スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
石井 巧(いしい たくみ、2002年3月2日 - )は、栃木… 石井 巧(いしい たくみ、2002年3月2日 - )は、栃木県那須郡小川町(現:那珂川町)出身のプロ野球選手(遊撃手)。右投右打。東京ヤクルトスワローズ所属。兄は埼玉西武ライオンズに所属する石井一成。 小川南小学校1年生のときに小川那珂クラブで野球を始める。小川中学校では軟式野球部に所属し、遊撃手としてプレーした。[要出典] 兄の母校である作新学院高校へ進学し、1年春からベンチ入り、2年春から遊撃のレギュラーを務めた。2年夏の甲子園では1回戦で敗退したものの、同年秋の栃木大会で準優勝を果たし、関東大会にも出場(1回戦敗退)。3年春の栃木大会でベスト8入りを果たした。3年夏は主将として、チームを牽引し、甲子園でベスト8に進出した。
関 桃子(せき ももこ、2001年11月6日 - )は、新潟… 関 桃子(せき ももこ、2001年11月6日 - )は、新潟県出身の元女子プロ野球選手。作新学院高等学校卒。ポジションは内野手。血液型AB型。 2020年、レイアに入団。同年は選手減少により、試合開催時には愛知ディオーネの選手として活動する。 2021年4月2日、自身のインスタグラムにて昨シーズン限りで女子プロ野球を退団したことを発表。
入江 大生(いりえ たいせい、1998年8月26日 - )は… 入江 大生(いりえ たいせい、1998年8月26日 - )は、栃木県日光市(旧 今市市)出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。横浜DeNAベイスターズ所属。 小学3年生のときに軟式野球チームの今市レイダースに入り投手を始める。日光市立今市中学校在学時に県央宇都宮ボーイズに所属。3年夏には投手兼外野手で全国大会ベスト8。 中学卒業後は作新学院高等学校に入学。今井達也と同学年のチームメイトになる。1年秋からベンチ入り。2年夏には夏の甲子園大会に背番号「11」としてメンバー入りし、3回戦九州国際大付戦で1イニングを無失点に抑える。3年夏には第98回全国高等学校野球選手権大会に一塁手、打順は3番もしくは4番として出場。
今井 達也(いまい たつや、1998年5月9日 - )は、栃… 今井 達也(いまい たつや、1998年5月9日 - )は、栃木県鹿沼市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。MLBのヒューストン・アストロズ所属。 小学1年から野球を始め、鹿沼市立西中学校時代はクラブチームの鹿沼レッドソックスに所属し、全国野球大会に出場した。 中学卒業後は作新学院高等学校に進学。2年夏は栃木大会で背番号「11」でベンチ入りし、準決勝の白鷗大学足利戦に先発するも、四球と大下誠一郎の右前安打でピンチを招き、二死一・三塁からライトスタンドへの同点3点本塁打を打たれ、1回3安打2四死球3失点で降板した。國學院栃木との決勝戦では6回からリリーフ登板したものの制球が定まらず、相手打者に対して頭部死球を与えるなど、1回1/3を1安打4四死球で降板した。
石井 一成(いしい かずなり、1994年5月6日 - )は、… 石井 一成(いしい かずなり、1994年5月6日 - )は、栃木県那須郡小川町(現:那珂川町)出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。埼玉西武ライオンズ所属。弟は東京ヤクルトスワローズに所属する石井巧。 小川那珂クラブで軟式野球を始める。小川中学校時代には軟式野球部に所属していた。 作新学院高校では1年秋からレギュラー。2年夏、3年春夏と3季連続で甲子園に出場し、2年時の夏の甲子園ではベスト4、3年生の夏の甲子園ではベスト8。3年生で主将を務める。 早稲田大学スポーツ科学部に進学。 野球部では1年春からリーグ戦出場。3年春に遊撃手でベストナインに選出。4年時は主将を務める。リーグ通算80試合に出場、237打数68安打、打率.287、6本塁打、33打点、10盗塁、ベストナイン1回。
松崎 啄也(まつざき たくや、1992年1月20日 - )は… 松崎 啄也(まつざき たくや、1992年1月20日 - )は、栃木県鹿沼市出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手)。 鹿沼市立菊沢東小学校の2年次より菊東スポーツで野球を始め、鹿沼市立北中学校に在学時は鹿沼ボーイズに所属した。 作新学院高等学校では3年次の夏に4番として活躍し、第91回全国高等学校野球選手権大会に同高は31年ぶりの甲子園出場を果たした。同大会の1回戦で長野日大に敗れるものの、4番捕手で先発出場して、3安打1打点の成績を残した。 作新学院大学に進学後、日本製紙石巻に入社した。捕手として所属していたが、2015年は主に一塁手での出場が多かった。 2015年10月22日、ドラフト会議において読売ジャイアンツに8位指名を受けて入団。
笹沼 明広(ささぬま あきひろ、1987年7月17日 - )… 笹沼 明広(ささぬま あきひろ、1987年7月17日 - )は、栃木県矢板市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。プロでは育成選手であった。 矢板市立矢板中学校時代は、軟式野球部に所属。 作新学院高時代は、2年時の春に第76回選抜高等学校野球大会に出場。初戦の岡山城東高戦では、6番・右翼手としてスタメン起用されるも0-3で敗退。3年時は主に一塁手として起用され、春は関東地区高等学校野球大会で同校32年振りの優勝を達成。夏は、栃木大会ベスト8で敗退した。 高校卒業後は、関甲新学生野球連盟に加盟する作新学院大学に進学し、捕手としてプレー。1年時から中軸を務める。3年時の秋に指名打者、4年時の春に捕手としてベストナインに選出されている。
寺田 哲也(てらだ てつや、1987年4月2日 - )は、栃… 寺田 哲也(てらだ てつや、1987年4月2日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小学生時代から野球を始め、中学生の時には所属チームが第19回全国少年軟式野球大会に出場している。小学生では投手、中学生時代は野手であった。 作新学院高進学後は再び投手となる。高校時代は3年生時に関東大会で優勝したが、甲子園大会には出場できなかった(2年生時の第76回選抜高等学校野球大会に作新学院高校は出場したが、寺田が登板する機会はなかった)。 作新学院大学に進学後は、4年生時に社会人野球のJR東日本東北や東京ガスの練習に参加したことを契機に球速が向上した。大学野球部コーチの紹介で新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの入団テストを受けて合格し、2010年のシーズンより加入した。
岡田 幸文(おかだ よしふみ、1984年7月6日 - )は、… 岡田 幸文(おかだ よしふみ、1984年7月6日 - )は、栃木県塩谷郡高根沢町出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。左投左打。 2011年にはリーグ新記録となる「外野手のシーズン連続守備機会無失策」359を樹立したことにより、特別表彰を受けた。一方、プロ入り以来本塁打が無く、2014年には初打席以来1773打席連続本塁打無しの新記録を達成し、2018年に現役を引退するまで全2501打席で無本塁打だった。 作新学院高等部では、2年夏は「1番・中堅手」として栃木県予選に出場。同大会の決勝で会田有志(のち巨人)擁する佐野日大高校に敗れる。2年秋から主将を務め、俊足の一番打者として活躍。チームは秋季県大会で準優勝、春季県大会では優勝したものの、本命として迎えた3年夏の栃木県予選では4回戦で那須拓陽高に0対2で敗れ、甲子園出場はならなかった。
小針 崇宏(こばり たかひろ、1983年6月22日 - )は… 小針 崇宏(こばり たかひろ、1983年6月22日 - )は、栃木県宇都宮市出身の野球指導者。作新学院高等学校保健体育科教諭。 1983年宇都宮市生まれ。 4歳年上の兄が野球をやっていた影響で、小学2年生のときから野球を始めた。宇都宮市立陽西中学校でも野球部に所属。 作新学院高等部2年時であった2000年春に第72回選抜高等学校野球大会に内野手として出場し、チームはベスト8進出。3年時は主将に就任したが、夏の大会は県予選決勝で敗退した。 高校卒業後の2002年4月より筑波大学体育専門学群へ進学。大学でも野球部に入り、入学直後の春に怪我した先輩の代役で試合に出場し注目されたことによって、1年からレギュラーとなった。
柳沼 強(やぎぬま つよし、1974年5月15日 - )は、… 柳沼 強(やぎぬま つよし、1974年5月15日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 2019年より千葉ロッテマリーンズのスカウトを務めている。 作新学院では3年春の県大会優勝で関東大会へ進むが準々決勝で部坂俊之らを擁する横浜高に敗退。夏は県大会ベスト4。神奈川大学へ進み、3学年上に高校の先輩である渡辺秀一がいた。4年秋には神奈川大学野球リーグのベストナインを獲得している。 1996年のドラフトで千葉ロッテマリーンズから6位で指名され入団。 しかし、1軍出場がないまま3年で現役を引退した。 引退後は、19年間に渡り千葉ロッテのブルペン捕手を務めていたが、2019年よりフロント入りしスカウトに就任した。
渡辺 秀一(わたなべ ひでかず、1971年7月13日 - )… 渡辺 秀一(わたなべ ひでかず、1971年7月13日 - )は、茨城県下館市(現在:筑西市)出身の元プロ野球選手(投手)。 1996年から1999年の登録名はヒデカズ。 福岡のローカルアイドル・れいしゅしゅに所属していた渡辺帆乃夏は娘。 作新学院高校入学時は内野手。当時の大塚監督に投手転向を勧められた。高校3年の夏は初戦で県立の進学校である足利高校に敗れる。 神奈川大学に進学し同大学野球部所属。1991年の2年時、春季リーグ戦で優勝しベストナインを獲得した。続く大学選手権で慶応大を2-1、東海大を15-2(7回コールド)で下したものの、準決勝で関西大に3-5で敗退。第20回日米大学野球選手権大会において、後にダイエーでチームメイトとなる浜名千広や鳥越裕介とチームメイトとなる。
落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は… 落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、栃木県下都賀郡石橋町(現:下野市)出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。 現役時代はNPBの中日ドラゴンズで中継ぎとして活躍した。2017年の登録名は英二。 石橋町立古山小学校、石橋町立石橋中学校を経て作新学院高等部に進学、作新学院では球速130 km/h台ながら、エースとして活躍。作新学院時代は甲子園出場は果たせなかった。1986年秋季栃木大会準々決勝に進むが、佐野日大高校に敗退。翌1987年春季栃木大会は準決勝で足利工の石井忠徳と投げ合って完封勝ち、決勝では高村祐を擁する前年の選抜準優勝校・宇都宮南高校に敗れたが関東大会出場権を得る。
神長 英一(かみなが ひでいち、1960年6月24日 - )… 神長 英一(かみなが ひでいち、1960年6月24日 - )は、群馬県桐生市出身の元社会人野球指導者、元大学野球指導者。 作新学院高時代、第49回選抜高等学校野球大会及び第60回全国高等学校野球選手権大会に出場。3年次には主将を務める。 1979年に高校卒業後、法政大学経済学部へ進学。東京六大学野球連盟に加盟する同校野球部では3度のリーグ優勝を経験。4年次の1982年春季リーグで完全優勝を果たし、神長も遊撃手としてベストナインに選出された。続く全日本大学野球選手権大会でも決勝で東洋大学を下し優勝を果たした。大学時代の同期に田中富生、木戸克彦、西田真二、手嶋浩、1年上に中葉伸二郎、川端順と池田親興両投手、1年下に小早川毅彦、銚子利夫、飯田孝雄、和田護・樽井徹両投手らがいる。
平川 洋幸(ひらかわ ひろゆき、1957年9月3日 - )は… 平川 洋幸(ひらかわ ひろゆき、1957年9月3日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手(内野手)。 作新学院高では江川卓の2年後輩、3年夏の県大会は決勝で藤倉一雅がエースの足利学園に敗れた。神奈川大学へ進学、首位打者1回、ベストナイン2回を受賞するが中退し、社会人野球のスリーボンドへ入団。社会人時代は28本塁打を記録。 1982年オフに、ドラフト外で横浜大洋ホエールズへ入団。 1985年に一軍デビューを果たすも、同年限りで現役を引退した。 2005年、社会人野球・クラブチームの国際総合伊勢原クラブにコーチ兼任内野手として入団した。
大橋 康延(おおはし やすのぶ、1955年10月8日 - )… 大橋 康延(おおはし やすのぶ、1955年10月8日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 小山二中時代はアンダースローの好投手であり、小山中の江川卓と投げ合ったこともある。江川が地元の小山高へ進むという噂から作新学院高へ進学するが、結局は同期入学となる。その後は江川の控え投手として登板機会は限られたが第45回選抜高校野球大会の小倉南高戦で2イニング登板した。これは江川が監督に進言したことによるという。 1973年ドラフト会議で 大洋ホエールズから2位指名を受け入団。 180cmという体格に恵まれながら、元々肥満体質のため腰周りに肉がつき過ぎて体のキレが悪く生きた球がいかなかった。
岩崎 良夫(いわさき よしお、1947年5月9日 - )は、… 岩崎 良夫(いわさき よしお、1947年5月9日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(内野手)。 作新学院高では、2年次の1964年に三塁手、一番打者として夏の甲子園に出場。1回戦は小松実に大勝するが、2回戦ではエース亀井進を擁する早鞆高に9回裏サヨナラ負けを喫する。翌1965年夏にも県予選準々決勝に進出するが、足利工に敗れる。 高校卒業後は、社会人野球の立正佼成会に進む。1967年の都市対抗野球に出場。1回戦は若生和也の好投もあり三菱重工神戸に大勝。しかし2回戦で日本楽器に9回裏サヨナラ負け。同年の産別大会では打率.538を記録し首位打者を獲得。若生以外のチームメートには監督兼任の金博昭がいた。
八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(… 八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(昭和19年)12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者。現・公益社団法人全国野球振興会理事長。史上13人目の完全試合達成者。 実家は製材所を経営し、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。
中野 孝征(なかの たかゆき、1944年6月14日 - )は… 中野 孝征(なかの たかゆき、1944年6月14日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(内野手)。 中学時代は遊撃手兼リリーフ投手だった。作新学院高では1年からレギュラー遊撃手となり、1961年、2年生の時に春の選抜に出場。2回戦で高松商業高に敗れる。1年上のチームメートに島野育夫がいた。翌1962年には主将、一番打者として春の選抜に連続出場。エース八木沢荘六を擁して勝ち進み、決勝で日大三高を降し優勝。 同年夏の選手権では八木沢の急病により、控えの加藤斌を主戦投手に立て勝ち進む。決勝では加藤が久留米商業高のエース伊藤久敏と投げ合い1-0で辛勝、史上初の甲子園春夏連覇を果たす。高校同期に八木沢、加藤の他、中堅手、四番打者の高山忠克がいた。
加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日 - 1965… 加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日 - 1965年1月4日)は、中国上海生まれ、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)。 作新学院高ではエース・八木沢荘六の控え投手として、主にリリーフを担当していた。 1962年、作新学院は八木沢などの活躍もあって春の選抜に優勝、続く夏の甲子園予選北関東大会も勝ち上がり、春夏連覇に期待をかけられた。春の優勝後、加藤は野球部長の勧めで投法をオーバースローからアンダースローに転向している。 大会直前、エースの八木沢が赤痢にかかり、チームは急遽加藤を主戦投手として戦うこととなった。甲子園では1回戦で気仙沼高に苦戦したものの勝ち上がり、準決勝では林俊彦、木俣達彦の強力バッテリーを擁する中京商を2-0で完封。
高山 忠克(たかやま ただかつ、1944年5月18日 - )… 高山 忠克(たかやま ただかつ、1944年5月18日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(外野手)。 作新学院高校への在学中は「4番・中堅手」で、1学年先輩に外野手の島野育夫、同期生に八木沢荘六・加藤斌の両投手と遊撃手の中野孝征がいた。 2年時(1961年)と3年時(1962年)の春に選抜高等学校野球大会へ出場。3年時の第34回大会では、エース八木沢の下で優勝を経験した。チームは夏の第44回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが、大会中に八木沢が赤痢を発症した影響で隔離療養を余儀なくされたため、控え投手の加藤が先発に回った。加藤が中京商業との準決勝で林俊彦と投げ合った末に完封勝利を収めると、チームは久留米商業との決勝で伊藤久敏を相手に1対0で勝利。
島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 200… 島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 2007年12月15日)は、栃木県宇都宮市出身のプロ野球選手(外野手)、コーチ、監督、野球解説者。 コーチ時代は相手の癖を盗む特技を生かし、 三宅博は著書で、センスを持ったクセ盗みの名人と記している。特に星野仙一との監督・コーチコンビでは中日ドラゴンズ・阪神タイガースで優勝を経験しており、低迷期の長かった阪神にあって、島野が在籍していた時期は最下位になったことは一度もなかった。 長男は元競輪選手で現在は柔道整復師の島野敦識。 作新学院高校時代の1961年、中堅手として1学年下の八木沢荘六、高山忠克らとともに第33回選抜高等学校野球大会に出場した。
斎藤 克男(さいとう かつお、1942年1月28日 - )は… 斎藤 克男(さいとう かつお、1942年1月28日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 作新学院高等部時代は1958年の夏の大会で初出場を4強・国体では初出場を優勝に導いた古口典央が引退した栃木県大会から正捕手となった。 1958年秋の栃木県大会でチームは1回戦に宮下陽吾と松本照夫の両投手が控える栃木商業、準決勝ではエース大井道夫率いる宇都宮工業を破り勝ち進んだ。そして決勝の矢板高戦では先制点となるタイムリー二塁打を放って勝利を呼び込み、4番・捕手として作新学院の秋季県大会初優勝の一端を担った。 秋の関東大会でも土田伸三投手とのバッテリーを務めながら4番に座り、作新は優勝の成績を収めた。
田切 勝之(たぎり かつゆき、1935年2月27日 - )は… 田切 勝之(たぎり かつゆき、1935年2月27日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。 作新学院高校から神奈川大学を経て1957年に毎日オリオンズへ入団。1958年に退団。
山本 理(やまもと おさむ、1933年3月13日 ‐ 201… 山本 理(やまもと おさむ、1933年3月13日 ‐ 2016年11月19日)は、日本の高校野球指導者。栃木県出身。史上初の甲子園大会春夏連覇を達成した監督。 栃木県に生まれ、1945年に下野中学校(のちの作新学院高等学校)に入学。神奈川大学を経て、1955年に母校・作新学院の監督に就任した。1958年の第40回全国高等学校野球選手権大会で甲子園初出場し、ベスト4まで進出する。そして1962年の第34回選抜高等学校野球大会と第44回全国高等学校野球選手権大会を制し、史上初の春夏連覇を達成した。1973年には江川卓を擁して春夏連続出場したことでも知られる。のち部長に転じた。2016年11月19日、83歳で死去。
天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - … 天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - 1976年3月12日)は、兵庫県西宮市出身の元野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 旧制甲陽中学校2年時に攻玉社中学校へ転校した後、明治大学予科へ進学するが、当時の中学校3年修了では資格が無いとして下野中学校へ再入学させられる。下野中で中学校4年修了となり、晴れて明治大学予科進学の資格を得られ、再度進学する。天知の学生生活は波乱に富んだものであったが、明大時代は捕手で、後に毎日オリオンズで監督を務める湯浅禎夫とバッテリーを組んだ。また、大学野球の審判を充実させる必要性を感じていた一学年先輩の二出川延明から野球のルールについての難問が毎朝10問、「宿題」として天知に出され、練習開始時間までに全問解く訓練を受けた。
江俣 治夫(えまた はるお)は、日本の元アマチュア野球選手で… 江俣 治夫(えまた はるお)は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは内野手。 作新学院高で3年生の時に、1970年夏の全国高校野球の北関東大会に出場するが、高崎商業高校に敗退し、甲子園への出場は実現しなかった。 同年のドラフト会議で東映フライヤーズから3位指名されたが入団を拒否し、日本大学に進学。東都大学野球リーグでは1973年秋季リーグで首位打者となり、ベストナインにも選ばれた。 卒業後は日立製作所に入社。