南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3年9月13日)- 1899年(明治32年)2月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡新湊放生津町(石川県射水郡新湊放生津町、富山県射水郡新湊放生津町、新湊町、新湊市を経て現射水市放生津町)で、徳三の長男として生まれた。岡田呉陽に漢学を学んだ。高岡(現高岡市)の商家で奉公し、その後、大阪・渋谷塾で数学を学び、東京・豊国校で簿記学を慶應義塾で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)父の病のため帰郷した。 新湊町立卓立小学校長、同廉貞小学校長に就任。1888年(明治21年)四日曽根小学校長、荒屋小学校長を兼務。1889年(明治22年)小学校長を辞職し、上海で海運事情を視察して帰国した。
出典:ウィキペディア「南嶋間作」(CC BY-SA 4.0)を一部抜粋
