江戸ヶ崎 源弥(えどがさき げんや、1781年(天明元年) … 江戸ヶ崎 源弥(えどがさき げんや、1781年(天明元年) - 1812年(文化9年)8月16日(旧暦7月10日))は、相模国大住郡四之宮村(現:神奈川県平塚市四之宮)出身で桐山部屋に所属した大相撲力士。本名は平野 源弥(ひらの げんや)。最高位は関脇。 1781年(天明元年)に相模国大住郡四之宮村(現:神奈川県平塚市四之宮)の旧・平野家に生まれる。1794年(寛政6年)に桐山部屋へ入門、1795年(寛政7年)3月場所で初土俵を踏んだ。四股名は出身地の郡名に因んで「大隅」とした。 1797年(寛政9年)3月場所から三段目昇進が決定した際に、四股名を「荒馬」に変更した。その後も順調に出世していき、1798年(寛政10年)には久留米藩・有馬候の抱え力士となった。
高田屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日〈1769… 高田屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日〈1769年2月7日〉- 文政10年4月5日〈1827年4月30日〉)は、江戸時代後期の廻船業者・海商。幼名は菊弥。淡路島出身。兵庫津に出て船乗りになり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出した。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。 淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男として生まれた。寛政2年(1790年)、嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出てきた。
円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保1… 円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。 本姓は藤原、後に源、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。
勝部 如春斎(かつべ じょしゅんさい、享保6年(1721年)… 勝部 如春斎(かつべ じょしゅんさい、享保6年(1721年) -天明4年6月27日(1784年8月12日))は、日本の江戸時代中期に活躍した絵師。 摂津国武庫郡西宮(現在の兵庫県西宮市)で、酒造業の名家・雑喉(ざこ)屋勝部源十郎兼唯の第三子(次男)として生まれる。天明7年(1787年)出版の『新撰和漢書画一覧』以来長らく姓は山本と誤伝されたが、これは同じ西宮で雑喉屋の屋号を持った別の名家・山本家と混同した誤りである。名は順蔵。字は兼寿、後に典寿。初め容斎、後に如春斎と号した。 大坂の狩野派絵師・櫛橋栄春斎に学んだといい、兄弟弟子に森狙仙の兄・森陽信(永春斎)がいる。後に狙仙は如春斎に弟子入りしたとされるが、それもこうした師弟の繋がりからだろう。
谷川 士清(たにがわ ことすが、宝永6年2月26日〈1709… 谷川 士清(たにがわ ことすが、宝永6年2月26日〈1709年4月5日〉- 安永5年10月10日〈1776年11月20日〉)は、江戸時代の国学者である。通称は養順。字は公介。号は淡斎。 伊勢国の津(現・三重県津市)の医者の家に生まれる。京都に出て医学を学ぶ傍ら、玉木正英(葦斎)から垂加神道を学ぶ。津に帰郷後、医業に精を出す一方で、家塾「洞津谷川塾」を開いて門人を指導したほか、道場「森蔭社」を設けて神道を教授した。また、有栖川宮職仁親王から和歌を学ぶなど、独学で国学を研究した。 宝暦事件と明和事件によって竹内式部が処罰されると、親しい交流のあった士清も嫌疑をかけられたが、士清は藤堂高朗の助けで事なきを得た。
玉田 黙翁(たまだ もくおう、1697年〈元禄10年〉 - … 玉田 黙翁(たまだ もくおう、1697年〈元禄10年〉 - 1785年〈天明5年〉)は、江戸時代中期の儒学者。名は信成、通称は喜内(記内)、久左衛門といい、虎渓庵(こけいあん)・適山(てきざん)・黙翁と号した。 野尻新田村(現・加古川市志方町野尻)生まれ。京都に出て朱子学者・山崎闇斎の高弟・三宅尚斎に学んだ。祖父と父が書斎とした建物を引き続き利用して塾を開き、門弟の教育にあたった。塾は虎渓精舎と呼ばれていた。この塾では、姫路藩の儒学者・合田麗沢や龍野藩主の学問の師・股野玉川をはじめ多くの人が学び、遠く京都からの訪問者もみられた。黙翁の在世当時、野尻新田を小田原藩が所領していたこともあり、江戸の藩邸に2回招かれて講義をした。