高田 繁太郎(たかた しげたろう、安政4年〈1857年〉 - 大正8年〈1919年〉)は日本の実業家。高田家11代目。旧姓:伊藤。農政の先駆者といわれ、多彩な独創的事業に成功。日野川河口の埋め立てによる高田新田、旗ケ崎海岸の開墾、倉庫の建設など、繁太郎の事業は米子の産業発展に寄与した。 伯耆国会見郡上福原村(鳥取県西伯郡福生村を経て現・米子市上福原)に生まれた。伊藤平十郎の三男。儒者高橋及び穴山の両師に従い漢籍を研修する。 19歳の時、同郡福万村高田家の人となった。家は代々農を業とし資財富裕であった。22歳の時に家督を相続して11代の主となった。当時高田家は酒造と林業を営んでいたが、財を守るだけを潔しとせず、時勢をみて志を立て大山原野50町歩を開拓し薬用人参・桑などを栽培した。
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