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藤井 凡大(ふじい ぼんだい、1931年1月2日 - 199… 藤井 凡大(ふじい ぼんだい、1931年1月2日 - 1994年7月24日)は、日本の作曲家、指揮者、音楽教育家である。 大分県竹田市生まれ。 幼児の頃から母に生田流箏曲を学ぶ。旧制福岡高等学校時代、福岡合唱協会で知り合った指揮者の石丸寛から影響を受ける。 九州大学工学部造船学教室へ進学し、1953年卒業。在学中より作曲を始める。同年、東京新聞主催の全国邦楽コンクール作曲部門で「和楽器と管弦楽協奏の為の一楽章」を自演(箏)して作曲部門の第1位となり、文部大臣賞、NHK賞を受賞。以後、放送音楽を中心とする作曲・指揮活動に入る。 作品には「東洋の楽器による交響曲・西遊記」(1967年文部省芸術祭レコード部門受賞)、「絲竹交響」、「伊勢物語抄」などの邦楽器楽曲、「北原白秋の詩による9つのカノン」、「筑紫のわらべ唄」などの合唱曲、オーケストラ作品等、作曲・編曲多数。
中村 廣治(なかむら ひろじ、1931年 - )は、日本の思… 中村 廣治(なかむら ひろじ、1931年 - )は、日本の思想史家で、デヴィッド・リカード研究を専門とした。広島大学名誉教授。元経済学史学会代表幹事。 福岡県生まれ。旧制福岡高等学校を経て、1953年九州大学経済学部卒業。高木暢哉門下で、1955年九州大学大学院経済学研究科博士課程進学。1958年大分大学着任。1964年九州大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。広島大学教授、熊本学園大学教授、九州産業大学教授を歴任した。広島大学名誉教授。この間、1995年から1997年まで経済学史学会代表幹事。専門はデヴィッド・リカード。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。
森 恒夫(もり つねお、1930年8月3日 - )は、日本の… 森 恒夫(もり つねお、1930年8月3日 - )は、日本の財政学者。 滋賀県近江八幡市に生まれる。福岡県中学修猷館、旧制福岡高等学校(文科丙類)を経て、1953年東京大学経済学部卒業。1958年東京大学経済学部大学院(研究奨学生)を修了し、同学部助手となる。 1961年甲南大学経済学部非常勤講師となり、1963年講師、1964年助教授を経て、1969年教授に就任する。甲南大学において、1975年から1976年まで経済学部長、1983年から1986年まで常務理事、1985年から1988年まで学長を務める。 2007年瑞宝中綬章受章。
原田 實(はらだ みのる、1930年1月1日 - 2011年… 原田 實(はらだ みのる、1930年1月1日 - 2011年11月7日)は、日本の経営情報学者。 山口県出身。1947年福岡県中学修猷館、1949年旧制福岡高等学校文科甲類(第1学年終了)を経て、1955年九州大学経済学部を卒業。1960年同大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。 1960年4月年西南学院大学商学部専任講師、1963年4月同助教授を経て、1969年4月九州大学経済学部助教授に転じ、1974年6月同教授に就任。経営労務論講座を担当。1988年4月経済学部組織変更に伴い企業管理講座を担当。 1985年4月から1987年3月まで九州大学評議員を務めた。 2011年11月瑞宝中綬章受章。
犬丸 義一(いぬまる ぎいち、1928年4月22日 - 20… 犬丸 義一(いぬまる ぎいち、1928年4月22日 - 2015年10月2日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史。本名・小山義一。 朝鮮平壌生まれ。本籍・福岡県。1945年4月旧制福岡高校に進学する。1948年3月卒業後一時期福岡県の新制中学校の社会科教師となる。1949年4月東京大学に入学し、同年5月に日本共産党に入党した。1952年に東京大学文学部国史学科を卒業して、同大学院に進学する。 1953年3月中国で労働者農民に日本近代史を教える仕事に就くため、静岡県焼津港から漁船(いわゆる人民艦隊)で密航して中国に渡り、中国人民大学第二分校の助教となる。1957年3月同校閉鎖後は上海・復旦大学歴史系研究生(大学院生)となる。
多田 茂治(ただ しげはる、1928年(昭和3年)3月27日… 多田 茂治(ただ しげはる、1928年(昭和3年)3月27日 - 2020年(令和2年)5月3日)は、日本の文芸評論家。 福岡県小郡市に生まれる。1954年九州大学経済学部卒業。旧制福岡高等学校在学中から小説を書き始め、九州大学在学中に『九州文学』『新日本文学会』などの同人誌に参加し、作品を発表。大学卒業後は福岡で新聞記者となり、この頃夢野久作の三男・杉山参緑と知り合い、夢野久作に関心を持ち始める。上京後、週刊誌編集者、フリーライターを経て文筆業。51歳の時に、町田市ゆかりの明治の自由民権家、石坂昌孝や細野喜代四郎などを描いた「多摩困民記」を刊行し、作家デビューする。「自分の書き残したいものだけを書く」というポリシーのもと、綿密な調査や取材を行い、ノンフィクションや伝記を次々に執筆した。
関谷 定夫(せきや さだお、1925年12月26日 - 20… 関谷 定夫(せきや さだお、1925年12月26日 - 2017年6月11日)は、日本の聖書学者。西南学院大学名誉教授、旧約聖書学・聖書考古学専攻。 東京出身。1945年旧制福岡高等学校卒業。1949年旧制熊本医科大学卒業。1952年西南学院大学神学専攻卒業。西南学院大学講師、助教授、1969年教授。1968-1969年、イスラエル・ヘブライ大学に学ぶ。1970年西南学院大学神学部長(1978年再任)。1996年定年、名誉教授。 1970-1975年日本基督教学会理事。1983-1995年、西日本宗教学会理事。日本イスラエル文化研究会理事。
遠藤 政夫(えんどう まさお、1923年12月6日 - 19… 遠藤 政夫(えんどう まさお、1923年12月6日 - 1995年11月9日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 福岡県甘木市生まれ。旧制福岡高校を経て、1944年、東京帝大法学部卒。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1947年4月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入省したが、同省の廃止に伴い労働省に転じ、1972年職業訓練局長、1973年職業安定局長を歴任した。1976年12月24日から1977年1月1日まで、事務次官代理を務めた。
首藤 堯(しゅどう たかし、1923年2月1日 - 2012… 首藤 堯(しゅどう たかし、1923年2月1日 - 2012年10月10日)は、日本の官僚。自治事務次官、公営企業金融公庫総裁、地域総合整備財団理事長。大分県出身。従三位勲一等瑞宝章。長男は脚本家の首藤剛志。 大分県大分市に生まれる。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。石垣島で終戦を迎える。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 旧制福岡高校を経て、1946年を九州大学法学部卒業。福岡県の地元の新聞社で一年務めた後、1947年に内務省入省。福岡県に配属される。
申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月… 申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月15日 - 1989年2月29日)は、大韓民国のジャーナリスト、教授、政治家、独立運動家。第5・9・10・11代韓国国会議員。本貫は平山申氏、号は月崗(ウォルガン、월강)。 平安北道定州出身。1935年に新義州高等普通学校を卒業。1942年に福岡高等学校の文科を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部に入学した。1944年に学徒出陣により中国戦線に配置されたが、済南の部隊より八路軍地区に脱走し、同じく徐州の部隊より脱走した厳永植(엄영식)らと朝鮮義勇軍の一員として抗日活動に参加した。解放後の1946年に朝鮮義勇軍東満洲支隊から帰郷したが、北朝鮮共産当局によって逮捕され、17ヶ月間に監獄で過ごした。
桑原 敬一(くわはら けいいち、1922年(大正11年)9月… 桑原 敬一(くわはら けいいち、1922年(大正11年)9月28日 - 2004年(平成16年)1月9日)は、日本の政治家、官僚。福岡市長(第29-31代)、労働事務次官を務めた。 太宰府天満宮の神職(安秀院三綱)の家系であり、福岡市教育部長を務めた桑原恭助の長男として福岡県太宰府市に生まれる。1940年福岡県中学修猷館、1943年旧制福岡高等学校文科丙類を経て、東京帝国大学法学部に進学し、在学中に陸軍主計少尉として学徒出陣をしている。1947年、第1回労働基準監督官採用試験に合格。1948年、東京大学法学部を首席で卒業後、労働省に入省。 1973年、福岡県副知事に就任。労働省大臣官房長、労働基準局長、労政局長などを経て、1979年、労働事務次官に就任。
妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月… 妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月16日 - 2012年〈平成24年〉1月7日)は、日本の実業家。富士銀行専務取締役、オカモト社長。 福岡県に生まれる。1939年福岡県中学修猷館、1942年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1944年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業し陸軍主計少尉となる。在学中の1943年12月には学徒出陣をしている。 1946年5月、安田銀行(1948年富士銀行と改称し現みずほ銀行)に入行。1970年5月取締役となり名古屋支店長、1973年4月取締役大阪支店長、同年5月常務取締役、1975年5月専務取締役となる。1978年6月、富士銀行を退任し、岡本理研ゴム(現・オカモト)取締役副社長、1979年6月同社取締役社長に就任する。
宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4… 宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、作詞家。海軍中尉。松島航空隊機長。 福岡市博多区生まれ。奈良屋小学校を経て旧制福岡高等学校に進み、慶應義塾大学法学部政治科を卒業後、鉄道省に奉職。 1943年9月に海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊に入隊。1944年5月に海軍少尉に任官。 筆が立つことで知られ、やがて鹿児島出水海軍航空隊に移動し、飛行訓練の合間に記された手記(「くちなしの花」)は、戦後に多くのメディアで取り上げられ、出版もされている。手記の一部を引用し、美空ひばりが補作詞した「白い勲章」は、船村徹の作曲によって美空ひばりのシングルレコードとして発表されている。
伊達 得夫(だて とくお、1920年9月10日 - 1961… 伊達 得夫(だて とくお、1920年9月10日 - 1961年1月16日)は日本の編集者、出版社経営者。書肆ユリイカ代表。 釜山広域市生まれ。旧制京城中学校卒業まで、京城で過ごす。旧制福岡高等学校を経て、1943年、京都帝国大学経済学部卒業。出征して北支や内蒙古で転戦し、戦後に上京して前田出版社に勤務。 原口統三『二十歳のエチュード』の出版を手がけ、同書をベストセラーとする。1948年、同書の紙型を持って独立し、書肆ユリイカを創立。1950年頃から主に詩書を出版。1956年、詩誌『ユリイカ』を創刊。没後の1962年に遺稿集『ユリイカ抄』が刊行され、その業績により第1回藤村記念歴程賞を受けた。
髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)… 髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)7月14日 - 2006年(平成18年)2月14日)は、日本の財務官僚、日本専売公社職員。 福岡県大牟田市出身。1938年福岡県中学修猷館、1940年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1942年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1942年に高等試験行政科に合格し、9月に大蔵省に入省したが、短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に補修学生として海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、長崎監督官事務所に配属。1944年(昭和19年)3月、海軍省主計局契約部第6課に転じ原価計算を担当。
小山 俊一(おやま しゅんいち、1919年3月13日 - 1… 小山 俊一(おやま しゅんいち、1919年3月13日 - 1991年9月18日) 日本の哲学者。 福岡県門司市(現北九州市)生まれ、直方に育つ。 1935年4月、中学4年終了で旧制福岡高校理科乙類(ドイツ語)に入学。一年留年して、福高卒業。1939年4九州帝国大学農学部に入学。10月、矢山哲治を中心に福岡から創刊された同人誌「こをろ」に参加。同人に阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎、眞鍋呉夫らがいた。 1941年12月、九大を繰り上げ卒業、1943年5月、陸軍雇員募集に応募、軍属として6月、ボルネオに赴任。ボルネオ山中でマラリアにかかり、敗戦後、捕虜収容所に収容される。1946年春、復員。同年秋、福岡県庁農地部に就職するも、半年で退職。
矢山 哲治(ややま てつじ、1918年4月28日 - 194… 矢山 哲治(ややま てつじ、1918年4月28日 - 1943年1月29日)は日本の詩人。九州帝国大学在学中、同人雑誌「こをろ」を主宰。福岡県福岡市出身。 1936年福岡県中学修猷館、1939年旧制福岡高等学校理科甲類を経て、九州帝国大学農学部繰り上げ卒業。福岡高校在学中から当時火野葦平の率いていた『九州文学』同人となり『九州文学』、『文藝首都』などに詩やエッセイを掲載。この時期1938年7月、福岡高校生であった矢山は『九州文学』を詩人の立原道造に贈り、文通を始め、当時立原が企図していた詩誌『午前』への参加を誘われた。 1939年、第一詩集『くんしやう』を上梓。この頃、保田與重郎、太宰治、檀一雄ら『日本浪曼派』の作家、評論家を愛読する。
前田 義信(まえだ よしのぶ、1918年(大正7年)1月15… 前田 義信(まえだ よしのぶ、1918年(大正7年)1月15日 - 2004年(平成16年)2月4日)は、日本の交通経済学者。 長崎県南高来郡島原町(現・島原市)に生まれる。1920年11月宇治山田市(現・伊勢市)に移住、1931年3月福岡市に移住し、1935年3月福岡県中学修猷館、1938年3月旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1938年4月京都帝国大学経済学部に入学、1941年3月同大学の学士試験に合格する。 1941年4月辰馬汽船(後に合併により山下新日本汽船、ナビックスラインを経て現・商船三井)に入社するが、1948年3月に退社し、1950年10月京都大学経済学部大学院に入学、1956年3月に退学。
田中 良久(たなか よしひさ、1917年2月27日 - 19… 田中 良久(たなか よしひさ、1917年2月27日 - 1977年10月25日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 福岡県企救郡(現・北九州市)生まれ。福岡高等学校を経て、1941年東京帝国大学心理学科卒業。1944年まで大学院在籍、1943年から1946年まで副手嘱託。戦後1947年北海道大学法文学部助教授、1953年東京大学文学部心理学科助教授、1967年教授、1977年定年退官、名誉教授、成城大学教授。日本心理学会理事。スウェーデンのウプサラ大学見学中に倒れ死去(『心理学研究』1978年2月「田中良久氏追悼記」)。1977年11月 勲三等瑞宝章を受章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 199… 有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 1999年4月1日)は、日本の実業家、政治家、教育家。一寿とも。旧姓は正木。 日本統治時代の朝鮮平安北道新義州に生まれる。5歳で母親と、11歳で父親と死別し、福岡県築上町の叔父に引き取られる。小倉師範学校、福岡高等学校 (旧制)を経て、1941年東京帝国大学文学部教育学科を卒業。直ちに兵役に就く。 戦後は青葉ヶ丘女子高校(現・高稜高等学校)校長、福岡県教育委員(1948年当選)を務めた後、妻の兄である石橋健蔵が経営する若松築港(現・若築建設)に1952年に入社し、専務を経て、1958年社長に就任。後に会長(1976年)、名誉会長、相談役を歴任する。
生源寺 廷(しょうげんじ ただし、大正4年〈1915年〉7月… 生源寺 廷(しょうげんじ ただし、大正4年〈1915年〉7月 - ?)は、日本の科学者。 大正4年(1915年)7月、父生源寺順、母嘉納治五郎の次女である忠子夫妻の長男として生まれる。昭和12年(1937年)3月31日、旧制福岡高等学校理科甲類を卒業。九州帝国大学応用化学科卒業。 博士論文「濃縮燃焼による亜硫酸パルプ廃液処理に関する研究」を著し、昭和36年(1961年)11月18日に工学博士を授与された。生源寺廷, 高橋英郎 & 丹野和夫 1962, p. 172によれば、工業技術院東京工業試験所に入所している。四国工業技術試験所(現在の産業技術総合研究所四国センター)に転じており(生源寺廷 1968, p. 26)、少なくとも翌年までは同所にいることが赤松勲・生源寺廷 1969, p. 195により判明している。
高木 豊(たかぎ ゆたか、1914年7月7日 - 2005年… 高木 豊(たかぎ ゆたか、1914年7月7日 - 2005年5月14日)は日本の物理学者。特に強誘電体の研究者として有名である。東京工業大学、名古屋大学、大同工業大学(現在の大同大学)で教授を務めた。 1914年、現・大韓民国の釜山市で生まれた。旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)に入学。1937年、同大学理学部物理学科を卒業し、授業担当の嘱託を経て1939年に理学部講師に就任。ここでエントロピーを計算する「高木の方法」を開発し、合金の規則-不規則転移を統計力学的に導いた。また、スレーターモデルを拡張して強誘電体であるKH2PO4の相転移を考察している。 1942年に第二工学部講師となり、高温まで連続で測定できる断熱型比熱測定法を開発し、「長崎-高木断熱計」と名付けられた。
吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - … 吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - 1990年11月13日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長、会長を務めた。 福岡県築上郡吉富町出身。旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に西日本鉄道の前身である九州電気軌道に入社した。 経理部長、取締役、常務、専務を経て、1970年から社長に就任した。社長在任中は、1973年に九州で初めて高速バス(福岡~熊本間)を運行する一方で、1975年に路面電車の福岡市内線の主な路線を廃止し(全廃は1979年)、1972年に西鉄ライオンズを太平洋クラブに売却し、経営の合理化を進めた。 1981年から福岡商工会議所会頭を務め、国際交流にも力を入れた。
西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日… 西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日 - 1988年〈昭和63年〉1月23日)は、日本の外交官。駐インドネシア特命全権大使、駐スイス特命全権大使、駐大韓民国特命全権大使、交流協会台北事務所代表、交流協会理事長。 福岡県出身。1933年(昭和8年)福岡高等学校文科甲類卒業。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年10月、高等試験外交科試験に合格して外務省入省。1949年(昭和24年)外務省連絡局地方課長。1950年(昭和25年)在カルカタ日本政府在外事務所所長。1953年(昭和28年)外務省経済局第三課長。1955年(昭和30年)外務省経済局次長。1956年(昭和31年)外務省経済局外務参事官。
鬼丸 勝之(おにまる かつゆき、1913年9月14日 - 1… 鬼丸 勝之(おにまる かつゆき、1913年9月14日 - 1977年2月14日)は、日本の官吏、政治家。自民党所属参議院議員(2期)。位階勲等は従三位勲二等。 福岡県みやま市(旧山門郡瀬高町)生まれ。三人兄弟の長男。父親が関東州民政署勤務で幼少期を旅順、金州、大連で過ごす。1934年、旧制福岡高等学校文科卒。1936年に高文試験合格。 1937年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、内務省に入省。社会局属。1938年より京都府、北海道、福島県にて経済、民生、教育、労働の各部課長、内閣総合計画局、戦災復興院参事官等を歴任。1950年から建設省住宅局企画、大臣官房人事、文書の各課長、首席監察官、住宅局長を経て、1958年 建設省大臣官房長に就任。
岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 19… 岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 1999年2月5日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・堆積岩岩石学。福岡県久留米市生まれ。 1931年旧制福岡高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学理学部地質学科に入学。1935年同卒業。1938年地質調査所(現:産業技術総合研究所)の技師に任官。1942年第一次山西学術調査研究団に参加した。1953年東京大学教養学部地学教室の教授となる。1969年同理学部地質学教室教授に転任し、1973年定年・退職、名誉教授となる。その後、1973~1978年千葉大学理学部教授を務めた。また、日本学術振興会など諸機関の委員を歴任し、戦後の日本の復興に非金属資源開発の面から大いに貢献した。
村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月… 村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月23日 - 2007年4月5日)は、日本の俳優。山口県徳山市出身。本名は村上 済州(むらかみ さいしゅう)。旧芸名は新田 地作。 徳山で生まれ、父親の仕事の都合で兵庫県神戸市、神奈川県横浜市、東京府と移り住み、両親との死別後は福岡県で育つ。 福岡市立大名小学校、中学修猷館、中学明善校、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後、1934年9月に新築地劇団の研究生となり、俳優活動を始める。1936年に劇団員に昇格。1938年の『黒田誠忠録』が映画デビュー作。1940年3月に新築地劇団を退団。5月に芸術小劇場の客員となるが、同年8月に新築地劇団は新田を除名処分としたことを発表。
金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月… 金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月18日 - 2001年(平成13年)8月15日)は、日本の技術者、実業家。三菱重工業取締役社長や、同社取締役会長、経団連副会長、日本プラントメンテナンス協会会長、日本造船工業会会長などを歴任した。勲一等瑞宝章受章。 山口県山口市野田生まれ。1932年(昭和7年)旧制福岡高等学校を卒業。1935年(昭和10年)九州帝国大学工学部冶金学科卒業し、三菱重工業に入社。1971年(昭和46年)三菱重工業技術本部長。 1977年(昭和52年)三菱重工業取締役社長。1981年(昭和56年)三菱重工業取締役会長。 1986年(昭和61年)日本プラントメンテナンス協会会長。
成良 一郎(なりよし いちろう、1911年(明治44年)4月… 成良 一郎(なりよし いちろう、1911年(明治44年)4月20日 - 2000年(平成12年)5月7日)は、日本の地方事務官である。 戦前は熊本県、沖縄県、岐阜県などに勤務し、戦後は主に栃木県で勤務した。栃木県では初代教育長に就任し、副知事も務めた。 1911年(明治44年)4月20日、成良清一の次男として大分県臼杵市に生まれる。 1930年(昭和5年)4月、福岡高等学校文科丙類に入学した。 1933年(昭和8年)、福岡高校を卒業した後、東京帝国大学法学部政治学科に入学した。1936年(昭和11年)には高等文官試験行政科に合格する。 1936年(昭和11年)3月、東京帝国大学を卒業後、地方事務官として熊本県に勤務する。
佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没… 佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 名古屋市熱田区に生まれる。1928年福岡県中学修猷館、1930年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1933年3月東京帝国大学文学部英文学科を卒業。 電通に勤務後、1935年同盟通信社外信部に入り、上海、香港の各特派員、外信部次長を経て、1940年ローマ支局長となり、その後ベルリン、ストックホルム特派員を務める。 1946年世界日報(産経新聞の前身)外信部長となり、1948年世界日報が改題した世界経済新聞の編集局次長兼外信部長に就任、1950年3月産経新聞と改称。その間、1949年6月より日本放送協会(NHK)嘱託となり、ニュース解説などを担当している。
岡 直遙(おか なおはる、1911年 - 1965年5月10… 岡 直遙(おか なおはる、1911年 - 1965年5月10日)は、日本の法学者。専門は行政法。八幡大学教授。福岡県宗像郡出身。 宗像郡の神社宮司の四男として生まれる。福岡高等学校 (旧制)から九州帝国大学法文学部法律学科に入学、宇賀田順三に師事する。 九大卒業後、三井鉱山に入社。1954年(昭和29年)八幡大学法経学部に講師として就任。行政法各論、地方自治法、国家公務員法の講義を受け持った。古武士的な峻厳さと謙虚さを兼ねる反面リベラル的な性格も持った責任感の強い教授であった。また大学の厚生補導課長として八幡大学野球部長を務め1961年(昭和36年)には九州六大学野球連盟リーグで初優勝を齎した。
江木 武彦(えぎ たけひこ、1910年1月9日 - 1998… 江木 武彦(えぎ たけひこ、1910年1月9日 - 1998年2月16日)は、日本での話し方教室創始者。言論科学研究所所長、社団法人言論科学振興協会理事長を務め、話し方教室を開き、多くの話し方教室運営者を育成した。江木鰐水の孫。 1910年1月9日、東京都文京区にて、日本の写真術の先覚者と言われる江木保男の次男として銀座で出生。精華小学校、暁星小学校・中学校、福岡高等学校 (旧制)、明治大学(帝大受験浪人し徴兵猶予を受けるため在籍)を経て、1934年、東京帝国大学政治科卒業。1934年、新聞連合社入社、発信部、政治部、北京特派員などとして勤める。新聞連合は日本電報通信社と合併し同盟通信になる。その後、同盟通信社を退社し、新民会首都指導部員になるも約1年で辞任。
谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1… 谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1995年3月17日)は、日本の美術史学者。専門は東洋美術。 福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)に生まれる。旧制福岡高等学校文科を経て、1933年に九州帝国大学法文学部哲学科を卒業。卒業後は、法文学部の副手に採用され、1935年助手、1948年九州大学文学部講師、1951年助教授を経て、1955年に教授に就任する。1966年 - 1968年に文学部長を務めた。1973年に定年退官し、名誉教授となる。 退官後は、九州産業大学教授に就任。学外では、1973年 - 1978年北九州市立美術館長、1982年 - 1988年石橋美術館(ブリヂストン美術館)長を兼任した。
太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1… 太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1月19日 - 1989年(平成元年)2月26日)は、日本の実業家。元・博多大丸会長。元・大日本麦酒技師。 第一徴兵保険(後の東邦生命保険)社長、衆議院議員、貴族院議員などを務めた四代目太田清蔵の四男。東邦生命保険社長五代目太田清蔵の弟。元・自民党衆議院議員太田誠一、ホテル日航福岡社長太田輝幸の実父。妻・俊子は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任した櫻内幸雄の三女。 福岡県福岡市出身。旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1933年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。大日本麦酒に入り1938年、兵役。1946年香椎農園、1949年日東食品を各経営。
吉田 法晴(よしだ ほうせい、本名:法晴(みちはる)、190… 吉田 法晴(よしだ ほうせい、本名:法晴(みちはる)、1908年〈明治41年〉3月13日 - 1981年〈昭和56年〉1月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。初代北九州市長(1期)。 福岡県宗像郡河東村(現宗像市)出身。旧制福岡高校を経て1936年同志社大学法学部卒業後、日本炭鉱に入社。 1947年日本社会党から福岡県議会議員に初当選。 1950年の第1回参議院議員通常選挙福岡県地方区補選で日本社会党公認で立候補して当選。以来、参議院議員を3期務め、その間に参議院労働委員長となる。 参議院議員任期途中の1963年、北九州市の発足に伴い選出される市長選挙に立候補(告示日の同年2月28日付で公職選挙法の規定により参議院議員を退職(自動失職))。
川合 寿人(かわい ひさと、別表記 : 川合 壽人、1907… 川合 寿人(かわい ひさと、別表記 : 川合 壽人、1907年 <明治40年> 7月26日 - 2002年 <平成14年> 7月9日)は、日本の内務・警察官僚。警視総監。位階は正四位。 現在の佐賀県鳥栖市で生まれる。福岡高等学校を経て、1931年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格し、翌年には高等試験司法科試験に合格。1932年、内務省に入り広島県属となる。以後、警視庁交通課長・警衛課長、群馬県警察部長などを務め、1945年に退官。 戦後、警察庁に復帰し、仙台警察管区本部長、警察大学校長、皇宮警察本部長、近畿管区警察局長などを歴任。1957年1月、警視総監に就任し、1958年9月まで在任し退官。
丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 198… 丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 1984年1月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。学習院大学名誉教授。 旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業後、フランスに留学。留学中の友人に岡本太郎がおり、横光利一の通訳、伊藤述史の長男の家庭教師などもつとめている。妻の山崎明子もパリ時代に一緒であった。国民精神文化研究所の「思想対策に関する調査」の嘱託員も務めた。 帰国後、ヴォルテールの邦訳紹介を行うかたわら、白秋ゆかりのアルスから悪名高い『戦争文学論』を公刊。これはホメーロスや『ロランの歌』、タッソーの『解放されたエルサレム』などといった戦争をテーマとする叙事詩の中に文学の本質を見ようとするものであるが、一般読者には戦争礼賛、ナチス支持の文脈の中で受け取られたので、戦後しばらくは隠棲に近い生活を余儀なくされることとなった。
久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月… 久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月17日 - 1993年(平成5年)5月8日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)、三重県鈴鹿市にて出生。 旧制福岡高校を経て、東京大学法学部政治学科卒業。文部省各課長。内閣総理大臣・文部大臣秘書官。文部省施設局長・管理局長・調査局長。自由民主党の文教調査副会長となり万国著作権条約会議・諸外国の教育事情を視察するために欧米各国に出張する。九州大学助教授、日本短波研究所理事長も務めた。 1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙と1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に三重1区から無所属で出馬するが、落選。
米澤 嘉圃(よねざわ よしほ、1906年6月3日 - 199… 米澤 嘉圃(よねざわ よしほ、1906年6月3日 - 1993年7月29日)は、日本の中国美術史学者。 東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授。本名は芳男。 秋田県鹿角郡生まれ。父は鉱山技師の米澤萬陸。旧制暁星中学校、福岡高等学校を経て、1931年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。1935年東方文化学院東京研究所所員、1949年東京大学東洋文化研究所教授、1950年文化財専門審議会委員、『国華』主幹などを務め、1967年定年退官後、武蔵野美術大学学長。1962-66年美術史学会代表。墓所は多磨霊園。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)… 浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 浜磯之助の長男として福岡県早良郡鳥飼村(現・福岡市)に生まれる。日本学士院会員の医学者浜清は実弟。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1928年3月九州帝国大学法文学部を卒業。 1928年3月徴兵により佐世保重砲兵大隊に1年間入隊。1931年4月外務省文化事業部補給生として中国に留学し北京大学、清華大学、東亜同文書院などで現代中国の研究を行う。 1934年4月南満洲鉄道(満鉄)に入社し、対中国要員として満鉄調査部に配属される。青島事務所を経て、1936年4月北京事務所へ異動し、同年12月中国における満鉄の権益拡大をコントロールする機構である、大連本社の総裁室東亜課に勤務。
佐藤 勝也(さとう かつや、1904年4月10日 - 198… 佐藤 勝也(さとう かつや、1904年4月10日 - 1988年3月19日)は、日本の政治家、官僚、弁護士。長崎県知事などを務めた。退任後は東京にて弁護士活動をする。趣味の囲碁は2段の腕前だった。 旧制福岡高校を経て東京帝國大学(現・東京大学)法学部に入学。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府、拓務省などに務めた後、内務省に移り大阪府経済部長、官選の徳島県知事などを歴任した。戦後は岡山県副知事を経て長崎県副知事を6年間務めたが、次期県知事を狙っているとみなされて1957年に西岡竹次郎(西岡武夫の父)に解任された。翌1958年に西岡の死去を受けて長崎県知事選挙に出馬し、前県会議長の金子岩三を破り当選。
中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12… 中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12月7日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 福岡県糟屋郡に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科丙類を経て、1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科に合格し、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業する。陸軍に入り陸軍工兵少尉に進む。同年7月、台湾総督府専売局書記を拝命し、1932年(昭和7年)3月、新竹州中壢郡守に就任した。1933年(昭和8年)10月、台中州内務部教育課長に転じ、内務部地方課長兼水利課長、交通局副参事兼府事務官道路港湾課兼財務局主計課勤務を歴任した。
山口 重知(やまぐち しげとも、1885年(明治18年)8月… 山口 重知(やまぐち しげとも、1885年(明治18年)8月7日 - 没年不詳)は、東京市区長。教育者。 新潟県三島郡与板町(現在の長岡市)出身。1909年(明治43年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。栃木県立真岡中学校教諭、秋田県立横手中学校教諭、鹿児島県立第二鹿児島中学校教諭、鹿児島県立出水中学校校長、福岡高等学校教授、静岡県立沼津中学校校長を歴任した。1925年(大正14年)、台湾総督府視学官に転じ、台北高等商業学校教授を兼ねた。 その後、名古屋市教育部長、東京市視学・主事・教育局体育教育課長を務めた。1938年(昭和13年)、王子区長に転じ、1940年(昭和15年)からは淀橋区長を務めた。
徳永 太郎(とくなが たろう)は、日本の外交官。外務省研修所… 徳永 太郎(とくなが たろう)は、日本の外交官。外務省研修所長や、駐チェコスロヴァキア特命全権大使、日本国際問題研究所理事長などを歴任した。 福岡県出身。1928年福岡高等学校文科乙類卒業。1931年東京帝国大学法学部法律学科卒業、外務省入省。1933年任外交官補、叙高等官七等。1934年スイス在勤。1938年外務省欧亜局第二課外務事務官。1941年在スイス公使館三等書記官。 1942年在ドイツ大使館三等書記官。同年在ドイツ大使館二等書記官。1945年在ドイツ大使館一等書記官。1948年外務省総務局政務課長。 外務省研修所幹事を経て、1952年経済企画庁審議官。1954年在ハンブルグ日本国総領事館総領事。