板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月… 板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月15日 - 昭和26年(1951年)7月16日)は、劇作家、士族。伯爵板垣退助の孫、鉾太郎の次男。母は松本丑太郎の長女節子(せつこ)。号は青牛。宗旨は曹洞宗。別名は山内守正。
職業が武士:187人
板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月… 板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月15日 - 昭和26年(1951年)7月16日)は、劇作家、士族。伯爵板垣退助の孫、鉾太郎の次男。母は松本丑太郎の長女節子(せつこ)。号は青牛。宗旨は曹洞宗。別名は山内守正。
三鬼 鑑太郎(みき かんたろう、1866年 - 1943年)… 三鬼 鑑太郎(みき かんたろう、1866年 - 1943年)は福島県出身の士族。岩手軽便鉄道の社長及び衆議院議員を務めた。 幕末の半田銀山役人であった三鬼莞の息子として、1866年6月9日(慶応2年4月26日)後の福島県伊達郡桑折町で出生。旧二本松藩の儒学者である堀退蔵の私塾にて漢学を修めた後、上京して明治法律学校で学ぶ。1888年(明治21年)12月に優秀な成績で卒業。岩手県で官職に就き会計課長、また同県下閉伊郡や和賀郡の郡長などを務めた。その後、花巻と仙人峠を結ぶ花巻軽便鉄道の建設を目指すが、実現には至らず。1914年(大正3年)6月に官職を辞すと、岩手軽便鉄道に常務取締役として招かれ 、後に社長就任。
安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年… 安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年6月12日)- 1935年(昭和10年)1月28日)は、現在の高知県出身の武士、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1864年(元治元年)土佐国土佐郡小高坂村(現高知県高知市)の武士、安藤厳技の長男に生まれる。[要出典] 1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。1904年(明治37年)3月、皇族附武官(守正王附)に就任し、1905年(明治38年)10月、歩兵第49連隊長に転じ、1906年(明治39年)12月、歩兵大佐に進んだ。1910年(明治43年)11月、陸軍少将となり歩兵第5旅団長に就任。
島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈18… 島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈1857年7月16日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は、幕末から明治時代初頭の士族。旧佐土原藩出身。旧藩主家出身でありながら西南戦争では薩軍側に加わり、戦死した。 安政4年(1857年)、佐土原にて誕生する。第11代佐土原藩主・島津忠寛の三男で、母は側室。3歳の時に家老家に当たる町田氏に養子に出される。10歳の時、鹿児島に遊学、翌年さらに東京に移り、勝海舟門下生となる。啓次郎の才能を見抜いた海舟により推薦され、明治3年(1870年)、薩摩藩藩費留学生として兄・大村純雄らと共に渡米、アナポリス、ニューヘイブン (コネチカット州)、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等を学ぶ。
小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(18… 小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(1857年2月15日) - 大正5年(1916年)1月7日)は、明治時代の日本の武士、洋画家。実作者としてよりも教育者として名高い。小山善元の長男であり、小山觀翁の大伯父にあたる。 越後国長岡藩・藩医の惣領。明治2年(1869年)家督相続をして、長岡藩士として出仕(高100石)。廃藩後に地元の長岡洋学校で学ぶ。明治4年(1871年)政治家を志して上京するが、翌年、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に入り、まもなく塾頭になる。同6年、陸軍兵学寮に入り,翌年陸軍士官学校図画教授掛となって、陸軍省に招聘されていたフランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から水彩画法などを学んだ。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2… 丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2年4月28日) - 1922年(大正11年)10月11日)は、日本の武士(会津藩士)、実業家、政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。 会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎。日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎や南清は戦友である。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年… 高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年/安政元年8月15日)- 1910年(明治43年)2月22日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。 会津藩上士(150石)の長男。幼時より英才を発揮し、1868年(明治元年)には数え14歳で会津藩小姓に抜擢され、戊辰戦争を戦った。 慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。
石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7… 石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7年1月20日〉- 1912年〈明治45年〉4月2日)は、日本の武士(姫路藩士)、陸軍軍人。陸士旧1期。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。 姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれる。1855年(安政2年)、安政江戸地震で父と祖母を失う。1869年(明治2年)、開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学ぶ。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)7月、工兵少尉に任官。1878年(明治11年)12月、陸士(旧1期)を卒業した。 後、フランスに留学し、1881年(明治14年)8月、フォンテンブロー砲工校を卒業し翌年に帰国。
有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉… 西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉永6年12月24日) - 1932年(昭和7年)6月1日)は、幕末の会津藩士。明治期の裁判官。白虎隊士として戊辰戦争を戦い、裁判官として大審院判事にいたる。中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の一人。 会津藩士の子として生まれる。父、西川俊治は、禄高6石5斗2人扶持、御書簡所物書勤めである。16歳で戊辰戦争を迎え、白虎寄合二番隊士として8月より越後方面で戦ったが、退却を余儀なくされ、9月6日より会津若松城に戻り三の丸警備にあたる。 戦後静岡藩に留学し、沼津兵学校附属小学校で学ぶ。1878年(明治11年)旧東京大学法学部を卒業。西川は旧東京大学法学部の最初の卒業生の一人であり、同期生6人には河上謹一などがいる。
高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、185… 高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、1854年(安政1年)- 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の武士、検察官。会津藩藩士として戊辰戦争を、別働第二旅団の一員として西南戦争を戦った。姉の高木時尾は照姫附き祐筆で、元新撰組副長助勤斎藤一(藤田五郎)に嫁ぐ。福島県立会津高等学校の創立功労者の一人である。 会津藩高士、家禄300石の高木家に生まれる。高木家は藩大目付を務める家柄であった。会津戦争の当初は伝令を務め、松平容保、定敬兄弟が出陣していた滝沢本陣に危急を報告した。その後年少者で組織された護衛隊に属して篭城戦を戦った。藩降伏後は猪苗代で謹慎生活を送る。この際軍事方水島純の命で同年輩の山川健次郎、赤羽四郎、柴四朗ら五人で謹慎所を脱出し、若松で土佐藩の伴中吉に主君容保、喜徳父子への寛大な措置を嘆願した。
有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉… 有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉永6年9月5日)- 1914年(大正3年)12月15日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡、後の朝日村(現佐賀県武雄市朝日町)で武雄鍋島家家臣・有田(河原)竜左エ門の子息として生まれる。立野元定、草場佩川に師事し漢学を修める。 明治維新を迎え、小学校教員となるが、1886年、同志四名が各々米二百俵を出資して貸金業・甘久共同会社を設立し、同社は後に佐賀銀行の前身の一つ佐賀興業銀行に発展した。 1886年、佐賀県会議員に選出され、県議を五期、また参事会員も務めた。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙おいて佐賀県郡部から出馬して当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員を一期務めた。
高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7… 高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7日(嘉永6年5月1日) - 1920年(大正9年)12月27日)は、日本の江戸~大正時代の武士(鹿児島藩士)・警察官(警察官僚)・政治家。貴族院議員。幼名は半十郎。 薩摩国日置郡市来郷の湊町(鹿児島県日置郡西市来村、市来町を経て現いちき串木野市内)生まれ。高崎親廣の長男。内務省警視庁に入庁。初任は警部補。1876年(明治9年)、同郷の同僚である中原尚雄らと共に、墓参のため帰郷した。実際は、下野していた西郷隆盛の実情を視察するため川路利良大警視の密命を受けたものであった。ところが、西郷の私学校から武器・弾薬を勝手に持ち出したため、私学校の生徒らに捕らえられた。
池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年… 池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年4月5日) - 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。 嘉永6年(1853年)岡山藩家老池田長常の次男として岡山に生まれる。明治3年(1870年)父長常の隠居により家督相続。閑谷学校で山田方谷に陽明学を学ぶ。英田郡長、磐梨郡長、二十二銀行取締役、二十二貯蓄銀行頭取を歴任。明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。大正2年(1913年)3月4日夜、妹婿・花房職居の訃報を聞いて、電話するために商業会議所に向かった際、誤って井戸に落ちて死去。
島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月… 島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月15日)- 1914年(大正3年)5月2日)は、幕末の土佐藩士、明治期の政治家・自由民権運動家・実業家。衆議院議員、高知県会議長。 土佐国吾川郡秋山村(高知県吾川郡秋山村、平和村、春野村、春野町を経て現高知市春野町秋山)で、土佐藩士・島田佐一、亀の長男として生まれる。藩校致道館で学んだ。 1868年(明治元年)致道館砲術取立役に就任し、次いで藩兵小隊司令となる。1875年(明治8年)区会議員となり、同議長、区長兼学区取締を歴任。1880年(明治13年)高知県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。1887年(明治20年)三大事件建白運動で上京して保安条例違反として退去命令を受けた。
石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。
束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)… 束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)は、明治時代の武士(薩摩藩士)、軍人。 現在の宮崎県都城市出身。1877年(明治10年)、15歳で薩摩軍に参加し、西南戦争で戦死した。 熊本市北区(旧植木町)の荻迫薩軍台場跡に墓碑が建立されており、墓碑銘は「東野」と刻まれているが誤記とされている。没後55年を経た1932年(昭和7年)に、当時の陸軍大臣である荒木貞夫による慰霊碑が建立されている。 『田原坂甚句』に歌われる「美少年」のモデルとされるが、モデルは束野一人ではないともされる。
江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 19… 江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 1916年〈大正5年〉11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章。 文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。
鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5… 鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5年8月27日) - 1932年(昭和7年)3月27日)は、日本の武士(徳島藩士)、明治期の政治家、ジャーナリスト、実業家。勲四等旭日小綬章。 近江国甲賀郡水口(現滋賀県甲賀市)で水口藩医師大村純道の次男として生まれた。幕末には徳島藩侍医鹿島家の養子となり、徳島藩に仕えた。明治維新後稲田騒動 (徳島藩家老の稲田邦植が淡路島の分藩を求めたことに対し、徳島藩士が激発した事件)に巻き込まれて藩職を去ったのち、上京して慶應義塾に学ぶ。神戸新報を立ち上げる。 帰淡後、教育・新聞出版事業に携わるとともに、立憲改進党に参加して兵庫県の自由民権運動の中心的存在となっていった。
和久 正辰(わく まさたつ、1852年7月 - 1934年1… 和久 正辰(わく まさたつ、1852年7月 - 1934年11月)は日本の武士。教育学者、理学者。秋山好古を陸軍士官学校へ導いた人物とされる。
丹羽 五郎(にわ ごろう、1852年5月2日(嘉永5年3月1… 丹羽 五郎(にわ ごろう、1852年5月2日(嘉永5年3月14日) - 1928年(昭和3年)9月6日)は、幕末の会津藩士。明治、大正期の警察官、開拓者である。西南戦争では抜刀隊としても戦い、戦後はせたな町の一部となっている丹羽村を開村した。警察官時代は田村五郎と名乗る。 会津藩重臣丹羽家(1000石)の分家に生まれる。曽祖父の丹羽能教は家老であった。父の丹羽族は100石取りの藩士で、戊辰戦争において越後口八十里越方面の兵糧総督として自刃した。丹羽は本家に男子がいなかったため養子として跡を継ぐ。戊辰戦争時は会津藩主・松平喜徳の側近くで仕えたが、この戦いで一族40名以上を失い、従兄弟の永瀬勇次、有賀織之助は白虎隊士として自刃した。
小倉 久(おぐら ひさし、嘉永5年1月15日〈1852年2月… 小倉 久(おぐら ひさし、嘉永5年1月15日〈1852年2月4日〉- 1906年〈明治39年〉11月4日)は、日本の幕末から明治期の武士(沼田藩士)、官僚(官選和歌山・徳島・富山・大分・岐阜県知事、検事)、弁護士、関西法律学校初代校長。 江戸見坂の沼田藩邸で小倉久彝(ひさつね)の長男として生まれた。明治3年(1870年)、大学南校貢進生となり、明治5年(1872年)に司法省明法寮に転入。1876年(明治9年)、岸本辰雄・宮城浩蔵とともにフランスへ留学し、法学者エミール・アコラス(フランス語版)に師事した。1878年(明治11年)に帰国した後、司法省御用掛兼太政官御用掛として民法典編纂に携わり、また司法省法学校速成科の講師となる。
高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4… 高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。 1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4… 山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4年12月8日〉 - 1920年〈大正9年〉5月14日)は、日本の武士(津和野藩士)、明治期の紡績技師・実業家。従五位。 東洋紡(東証プライム)の創業者である。 嘉永4年(1851年)、石見国津和野城下の森町堀内にて津和野藩重臣・清水格亮(大目付、側用人を歴任し、明治維新後は権大参事を務めた)の二男として生まれる。幼名は虎槌または善蔵で、後に丈夫と改めた。4歳の時に同藩士の山辺正義の養子となる。 津和野潘の藩校であった養老館に学んだ後、1870年(明治3年)に藩の奨学制度によって文学修行の命を受け上京。当初は同藩出身の福羽美静の培達塾で学んでいたが、元来洋学を志していたため、西周の育英舎や中村敬宇の英学同人舎に移り英語や洋学を学んだ。
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。
江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年… 江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1915年(大正4年)4月24日)は佐賀藩出身の明治、大正時代の士族、弁護士、政治家、実業家。佐賀新聞の創刊者・初代社長、衆議院議員。本姓は野口。幼名は又四郎。 1851年(嘉永4年)、肥前国佐賀郡大堂村(東川副村、諸富町を経て現佐賀市諸富町)に佐賀藩士、野口惣三の三男として生まれ、のち江副家の養子となった。藩校弘道館に学び17歳で江戸藩邸詰に任ぜられた。 明治維新後に慶應義塾に入り、横浜のヘボン塾に遊学した。慶應義塾在学中の1872年(明治5年)に新聞社を設立するがこれは失敗し、ほどなく廃刊となった。その後1874年(明治7年)、24歳の時に迎えた佐賀の乱では江藤新平率いる征韓党に属している。
遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年… 遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年12月23日) - 明治37年(1904年)6月15日)は、幕末期の武士(会津藩士)、明治期の大蔵官僚、七十七銀行第二代・四代頭取、仙台商工会議所初代会頭。 嘉永4年(1851年)、会津藩士・遠藤清直の長男として江戸に生まれる。幕府の開成所に学んだ後、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いの際には会津軍として歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わりのち敗れて江戸にて謹慎生活を送る。独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学ぶ。大蔵省に銀行事務講習所が創設されると、講師として出仕。渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援。
宮崎 駿児(みやざき しゅんじ、1851年(嘉永3年) - … 宮崎 駿児(みやざき しゅんじ、1851年(嘉永3年) - 没年不明)は、幕末の幕臣、大陸浪人。
椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永… 椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永3年9月4日) - 1935年(昭和10年)9月10日)は、幕末の桑名藩士、明治期の教育者・内務官僚。三重県師範学校長、官選県知事、小樽区長。旧姓・塚田、旧名・丈夫。 江戸八丁堀の桑名藩邸で同藩士・塚田長平の二男として生まれ、同藩士・椿重三郎の養子となる。藩校・立教館で学んだ。戊辰戦争では幕府方として転戦した。その後、桑名に帰るも、1973年に上京して東京師範学校で学び、1874年1月、同校を卒業。 1874年2月、文部省三等訓導任官。1875年9月、度会県師範学校二等訓導に就任。以後、同校監事兼一等訓導、三重県師範学校長を歴任。1880年2月、地方官に転じ三重県四等属となる。
林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月1… 林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月11日) - 大正2年(1913年)7月20日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の5男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。
角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年… 角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。 会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。
肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2… 肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2月8日)- 1932年(昭和7年)4月3日)は、幕末の薩摩藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。 日向国諸県郡都城郷(宮崎県北諸県郡都城町を経て現都城市)で、薩摩藩士・肥田景正の二男として生まれた。1886年(明治19年)兄・景直が戊辰戦争で戦死していたため家督を相続した。 造士館で兵学を修め、都城明道館児輩指南、講武館兵式訓練教導を務めた。慶応3年10月(1867年)戦兵伍長となり戊辰戦争に従軍した。造士館助教授、都城神柱神社(神柱宮)祠官を務めた。西南戦争に従軍した。 1878年(明治11年)10月、鹿児島県警部に任官。
永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - … 永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - 1897年(明治30年)1月28日)は、日本の武士(中津藩士)、自由民権運動家。 中津藩士・永田源右衛門の長男に生まれる。幼名は兼太郎。1871年(明治4年)、藩主奥平昌邁に続いて慶應義塾に入塾した。廃藩置県のため中津市学校の教員となるが、まもなく退任して義塾に戻り1875年(明治8年)卒業。1877年(明治10年)7月から高知の立志学舎に英学教師として派遣され、傍ら自由民権運動に没頭。1880年(明治13年)に愛国社に加わった。愛国志林記者、愛国新誌記者、山陽新報主筆、日本立憲政党新聞記者などを経て1882年(明治15年)には福井の杉田定一に招かれ北陸自由新聞主筆となり、1884年(明治17年)東海暁鐘新報の主筆となり、海南新聞、北陸公論、江湖新聞、東海新報、岡山日報を歴任。
五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永… 五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永2年11月25日)- 1905年(明治38年)7月8日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の官僚・政治家。衆議院議員。旧姓・佐々木、名・達之助。 肥前国杵島郡武雄(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣・佐々木家に生まれ、五十村平左エ門の養子となる。漢学を修めた。 明治5年1月(1872年2-3月)石鉄県十三等出仕となり、以後、司法省十二等出仕、司法少解部、判事・高知裁判所徳島支庁在勤、脇町区裁判所長、熊本県警部兼属、熊本警察署長兼監獄署長、山梨県収税長、愛媛県収税長、大分県参事官などを歴任。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙おいて佐賀県第三区から出馬して二位景暢と選挙戦を戦い当選し、衆議院議員を一期務めた。
浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1… 浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1849年11月24日) - 昭和13年(1938年)2月27日)は幕末期日本の武士(松本藩士)、明治から昭和初期にかけての教育者。若い時代には自由民権運動家としての活動があった。また、現在でも長野県で広く歌われている県歌「信濃の国」の作詞者として知られる。 旧制中学教員などをへて、1886年(明治19年)長野師範学校教諭となる。1899年(明治32年)『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」を発表、北村季晴の作曲により県下で広く歌われるようになる。1918年(大正7年)に70歳で退職するまで長野師範教諭を務め、さらに嘱託として1926年(大正15年)6月まで40年間にわたって師範教育に尽くした。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(184… 加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(1849年6月21日) - 昭和10年(1935年)6月17日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏、警察官、教育者、銀行家である。号は六石。 若松城下に生まれる。藩が戊辰戦争に敗れたのち、青森中学の助教となる。次いで警察官となり、千葉県警察署長に就任。明治9年(1876年)、同藩出身の永岡久茂らが萩の乱に呼応して挙兵を図り千葉へ向う途中で乱闘となり検挙された(思案橋事件)。これは千葉に加藤ら会津藩出身の警察官がいたため、永岡は加藤らの協力を期待して千葉での挙兵を計画したといわれる。 翌年生起した西南戦争において加藤は抜刀隊小隊長となり歴戦している。
阿部 泰蔵(あべ たいぞう、嘉永2年4月27日(1849年5… 阿部 泰蔵(あべ たいぞう、嘉永2年4月27日(1849年5月19日) - 大正13年(1924年)10月22日)は、幕末 - 明治期の武士、実業家、官僚。日本初の生命保険会社明治生命保険(現明治安田生命保険)の創立者(初代頭取、初代会長)として知られる。従五位勲四等旭日小綬章。 三河国吉田藩(維新後豊橋藩)の藩医豊田鉉剛の三男として八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)に生まれ、1860年(万延元年)同藩の医師・阿部三圭の養子となる。儒学者を目指し漢詩を小野湖山に、橋本一斎に蘭学を学んだ後藩命を受けて江戸に上り、開成所教授・杉田玄瑞、穂積清軒、中島三郎助に蘭学を学んだ。1868年(慶応4年)に鉄砲洲の慶應義塾に入学するが、戊辰戦争に際して藩命により帰藩し、各地に転戦。
安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1… 安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 昭和9年(1934年)11月30日)は日本の武士(福岡藩士)、戦前の政治家、実業家。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年)1月13日、男爵授爵。勲三等瑞宝章。地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。号は撫松。
二位 景暢(にい かげのぶ、1849年(嘉永2年7月)- 1… 二位 景暢(にい かげのぶ、1849年(嘉永2年7月)- 1921年(大正10年)1月13日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の政治家。衆議院議員。通称・徳太郎。 肥前国杵島郡武雄(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣の家に生まれる。戊辰戦争では主君鍋島茂昌に従い、小隊司令官として羽州を転戦した。 1873年、佐賀県第三十三大区及び第三十四大区副戸長に就任。佐賀の乱では中立党に所属し武雄勢第四小隊副司令として政府軍に協力した。以後、第三十三大区及び第三十四大区副区長、学区取締、区戸長、杵島郡書記などを務め、1880年9月、杵島郡長に就任し1890年6月まで在任。この間、学校の建設、道路の整備、災害の復興などに尽力した。
近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永… 近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永元年11月25日)- 1921年(大正10年)2月9日)は、幕末から大正期の武士(徳島藩士)、実業家、政治家、華族。男爵、日清汽船社長、日本郵船会社第3代社長、貴族院男爵議員。 阿波国麻植郡(のちの鴨島町西麻植江川、現・徳島県吉野川市)の医者の家に生まれる。 1862年(文久2年)に徳島藩中老である仁尾内膳の書生となる。同年、新居水竹の小心塾にて益田永武と共に学ぶ。その後、柴秋邨の思斉塾に転学。当時出会った阿部興人とは終生の親友となる。師であった水竹が庚午事変に関係して切腹を命じられた際は、徳島市の潮見寺に遺髪を葬った。 慶應義塾、大学南校に学び、1872年(明治5年)淡路出身の星合常恕に勧められ岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入る。
高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永… 高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永元年4月26日)- 1907年(明治40年)6月15日)は、幕末の会津藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 陸奥国会津郡若松城下で会津藩士の息子として生まれる。漢学、武術、英蘭学を修めた。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い、東北の戦闘に従軍。 1873年、小樽に渡り船舶回漕業を営んだ。1890年8月、小樽総代人に選出された。その後、小樽区会議員、北海道会議員を務めた。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に北海道庁小樽区から出馬し当選。交友倶楽部に所属し衆議院議員を一期務めた。 その他、小樽商業会議所会頭、北海道拓殖銀行創立委員、小樽米穀外五品取引所監査役、小樽銀行取締役、北海木材 (株) 監査役、北海生命保険 (株) 社長、北海道鉄道 (株) 取締役、大同生命保険 (株) 取締役、小樽電燈合資会社執行社員なども務めた。
末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4… 末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4年12月25日) - 1920年(大正9年)1月16日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚。官選県知事、函館区長、小倉市長、福岡県八幡市長。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現薩摩川内市平佐町)で、薩摩藩士・末弘直温の三男として生まれる。藩校造士館で学んだ。 慶応3年9月10日(1867年10月7日)、薩摩藩組頭に就任。その後、役人、半隊長を務めた。明治4年8月(1871年)、御親兵の補充として上京し第三大隊一番小隊に編入され、明治5年8月10日(1872年9月12日)、伍長に任官。1873年10月、病のため除隊して帰郷した。同年11月、鹿児島県に奉職し、二等教授第二十八郷校掛となる。
国沢 新九郎(くにさわ しんくろう、旧字体: 國澤 新九郎、… 国沢 新九郎(くにさわ しんくろう、旧字体: 國澤 新九郎、1848年1月27日(弘化4年12月22日) - 1877年(明治10年)3月12日)は、土佐藩士。明治維新後に洋画家・洋画塾の長。弟に衆議院議員や南満州鉄道理事長を務めた国沢新兵衛がいる。母方の従兄弟に大町桂月がいる。 土佐藩の幡多郡奉行、父国沢四郎右衛門好古、母たつの長男として、小高坂村(現・高知市新屋敷)に生まれた。幼名は熊太郎。 母の甥に大町桂月がいる。 1867年(慶応3年)(19歳)、土佐藩の小隊司令を命じられ、翌年の戊辰戦争にかけて京都・大阪・中国・松山を巡った。明治に改元した1868年11月に海軍局頭取、翌年2月に海軍指揮役兼大監寮となり、夕顔丸の船将として箱館戦争中の函館を往復した。
長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年… 長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年12月13日) - 1928年(昭和3年)6月17日)は、幕末の弘前藩士。明治から大正時代の政治家。青森県弘前市長。 弘前藩士長尾定八の長男として生まれ、1873年(明治6年)9月に家督を相続する。明治に入り、戸長や北津軽郡長を歴任し、1888年(明治21年)青森県会議員に当選する。翌年の1889年(明治22年)弘前市助役の時に菊池九郎市長の辞任に伴い第2代市長に当選するが、後任の助役選出による派閥争いで市会は紛糾し、翌年辞任した。 1896年(明治29年)赤石行三市長の病死に伴い、菊池九郎の推薦により市長に返り咲き、1902年(明治35年)再選し、1905年(明治38年)まで務めた。
三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - … 三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - ?)は、明治期の武士(中津藩士)、恵比寿麦酒会社(恵比寿ビール)支配人。 豊前国中津生まれ。進脩館に入り漢籍を学ぶ。1864年(元治元年)福澤諭吉と共に上京し築地福沢塾(慶應義塾)に入り洋学を修める。1866年(慶応2年)長州征伐が起こると奥平氏と同じく徳川氏に与して参戦。海軍兵学寮の教授となり英学を教授する。1876年(明治9年)東京大学医科大学の事務局に入る。のちに退職し東京府目黒村の副支配人となる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高間 省三(たかま しょうぞう、嘉永元年(1848年) - … 高間 省三(たかま しょうぞう、嘉永元年(1848年) - 慶応4年8月1日(1868年9月16日))は、江戸時代末期(幕末)の広島藩士。戊辰戦争で活躍。名は正忠。
曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年… 曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年10月6日〉 - 1910年〈明治43年〉5月30日)は、幕末期の武士(米沢藩士)、大日本帝国海軍大尉、号は暗雲、中国名は曾嘯雲。幼名は小太郎。近代日本史におけるアジア主義の中の最重要人物とされ、興亜会の創立者としてよく知られている。 米沢藩の儒者・曽根敬一郎の子。曽根家は明治元年まで代々上杉家の家臣(馬廻組)を勤め、戊辰戦争後に父・魯庵を失った後、俊虎は百五十石を賜っている。藩校興譲館で漢学を学び、雲井龍雄の感化を受けた。戊辰戦争で父を失った後、米沢で渡辺洪基に英学を学び、さらに江戸に出て慶應義塾に入り、福澤諭吉・吉田賢輔に洋学を学んだ。