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松本 稔(まつもと みのる、1960年8月18日 - )は、… 松本 稔(まつもと みのる、1960年8月18日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の元アマチュア野球選手、元高等学校教員・高校野球指導者・野球解説者。 前橋高校では2年生の時、エース兼四番打者として1977年の秋季関東大会決勝に進み、印旛高校の菊池総と投げ合うが完封を喫し準優勝にとどまる。しかし翌1978年に開催された第50回選抜高等学校野球大会に出場を決めた。 選抜では、前年の秋季大会ベスト8の実力を有する滋賀県の比叡山高校と1回戦で対戦。下馬評では比叡山高校有利と見られていたが、キレのあるスライダーと抜群の制球力、さらには一人もランナーを出せずに焦り始めた相手打線の淡白な攻めにも助けられ、投球数78、奪三振5、外野への打球に至っては僅かに3という完璧な内容で高校野球の全国大会史上初めて完全試合を達成した。
井野修(いの おさむ、1954年4月24日 - )は、群馬県… 井野修(いの おさむ、1954年4月24日 - )は、群馬県伊勢崎市出身のプロ野球審判員。いせさき教育アンバサダー。 セ・パの審判部が完全統合された2011年(平成23年)より、審判長を務め、2014年(平成26年)1月から日本野球機構(NPB)参与・審判技術委員長兼野球規則委員となる。現役時代の審判員袖番号は1。 伊勢崎市立宮郷小学校、宮郷中学校、群馬県立前橋高等学校から神奈川大学在籍中の1976年(昭和51年)にセントラル・リーグ審判部へ入局し、大学在籍中の1年間は学生と審判員の“二刀流”であった。1978年(昭和53年)4月2日神宮球場でのヤクルトスワローズ‐広島東洋カープ戦、レフト側外審で1軍初出場。
宮田 征典(みやた ゆきのり、1939年11月4日 - 20… 宮田 征典(みやた ゆきのり、1939年11月4日 - 2006年7月13日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 日本球界におけるリリーフ専門投手の草分け的存在で「8時半の男」と呼ばれた。 種部儀康(読売ジャイアンツ同期入団)は義兄。孫の宮田孝将は四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスでプレーした元プロ野球選手で、2020年は同球団のアカデミーコーチを務めた。2021年からは同球団の野球スクールコーチを務めている。 大姪は、シンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ。 子供の頃は利根川でよく泳ぎ、小学校5年生から中学生までは水泳好きで水泳部に所属していたが、中学校でいとこに誘われたことをきっかけに野球を始める。
中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 … 中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 - 2023年〈令和5年〉10月10日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 登録名を頻繁に変えており、入団時は「利夫」、その後は1964年に「三夫」、1965年に「暁生」、監督時代は「利夫」。コーチ時代は「登志雄」もしくは「利夫」。解説者としては本名の「利夫」を使用。 前橋高校では1年生時の1952年秋からエース、中軸打者として活躍、主将も務めた。1953年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、桐生工に敗退。同年の秋季関東大会県予選も準決勝で桐生高に敗れる。3年次の1954年には春季関東大会県予選決勝で桐生工を降し優勝、関東大会に進むが準々決勝(初戦)で水戸農に惜敗した。
小林 勝巳(こばやし かつみ、1933年8月2日 - )は、… 小林 勝巳(こばやし かつみ、1933年8月2日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 前橋高校から大生相互銀行を経て1955年に国鉄スワローズへ入団。1956年に退団。
新井 龍郎(あらい たつろう、1928年5月3日 - )は、… 新井 龍郎(あらい たつろう、1928年5月3日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(外野手)。 県立前橋高校では1948年夏の甲子園に4番ライトで出場した。日本大学では2年秋と4年秋に東都大学MVP。1953年に大映スターズへ入団。 1955年に大洋ホエールズへ移籍。左翼手のレギュラーとして116試合に出場し、規定打席にも到達するが肩を壊したため、この年に引退した。 1957年に養命酒、1962年から電電信越の監督を歴任した。