山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2… 山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2010年9月14日)は、日本の実業家。第17代日本商工会議所会頭、元旭化成代表取締役会長・代表取締役名誉会長。2007年旭日大綬章。 広島県甲奴郡総領町(現・庄原市)出身。1942年広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)卒業、1943年陸軍予科士官学校卒業を経て、1945年6月陸軍士官学校(58期)を首席で卒業し、少尉として平壌へ出征。ソ連タタール共和国での抑留生活を経験した。 復員後の1952年東京商科大学 (旧制)(現・一橋大学)卒業、同年旭化成入社。同社の「中興の祖」宮崎輝元社長の右腕となり、1974年住宅事業部長に就任し赤字部門からグループ内で最も利益を上げる部門に転換させた。
阿南 惟晟(あなみ これあきら、1923年〈大正12年〉5月… 阿南 惟晟(あなみ これあきら、1923年〈大正12年〉5月 - 1943年〈昭和18年〉11月20日)は、日本の陸軍軍人。太平洋戦争末期の陸軍大臣、阿南惟幾の三男。 1941年東京府立第一中学校を卒業後、[要出典]陸軍士官学校に入学。同校56期卒業生。 陸軍砲兵少尉として太平洋戦争に出陣したが、1943年(昭和18年)11月20日、常徳殲滅作戦に於いて戦死。20歳没。戦死後、一階級昇進し中尉となった。墓所は多磨霊園。
河合 滋(かわい しげる、1922年(大正11年)7月28日… 河合 滋(かわい しげる、1922年(大正11年)7月28日 - 2006年(平成18年)8月20日)は、日本の実業家、河合楽器製作所二代目社長・会長であった。静岡県浜名郡舞阪町(現在の浜松市)出身。同社創業者の河合小市は岳父、同社三代目社長の河合弘隆は実子である。 カワイアメリカコーポレーション・カワイヨーロッパ各社長、河合楽器サービスセンター・テスコ・カワイ精密金属・カワイオーストラリア・全日本社会人体操競技連盟・浜松市体育協会・浜名湾遊泳協会・日本フーゴーヴォルフ協会・カワイ音楽振興会・東京吹奏楽団各会長、浜名湖観光開発副社長、浜松商工会議所会頭、経済団体連合会・発明協会各評議員、日本体操協会顧問、中部経済連合会副会長、ローカル技術開発協会理事長、日本ショパン協会名誉会長などを歴任した。
石井 卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 195… 石井 卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 1950年5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにベトナム独立戦争に参加して戦没。グエン・ソン将軍の軍政顧問。クァンガイ軍政学校教官。トゥイホア陸軍中学教官。ベトナム独立戦争時には、「花谷」「チャン・チ・ズン(陳志勇)」「トン」を名乗った。
尾崎 中和(おざき なかかず、1919年8月9日 - 194… 尾崎 中和(おざき なかかず、1919年8月9日 - 1943年12月27日)は、日本陸軍の軍人。戦死後、二階級特進し陸軍中佐。 水戸藩家老に連なる海軍中佐・尾崎貴信の二男として長崎県佐世保市で生まれる。出身地は東京市四谷区若葉町。東京府立一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1940年6月、陸軍航空士官学校(53期)を卒業。航空兵少尉任官。明野陸軍飛行学校学生。 1940年10月、飛行第33戦隊付になり、1941年3月、太刀洗飛行学校教官、8月に中尉任官。1942年10月から1943年4月にかけて明野飛行(甲)学生、同じく同年4月から飛行第25戦隊第二中隊長に着任。同年12月に大尉。
西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7… 西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7月2日 - 昭和19年(1944年)11月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍少佐だったが特別攻撃隊に志願、富嶽隊隊長として特攻、戦死。二階級特進により大佐となる。正七位、勲三等、功二級。
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大… 三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。第126代・今上天皇(徳仁)の大叔父。大正天皇と貞明皇后の第4皇子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇・現上皇の明仁は甥。現在の皇族には彼の孫が3人おり3人共女子である(息子3人は死去。娘2人と孫2人は皇籍離脱)。 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。
西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月… 西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月13日 - 1938年〈昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。勲五等功四級。熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。 日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。 1914年(大正3年)、父三作・母千代の間に、三男四女の二男として生まれた。父三作は退役軍人であり、明治期に陸軍教導団を経て台湾の抗日勢力の鎮圧、日露戦争に参加、曹長から中尉(予備役後大尉に昇進)まで上り詰めた人物だった。
堀 栄三(ほり えいぞう、1913年〈大正2年〉10月16日… 堀 栄三(ほり えいぞう、1913年〈大正2年〉10月16日 - 1995年〈平成7年〉6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍中佐、陸将補。 正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。 参議院議員、国土交通大臣(2011年4月 - 2012年6月)の前田武志は堀の甥である。 奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれる。陸軍航空本部長、第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた陸軍中将堀丈夫(士官候補生13期)の養子となる。
緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日… 緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日 - 1982年(昭和57年)12月26日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第8代航空幕僚長。 教員・緒方竜之進の息子として鹿児島県に生まれる。伊集院中学、東京府立四中を経て、陸軍士官学校に入校。陸軍大学校を恩賜軍刀組で卒業。第3飛行団司令部員、第51教導飛行師団参謀、大本営参謀等を務めたのち、陸軍省軍務局課員で終戦を迎える。 戦後は公職追放を経て、1952年(昭和27年)7月に警察予備隊に入隊。1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊の発足と同時に転官。空自では航空保安管制気象群司令、空幕人教部副部長を務めたのち、陸自に転身して陸幕第5部副部長、その後は防衛研修所副所長、統合幕僚会議事務局長と空自の主流ポストを歩いてはこなかったが、術科教育本部長となり、1968年(昭和43年)7月にFX(次期主力戦闘機)の調査団長として渡米。
井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 -… 井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 - 1946年(昭和21年)6月20日<死亡認定日>)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにインドシナ戦争に参加して戦没。ベトナム語の愛称はレチゴ。 茨城県出身。小学校校長・井川省三の二男として生まれる。水戸中学校を経て、1931年(昭和6年)4月に陸軍士官学校予科に入学。1935年(昭和10年)6月、陸軍士官学校本科(47期)を230番/330名で卒業する。同年9月、騎兵少尉に任官し、騎兵第8聯隊附となる。1937年(昭和12年)8月、騎兵中尉に昇進。1938年(昭和13年)7月、騎兵第4旅団戦車隊付となり、1939年(昭和14年)8月、騎兵大尉に進級。
井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日… 井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日 - 2004年(平成16年)2月6日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中佐。後に旧姓・岩田に復した。 1912年(大正元年)10月、岐阜県不破郡関原村にて野砲兵第18聯隊附岩田富士太郎砲兵少佐(のち砲兵大佐、陸士9期)の四男として生れる。岐阜県大垣中学校を経て、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科に合格する。1933年(昭和8年)7月には、陸軍士官学校本科(45期)を卒業。卒業序列は皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて6番/335名という優秀なものだった。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第1聯隊附となる。同聯隊には、終戦時に宮城事件の首謀者となる畑中健二(46期)も所属していた。
島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 19… 島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 1988年7月11日)は、日本の陸軍軍人。士候45期。最終階級は陸軍中佐。群馬県館林市出身。 1929年、旧制館林中学校を卒業後、陸軍士官学校に入校(第45期、兵科:歩兵)。卒業後は見習士官を経て陸軍歩兵少尉として戦車第2連隊で戦車教育を受ける。 その後、1935年の満州事変、1939年の日中戦争(支那事変)に従軍。 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦においては、戦車第6連隊麾下の第4中隊長(島田戦車隊、九七式中戦車・九五式軽戦車計15両装備)としてマレー作戦に参加。スリム・リバーの戦い(英語版)では、第4中隊の戦車および随伴の歩兵・工兵100人余りとともに、トロラク、スリム・リバー、スリムの陣地に対し戦史上稀な戦車による夜襲を決行。
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2… 瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 -… 浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 - 2001年〈平成13年〉11月18日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、実業家である。航空自衛隊では第5代航空幕僚長を務めた。最終階級は陸軍中佐(大日本帝国陸軍)、航空幕僚長たる空将(航空自衛隊)。 石川県石川郡三馬村(現・金沢市内)出身。1927年(昭和2年)金沢第一中学校卒、1928年(昭和3年)陸軍士官学校に入学。 1932年(昭和7年)に陸軍士官学校第44期を全兵科315名中を28番(歩兵科では13番)の成績で卒業する。同年10月25日、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊第10中隊附(第10中隊長は竹内章雄大尉・27期)となり、のち第51代の聯隊旗手を務めている(歩兵第7聯隊編纂『聯隊歴史』)。
栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11… 栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。最終階級は歩兵中尉。 1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。 1908年11月17日、島根県松江市に生まれる(東京に在籍)。父は佐賀県出身の歩兵大佐栗原勇(12期)。父の転勤に従い、北海道旭川で暮らしている。二・二六事件において処分された予備役少将斎藤瀏(12期)とその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみの付き合いをしていた。坂井直(事件時は歩兵第3聯隊第1中隊附中尉として斎藤實内大臣邸を襲撃、43期)もこの頃の幼馴染である。
中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月… 中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 1936年の二・二六事件に決起部隊将校として参加し、軍法会議で死刑判決を受けて処刑された。 東京牛込に、陸軍少将の父と華族の母の間に生まれる。本籍地は佐賀県。四谷第二小学校を首席で卒業。父の意向で東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、麻布中学を受けるも不合格。結局、名教中学(現・東海大学付属浦安高等学校・中等部)を経て東京陸軍幼年学校に入った。 陸軍士官学校第41期生となり、同期には栗原安秀、対馬勝雄がいる。この2人とは二・二六事件の同志となるが、この頃交友があったかは不明。
草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28… 草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28日 - 2001年(平成13年)11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大佐。 旧制大分県立宇佐中学校出身。陸軍士官学校第39期を卒業し、同期生の末松太平歩兵少尉とともに青森を衛戍地とする歩兵第5連隊に配属される。1936年(昭和11年)に末松歩兵大尉は、二・二六事件に連座している。 著名な同期生は、終戦時に陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、第53軍参謀の大橋武夫中佐がいる。第106師団では、同期の成富政一大佐(戦死後、進級)と勤務している。 終戦時、満州にあった関東軍の作戦課主任参謀。
野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月2… 野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月27日 - 1936年(昭和11年)2月29日)は、日本の陸軍軍人。
村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3… 村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3日 - 1937年8月19日)は、日本の陸軍軍人で皇道派、国家社会主義者。
親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)… 親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。 1903年(明治36年)9月18日、沖縄県に父・親泊朝擢と母・ウシの間に生まれる。浦添朝満(尚維衡)の後裔に当たる。親泊朝晋は弟。 沖縄県立第一中学校、熊本陸軍地方幼年学校(1918年入学)を経て、1925年陸軍士官学校騎兵科首席卒業(1921年入学、37期)。37期の同期に加藤建夫、山縣有光、毛利元道、井本熊男、杉田一次、種村佐孝、大蔵栄一、村中孝次など。 1928年、陸軍中尉。1931年の満州事変の際には古賀伝太郎中佐の下、騎兵第27連隊第1中隊第3小隊長として出陣。
西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945… 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈… 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。兄に昭和天皇、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。 宮家の一つである秩父宮の家祖。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。お印は若松(わかまつ)。大日本帝国陸軍の軍人でもあり、階級は少将。勲等功級は大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はいない。 東京・赤坂の青山御所(東宮御所)で誕生し、兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)とともに、生後4カ月で皇孫御養育掛・枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
荒尾 興功(あらお おきかつ、1902年(明治35年)3月1… 荒尾 興功(あらお おきかつ、1902年(明治35年)3月18日 - 1974年(昭和49年)8月22日)は、日本の陸軍軍人、官僚。最終階級は陸軍大佐。 高知県出身。荒尾大吉海軍大尉の長男として生まれる。 横須賀中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1923年(大正12年)7月、陸軍士官学校(第35期)を卒業。 同年10月、陸軍少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を優等で卒業した。 1931年(昭和6年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(徴募課)を経て、1934年(昭和9年)11月からソ連駐在。 1936年(昭和11年)3月から1937年(昭和12年)5月までポーランド公使館附武官補佐官に在任。
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月2… 永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日 - 1970年(昭和45年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県出身。永井弥八郎の五男として生まれる。水戸中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第25連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、陸軍省軍務局付勤務となる。以後、軍務局課員、参謀本部付仰付(中国駐在)などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進し関東軍司令部付に就任。
田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 193… 田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 1936年10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。
山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月… 山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月5日 - 1989年〈平成元年〉1月28日)は、日本の旧皇族。日本の鳥類学者。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第2王子。旧名:芳麿王。山階鳥類研究所の創設者。階級は陸軍中尉。位階勲等は正三位勲一等。爵位は侯爵。学位は理学博士(北海道帝国大学)。生前に受けた栄誉及び表彰歴としては第1級ゴールデンアーク勲章受勲及びジャン・デラクール賞受賞などがある。 1900年(明治33年)7月5日、皇族・山階宮菊麿王の第2子として東京市麹町区に誕生した。昭和天皇とは実母(範子妃)を、香淳皇后とは継母(常子妃)を通じての従兄にあたる。山階宮邸は敷地が約5500坪。
赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月2… 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月21日 - 1982年(昭和57年)8月16日)は、大正末から昭和期の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 東條英機大将の、陸相秘書官・首相秘書官として知られる。小松崎力雄陸軍少将は兄。 陸軍大佐・小松崎清職の三男として秋田県に生まれ、後に赤松久吾の養子となる。京華中学校で学び、仙台陸軍地方幼年学校(33期)を卒業。1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を卒業。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊附となる。 1925年(大正14年)10月、歩兵中尉に昇進。1931年(昭和6年)12月、陸軍大学校(46期)に入学。1932年(昭和7年)4月、歩兵大尉に進み、1934年(昭和9年)11月、陸大を優等で卒業し歩兵第1連隊中隊長となる。
小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1… 小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 東京府出身(北海道札幌市出身とする資料も有り)。司法官・小原文太郎の長男として生まれる。札幌一中卒を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第25連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、歩兵第25連隊中隊長となる。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となる。同年、ロシア班長の橋本欣五郎が結成した桜会に参加。
松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年(明治32年)10… 松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年(明治32年)10月13日 - 1979年(昭和54年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月2… 水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月22日 - 1949年(昭和24年)11月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 三重県出身。農業・水谷専松の長男として生まれる。富田中学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。陸士付などを経て、1934年(昭和9年)8月から1937年(昭和12年)1月まで秩父宮雍仁親王付武官を務める。その後、陸士教官となり、1937年8月、歩兵少佐に昇進し、1938年(昭和13年)5月まで陸軍大学校で専科学生(5期)として学ぶ。同年5月、第16師団参謀に就任し、参謀本部員(大本営研究班)を経て、1940年(昭和15年)8月、歩兵中佐に進級。
真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月1… 小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。第二次大戦末期に、在スウェーデン日本大使館の駐在武官として、ヤルタ会談での密約(ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日参戦するとの最高機密情報)を早い時期に密かに入手して日本に打電・通報したことや、その後、スウェーデン王室の仲介による連合国との和平工作を行ったことで知られる。 1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。
小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月2… 小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月29日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兄に小畑英良。 大阪府出身。地主・小畑万治郞の七男として生まれる。茨木中学校卒。日本軍において、輜重兵科として陸軍大学校に入校し卒業した数少ない将校であった。 太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)2月初め以来、参謀本部第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。 1943年(昭和18年)3月には第15軍参謀長に着任。第15軍司令部で後のインパール作戦が起案された際、小畑はアラカン山系のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。
有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日… 有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日 - 1943年(昭和18年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業。 参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。 太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する。
工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - … 工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - 1959年1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
土居 明夫(どい あきお、1896年(明治29年)6月30日… 土居 明夫(どい あきお、1896年(明治29年)6月30日 - 1976年(昭和51年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧土佐郷士、警察署長・土居正明の二男として生まれる。海南中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)9月から翌年11月まで、シベリア出兵に出征。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業し騎兵第11連隊中隊長に就任。 1928年(昭和3年)12月、陸軍騎兵学校教官に就任し、参謀本部付を経て、1932年(昭和7年)1月から1934年(昭和9年)9月までポーランド・ソ連に駐在した。
四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月2… 四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兼松商店[要出典]の役員であった四方素の二男として神戸市で生れる。第一神戸中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1924年(大正13年)3月、陸軍委託学生として学んだ東京外国語学校(独語)を修了。1927年(昭和2年)6月、兵科を憲兵科に移し憲兵大尉となり、咸興憲兵分隊長となった。 小倉憲兵分隊長を経て、1930年(昭和5年)4月から3年間、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。
山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月2… 山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月20日 - 1975年(昭和50年)4月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知市西町出身。山本雄秀・駒の二男として生れる。幼少期は神童と呼ばれ、友人の遊びを断り蔵に籠り読書三昧が日課であったという。県立中学海南学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる。1920年(大正9年)4月、歩兵中尉に進み、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)2月から10月まで操縦学生として訓練を行った。
額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 … 額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 医師・額田篤太の三男として生れる。岡山一中、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第54連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 歩兵第40連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、陸軍歩兵学校教官などを歴任。1936年(昭和11年)12月、陸軍省人事局課員となり、人事局補任課長、独立歩兵第11連隊長、陸士生徒隊長などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進した。
谷萩 那華雄(やはぎ なかお、1895年(明治28年)8月9… 谷萩 那華雄(やはぎ なかお、1895年(明治28年)8月9日 - 1949年(昭和24年)7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県生まれ。1914年(大正3年)3月、茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(第29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊付となる。1919年(大正8年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(第39期)を卒業し歩兵第15連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)3月、教育総監部付勤務となり、第19師団参謀を経て陸軍技術本部付兼軍事調査委員(新聞班)に就任。
長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2… 長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2日 - 昭和20年(1945年)11月15日)は、大正、昭和期の日本の陸軍軍人。新潟県頸城郡寺野村東山寺(現在の新潟県上越市板倉区)出身。陸士28期・陸大36期。最終階級は陸軍中将。 明治28年(1895年)6月2日、新潟県頸城郡寺野村(現在の上越市板倉区)に三男三女の長男として生まれる。喜一は、明治35年(1902年)4月寺野村立久々野尋常高等小学校に入学、同41年(1908年)同校を卒業し、有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)に入学する。往復四里の道を通学、帰宅後は農業を手伝うなどの努力家であり、周囲からは大変な頑張り屋として知られていた。
佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月… 佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。 1914年(大正3年)に金沢第一中学校(中学校同期には海軍少将中堂観恵(海兵44期)・海軍大佐橘正雄(海兵45期)が在籍した)を卒業し陸軍士官学校へ入学、1917年(大正6年)5月、官報によると第29期を257番/536名の成績で卒業。このクラスからは1番の河村参郎(中将、第224師団長)、3番の有末精三(中将、参謀本部第2部長)、6番の後藤光蔵(中将、第1総軍参謀副長)、11番の鎌田銓一(中将、第2野戦鉄道司令官)、27番の稲田正純(中将、第16方面軍参謀長兼西部軍管区参謀長)、46番の額田坦(中将、陸軍省人事局長)など昭和の陸軍を牽引した多くの人物を輩出している。
有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年(明治28年)5月… 有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年(明治28年)5月22日 - 1992年(平成4年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の長男として生まれる。 上川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を優等(3番/536名)で卒業し、恩賜の銀時計を受けた。同期には、河村参郎、後藤光蔵、稲田正純、鎌田銓一、額田坦、小松光彦、佐藤賢了、寺田雅雄など昭和の陸軍を牽引した将軍を多く輩出している。旭川に衛戍する歩兵第25連隊附としてシベリアへ出征する。 1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)も優等で卒業し、恩賜の軍刀を受けた。
宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2… 宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。警察官・宮崎岩太郎の長男として生まれる。豊橋中学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第17連隊付となる。陸士予科区隊長などを経て、1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し歩兵第17連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)2月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(外国戦史課)に異動。1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進。
諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月1… 諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月11日 - 1990年(平成2年)6月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。 福岡県出身。第17代台湾軍参謀長、その後第10方面軍参謀長。1945年10月25日、国民政府代表との降服式典に台湾総督安藤利吉とともに台湾総督府(日本)代表として出席し、任を終える。 官吏・諫山虎鹿の二男として生れる。中学明善校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業。1915年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。 1925年8月、歩兵第38連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス大使館付武官補佐官などを経て、1930年8月、歩兵少佐に昇進。
大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月2… 大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月25日 - 1945年(昭和20年)3月26日(異説あり。本文参照))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道札幌郡琴似村大字篠路村(現・札幌市北区屯田)出身。陸軍屯田兵軍曹・大須賀忠夫の子として生まれる。札幌中学を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1937年(昭和12年)12月、第16師団参謀として南京攻略戦に参加[要出典]。1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第22連隊長に就任。
花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 … 花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。奉天特務機関員として柳条湖事件(満洲事変)に関与したとされ、太平洋戦争では第55師団長としてビルマ戦線で作戦を指揮した。人物・指揮ぶりの評価は一様ではなく、統率の強硬さを問題視する見解と、作戦指揮を評価する見解が併存している。 岡山県勝田郡広戸村村長・花谷章の息子として生まれる。津山中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第54連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 -… 久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 - 1979年11月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県出身。医師・久野村桃蹊の三男として生れる。海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 歩兵第44連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、歩兵第37連隊大隊長、陸軍省軍務局課員、教育総監部課員、独立歩兵第13連隊長、教育総監部第3課長などを経て、1940年12月、陸軍少将に昇進。 第36歩兵団長、陸士幹事を歴任し、太平洋戦争には1943年5月、第15軍参謀長として出征した。
村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 … 村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。