スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
京増 修史(きょうます しゅうし、1996年6月4日 - )… 京増 修史(きょうます しゅうし、1996年6月4日 - )は、日本のピアニスト。 宮城県仙台市出身。4歳よりピアノを始める。京華中学高等学校を卒業後、東京藝術大学音楽学部器楽科ピアノ専攻を首席で卒業し、安宅賞、藝大クラヴィア賞、アカンサス音楽賞、同声会賞、三菱地所賞を受賞。また同大学大学院修士課程音楽研究科修了時、藝大クラヴィア賞、大学院アカンサス音楽賞を受賞。 2021年第18回ショパン国際コンクール本選2次予選まで進む。2022年ロン=ティボー国際コンクール出場。2024年第12回浜松国際ピアノコンクール出場。2025年第19回ショパン国際コンクール出場。 日本国内を中心にリサイタル活動を行う。
碓井 将大(うすい まさひろ、1991年〈平成3年〉12月3… 碓井 将大(うすい まさひろ、1991年〈平成3年〉12月3日 - )は、日本の俳優、タレント。 東京都出身。生まれは新潟県上越市。日出高等学校卒業。 2007年5月、第4回D-BOYSオーディションでグランプリを獲得。これによりワタナベエンターテインメントの所属タレントとなる。 同年10月、テレビドラマ『チョコミミ』でデビュー。12月、D-BOYSに加入。母親がデザイナーであり、その影響で元々はモデル志望だったが、D-BOYS加入をきっかけに芝居に興味を持つ。 2008年2月、スーパー戦隊シリーズ『炎神戦隊ゴーオンジャー』にて、城範人 / ゴーオングリーン役で出演。 2011年、舞台『ピアフ』にて大竹しのぶの恋人役を務め、2013年、2016年の再演でも同キャストを演じた。
金川 恵理(かねかわ えり、1988年9月28日 - )は、… 金川 恵理(かねかわ えり、1988年9月28日 - )は、日本のフリーアナウンサー。 聖心女子大学在学中の2010年、「ミス椿の女王コンテスト」(伊豆大島観光協会主催)の第19代女王に選出され、観光キャンペーン、観光PRイベント等で活動。 大学を卒業後、ブライダル関連企業勤務を経て、京華中学高等学校事務職員となる。学校職員在職中の2017年6月に、文化放送『The News Masters TOKYO』の番組企画である「働き女子♪パーソナリティ」のオーデイションに合格。同番組のリポーター、インターネット音声配信サービス「Voicy」とのタイアップによるネットラジオのパーソナリティを務めた。 その後、2018年6月から2020年2月まで茨城放送のアナウンサーを務めた。
三遊亭 志う歌(さんゆうてい しうか、1982年7月7日 -… 三遊亭 志う歌(さんゆうてい しうか、1982年7月7日 - )は、落語家である。落語協会所属。紋:二ツ巴。出囃子:ベロベロの神様。本名:磯部 成伸。 1982年7月、東京都大田区山王生まれ。京華中学高等学校を経て、二松學舍大学中退。大学時代は、落語研究会に所属。 2004年8月、三遊亭歌武蔵に入門する。2005年8月、春風亭一左と共に前座として楽屋入り。前座名は「勝って兜の尾を締めよ」の兜から「歌ぶと」。2008年11月、三遊亭たん丈、春風亭一左、柳亭市楽と共に二ツ目に昇進し「三遊亭歌太郎」と改名する。2017年10月、NHK新人落語大賞を受賞した。 2020年3月21日からの鈴本演芸場3月下席より三遊亭丈助(たん丈改め)、春風亭一左、六代目玉屋柳勢(市楽改め)、三遊亭歌扇と共に真打に昇進し、高座名を「三遊亭志う歌」に改名した。
和田 一樹(わだ かずき、1981年1月9日 - )は、日本… 和田 一樹(わだ かずき、1981年1月9日 - )は、日本の指揮者。 東京都中野区出身。 京華中学高等学校、尚美学園大学作曲コースを経て、東京音楽大学音楽学部音楽学科指揮科卒業。 2009年、オーケストラ・アンサンブル金沢主催第1回井上道義指揮講習会にて優秀賞受賞、2011年ブラジルロンドリーナ音楽祭優秀賞を受賞。2015年、ルーマニアで開催された第6回ブカレスト国際指揮者コンクールにて準優勝、2017年にはヤシ・モルドヴァ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、ヨーロッパデビューを果たす。 国内外のオーケストラを数多く指揮。 メディアでの活躍も多く、フジテレビ系ドラマ『のだめカンタービレ』で指揮指導を行い、のだめオーケストラでもオーケストラを指揮した。
大佑(だいすけ、本名:押田 大佑〈おしだ だいすけ〉、197… 大佑(だいすけ、本名:押田 大佑〈おしだ だいすけ〉、1978年7月30日 - 2010年7月15日)は日本の歌手、ドラマー。東京都出身。 Fatimaまではドラマーを務めていた。Fatimaを脱退後、鬱状態に入っていたころにDIR EN GREYの京と出会い、ボーカルへの転向を勧められる。その後結成した蜉蝣では「カリスマボーカル」を名乗っていた。 蜉蝣ではほぼ全ての楽曲の作詞を手掛ける。今でこそビジュアル系のバンドが欧州や欧米で人気であるが、蜉蝣の欧州進出はかなり早く、特にフランスでは大佑の知名度は絶大に高く、動員数も最高クラスであった。 「大佑と黒の隠者達」では、そのコンセプトとして、音楽以外にも芝居の要素を取り入れることを理想としている。
石塚 真一(いしづか しんいち、1971年 - )は、日本の… 石塚 真一(いしづか しんいち、1971年 - )は、日本の漫画家。茨城県常総市出身で、2002年にデビュー。主な作品に『岳 みんなの山』や『BLUE GIANT』がある。 1971年、茨城県水海道市(現在の常総市)で生まれた。祖父は木彫り彫刻師、母は美術教師であった。中学校ではブラスバンド部に所属、京華高等学校在学時代は、何も目標がなかったと述懐している。南イリノイ大学新潟校に進学し、22歳のときにアメリカの本校に渡った。ジャズに出会ったのはブルース・バンドでギターを弾いていた20歳のころであるという。その後山に魅せられ、気象学を専攻するためにカリフォルニアのサンノゼ州立大学に転籍。渡米中にルームメイトの誘いをきっかけにロック・クライミングも始めている。
ピグモン 勝田(ピグモン かつた、本名:勝田 啓司〈かつた … ピグモン 勝田(ピグモン かつた、本名:勝田 啓司〈かつた けいじ〉、1965年4月1日 - 1994年10月24日)は、大川興業所属のお笑い芸人。 父はテレビ朝日の元プロデューサー・勝田康三。母も一時期、女優として活動していた経験があった。 1965年、東京都に生まれる。文京区の京華高校普通科から青山学院大学卒業後は、広告代理店に勤務。1990年に大川興業に入団。尊敬する芸能人は田原俊彦で、彼を人生の目標としていた。 真面目な性格で、「もし1万人の友達が出来たら武道館でパフォーマンスが出来る」という目標にしていた。座右の銘は「まだまだ」、21世紀の目標は「平穏な日々を送ること」だった。大島勝美との漫才コンビ「トーキング」としても活動していた(大島は勝田の死後、「プリオ」を結成)。
本間 ひろむ(ほんま ひろむ、1962年 - )は、日本の批… 本間 ひろむ(ほんま ひろむ、1962年 - )は、日本の批評家/アーティスト。クラシック音楽評論の著作のほか、音楽配信も行っている。「右手にFenderのピック、左手にPARKERの万年筆を持って生まれて来た」とAmazon等の著者情報や著書のプロフィールに書いている。左利き(箸、習字の筆、ギター演奏は右)。 1962年、文京区の東京医科歯科大学付属病院で生まれる。生家は台東区入谷。京華高等学校卒業。大阪芸術大学芸術学部文芸学科中退。 高校在学中に作詞作曲、楽器演奏、バンド活動、小説執筆をスタート。ライヴハウスやホールで演奏。 1978年(高校1年)、短期留学先のアメリカで将来について訊かれ、「ペーパーバックライターだよ」と答えている(著書『アルゲリッチとポリーニ』のあとがき)。
宇納 佑(うのう たすく、1959年4月23日 - )は、岐… 宇納 佑(うのう たすく、1959年4月23日 - )は、岐阜生まれの日本の俳優。早稲田大学在学中より演劇活動を始める。卒業後、京華中学高等学校で国語科教員として教壇に立つ。1989年より劇団ラッパ屋所属。別名は宇納侑玖。 映画・TVドラマ・声優・CMなどに脇役ながら多数出演。 ラッパ屋主催の舞台劇『裸でスキップ』などスカイパーフェクTV!で放映された(2004年)。
グレート義太夫(グレートぎだゆう、1958年〈昭和33年〉1… グレート義太夫(グレートぎだゆう、1958年〈昭和33年〉12月26日 - )は、日本のお笑いタレント、ミュージシャン。本名は鈴木 正之(すずき まさゆき)。株式会社TAP所属。 東京都板橋区出身。私立京華高校卒業、亜細亜大学中退。 元小結の國登國生は叔父にあたる。 大学時代、音楽系サークルでドラマーとして活動しているうちに、プロミュージシャンを目指すようになる。バンド『雷神』を組み、アマチュアとして活動していた。 『ビートたけしのオールナイトニッポン』のリスナーであった義太夫は、ビートたけしのファンとなり弟子志願をするが、その際ドラムが特技であることを披瀝し、当時のたけしのバックバンド『シークレット・ポリス』に加入することになった。
黒部 幸英(くろべ ゆきひで、1958年9月7日 - )は、… 黒部 幸英(くろべ ゆきひで、1958年9月7日 - )は、日本のタレント。東京都墨田区出身。通称クロベエ。鳳神ヤツルギのヒロインなどを演じる笹丘明里は娘。
大島 敦(おおしま あつし、1956年12月21日 - )は… 大島 敦(おおしま あつし、1956年12月21日 - )は、日本の政治家。中道改革連合所属の衆議院議員(10期)、立憲民主党埼玉県連代表。 内閣府副大臣(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、総務副大臣(野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣・野田第3次改造内閣)、素交会会長、民進党幹事長(第3代)、希望の党幹事長兼政策調査会長、希望の党代表代行、旧国民民主党選挙対策委員長、立憲民主党組織委員長を歴任した。 埼玉県北本市生まれ。京華高等学校、早稲田大学法学部卒業(ゼミは会社法)。1981年に大学卒業後、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)へ入社。同社に14年間勤務し、輸出営業を担当、3年半のドイツ駐在を経験する。
中村 明彦(なかむら あきひこ、1946年(昭和21年)7月… 中村 明彦(なかむら あきひこ、1946年(昭和21年)7月27日 - )は、日本の政治家。民主党所属の元東京都議会議員(3期)。東京都議会議長(第44代)。元台東区議会議員(2期)。 東京学芸大学附属追分小学校・東京学芸大学附属竹早中学校・京華中学高等学校卒業。日本大学法学部政治経済学科卒業。 1991年に台東区議会議員選挙に出馬し当選、1999年まで2期を務める。その間、台東区議会文教保健委員会副委員長・台東区議会災害対策特別委員会委員長・台東区議会副議長などを歴任。 2001年の東京都議会議員選挙に民主党公認で出馬し当選。2003年に都議会民主党総務会長、2005年に都議会民主党幹事長に就任。
平岡 正明(ひらおか まさあき、1941年(昭和16年)1月… 平岡 正明(ひらおか まさあき、1941年(昭和16年)1月31日 - 2009年(平成21年)7月9日)は、日本の評論家。東京都出身。 東京市本郷区湯島新花町(現・東京都文京区湯島2丁目)に生まれる。1945年6月、空襲を避けて神奈川県足柄下郡酒匂町(現・小田原市)に疎開。酒匂小学校を経て、1949年7月に東京へ戻り、文京区立汐見小学校に転校。父が旭光学の社長の運転手になったため、同校6年の夏休みに東京都板橋区志村前野町の旭光学寮に転居。京華中学校を経て、1959年7月に同高等学校を卒業。同校では漢文を千田九一に、古文を竹盛天雄に、現代文学を古林尚・紅野敏郎に学ぶ。 7月卒業となったのは、高校の卒業試験を受けている時、カンニングの発覚を恐れて教師の前で答案を破り卒業保留処分を受けたためである。
山下 敬二郎(やました けいじろう、本名:山下 啓次郎(やま… 山下 敬二郎(やました けいじろう、本名:山下 啓次郎(やました けいじろう)、1939年2月22日 - 2011年1月5日)は、東京都出身のロカビリー歌手。不良のやる音楽というロカビリーのイメージを決定づけたと言われている。 落語家・喜劇俳優の柳家金語楼と新橋花柳界の芸者の間に非嫡出子として生まれる。異母兄に作家・演出家の山下武、実妹は女優・声優の有崎由見子、いとこに喜劇女優の小桜京子。(艶福家として知られていた金語楼には本妻以外の女性との家庭が複数あり、各家庭に収入を当分して与え「山下」の表札を掲げさせていた。多い時で7人、金語楼の葬儀時で5人の妻がいたという。) 東京の麹町に生まれ牛込で育った。
奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 20… 奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 2008年7月7日)は、日本の歴史学者、日本医科大学名誉教授。日本中世史・日本医学史専攻。 東京生まれ。1961年早稲田大学教育学部卒業、1971年同大学大学院文学研究科博士課程修了(国史)。同年、日本医科大学歴史学教室専任講師、日本医科大学助教授、1986年教授、2002年定年退職、名誉教授。 この他、1986年~2002年早稲田大学教育学部兼任講師や2008年早稲田大学エクステンションセンター講師なども務めた。苗字に関する著書もあり、苗字や名前の歴史学についての専門家でもある。 日本中世の武士を専門に研究、清和源氏、北条氏、鎌倉幕府、源平争乱、姓氏などについての一般向け書物を多数執筆し、大河ドラマ『北条時宗』(2001年)、『義経』(2005年)などで時代考証、監修を行った。
木村 東道(きむら とうどう、1935年11月4日 - 20… 木村 東道(きむら とうどう、1935年11月4日 - 2007年7月8日)は、書家。木村卜堂の長男として東京都荒川区に生まれる。本名は繁男、東道は号。
小野 旭(おの あきら、1934年 〈昭和9年〉 1月2日 … 小野 旭(おの あきら、1934年 〈昭和9年〉 1月2日 - 2010年〈平成22年〉 9月15日)は、日本の経済学者。専門は労働経済学。一橋大学名誉教授、労働政策研究・研修機構理事長。1981年から1984年まで、日本経済学会常任理事。2000年、紫綬褒章受章。1973年、日経・経済図書文化賞受賞。1982年、エコノミスト賞受賞。1989年、日経・経済図書文化賞受賞。1991年、東京海上各務記念財団賞受賞。2009年、瑞宝中綬章受章。位階は従四位。 1934年、東京都文京区生まれ。1946年、文京区立誠之小学校卒業。1949年、京華中学校卒業。1952年、東京都立九段高等学校卒業。1957年、一橋大学商学部卒業。
武満 徹(たけみつ とおる、1930年〈昭和5年〉10月8日… 武満 徹(たけみつ とおる、1930年〈昭和5年〉10月8日 - 1996年〈平成8年〉2月20日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。 濱田徳昭に対位法・和声を学び、作曲を清瀬保二に師事したが、東京音楽学校の入学試験を放棄。その後、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた「ノヴェンバー・ステップス」によって、日本を代表する現代音楽家となった。 1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は立憲政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた。
式 正英(しき まさひで、1927年1月1日 - 2024年… 式 正英(しき まさひで、1927年1月1日 - 2024年9月28日)は、日本の地理学者、お茶の水女子大学名誉教授。 東京府荏原郡入新井町(現東京都大田区)生まれ。1948年第一高等学校理科甲類卒業、1951年東京大学理学部地理学科卒業、1953年同大学院前期課程修了、建設省地図調査部地理部勤務、1959年お茶の水女子大学文教育学部講師となり、1961年助教授、1973年教授。1978年文教育学部長、1992年定年退官、名誉教授となる。2024年9月28日、肺炎のため東京都内の病院で死去。97歳没。 2005年11月瑞宝中綬章受章。
杉村 隆(すぎむら たかし、1926年4月20日 - 202… 杉村 隆(すぎむら たかし、1926年4月20日 - 2020年9月6日)は、日本の医学者(生化学・腫瘍学)・医師。学位は、医学博士(東京大学・1957年)。国立がんセンター名誉総長、東邦大学名誉学長、国立がん研究センター名誉総長。日本学士院会員。文化功労者。位階は従三位、勲等は勲一等。 東京大学医学部助手、財団法人癌研究会癌研究所研究員、国立がんセンター研究所研究員、国立がんセンター研究所生化学部部長、国立がんセンター研究所所長、国立がんセンター総長、東邦大学学長、日本学士院院長などを歴任した。 生化学と腫瘍学を専攻する東京府出身の基礎医学研究者である。国立がんセンター在職時に東京大学医科学研究所教授に併任された。
吉野 昌甫(よしの まさとし、1926年 - 2012年)は… 吉野 昌甫(よしの まさとし、1926年 - 2012年)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。専攻は金融論、国際金融論、国際経済学。 1926年に生まれる。旧制京華中学校(現京華中学高等学校)を経て、1948年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業。大学では鬼頭仁三郎ゼミに所属していたが、鬼頭が死去したため小泉明ゼミナールに参加するも小泉が病気になり、中山伊知郎ゼミに入った。1953年に茨城大学文理学部助教授となり、1959年に一橋大学商学部助教授へ移籍する。1967年に同大学経済学部教授となる。1989年に定年退官した。同年に東洋大学経営学部教授となった後に、1995年に駿河台大学経済学部教授に就任する。
平泉 洸(ひらいずみ あきら、1924年2月16日 - 19… 平泉 洸(ひらいずみ あきら、1924年2月16日 - 1995年10月7日)は、日本の歴史学者である。平泉寺白山神社宮司・玄成院第二十五世。金沢工業大学名誉教授。 東京に、平泉澄の長男として生れる。京華中学校・大阪高等学校を経て、1948年東京大学文学部国史学科卒業。福井県立勝山高等学校教諭、福井県立勝山精華高等学校(のちの福井県立勝山南高等学校)教諭などを歴任し、1972年から、金沢工業大学教授。1980年、平泉寺白山神社宮司。1994年、金沢工業大学を退官して、名誉教授となった。 金沢工業大学教授平泉隆房の父。
金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27… 金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1995年〈平成7年〉1月20日)は、日本の俳優・料理研究家・司会者・タレント。妻は丹阿弥谷津子。愛称は「ネコさん」。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身。母方の祖父は元彰義隊で、厳しい家系で家族親族からは役者になったことをずっと「河原乞食」と蔑まれていたという。歯科医の家庭に生まれたが、小学校1年の時から結核を患っており20歳まで闘病生活を送った。中学から下谷で育ち、京華学園を卒業。 役者に興味はなく、久保田万太郎直筆の推薦状を持った友人の付き添いで文学座に行ったら、中村伸郎に軽くあしらわれたことに腹を立て、出入りしていた錦町岸の錦橋閣の息子・奥野匡から「もし、やるなら演出部に来い」と言われ、「文学座に行けば女の顔が見れるだろ」と冷やかしで、1943年(昭和18年)に文学座所属俳優として芸能界入りする。
菊地 吾郎(きくち ごろう、1920年1月14日 - 201… 菊地 吾郎(きくち ごろう、1920年1月14日 - 2014年7月24日)は、日本の医学者。日本医科大学学長、東北大学名誉教授。 1920年、山形県生まれ。1931年、旧制京華中学校に進学。1937年、旧制日本医科大学予科入学。1944年、同大学卒業。東北大学教授を定年退官後、同大学名誉教授となる。のち、母校に招かれて、日本医科大学学長を務める。 2014年7月24日、急性呼吸不全のため東京都荒川区の病院で死去。94歳没。
楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 200… 楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 2008年9月13日)は、日本の撮影技師である。名の読み「ひろゆき」は誤りである。 1916年(大正5年)4月14日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 旧制・京華中学校(現在の京華高等学校)を卒業する。1934年(昭和9年)、松竹蒲田撮影所に入社、撮影部に配属されて撮影助手となる。小原譲治、厚田雄春らに師事する。1936年(昭和11年)、撮影所が蒲田から新設の松竹大船撮影所に引越し、楠田も異動になる。 1943年(昭和18年)、技師に昇進し、木下恵介監督の第1作『花咲く港』で、木下とともに一本立ちする。また、翌1944年(昭和19年)に木下の妹の芳子(のちに脚本家として活動する)と結婚する。
藤沢 武夫(藤澤 武夫、ふじさわ たけお、1910年11月1… 藤沢 武夫(藤澤 武夫、ふじさわ たけお、1910年11月10日 - 1988年12月30日)は、日本の実業家。自動車メーカーの本田技研工業(ホンダ)に代表される工業系の企業で経営面を務めることが多かった。 本田宗一郎と共にホンダを世界的な大企業に育て上げた。本田宗一郎の名参謀と言われ、本田は藤沢に実印と会社経営の全権を委ね、自らは技術者に徹していた。 劇作家で舞台演出家の藤沢文翁は孫にあたる。 1910年(明治43年)、東京府東京市小石川区中富坂町(現・東京都文京区小石川)で父秀四郎、母ゆきの間に生まれる。藤沢家は現在の茨城県結城市で代々漢方医を務める名家だったが、藤沢の祖父の代で廃業となり、秀四郎は上京した。
中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2… 中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2005年6月20日)は、日本の外科医、外科医学者。 山梨県白州町に医師中村進の長男として生まれる。東京出身。旧制新潟高等学校卒。1934年、千葉医科大学卒。瀬尾貞信の元で学ぶ。1936年、同助手。1938年、医学博士。1947年、千葉医科大学教授、のち組織改編により千葉大学医学部教授。1964年、国際外科学会の「世紀の外科医賞」を受賞。1965年、東京女子医科大学客員教授。同大に消化器病センターを設立。同年中山癌研究所を創設。1966年ベルツ賞1等賞を受賞。日本消化器外科学会会長、国際外科学会会長。1991年、がん医学の中山恒明賞を創設。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985… 十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本の俳優。本名は小倉 久雄。東京府東京市日本橋区小網町(現:東京都中央区日本橋小網町)出身。 軽妙洒脱な演技で多くの映画に出演し、個性派の脇役俳優として活躍した。戦前は長岡輝子らのテアトル・コメディに参加し舞台で活動、戦後から映画に出演し、作品数は250本を超える。 幼いころから芸の世界に親しみ(⇒人物)、暁星小学校から京華中学校を経て法政大学経済学部に入学し、在学中の1928年に高見順主宰の劇団制作座に参加。 1930年、大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知り合った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子らが結成したテアトル・コメディの創立に参加し、『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』の主役で初舞台を踏む。
井口 基成(いぐち もとなり、1908年5月17日 - 19… 井口 基成(いぐち もとなり、1908年5月17日 - 1983年9月29日)は日本のピアニスト・ピアノ教育家。妹の井口愛子(後に佐藤愛子)と、前妻の井口秋子もピアニスト・ピアノ教育家という音楽一族。 井口基二と秀の長男として東京府東京市日本橋区浜町(現東京都中央区日本橋浜町)に生まれる。 1915年、浜町尋常小学校入学。1921年、京華中学校入学。16歳から田中規久士にピアノを師事。東京音楽学校器楽部ピアノ科にて高折宮次、レオニード・コハンスキに師事する。卒業後フランスに留学、イヴ・ナットのもとで研鑽を重ねた。1934年、帰国後初のリサイタルを日比谷公会堂で行い、その後活発な演奏活動を展開する。
中田 孝(なかだ たかし、1908年3月8日 - 2000年… 中田 孝(なかだ たかし、1908年3月8日 - 2000年8月15日)は、日本の機械工学者。東京工業大学名誉教授。元日本機械学会会長。元計測自動制御学会会長。元日本学士院会員。日本学士院賞受賞。 東京府東京市浅草区生まれ。京華中学校卒業後、数学が得意だったため、入試に国語がなかった東京高等工業学校に進学し、関口八重吉に師事した。1928年東京高等工業学校機械科卒業。1932年一期生として東京工業大学工学部機械工学科卒業、東京工業大学機械工学科実験室助手。 1939年東京工業大学精密機械研究所助教授。1944年東京工業大学精密機械研究所教授、工学博士。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、和栗明九州大学教授とともに日本学士院賞を受賞。
犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日… 犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日 - 1998年〈平成10年〉10月3日)は、日本文学者(万葉学者)。大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授。文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長。 1907年、下谷区谷中清水町一番地(現・東京都台東区池之端3-1)に生まれた。1929年、第五高等学校文科甲類を卒業。東京帝国大学文学部国文学科に進み、1932年に卒業した。 卒業後は、神奈川県立横浜第一中学校教諭となる。1942年、台北高等学校教授に任じられる。高等学校では国文学を教え、東京帝国大学文学部卒業後、台北高校で教鞭を執り、辜寛敏や竹内昭太郎の担任を務めた。終戦後は大阪大学で教授として教えた。
吉河 光貞(よしかわ みつさだ、1907年1月16日 - 1… 吉河 光貞(よしかわ みつさだ、1907年1月16日 - 1988年4月17日)は、日本の検察官、司法・法務官僚。 東京府生まれ。京華中学、第一高等学校 (旧制)(一高)を経て、東京帝国大学法学部に入学。在学中は新人会に属し田中清玄らと並び称され、日本共産党にも入党した。1930年(昭和5年)大学卒業、直後に離党。 1932年司法官試補となり、各地の裁判所で検事を務める。東京地方裁判所時代には主任検事(思想検事)として1941年のゾルゲ事件の捜査に参加、リヒャルト・ゾルゲを取り調べた。 戦後は公職追放を免れ、法務庁事務官を経て1948年(昭和23年)に設置された法務庁特別審査局(後の公安調査庁)の初代局長、翌1949年に改称された法務府でも局長などを務めた。
河野 鷹思(こうの たかし、本名・河野孝、1906年3月21… 河野 鷹思(こうの たかし、本名・河野孝、1906年3月21日 - 1999年3月23日)は、日本のグラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナー。愛知県立芸術大学名誉教授。日本における商業デザインの草分けの1人。 東京都神田出身。1929年に東京美術学校(現・東京芸術大学)図案科卒業。同年松竹の宣伝部に入り、その後、ポスター、舞台美術、衣裳(コスチューム)、パッケージ、ディスプレイ、(屋外の)サインなど、幅広いデザインをこなした。 名取洋之助の日本工房にも参加し、雑誌NIPPONのレイアウト、グラフィックデザイン等も担当した。 1940年から1941年にかけては、日本写真工芸社に参加し、『VAN』と『NDI』という対外宣伝誌のデザインを担当した。
玉川 一郎(たまがわ いちろう、1905年11月5日 - 1… 玉川 一郎(たまがわ いちろう、1905年11月5日 - 1978年10月15日)は、日本の作家。 東京府生まれ。父親が警察官だった関係上、朝鮮と東京を数年ごとに行き来して育つ。東京外国語学校仏語部卒。 フランス語の能力を買われ、翻訳補助者として白水社に入社するも昭和恐慌のあおりを受け、人員整理の対象となり半年で解雇され、博文館へ転職。『新青年』などの編集に携わる。さらに、文具販売の伊東屋および、コロムビア・レコードの宣伝部員も兼務。コラムや広告コピーの執筆を手掛けながら、ユーモア小説の執筆やフランスの小噺、コントの編訳を行う作家として活動し、1940年発表の『人情サキソフォン』、1950年『川田二等少尉』で2回直木賞候補となった。
正岡 容(まさおか いるる、1904年(明治37年)12月2… 正岡 容(まさおか いるる、1904年(明治37年)12月20日 - 1958年(昭和33年)12月7日)は、日本の作家、落語・寄席研究家。歌舞伎役者の6代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれた。前名は平井 蓉(ひらい いるる)。芥川龍之介に褒められ、永井荷風を激怒させ、安藤鶴夫を妬み、稲垣足穂、金子光晴を友とした大衆芸能研究者。 詩人の平井功(1907〜32)は実弟。翻訳家の平井イサクはその子で、正岡にとっては甥にあたる。 東京市神田区生まれ[要出典]、医師平井成の長男。3歳の時、浅草花川戸に住む母方の大叔父・正岡藤蔵家にあずけられると乳母の手で育てられ、1910年(明治43年)12月27日、正岡家の養子に入る。
瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 198… 瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 1988年8月14日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。本名は鈴木忠直。 東京府生まれ。1929年、東京商科大学(現一橋大学)卒。金子鷹之助ゼミでノヴァーリスを学んだ。在学中伊藤整と知り合い終生の親友となる。出版社に勤め、1930年、伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得て評論活動を始める。1932年、イポリット・テーヌの『文学史の方法』を翻訳、岩波文庫から刊行。唐木順三、藤原定らと季刊『理論』を創刊、1933年、最初の著書『現代文学』を上梓、1934年、埼玉県立商業学校教師、1935年、川越中学校教師、1937年から化粧品会社に勤め、執筆活動を一時休止。
城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 197… 城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 1976年11月27日)は、日本の小説家、推理作家、詩人、編集者。本名は稲並 昌幸。 東京市神田練塀町生まれ。京華中学校4年次退学。城左門名義で詩作している。時代小説『若さま侍』シリーズは有名で、時代劇映画・ドラマ化された。江戸川乱歩は、城を「彼は人生の怪奇を宝石のやうに拾ひ歩く詩人である」と評している。またショートショートの先駆者と称される。日夏耿之介の門下。 横溝正史が創作した名探偵・金田一耕助のモデルとなった一人でもある。 1977年に東京都大田区の区立馬込図書館に旧蔵書4,750冊が寄贈され、翌1978年5月に「城昌幸記念文庫」が開設され、公開された。
仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月… 仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月22日)は、日本の法制史学者。東京大学名誉教授。中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。正三位勲二等瑞宝章。宮城県仙台市生まれ。 旧制松本高等学校文科甲類を経て、1928年に東京帝国大学法学部を卒業。東方文化学院東京研究所研究員に着任。第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』を著した。本業の中国法制史の分野でも、『中国法制史』『中国法制史研究』(朝日賞受賞)などの大著を世に送り、学会をリードした。
斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 19… 斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本の俳優、映画監督。 松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。 1902年(明治35年)6月10日、東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった。
木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1… 木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本の写真家。戦前・戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。 報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。 ことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることで知られ、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で切り取っている。こうした作風により、木村はフランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ=ブレッソンになぞらえられ"和製ブレッソン"と言われた。
島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20… 島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20日 - 1993年(平成5年)4月20日)は、日本の比較文学者、英米文学者。文化功労者。日本学士院賞受賞。 1901年、東京府で生まれた。東北帝国大学英文科で学び、卒業。 卒業後、英文学者の矢野峰人に見込まれて、台北帝国大学講師となった。講師の期間は17年に及んだ。若き日は英国詩を専門としたが、他のヨーロッパの国々や日本の詩歌に関心を深めていった。 戦後の引き揚げ後は、第一高等学校教授に就いた。1949年の新制大学移行後は、東京大学教養学部教授。新設された大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり、平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた。
小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3… 小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3月14日 - 1946年(昭和21年)2月10日)は、日本の小説家、推理作家、秘境冒険作家。本名:小栗 栄次郎(おぐり えいじろう)。東京都千代田区外神田出身。 漢語カタカナルビと西洋の知識に彩られた、極度のペダントリー(衒学趣味)的作風で著名。代表作は、デビュー作『完全犯罪』、推理小説の三大奇書の一つといわれる『黒死館殺人事件』、秘境探検小説の連作『人外魔境』など。 1901年3月14日、東京市神田旅籠町(現・東京都千代田区外神田)で生誕。生家は代々の酒問屋の小田原屋の分家であった。父親は1911年に死去しているが、本家からの仕送りや貸家の賃貸収入のため生活には困らなかった。
赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月2… 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月21日 - 1982年(昭和57年)8月16日)は、大正末から昭和期の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 東條英機大将の、陸相秘書官・首相秘書官として知られる。小松崎力雄陸軍少将は兄。 陸軍大佐・小松崎清職の三男として秋田県に生まれ、後に赤松久吾の養子となる。京華中学校で学び、仙台陸軍地方幼年学校(33期)を卒業。1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を卒業。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊附となる。 1925年(大正14年)10月、歩兵中尉に昇進。1931年(昭和6年)12月、陸軍大学校(46期)に入学。1932年(昭和7年)4月、歩兵大尉に進み、1934年(昭和9年)11月、陸大を優等で卒業し歩兵第1連隊中隊長となる。
石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日… 石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。本名:淳(きよし)。日本芸術院会員。 祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。東京外国語学校仏語科卒。『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。 寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。
鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12… 鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12月29日 - 1987年(昭和62年)7月29日)は、大正末から昭和期の逓信官僚、政治家、俳人。参議院議員(2期)。俳号は鈴木杏一(きょういち)。 神奈川県出身。鈴木彦八の二男として生まれる。京華中学校(現京華中学高等学校)、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 同年4月、逓信省に入省し通信局書記に任官。以後、郵務局勤務、通信事務官・伏見郵便局長、大逓局経理課長、大臣官房保健課勤務、逓信省事務官などを歴任し、1935年(昭和10年)7月から1936年(昭和11年)8月まで米国に出張した。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
中原 和郎(なかはら わろう、1896年1月16日 - 19… 中原 和郎(なかはら わろう、1896年1月16日 - 1976年1月21日)は、日本の生化学者。医学博士。日本学士院会員。がんの生化学的研究で知られる。 鳥取県河村郡(現・湯梨浜町)生まれ。1918年にコーネル大学を卒業後、ロックフェラー医学研究所、理化学研究所、東大伝染病研究所などで研究を進める。1923年、医学博士(京都大学)(学位論文「淋巴球に関する研究 」)の学位を取得。 1948年から財団法人癌研究会所長を務め、1962年、国立がんセンター研究所初代所長となる。所長時代には、がん細胞からトキソホルモンの抽出に成功するなど、研究所の存在を確立。1965年に福岡文子との共同研究で学士院賞を受賞。