小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一〇〇式重爆「呑龍」・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。 第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸軍の電信部隊(在中野)に入営する。
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