が得られるようになると、中学3年で個人事業主として起業。2020年、誠信高等学校に入学。入学時に活動の事を伝え、仕事で学校を休むこともあるなどの事情を理解してもらった事で入学に至った。 2022年3月末、「ドローンムービー世界大会」で優勝。
下京 慶子(しもきょう けいこ、1992年8月26日 - )… 下京 慶子(しもきょう けいこ、1992年8月26日 - )は、日本の女優、映画プロデューサー、ドローンパイロット。鹿児島県鹿屋市出身。幼少期を奄美大島で過ごす。身長162cm、体重47kg。 2016年、映画制作の勉強と同時に俳優業をスタートさせる。カメラマンアシスタントとして行っていたドローンによる空撮の依頼が増え、近年のドラマでは業界初の俳優兼 ドローンパイロットとしての参加を果たす。 日中合作ドラマ『逃亡料理人ワタナベ』のスピンオフ企画「湯けむり下京」では、自ら出演をしながら撮影・編集を担当。 映画『たぶん』で初の映画プロデュースを務めた後、『MIRRORLIAR FILMS』へも参加。
中嶋 大祐(なかじま だいすけ、1989年1月29日 - )… 中嶋 大祐(なかじま だいすけ、1989年1月29日 - )は、日本の元レーシングドライバーで現在はパイロット。愛知県岡崎市出身。 トヨタの育成入りした一貴に対し、「兄と一緒のところは嫌だ」として父と同じホンダの育成プログラムに入った。一時期は父同様、エプソンのサポートも受けていた。マネージメントは中嶋企画が行った。 父いわく「筋は兄より良かったかもしれない」とのことであったが、日本での活動がナカジマレーシングの低迷期と重なっていたこともあり、GT・フォーミュラとも優勝を挙げることができなかった。2019年11月24日、富士スピードウェイで行われたSUPER GT/ドイツツーリングカー選手権(DTM)の特別交流戦 レース2予選においてトップタイムをマーク後、インタビューで電撃的にこのレース限りでのドライバー引退を発表した。
サニー横山(サニーよこやま、愛称「Sunny」、本名:横山真… サニー横山(サニーよこやま、愛称「Sunny」、本名:横山真隆、1976年4月 - )は、日本のパイロット。島根県松江市美保関町出身。実家は美保神社の社家。 1998年カリフォルニア州にある航空学校アルプスナイスエアに入校。事業用、多発、計器飛行、飛行教官のライセンスを習得。2000年からアルプスナイスエアのインストラクター。同校を訪れていたロック岩崎と出会いエアショーパイロットを志す。 エアロック・エアロバティックチームに所属し、エアショーパイロットとして活動。 各地のイベントでフライトを実施していた。
室屋 義秀(むろや よしひで、1973年1月27日 - )は… 室屋 義秀(むろや よしひで、1973年1月27日 - )は、日本のパイロット。福島県福島市在住。2002年に活動を開始した競技志向型(エアロバティックス)エアショーチームのメインパイロット。2009年からレッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップにアジア人として初めて参加し、2017年に年間総合優勝に輝いた。 幼少時代、『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイに憧れ、パイロットを目指す。中央大学杉並高等学校卒業。中央大学文学部入学後、航空部に所属し、グライダーで飛行訓練を開始。 1993年、20歳で渡米し飛行機のライセンスを取得。1995年に兵庫県但馬空港で行われたブライトリング・ワールドカップで帝王ユルギス・カイリスやパトリック・パリスなどの世界最高峰の飛行技術を目の当たりにし、本格的なエアロバティックスの訓練を開始する。
山下 圭(やました けい、1971年 - )は、パイロット、… 山下 圭(やました けい、1971年 - )は、パイロット、元慶應義塾大学野球部の選手。
相澤 理子(あいざわ のりこ、1966年(昭和41年)9月1… 相澤 理子(あいざわ のりこ、1966年(昭和41年)9月17日 - 1998年(平成10年)9月23日)は宮城県出身の女性パイロット。本名は柴田理子(しばた のりこ)、旧姓相澤。塩竈市生まれ仙台市育ち。21歳で事業用操縦士の免許を取得し、当時最年少の女性プロ・パイロットとして注目された。元「みやぎ夢大使」。 父を交通事故で亡くした高校時代にパイロットを志す。東北航空大学校の修了生としてサクラメント (カリフォルニア州)のパターソン飛行学校へ留学。この間、東北航空大学校が豊田商事の詐欺事件に絡んで人手に渡り、理事長も失踪。これにより東北航空大学校に納めた訓練費用の一部が費消して米国への送金が滞り、一時は飛行訓練の継続も危ぶまれたが、東北航空大学校校長の私費援助などで辛うじて再開にこぎつけ、約一年がかりで事業用パイロット免許(米国限定)を取得した。
章子・チトー(Akiko Tito、1965年 - )は、日… 章子・チトー(Akiko Tito、1965年 - )は、日本人のパイロット、起業家。 東京都出身。シングルマザーとして娘を育てながら、金融業界を中心にシステムエンジニアとしてキャリアを積む。1995年に活動拠点をニューヨークに在住した。アメリカ同時多発テロ事件を契機にロサンゼルスへ移住。2008年にアメリカの実業家デニス・チトーと出会い、2020年に結婚。2020年にSpaceX社と契約し、民間人女性初となる月周回旅行への参加を2022年に発表。82歳のデニス・チトーがSpaceXによる最初の月周回旅行へ挑戦することで話題となり、章子・チトーはStarshipで月を周回する最初の女性の1人となる。
広瀬 裕(ひろせ ゆたか、1962年8月4日 - )は、日本… 広瀬 裕(ひろせ ゆたか、1962年8月4日 - )は、日本の元俳優、声優、実業家、ドローンパイロット。芸能事務所・オフィスカレント代表である。本名、広瀬 和久()。 デビュー当時は本名を名乗っていたが、その後「広瀬匠」の芸名を名乗り、2000年より芸能界引退まで「広瀬裕」に改めていた。 東京都立調布南高等学校卒業。東映テレビプロダクション、東映俳優センター、須山オフィス、シーハートプロモーション、賢プロダクションに所属していた。 高校卒業後、東映アクションクラブ(9期生)に入門。当時、同じ研究生だった唐沢寿明(4期生)らと共に日夜稽古に明け暮れた。高校時代は体操選手だったことを活かしスタントマンを志望していたが、後に俳優にシフト。
植木 義晴(うえき よしはる、1952年(昭和27年)9月1… 植木 義晴(うえき よしはる、1952年(昭和27年)9月16日 - )は、日本の実業家、操縦士、元俳優、元日本航空株式会社会長。 京都府出身。父は昭和期の剣戟映画の大スターであった俳優の片岡千恵蔵で、千恵蔵が49歳の時に生まれた子である。5人兄弟の4番目。実兄に植木基晴、実姉に女優の植木千恵がいる。1956年からの3年間、『黒田騒動』(1956)『赤穂浪士 天の巻 地の巻』(1956)『大菩薩峠 第二部』(1958)『大菩薩峠 完結篇』(1959)など子役としての映画出演もあるが、演技でうまく泣けなかった時に、千恵蔵から頬を叩かれたのをきっかけに俳優を辞めた。 京都教育大学附属高等学校卒業後、慶應義塾大学法学部を1年で中退し航空大学校に入学。
ロック岩崎( - いわさき、本名:岩崎 貴弘(いわさき たか… ロック岩崎( - いわさき、本名:岩崎 貴弘(いわさき たかひろ)、1951年11月28日 - 2005年4月21日)は、元航空自衛官、エアショーパイロットである。群馬県勢多郡赤城村(現:渋川市)出身。曲技飛行の第一人者として知られた。 1951年11月28日生まれ。1970年3月、千葉県立船橋高等学校卒業。 1970年4月、航空自衛隊に航空学生第26期として入隊。F-86F、F-104、F-15などのジェット戦闘機操縦者として飛行任務に従事する。ニックネームの「ロック」は「岩崎」の岩を英訳した在官時代のTACネームに由来する。 また、F-15戦闘機で低高度での「ナイフエッジ」飛行を成功させたほか、「横転コルク抜き」という独自の空戦機動を編み出したことでも有名である。
大塚 美枝子(おおつか みえこ 1950年 - )は、日本の… 大塚 美枝子(おおつか みえこ 1950年 - )は、日本の実業家・パイロット。 1950年東京都生まれ。和光大学人文学部卒。大学時代からモデルの仕事をやりながら単身ハワイに渡り日本女性初の事業用双発機ライセンス取得、後にサークルレインボーエアーを設立。 父親は元特攻隊員である。ホノルル日本人商工会議所初女性会頭、ハワイ商工会議所元理事、国連女性開発委員会、日米協会、など多数の団体に所属。 2. 『女は25才からがおもしろい』(1986年)主婦の友社 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山形和行(やまがた かずゆき、1948年 - )は、日本の航… 山形和行(やまがた かずゆき、1948年 - )は、日本の航空会社・全日本空輸の元操縦士・機長。ユニークな機内アナウンスをする山形機長として知られている。 1948年、大阪府布施市(現・東大阪市)出身。 航空大学校を卒業し、1971年に全日本空輸に入社。同年、副操縦士となる。1976年、機長資格を取得。国内線を主に担当していた。1984年ごろからユニークな機内アナウンスをするようになる。「本日も世界で最も安全な翼ANAをご利用いただきありがとうございます」、「天使のいたずらで飛行機が揺れることもございますが、飛行の安全性にはまっっったく影響ございません」といった特徴的なアナウンスを行なっていた。
荒木 幸雄(あらき ゆきお、1928年〈昭和3年〉3月10日… 荒木 幸雄(あらき ゆきお、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1945年〈昭和20年〉5月27日)は、群馬県桐生市出身の大日本帝国陸軍軍人、操縦士、陸軍特別攻撃隊第72振武隊員。 「子犬を抱いた少年兵」(右図)の写真で知られる。 1928年(昭和3年)3月10日、桐生市宮前町で菓子屋を営む荒木丑次・ツマの次男として生まれる。 1940年(昭和15年)3月、桐生市西小学校を卒業。翌年、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。 1943年(昭和18年)3月5日、海軍飛行予科練習生(予科練)試験に合格するも、その後の入隊時の身体検査で不合格となった。そのため体を鍛えて同年8月に陸軍少年飛行兵(15期乙)試験を受けて合格。
大黒 繁男(おおぐろ しげお、1925年(大正14年)5月2… 大黒 繁男(おおぐろ しげお、1925年(大正14年)5月20日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本海軍の戦闘機パイロット。初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」に五番機として参加し、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。このときの敷島隊の攻撃でアメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈した。 小学校の頃は何度も級長を務め、成績は一番であった。だが彼は、学業成績のことを両親には絶対言わず、通信簿も隠していた。貧しくて兄弟姉妹も多い家庭のため、進学は経済的に厳しく、両親を悩ませたくなかったからだという。教師の説得と父親の配慮で1年だけ新居浜工業学校に通い、住友機械工業に就職した。
佐々木原 正夫(ささきばら まさお、1921年(大正10年)… 佐々木原 正夫(ささきばら まさお、1921年(大正10年)11月17日 - 2005年)は、第二次世界大戦時における大日本帝国海軍のエース・パイロット。甲飛4期、飛練9期。最終階級は海軍飛曹長、ポツダム昇進により少尉。 青森県出身。1935年(昭和10年)4月、静岡県立沼津中学校に入学。後輩にのちに回天特攻隊隊員となる和田稔がいる。在学中の1938年(昭和13年)、クラスメートらとともに陸上競技部内に「器械体操倶楽部」を立ち上げた。 卒業後の1939年(昭和14年)4月、甲種飛行予科練習生4期生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。予科練での一年半の基礎教育を終えて1940年(昭和15年)9月、第9期飛行練習生となり、戦闘機搭乗員としての教程を経て、開戦直前の1941年(昭和16年)9月、空母「翔鶴」乗組。
豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日… 豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日 - 1944年〈昭和19年〉8月5日)は、日本の海軍軍人、戦闘機搭乗員。最終階級は三等飛行兵曹。第57期普通科信号術練習生、丙飛7期卒業。 第二次世界大戦でのオーストラリアにおける日本兵捕虜第一号であり 、カウラ事件(日本兵脱走事件)の中心的人物でもある。 香川県三豊郡勝間村(三豊市高瀬町)出身。農家、豊島元兵衛とコマツの三男として生まれる。勝間尋常小学校(現三豊市立勝間小学校)、高等科、青年訓練所を経て戦闘機搭乗員を志し1938年(昭和13年)、佐世保海兵団に入団。普通科信号術練習生、長良乗組、陸戦隊、千歳・加賀乗組を経て、第五十六期操縦練習生に合格。
宮辺 英夫(みやべ ひでお、1919年1月 - 1978年1… 宮辺 英夫(みやべ ひでお、1919年1月 - 1978年10月)は、日本の陸軍軍人、パイロット。 最終階級は陸軍少佐。加藤隼戦闘隊の最後の戦隊長として知られる。 熊本県に生まれる。1936年(昭和11年)に旧制玉名中(熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、1939年(昭和14年)に陸軍士官学校を52期で卒業。 陸軍士官学校卒業後、明野陸軍飛行学校へ進み、卒業後は飛行第5戦隊へ配属。その後、明野陸軍飛行学校教官となる。1943年(昭和18年)2月に飛行第六十四戦隊(いわゆる加藤隼戦闘隊)第2中隊長関二郎大尉が戦死したことに伴い、第2中隊長になる。 1945年(昭和20年)4月26日には飛行第六十四戦隊戦隊長となり、クラコール飛行場にて終戦を迎えた。
金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月… 金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月1日 - 1942年(昭和17年)12月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍中尉。 1916年(大正5年)10月1日、宮崎県宮崎市に生まれる。1934年(昭和9年)2月、陸軍少年飛行兵の第1期生として所沢陸軍飛行学校に入校した。1935年(昭和10年)11月に卒業すると、ついで明野陸軍飛行学校で戦闘機の戦技教育を受け、1936年(昭和11年)2月に飛行第8連隊(台湾・屏東)へ配属された。 1937年(昭和12年)7月に支那事変が勃発、8月中旬に戦火が上海に拡大すると、飛行第8連隊の1コ戦闘機中隊を基幹に独立飛行第10中隊(九五式戦闘機装備)が編成され上海戦線に投入された。
田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 200… 田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 2008年〈平成20年〉3月10日)は、日本陸軍航空隊の戦闘機操縦者(パイロット)。「日本革命菊旗同志会」幹部。晩年に日本文化チャンネル桜設立発起人、設立後顧問。「誇りある日本をつくる会」初代会長。 飛行教官として特攻要員を育成、多くの未来ある若者を死地に送り出した経験から、戦後は一貫して特攻戦死者に対する正しい理解を広めるため活動した。 特攻隊員たちの遺した「あとを頼みます、日本を良い国にして下さい」という言葉に従い、「誇りある日本をつくる会」を設立、また歴史小説の第一人者である山岡荘八の指導を受け、特攻にまつわる著作を刊行した。その際、自身も多くの特攻を見送った経験のある山岡から「特攻は崇高すぎて、私には書けない、君が一生かかっても書くべきだ」と言われた。
宮野 善治郎(みやの ぜんじろう、1915年(大正4年)12… 宮野 善治郎(みやの ぜんじろう、1915年(大正4年)12月29日 - 1943年(昭和18年)6月16日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 海兵65期。最終階級は海軍中佐。 大阪府に生まれる。中河内郡龍華尋常小学校(現・八尾市立龍華小学校)、旧制大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)を経て、1938年(昭和13年)に65期生として海軍兵学校を卒業した。 八尾中学は野球がさかんで、宮野の在校中に春4回、夏2回の甲子園出場を果たした。同期にはのちに読売巨人軍の初代永久欠番「4」となる黒澤俊夫などもいたが、宮野は家庭の事情でクラブ活動には参加できず、官費で学べる海軍兵学校をめざす。
岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 … 岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 - 没年不詳)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練38期。最終階級は少尉。 福岡県福岡市出身。旧制修猷館中学卒業後、海兵団に入団。搭乗員を志し、1937年(昭和12年)3月10日、操縦練習生となる。同期生に坂井三郎(首席)。 同年11月30日、操縦練習生課程を修了し、佐伯海軍航空隊に配属された。その後大村海軍航空隊を経て、昭和13年7月にいよいよ戦線を担う第十二航空隊に配属、中国大陸で任務に就いたものの、空戦の機会にあいまみえることはなかった。 翔鶴飛行機隊に転属して間もなく太平洋戦争開戦を迎え、ハワイ・真珠湾攻撃で母艦直衛任務を実施。
黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913… 黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日)は、大日本帝国海軍少佐、戦闘機操縦士、政治家。 群馬県上野村村長を10期連続40年務めた。日本航空123便墜落事故の事故処理に尽力したことで知られる。また「御巣鷹の尾根」の命名者でもある。称号は上野村名誉村民。正五位、旭日重光章。 1913年(大正2年)12月23日、群馬県多野郡上野村の酒造業を営む家に生まれた。父は後に上野村村長となっている。群馬県立富岡中学校を卒業。 1932年(昭和7年)4月に海軍兵学校に第63期生として入隊した。1936年(昭和11年)、兵学校を卒業し、アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た。
樫村 寛一(かしむら かんいち、1913年(大正2年)7月5… 樫村 寛一(かしむら かんいち、1913年(大正2年)7月5日 - 1943年(昭和18年)3月6日)は、日本海軍の戦闘機操縦士、最終階級は、海軍少尉。「片翼帰還の英雄」として知られる。 香川県善通寺町に生まれた。丸亀中学卒業後、1933年5月、佐世保海兵団入団。1934年(昭和9年)2月に第24期操縦練習生に入隊し、7月に卒業する。日中戦争開始後は第十三航空隊に所属し、上海・南京と転戦した。 1937年12月9日、九六式艦上戦闘機で南昌攻撃の際、中国軍機と接触して左翼の1/3以上を失ったが、600km以上操縦を続けて南京基地に帰還した。帰還の様子は基地に滞在していた従軍報道員によって撮影された。
磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12… 磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12日 - 1993年(平成5年)6月20日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は大尉。 愛媛県松山市出身。松山中学卒業後、海兵団を経て1932年(昭和7年)10月、操縦練習生となる。同期生に半田亘理。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、龍驤飛行機隊に配属される。そこでのちに撃墜王となる赤松貞明と知り合い、親交を深める。のち内地に転属し、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊附教官。この時の教え子の一人に、岩本徹三(操練34期)がいる。 日中戦争(支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)10月、加賀飛行機隊を経て1939年(昭和14年)末より第十二航空隊に配属され桂林攻撃に参加するが、この時よりすでに撃墜王として武名をはせていた赤松や岩本とは異なり、戦線を通じて大きな空戦に恵まれることはなかった。
飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 19… 飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 1941年12月11日)は日本のパイロット。1937年純国産機、神風号によって東京-ロンドン間の飛行に成功した。 長野県南安曇郡南穂高村細萱(現・安曇野市)に、飯沼文五郎の五男として生まれた。飯沼家は庄屋も務めた豪農だった。3歳で母と死別し、以後祖母に育てられる。 1924年(大正13年)、長谷川清澄(豊科町出身で日本初の一等操縦士)がサルムソン 2Aに搭乗して各務原飛行場から松本市に飛行している途中に南穂高村上空で旋回飛行をおこなった光景を小学校の教室から目撃し、飛行機への憧れを抱く。 1931年(昭和6年)3月、旧制長野県松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を卒業し、第11期逓信省陸軍委託航空機操縦生として所沢陸軍飛行学校に入学した。
半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22… 半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22日 - 1948年(昭和23年)10月21日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は中尉。黒岩利雄とならび、単機格闘戦の名手と謳われた撃墜王である。 福岡県久留米市に生まれる。1928年(昭和3年)、海軍を志し佐世保海兵団入団。艦船勤務を経て1932年(昭和7年)10月、第19期操縦練習生となる。同期生に磯崎千利、高橋憲一、田中平、五島一平。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、戦闘機専修。空母「龍驤」飛行機隊に配属される。 その後、大村に転属。在任中、愛国号献納式典で祝賀飛行に参加した。当時部下だった田中国義はその練習中、編隊スローロール等で苦労していたが、半田機は「定位置を微動だにしない、ついて行くのに汗をかいた」と回想する。
馬淵 テフ子(まぶち ちょうこ、1911年(明治44年)6月… 馬淵 テフ子(まぶち ちょうこ、1911年(明治44年)6月5日 - 1985年(昭和60年)2月23日)は、昭和初期の日本の女性パイロット。女学校の体育教師を務めながら、1934年に二等飛行機操縦士資格を取得。同年に満州国への飛行を敢行し、西崎キクと並んで日本女性飛行士として初の海外渡航を実現した一人となった。NHK連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルの一人といわれている。 なお、苗字については「馬渕」、名については「てふ子」「蝶子」などの表記ゆれがある。 1911年(明治44年)6月5日、青森県弘前市において、職業軍人の父・馬淵常義と母・ナヨの長女として生まれる。父は東京出身で、弘前はその任地であった。
生田 乃木次(いくた のぎじ、1905年(明治38年)2月3… 生田 乃木次(いくた のぎじ、1905年(明治38年)2月3日 - 2002年(平成14年)2月22日)は、日本海軍士官・戦闘機操縦士。福井県出身。日本軍のパイロットとして初めて敵機を撃墜した人物である。 1905年(明治38年)2月3日福井県に生まれた。「日露戦争で活躍した乃木将軍に続け」という意味で乃木次と命名された。1924年海軍兵学校52期卒業、1929年19期飛行学生修了。 1931年空母「加賀」に戦闘機隊分隊長として乗組み。1932年1月第一次上海事変勃発に伴い「加賀」は上海沖に出動、飛行隊は公大基地に進出した。2月22日、生田は三式艦上戦闘機の小隊3機を率い、艦攻隊3機とともに出撃、蘇州上空において、アメリカ人義勇兵のロバート・ショートの操縦するボーイング218と交戦し、撃墜した。
中尾 純利(なかお すみとし、1903年2月25日 - 19… 中尾 純利(なかお すみとし、1903年2月25日 - 1960年4月26日)は日本のパイロットである。1939年(昭和14年)8月、世界一周親善飛行を行った純国産機、「ニッポン号」の機長を務めた。 1903年(明治36年)、鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根市)に生まれた。選抜試験に合格し航空局委託操縦生の第一期生として1921年(大正10年)1月に所沢陸軍飛行学校へ入学。同年9月に首席で卒業すると、三菱重工業のテストパイロットとなった。1928年(昭和3年)には日本陸軍の次期戦闘機の競争試作に応募した陸軍三菱隼型試作戦闘機(1MF2)を操縦し、所沢飛行場での試験飛行で急降下中にパラソル翼が機体から外れ、中尾はパラシュートを使って脱出した。
渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月1… 渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月12日 - 1926年〈大正15年〉4月6日)は、大正時代に活動した日本の民間パイロット。日本の定期郵便飛行における初の犠牲者であり、また関西初の滑空飛行を行った人物とされる。 兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市)に生まれる。志方尋常高等小学校卒業後播州鉄道会社勤務を経て1922年(大正11年)12月13日に日本航空輸送研究所に入所し、1923年(大正12年)2月21日付で飛行機操縦士免状(三等)の交付を受けて同社の郵便飛行事業に従事した。1924年(大正13年)11月27日に二等飛行機操縦士に昇格し、定期郵便飛行のほか機体組立整備や操縦士養成、郷土訪問飛行(1925年(大正14年)3月21日)、播丹鉄道全通奉祝全線飛行(同3月22日)などを行った。
安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月… 安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月3日 - 1985年(昭和60年)2月10日)は、日本の政治家、操縦士。衆議院議員(2期)。 愛知県知多郡岡田村(岡田町、知多町を経て現知多市)出身。1916年、名古屋港上空で米飛行士アート・スミスの曲芸飛行を見て航空界を志す。陸軍所沢飛行第四大隊に入り、一等飛行機操縦士となる。陸軍を除隊後、知多郡八幡村(現・知多市)に水上飛行場を開設する。その後、名古屋二見間の定期航空路や和歌山新宮間の航空路を開設する。その一方で1924年に安藤飛行機研究所を開き、所長となり、操縦士、機関士の育成などを行った。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では旧愛知2区(戦前)から無所属で立候補して初当選。
飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう、1897年(明治30年)… 飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう、1897年(明治30年)7月22日 - 1964年(昭和39年)6月10日)は、日本の航空黎明期のパイロット。「亜細亜航空学校」を創立した。 千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)中尾余町に生まれる。 1915年(大正4年)に千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業後、工兵中尉の澤田秀の書生を務める。 1917年(大正6年)12月、帝国飛行協会の第3期飛行機操縦練習生となる。1918年(大正7年)5月10日、東京奠都50年祝賀飛行に参加した。 同年11月16日には帝国飛行協会研究生に進級する。 1919年(大正8年)9月から翌年4月にかけ、群馬県尾島飛行場に出張し、中島知久平の知遇を得る。
後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月… 後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月12日 - 1928年〈昭和3年〉2月29日)は、日本の航空黎明期の民間パイロット。一等操縦士・一等飛行士免許の取得、航空機による旅客輸送、日本一周飛行などにおいて日本初を記録したが、太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死している。 1896年(明治29年)、宮崎県延岡市南町で裕福な商家の四男に生まれる。幼少期より機械に関心を持ち、宮崎県立延岡中学校(現:宮崎県立延岡高等学校)に入るころには蒸気機関つきの精米機や、水上自転車を製作した。航空機に関心を持つようになったのもこの頃という。 1914年(大正3年)、延岡中学校卒業後に上京、三井物産の自動車部門(ヤナセの前身)で無給の工員として働くが、飛行士白戸栄之助に出会ってその助手となり、複葉水上飛行機・白戸式「巌号」を完成させる。
佐藤 章(さとう あきら、1894年〈明治27年〉10月28… 佐藤 章(さとう あきら、1894年〈明治27年〉10月28日 - 1921年〈大正10年〉11月3日)は、大正時代に活躍した日本の民間パイロット。民間飛行家の草分け。章は飛行家になってからの雅号であり、本名は佐藤要蔵。死後、彼のよき理解者のひとりであった東京日日新聞の小野蕪子からは「飛行詩人」と称された。 秋田県仙北郡金沢西根村字下菻沢(後の美郷町)に佐藤平治・富子夫妻の三男として生まれた。佐藤家は、章の祖父金重の代に永苗字帯刀が御免となった地主で、父平治は幼少期に同じ村の佐藤長左衛門家から養子に出され、のちに生まれた金重の娘富子と結婚した。 金沢西根尋常小学校を4年で修了した後、隣りの平鹿郡角間川町(後の大仙市)の高等小学校に2年通った。
市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9… 市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人で、日本海軍の航空草創期のパイロットである。硫黄島の戦いで戦死。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。 佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。旧制唐津中学校を卒業後、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)に海軍兵学校第41期に入校し、1913年(大正2年)に118名中46位の成績で卒業した。1917年(大正6年)12月、第3期航空術学生(飛行学生の前身)となり、1918年(大正7年)12月に卒業し、パイロットの資格を習得。
山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月… 山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月27日 - 1934年(昭和9年)2月1日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。海軍随一の空爆の名手であったが、神兵隊事件で内乱予備陰謀罪に問われ検挙された。最終階級は海軍中佐。
安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)… 安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)4月7日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。 試験飛行中に搭乗機が墜落し他の乗員二人とともに殉職したが、安達らの殉職は海軍搭乗員の日本国内における殉職としては最初の事例となった。最終階級は海軍大尉。 医師安達玄杏の五男として現在の愛媛県内子町に生まれる。松山中学を経て海軍兵学校36期に進んだ。36期の入校試験は2649名の志願者に対し正規合格者は192名(他に補欠合格者8名)で、安達の席次は200名中39番、卒業時は191名中67番であった。1910年(明治43年)1月、少尉任官。 前年の8月には臨時軍用気球研究会が発足し、空の軍事利用について研究が始まった。
武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27… 武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。第一次世界大戦において、日本海軍機の初出撃を行った五名のうちの一人である。のち試験飛行中に殉職。最終階級は海軍大尉。 鳥取県東伯郡三徳村にて武部真貫、たか子夫妻の次男として生まれる。1893年4月1日三徳村立鼎尋常小学校三徳分教場に入学、1897年3月に卒業し補修科へ進み、1899年に河南高等小学校へ入学、1901年3月卒業後、同年4月5日鳥取県立第一中学校へ入学し、1906年3月に抜群の成績で卒業する。卒業後、海軍兵学校の試験を受け、同年9月1日海兵37期生として入校する。