小林 智子(こばやし ともこ、1985年8月23日 - )は… 小林 智子(こばやし ともこ、1985年8月23日 - )は、日本の医師(皮膚科専門医)。医学博士。愛知県出身。浅井企画所属。 3人姉妹の長女。父は内科開業医。 愛知県立岡崎高等学校を経て、日本医科大学医学部を卒業。名古屋第二赤十字病院で研修後、名古屋大学皮膚科に入局。その後、市中病院に勤務しながら2014年同大学大学院に進学し、2018年3月に博士課程を修了。 大学院在籍中、夫の留学に伴い渡米。その際、Northwestern大学でポストマスターフェローとして皮膚科の臨床研究に従事する。アメリカ在住中に健康ブームに影響を受け、ランニングを始めてフルマラソンにも参加。健康的な食生活と皮膚への関係性について興味を持ち、2016年より「ドクターレシピ」という健康ブランドの監修も務め、医学的な立場から食事と健康に関するレシピや情報の発信を積極的に行っている。
橋本 聡(はしもと さとし、1979年2月17日 - )は、… 橋本 聡(はしもと さとし、1979年2月17日 - )は、日本の医師。福島県出身、東京都港区 スキンリファインクリニック広尾院長。日本美容外科学会認定、美容外科専門医。 高校卒業後、大学進学のために上京。日本医科大学医学部卒業後、日本医科大学形成外科入局。その後は会津中央病院形成外科、日本医科大学付属病院形成外科・美容外科、西部総合病院形成外科などで医師として勤務し、2014年にスキンリファインクリニック広尾開業、院長就任。のちに改組され、スキンインフィニティクリニックとなり、代表者を続投。東京外科クリニックの代表者大橋直樹とは医学部学生時代の学友。キッズドクター体験の企画など共に励み日本の医療の未来を見つめた。
大橋 直樹(おおはし なおき、1978年 - )は、日本の医… 大橋 直樹(おおはし なおき、1978年 - )は、日本の医師、医療法人社団代表者。専門は腹部外科・内視鏡外科。東京都生まれ。 医療法人社団博施会理事長、東京外科クリニック創設者、日本日帰り手術推進機構の代表者。専門は腹部外科および内視鏡外科で、鼠径ヘルニア(脱腸)治療をはじめとする日帰り手術の発展に携わっている。 医籍登録後、慶應義塾大学医学部外科学教室助教(2006年 - 2010年)を務める。その後、国立病院機構栃木病院や埼玉社会保険病院、慶應義塾大学病院での臨床経験を積み、鼠径ヘルニア手術を中心に外科医としての腕を磨く。この期間に、日帰り手術のメリットと課題を深く理解し、普及への可能性を模索するようになる。
國松 淳和(くにまつ じゅんわ、1977年 - )は、日本の… 國松 淳和(くにまつ じゅんわ、1977年 - )は、日本の内科医、医書書き。医療法人社団永生会南多摩病院総合内科・膠原病内科部長。日本リウマチ学会リウマチ専門医、日本内科学会総合内科専門医の資格を持つ。得意分野は、一般内科、不明熱・不明炎症の診療、自己炎症性疾患の臨床。不定、不明、難治性な病態の診断・治療が専門といえば専門。著書に、『國松の内科学』(金原出版)、『仮病の見抜きかた』(金原出版)、『ブラック・ジャックの解釈学 内科医の視点』(金芳堂)、『医者は患者の何をみているか プロ診断医の思考』(筑摩書房)などがある。 年。ISBN 978-4-521-74368-4。
竹内 正人(たけうち まさと、1961年9月 - )は、行動… 竹内 正人(たけうち まさと、1961年9月 - )は、行動派産科医。ファシリテーター。 千葉県千葉市生まれ。東京都立戸山高等学校を経て、1987年日本医科大学卒業、日本医科大学産婦人科教室へ入局。米国ロマリンダ大学(研究員)、1994年日本医科大学大学院(医学博士:産科婦人科学)。~2005年日本赤十字社葛飾赤十字産院(産科部長) 2002年~ JICA(国際協力機構)母子保健専門家として、ベトナム、ニカラグア、アルメニア、パレスチナ、マダガスカルの医療協力に従事 2005年葛飾赤十字産院退職。より優しい「生まれる」「生きる」をめざし、医療の枠をこえた活動を全国に展開。2005~2006年櫻川介護老人保健施設(施設長)で介護現場を経験、東京都立東部療育センターでは重症心身障害児(者)の医療と療育にも携わる。
水成 隆之(みずなり たかゆき、1959年 - )は、日本の… 水成 隆之(みずなり たかゆき、1959年 - )は、日本の医学者、脳神経外科医。 1959年生まれ。1983年3月、日本医科大学卒業。1990年、日本医科大学大学院医学研究科博士課程修了、医学博士。 現在は、日本医科大学千葉北総病院脳神経外科医局長。難病に指定されている「もやもや病」研究、治療の第一人者である。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
﨑村 耕二(さきむら こうじ、1957年12月 - )は、日… 﨑村 耕二(さきむら こうじ、1957年12月 - )は、日本の英語学者。日本医科大学名誉教授、京都工芸繊維大学名誉教授。専門は、テクスト分析、言語表現論、英文学。 福岡県出身。福岡県立福岡高等学校、西南学院大学文学部英文学科卒業。九州大学大学院文学研究科修士課程修了。 1985年(昭和60年)高知大学人文学部講師 1991年(平成3年)同大学 助教授 1991年‐1992年 文部省在外研究員としてオックスフォード大学に留学(1992年ウルフソン・コレッジ客員研究員) 2001年(平成13年)高知大学 教授 2002年(平成14年)京都工芸繊維大学教授(のち名誉教授) 2013年-2023年 日本医科大学 教授 2023年4月(令和5年)日本医科大学 名誉教授 2023年4月(令和5年)青山学院大学 経営学部 非常勤講師
与田 仁志(よだ ひとし、1956年4月3日 - )は、日本… 与田 仁志(よだ ひとし、1956年4月3日 - )は、日本の医学者・医師。博士(医学)。東邦大学医学部教授。兵庫県城崎郡竹野村(現:豊岡市)出身。 1956年4月、兵庫県城崎郡竹野村(現:豊岡市)に生まれる。出生時、分娩子癇で母子ともに生命の危機にさらされたが、京都大学の産婦人科医の懸命の治療により親子とも一命をとりとめる。父親が「仁術に依り生命を得たと云へる子供であれば、医學に感謝すると同時に仁義に厚き人間にならねばならぬ」という想いから「仁志」と名付けた。物心が付き、出生時の顛末を知ってから、医師になる事を志すようになる。 1983年に日本医科大学を卒業後、同年、日本赤十字社医療センター小児科に入局。
弦間 昭彦(げんま あきひこ、1956年 - )は、日本の医… 弦間 昭彦(げんま あきひこ、1956年 - )は、日本の医師、医学者。日本医科大学学長、教授。日本肺癌学会会長、日本内科学会評議員。専門は、呼吸器病学、臨床腫瘍学。
横田 裕行(よこた ひろゆき、1955年1月5日 - )は、… 横田 裕行(よこた ひろゆき、1955年1月5日 - )は、日本の医学者。医師。医学博士。 日本体育大学保健医療学部救急医療学科教授、日本体育大学大学大学院保健医療学研究科長、松江病院救急科非常勤医師、日本医科大学名誉教授。専門は救急医学、脳神経外科学。 山本保博の後任として日本医科大学救急医学教室の3代目主任教授(日本医科大学では2012年より大学院教授に改称)を12年間に渡り務めた。後任の大学院教授は横堀將司。 大学院教授在職中に日本医科大学千葉北総病院救命救急センター部長を担当していたのは当時日本医科大学救急医学教室教授であった衆議院議員の松本尚。
熊谷 裕通(くまがい ひろみち、1954年10月 - )は、… 熊谷 裕通(くまがい ひろみち、1954年10月 - )は、日本の医師、医学者(臨床栄養学・腎臓病学)。学位は医学博士(浜松医科大学・1986年)。 浜松医科大学医学部講師、静岡県立大学食品栄養科学部教授、静岡県立大学健康支援センターセンター長(第2代)、静岡県立大学大学院食品栄養環境科学研究院研究院長(第3代)などを歴任した。 臨床栄養学や腎臓病学を専攻する医学者である。腎臓疾患の患者における栄養障害についての研究で知られている。浜松医科大学に勤務したのち、静岡県立大学で教鞭を執った。アメリカ国立老化研究所でも客員研究員を兼任した。 1954年生まれ。日本医科大学の医学部に進学し、1979年に卒業した。
久喜 邦康(くき くにやす、1954年(昭和29年)5月30… 久喜 邦康(くき くにやす、1954年(昭和29年)5月30日 - )は、日本の医師、政治家。埼玉県秩父市長(3期)、秩父市議会議員(1期)を務めた。 埼玉県秩父市生まれ。祖父は元秩父市長(旧市)の久喜文重郞、父は元秩父市議会議員(旧市)の久喜愛三郎。日本医科大学医学部卒業、同大学院修了。1988年、秩父市で久喜医院を開業。この病院は、2009年の秩父市長選出馬以降は妻(東京女子医科大学卒の医師)が院長を務めており、久喜自身は経営、診療のいずれからも離れている[要出典]。 2003年(旧市)、2005年(現市)には、秩父市長選にいずれも無所属で出馬したが、当時の現職市長の栗原稔に敗れ落選。2006年の秩父市議選に無所属で出馬し、3,353票を獲得。
釜萢 敏(かまやち さとし、1953年7月5日 - )は、日… 釜萢 敏(かまやち さとし、1953年7月5日 - )は、日本の医師・医学者、政治家。自由民主党所属の参議院議員(1期)。医学博士(日本医科大学・1984年)。公益社団法人日本医師会・副会長、小泉小児科医院・院長、公益社団法人日本医師会・常任理事、内閣新型インフルエンザ等対策推進会議委員。厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード構成員、新型コロナウイルス感染症対策分科会委員などを務めた。2025年、引退表明した羽生田俊に代わり第27回参議院議員通常選挙に日本医師会の組織内候補として立候補し当選した。 群馬県高崎市出身。1972年(昭和47年)東京教育大学附属駒場高等学校卒業。1978年(昭和53年)日本医科大学医学部卒業。
春日 武彦(かすが たけひこ、1951年(昭和26年)9月2… 春日 武彦(かすが たけひこ、1951年(昭和26年)9月25日 - )は、日本の精神科医。 京都府生まれ。父も医師であり、厚生省の技官を務めていた時期もあった。1968年都立秋川高校入学、その後静岡県立静岡高等学校に転校卒業、日本医科大学医学部卒業、同大学院衛生学科修了。1986年医学博士。産婦人科医を6年務めた後、精神科医に転向、東京都立松沢病院勤務、東京都立墨東病院神経科部長などを経て、2007年東京未来大学教授。2009年から2010年まで社団聖美会多摩中央病院 院長を務める。2010年から成仁病院に顧問として勤務している。
石井 光(いしい ひかる、1947年 - )は、日本の医師(… 石井 光(いしい ひかる、1947年 - )は、日本の医師(内科)・医学博士、実業家。医療社団法人 光人会 ANK東京がんセンター院長、同会 新日本橋クリニック院長、一般社団法人がん治療設計の窓口院長、ドクターウエルネス株式会社代表を務めた。現・御徒町駅前内科クリニック院長。『医者の罪と罰』(幻冬舎) をはじめとした著書が多数ある。 1972年、日本医科大学卒業。同年5月、医師国家試験合格。1983年学位取得。医療法人社団 光人会 ANK東京がんセンターの院長を勤めた医学博士。主な研究は胃腸の早期ガンの発見と予防、ANK免疫細胞療法、コラーゲンによる萎縮性胃炎の治療・骨密度上昇・軟骨再生・血管老化抑制、予防・豊胸・アンチエイジング(若返り)。
フレディ 松川(ふれでぃ まつかわ、1946年(昭和21年)… フレディ 松川(ふれでぃ まつかわ、1946年(昭和21年)11月12日 - )は、日本の医師。医療評論家。本名、松川フレディ。 京都市生まれ。外国人の父親と日本人の母親の間に生まれる。1972年(昭和47年)、日本医科大学卒業後、日本医科大学第三内科学教室入局。消化器中心に一般内科学専攻。昭和53年、消化器内視鏡に関する研究にて医学博士となる。その後第一期内視鏡認定医となる。1980年(昭和55年)より湘南長寿園病院に勤務。翌年、同病院院長に就任。老人内科専門病院をめざす。 内科学会会員、消化器病学会会員、消化器内視鏡学会会員、老人の専門医療を考える会会員、老人ホーム湘南長寿園嘱託医。
田尻 孝(たじり たかし、1943年5月30日 - )は、日… 田尻 孝(たじり たかし、1943年5月30日 - )は、日本の医学者、外科医。日本医科大学学長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
川並 汪一(かわなみ おういち、1943年4月12日 - )… 川並 汪一(かわなみ おういち、1943年4月12日 - )は、日本の病理学者。茨城県生まれ。 日本医科大学卒。大学院では臨床病理診断学、電子顕微鏡診断学が専門で、修了後にヨーロッパやアメリカの研究施設で経験を積み、日本医科大学に戻り大学院教授になった。肺胞壁や肺がん、「肺肉芽腫性疾患の鑑別診断」、「肺の微小血管内皮細胞のcDNA作製と特異プローブの検討」、「肺胞壁の繊維過程における血管内皮細胞の役割について」等を研究。 1997年、日本医科大学大学院教授を経て緒方知三郎設立の日本医科大学老人病研究所(現・日本医科大学先端医学研究所)所長になる。高橋修和の後を継ぎ、2007年、一般社団法人老人病研究会会長に就任、現在に至る。
佐伯 光(さえき ひかる、1943年4月3日 - )は日本の… 佐伯 光(さえき ひかる、1943年4月3日 - )は日本の元海上自衛官である。最終階級は海将補、三自衛隊初の女性将官であった。医学博士で専門は産婦人科。 夫は第27代自衛艦隊司令官の佐伯聖二海将(平成23年春の叙勲にて瑞宝中綬章を受章)。世界的にも珍しい[要出典]夫婦提督でもある。 女性自衛官の制服にマタニティドレスを加えるなど、女性自衛官の育児環境の向上にも貢献した。なお、自衛隊初の女性将官誕生の背景には、男性社会である自衛隊の中では医官は比較的女子の進出が盛んであったことが挙げられる[要出典]。医官を除いた場合の初めての女性将官は航空自衛隊の梶田ミチ子空将補である。
山本 保博(やまもと やすひろ、1942年 - )は、日本の… 山本 保博(やまもと やすひろ、1942年 - )は、日本の医学者、医師。専門は救急医学、外傷外科学、消化器外科学、感染制御学。医学博士。 東京曳舟病院顧問、日本医科大学名誉教授。元日本体育大学保健医療学部救急医療学科教授、元日本医科大学付属病院高度救命救急センター長、元日本医科大学千葉北総病院院長。 大塚敏文の後任として日本医科大学救急医学教室の主任教授を11年間に渡り務めた。後任の主任教授は、横田裕行。 助教授時代に、救急救命士制度の発足に向けて全国に先立って救急隊員の教育に関わった。
柄谷 行人(からたに こうじん(ゆきと)、本名:柄谷 善男〈… 柄谷 行人(からたに こうじん(ゆきと)、本名:柄谷 善男〈からたに よしお〉、1941年〈昭和16年〉8月6日 - )は、日本の哲学者、文学者、文芸批評家。兵庫県尼崎市出身。戦後日本を代表する批評家である。 筆名は夏目漱石の小説『行人』にちなむとされているが、本人は「kojin」という語感と響きから偶然思いついたと語っている。「国家」「資本」「ネーション」とは区別されるものとして、近年は「アソシエーション」という言葉を強調している。 『意識と自然ー漱石試論』(1969年)で論壇に登場。言葉と人間との関係を追究し、近代を読み直す。著書に『意味という病』(1975年)、『坂口安吾と中上健次』(1996年)、『トランスクリティーク カントとマルクス』(2001年)、『哲学の起源』(2012年)、『帝国の構造』(2014年)、『世界史の構造』(2015年)など。
奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 20… 奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 2008年7月7日)は、日本の歴史学者、日本医科大学名誉教授。日本中世史・日本医学史専攻。 東京生まれ。1961年早稲田大学教育学部卒業、1971年同大学大学院文学研究科博士課程修了(国史)。同年、日本医科大学歴史学教室専任講師、日本医科大学助教授、1986年教授、2002年定年退職、名誉教授。 この他、1986年~2002年早稲田大学教育学部兼任講師や2008年早稲田大学エクステンションセンター講師なども務めた。苗字に関する著書もあり、苗字や名前の歴史学についての専門家でもある。 日本中世の武士を専門に研究、清和源氏、北条氏、鎌倉幕府、源平争乱、姓氏などについての一般向け書物を多数執筆し、大河ドラマ『北条時宗』(2001年)、『義経』(2005年)などで時代考証、監修を行った。
大塚 敏文(おおつか としふみ、1931年9月2日 - 20… 大塚 敏文(おおつか としふみ、1931年9月2日 - 2001年12月16日)は、日本の医学者、医師。専門は救急医学、外傷外科学、外科学。学位は、医学博士。 元日本医科大学理事長、元日本医科大学主任教授、元日本医科大学付属病院病院長。 日本医科大学第一外科学教室入局後、日本医科大学付属病院救急医学科(現在の救命救急科)に勤務。 日本医科大学救急医学教室の初代主任教授に就任後は、日本医科大学付属病院病院長、日本医科大学理事長を歴任した。後任の主任教授は山本保博。 日本救急医学会理事長、救命救急士国家試験委員会委員長を務めた。 2001年12月16日、急性呼吸不全のため死去。
内田 全一(うちだ ぜんいち、1930年(昭和5年)3月6日… 内田 全一(うちだ ぜんいち、1930年(昭和5年)3月6日 - 2012年(平成24年)7月25日)は、昭和から平成時代前期の政治家。精神科医。埼玉県秩父市長。秩父市名誉市民。位階は正五位。 埼玉県秩父郡秩父町(現秩父市)出身。1947年 (昭和18年) 埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)、1954年(昭和29年)日本医科大学医学部を卒業。卒業後、精神科医となる。秩父中央病院院長を務めた。1987年(昭和62年)5月、秩父市長に就任し、2003年(平成15年)4月まで務めた。在任中は西武鉄道の秩父乗り入れ、秩父公園橋の架橋、国道や県道の改良、国道140号雁坂トンネル、皆野寄居バイパスの開通などに尽力した。
松崎 俊久(まつざき としひさ、1930年〈昭和5年〉2月2… 松崎 俊久(まつざき としひさ、1930年〈昭和5年〉2月23日 - 2004年〈平成16年〉5月24日)は、日本の政治家、医師。参議院議員(1期)。 1930年、福島県会津若松市に生まれる。日本医科大学を卒業し、循環器内科に入局。財団法人東京都老人総合研究所(現東京都健康長寿医療センター)疫学第一研究室長や疫学部長を歴任。定年後、琉球大学医学部保健学科保健管理教室教授となる。1995年、第17回参議院議員通常選挙比例区(新進党)で落選したが、1998年6月、繰り上げ当選。同11月、民主党に入党し、1999年、民主党会計監査を務めた。2001年の選挙には出馬せず引退。 2004年5月24日、心不全のため死去。
坪井 榮孝(つぼい えいたか、1929年3月22日 - 20… 坪井 榮孝(つぼい えいたか、1929年3月22日 - 2016年2月9日)は日本の医師。元日本医師会会長、元世界医師会会長。郡山市名誉市民。専門は呼吸器内科(呼吸器がん全般)。叙正三位。 福島県郡山市生まれ。旧制安積中学校(現福島県立安積高等学校)を経て、1952年、日本医科大学卒業。1953年に医籍登録。国立がんセンター病院放射線部医長を経て、1970年、福島県郡山市にて坪井診療所を開設する。1974年、慈山会医学研究所を設立し、理事長に就任。同研究所付属坪井病院において地域医療に従事する。2011年6月より財団法人慈山会医学研究所付属坪井病院名誉理事長。 医師会の活動としては福島県医師会役員を経て、1988年より日本医師会常任理事。
丹 保三郎(たん やすさぶろう、1925年8月23日 - 2… 丹 保三郎(たん やすさぶろう、1925年8月23日 - 2015年9月10日)は、日本の整形外科医。 北海道赤平市においてポリオが流行していた1961年に、治療に当たっていた丹が中心となって重度心身障害児者の会「赤平父母の会」(後に赤平くるみ会)を創設し、以後50年以上に渡り中心的な人物として活動を続けた。 福島県小名浜町(現・いわき市小名浜)に生まれる。 陸軍士官学校(58期)および日本医科大学を卒業し、整形外科医となる。 1958年(昭和33年)3月より赤平市立病院に勤務後、1963年6月に丹整形外科を開業した。 整形外科一般に加え、ポリオ、脳性麻痺児の治療に生涯従事する。
渡辺 位(わたなべ たかし、1925年 - 2009年)は、… 渡辺 位(わたなべ たかし、1925年 - 2009年)は、日本の児童精神科医。元国立精神・神経センター国府台病院児童精神科医長。旧日本統治領朝鮮江原道生まれ。 日本医科大学卒。登校拒否問題の黎明期から、様々な子どもたちと接する中で、当初は「学校に行かれるようにしなければ」と考えていたが、「子どもが学校に行かないのはそれなりの理由がある」ということに気付き、登校拒否を「悪いこと」と考えるのではなく、子どもが様々な可能性を発展させていく契機となると主張するようになった、と語る。 フリースクール「東京シューレ」及び主催者の奥地圭子との関わりも深く、国府台病院を定年退職後は東京シューレを中心に登校拒否・教育問題に関わる執筆・講演などで精力的に活動した。
岸中 士良(きしなか しろう、1924年(大正13年)6月9… 岸中 士良(きしなか しろう、1924年(大正13年)6月9日 - 1994年(平成6年)5月12日)は、立川市長(3期)。医学博士。 石川県出身。1949年(昭和24年)日本医科大学卒。1958年(昭和33年)に立川市で岸中外科医院を開業する。1975年(昭和50年)の立川市長選挙に立候補して当選し、3期務めた。1987年(昭和62年)に引退した。1994年死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
藤間 紫(ふじま むらさき、1923年〈大正12年〉5月24… 藤間 紫(ふじま むらさき、1923年〈大正12年〉5月24日 - 2009年〈平成21年〉3月27日)は、東京都文京区根津出身の日本舞踊家、女優。本名:喜熨斗 綾子(旧姓:河野→藤間)。 日本医科大学元学長で理事長、日本私立大学協会会長も務めた河野勝斎の長女(9人兄弟のうち、4人が芸能、2人が医師)。12歳の時、六世藤間勘十郎に入門した。 夫は三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁、二代目藤間紫)。三世藤間勘祖(藤間高子)と俳優藤間文彦は、前夫六代目藤間勘十郎(二世藤間勘祖)との子。二代目中村藤太郎(前夫の養子となり3代目藤間大助を襲名後、六代目中村歌右衛門の芸養子になり中村藤太郎を襲名)、六代目中村東蔵は弟。
菊地 吾郎(きくち ごろう、1920年1月14日 - 201… 菊地 吾郎(きくち ごろう、1920年1月14日 - 2014年7月24日)は、日本の医学者。日本医科大学学長、東北大学名誉教授。 1920年、山形県生まれ。1931年、旧制京華中学校に進学。1937年、旧制日本医科大学予科入学。1944年、同大学卒業。東北大学教授を定年退官後、同大学名誉教授となる。のち、母校に招かれて、日本医科大学学長を務める。 2014年7月24日、急性呼吸不全のため東京都荒川区の病院で死去。94歳没。
横地 千仭(よこち ちひろ、1918年〈大正7年〉10月25… 横地 千仭(よこち ちひろ、1918年〈大正7年〉10月25日 - 2024年〈令和6年〉8月4日)は、日本の解剖学者、医学博士。神奈川歯科大学名誉教授。『解剖学アトラス』の編著者として知られ、著作は世界23カ国語に翻訳され販売された。晩年は解剖学と芸術を融合させた「アナトミーアート」の提唱者としても活動した。 1918年、群馬県出身。1942年、日本医科大学卒業。1965年、神奈川歯科大学教授となる。1984年、同大学名誉教授に就任。2024年、死去。105歳歿。死後生前の意向により神奈川歯科大学に献体する。
肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27… 肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の政治家、鹿児島県指宿市長(2期)。医師、医学博士。鹿児島県議会議員、山川町議会議員も務めた。位階は正五位。 鹿児島県指宿市出身。旧制鹿児島県立指宿中学校(現鹿児島県立指宿高等学校)、日本医科大学予科を経て、1943年日本医科大学卒業。陸軍に入隊し、陸軍軍医学校卒業後、上海検疫官(陸軍軍医大尉)。1946年7月復員、1946年10月開業。復員後は旧揖宿郡山川町に居住。1953年新制鹿児島大学・旧制県立鹿児島医科大学の桝屋富一内科教室専攻生。1955年4月30日から山川町議会議員を務める。
丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12… 丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12日 - 1994年(平成6年)8月27日)は、日本の医師、精神科医、政治家、教育者。 埼玉医科大学創立者。日本医科大学卒業、医学博士(東京大学)。 埼玉県入間郡毛呂村(現毛呂山町)生まれ。旧制埼玉県立川越中学校から、1939年(昭和14年)3月に日本医科大学を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)精神科教室に入局。教授は内村祐之。医学博士(東京大学)、同年10月海軍軍医(中尉)。1944年(昭和19年)少佐。1947年(昭和22年)に祖父の丸木清太郎が創設した毛呂病院の院長となった。1949年(昭和24年)精神薄弱児施設(現障害児入所施設)育心寮を、1950年(昭和25年)救護施設育心寮を開設。
林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 200… 林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 2001年9月4日)は、東京府出身の詩人、文芸評論家、医師。俳号は空花。 東京府大曲に生まれ、父母の郷里である長崎県に育つ。長崎では芥川龍之介の門人だった渡辺庫輔と交友。慶應義塾大学文学部在学中に佐藤春夫の門人となり、1935年夏頃、佐藤邸にて太宰治と知り合う。1939年、佐藤春夫の序文を得て、第一詩集『誕生日』(私家版)を刊行(林修平名義)。しかし、薬物中毒や自殺未遂を繰り返す太宰の激しい生き方を見て一度は文学を断念した。 慶應義塾大学を中退して日本医科大学を卒業し、医師となる。1943年、文学青年時代の三島由紀夫と知り、当時まだ無名だった三島の才能を高く評価。
三浦 豊彦(みうら とよひこ、1913年11月24日 - 1… 三浦 豊彦(みうら とよひこ、1913年11月24日 - 1997年12月31日)は、日本の労働衛生学者。 台湾生まれ。日本医科大学卒、1948年「産業従業員の履物に関する研究」で医学博士。1940年大原記念労働科学研究所に入り、1971年副所長。温度や騒音などの労働環境を幅ひろく研究、白蝋病の職業病認定に力をそそいだ。1980年大気汚染研究協会賞(斎藤潔賞)受賞。
加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月2… 加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月21日 - 2002年(平成14年)5月8日)は、日本の医師。伊勢市長(3期)。 大分県出身。1934年(昭和9年)日本医科大学卒。京都大学耳鼻咽喉科教室を経て、日本赤十字社三重支部山田病院に勤務し、同病院副院長兼耳鼻咽喉科長などを務める。1972年(昭和47年)5月、伊勢市長選挙に当選、老人医療費無料化を実現させた。市政では医療、福祉面での政策に力を入れ、市内の小中学校の鉄筋化、清掃工場の建設、スポーツ施設の整備などあらゆる政策を遂行した。さらにモットーである「市民のための市政」を推進し、産業、教育、福祉の充実に力点を置いた。1984年(昭和59年)5月に市長を退任。
八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 198… 八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 1986年12月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。 現在の福島県会津若松市出身。父は陸軍省参与官などを務めた八田宗吉。会津中学を経て1933年に日本医科大学を卒業後、東京市衛生試験所医学部長、厚生省国立衛生試験所細菌部長、日本医科大学教授を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙に自由党公認で福島2区から立候補し初当選。以後通算当選9回。恩給問題に詳しく、予算編成では党の実力者として恩給予算の適正化に尽力した。 自由民主党では池田→前尾→大平派に所属し、1962年には第2次池田内閣第2次改造内閣において内閣官房副長官を務めるなどしたが、1963年に同一選挙区から初当選した伊東正義が大平正芳の古くからの親友であったため、以降伊東に地盤を切り崩されるようになる。
米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月3… 米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月31日 - 1991年〈平成3年〉3月3日)は、日本の医師、浄土真宗の伝道者。 福井県福井市生まれ。旧制第四高等学校文科を経て、日本医科大学を卒業。医学博士。開業医のかたわら、親鸞聖人の教えに深く帰依し、多数の著作、全国各地での法話・講演などで、多くの念仏者を生み出した。著述、講演による伝道者・実践者としての功績で1989年<平成元年>第23回仏教伝道文化賞を受賞。
指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1… 指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1969年〈昭和44年〉3月24日)は、日本の医師、政治家。東京都田無市(現在の西東京市)長を務めた(2期)。 熊本県宇土市出身。日本医科大学を卒業した。戦時中は軍医として活動する。1945年、広島で原子爆弾により被爆する。この時の被爆体験を記録し、後日『原爆日記』として出版した。1953年12月、東京都北多摩郡田無町で開業する。1962年、田無町長に就任した。田無町は東京のベッドタウンとして人口が急増し、町長2期目の1967年に田無町は市制施行した。教育施設の整備のほか、急増する人口にともない、ゴミや屎尿の処理が大きな問題となり、市内に屎尿処理場を建設することを決定した。
肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908年10月9日 - 1… 肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908年10月9日 - 1946年3月8日)は、日本の医学者。第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力し、現地で病没した。ヴリーツェン市名誉市民、医学博士(ベルリン大学) 1908年、東京の八王子の外科医・肥沼梅三郎とハツの次男(長男とも)として生まれる。父・梅三郎は済生学舎に学んだ軍医で、八王子市中町で医院を開業していた。信次の妹の梅治はのちに、子爵で日本医科大学細菌学研究所員の花園公栄に嫁いだ。 東京府立二中(現立川高校)を卒業後医学を志し、日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へと進み、1937年、日本政府の国費留学生としてドイツに渡り、ロベルト・コッホ研究所を経てベルリン大学医学部放射線研究室の客員研究員となる。
大河内 一郎(おおこうち いちろう、1905年11月14日 … 大河内 一郎(おおこうち いちろう、1905年11月14日 - 1985年5月22日)日本の医師、医学博士、開業医、社会事業家。茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)出身。日本医科大学卒。 私財を投じ、福島県平市(現・いわき市)に、東北・北海道で最初の肢体不自由児施設・福島整肢療護園を開設。 医療と教育を通して、障害者の自立のためにつくした。 1905年茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)生まれ。 父・大河内友蔵は、鹿嶋市で剣道・柔道を教えていた。不二心流の大河内縫殿三郎・門人 藤城吉高、及び大河内正道に同流剣法を学ぶが、その後、正道の養子となり、不二心流五代目免状を受領し、大河内友蔵と名を改める。 鹿島神傳直心陰流・榊原健吉、一刀正傳無刀流・山岡鉄舟のもとでも修行して取立免状を受領する。
井上 一男(いのうえ かずお、1903年〈明治36年〉8月1… 井上 一男(いのうえ かずお、1903年〈明治36年〉8月15日 - 1974年〈昭和49年〉2月1日)は、日本の医師。 台湾台南市の鉄道省官舎で生まれる。父は鉄道省技官。台北第一中学校(現・台北市立建国高級中学)を経て大正13年早稲田大学理工学部を卒業後、昭和3年日本医科大学卒業。千葉医科大学(現千葉大)で衛生学を研究。戦前本郷にて井上耳鼻咽喉科病院を経営。その傍ら、福島女子医専(現福島県立医大)で「女医育成」に尽くした。厚生省技官。日本医科大学武蔵小杉病院(別称丸子病院)の設立に尽くした。 敗戦後荒廃した国土(米国の占領下)で国際交流しようにも国民の気力も国家の財政的な余力もなかった時代に、戦前から知己関係にあったドイツ人のミッヘル神父(後に上智大学教授)等と協力して戦争ですさんだ日本とアジア各国(中国、インドネシア、フイリッピン他)の民間交流の芽を育て多くの留学生の世話をした(当時のジャパンタイムズやNHKラジオ放送などでとりあげられ海外に紹介された)。
金子 丑之助(かねこ うしのすけ、1903年(明治36年) … 金子 丑之助(かねこ うしのすけ、1903年(明治36年) - 1983年(昭和58年))は、日本の医学者、解剖学者。日本医科大学名誉教授、埼玉医科大学教授。解剖学の権威として知られた。1977年、勲三等瑞宝章受賞、松伏町初代名誉町民。 埼玉県北葛飾郡金杉村(現・松伏町)出身。埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)を大正10年に卒業した後、日本医科大学に入学。1928年 日本医科大学専門部卒業。東京帝国大学解剖学教室に入室。1929年から1931年日本歯科医専教授。1929年昭和医専教授。1930年日本医科大学講師、1936年助教授。1944年教授。1971年定年退職。その後1975年-1978年に埼玉医科大学の教授も務めた。
丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月… 丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月27日 - 1992年(平成4年)3月6日)は、日本の医学者、皮膚科医。第6代日本医科大学学長、同大学名誉教授。皮膚結核および癌の治療薬を目指していた丸山ワクチンの開発者である。医学博士(東京大学)。長野県茅野市出身。 1901年、長野県諏訪郡金沢村(現在の茅野市の一部)にて、小学校訓導の父・小三郎と母・はつの五男一女の末っ子として生まれる。 1908年、金沢村金沢尋常小学校(現在の茅野市立金沢小学校)入学。1914年、豊田尋常高等小学校尋常科を卒業、富士見金沢組合立富士見高等小学校に入学。1915年、東京の日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)入学。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1… 山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1968年5月20日)は、日本の医師、弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。日本医学校(現・日本医科大学)に学び、1920年、明治大学法律科を卒業する。医師となり、警視庁検疫医員、長谷川病院勤務、仁寿生命保険(株)審査医となる。精工塗料(資)代表社員、東洋青果市場(株)取締役、東京都指圧師会長を務める。弁護士の業務に従事し、東京市議、東京都議となった。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において東京7区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1936年の第19回衆議院議員総選挙で当選した。1937年の第20回衆議院議員総選挙では昭和会から立候補したが落選した。
中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28… 中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28日 – 1971年(昭和46年)10月5日)は日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 1889年兵庫県津名郡仮屋町(現淡路市)に生まれる。日本医学校(現日本医科大学)を卒業後、1911年に医師免許を取得し、翌年神戸市で開業する。その後鈴蘭台病院院長になり、戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に兵庫県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して3位で当選した。翌年の第23回衆議院議員総選挙では兵庫2区から民主党公認で立候補したが落選した。落選後は論文「人體に於けるBCG皮内接種の局所反應とツベルクリン反應との關連に就て」により1949年に大阪大学から医学博士の学位を取得し、自民党に入党して兵庫県連顧問になった。
松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月… 松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月12日 - 1979年〈昭和54年〉11月13日)は、日本の皮膚科・泌尿器科医師、政治家。広島県医師会会長。日本赤十字社理事。医学博士。広島市名誉市民。広島市会議長(21代、22代)。広島市会副議長(28代)。 宮城県仙台市出身。松坂佐兵衛の長男。1908年(明治41年)、日本医学校(現・日本医科大学)卒業。同年11月より1912年(明治45年)3月まで東大医学部専攻生。1929年(昭和4年)11月より1934年(昭和9年)3月まで東大医学部研究生。 1912年(明治45年)3月、広島県警察医。1915年(大正4年)、開業する。1921年(大正10年)、広島市会議員に当選する。
増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日… 増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日 - 1965年(昭和40年)6月21日)は、日本の医師、政治家。 奥富村(現・狭山市)出身。1909年、日本医学校(現日本医科大学)を卒業。1920年、飯能町(現・飯能市)に病院を創設した。戦後、飯能町議会議員に当選、公約の学校給食の実施を行った。1949年、細田栄蔵に替わり町長に就任したが、元加治分村問題を受け、1952年に辞任した。 1958年、飯能市長選に出馬したが、現職の町田右之亮に敗れた。1962年、飯能市長に無投票当選。公約の下水道と終末処理場の建設を行った。在職中の1965年6月21日に79歳で急死した。 菊作りと蘭の栽培でも知られる。