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木村 昌広(きむら まさひろ、1974年8月16日 - )は… 木村 昌広(きむら まさひろ、1974年8月16日 - )は、東京都武蔵村山市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学1年から野球を始め、小学6年の時に遊撃手から投手に転向。中学時代は外野手。 拓大一高から東都大学野球連盟の拓大に進学。大学時代は2部リーグ(3部も経験)であった。卒業後は、日立製作所に入社し、都市対抗野球では2年連続で先発勝利。1998年に開催されたバンコクアジア大会決勝の韓国戦では先発投手を務めた。同年、1998年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから4位指名を受け、入団。 二軍ではまずまずの成績を残すものの一軍では勝ち星を挙げられず、2001年シーズンオフに球団から戦力外通告を受けた。
林 博之(はやし ひろゆき、1954年 - )は、東京都出身… 林 博之(はやし ひろゆき、1954年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手(投手)。 拓殖大学第一高校では、エースとして1972年夏の甲子園都予選準々決勝に進み、修徳高を引き分け再試合で降す。準決勝でも日大桜丘高の仲根正広と延長18回の投手戦の末に引き分け、しかし再試合では大敗を喫した。 中央大学に進学。当時のエースは1年上の田村政雄であり、東都大学野球リーグでは2年生までに2回の優勝を経験。しかしその後は駒大、東洋大に抑えられ優勝には届かなかった。1976年の日米大学野球選手権日本代表に選出され5試合に登板する。大学同期に外野手の岡村隆則がいた。 卒業後は熊谷組に入社。久保田美郎、小林秀一らと強力投手陣を形成する。
大迫 幸一(おおさこ こういち、1953年7月19日 - )… 大迫 幸一(おおさこ こういち、1953年7月19日 - )は、アスレティックトレーナー、プロ野球コーチ。埼玉県出身。プロ野球選手経験はない。 国士舘大学時代はサッカー部に所属。 大学卒業後は体育教師を目指していたが、後輩の紹介でスポーツジムに就職。警視庁近代五種水泳臨時コーチ、高校サッカーの指導者などを経て、1989年に女子プロゴルファーの日蔭温子のリハビリトレーナーとなり、復帰戦となった同年の日本女子オープンでキャディーを務めた。 1980年、37歳の時にアメリカンフットボールのXリーグの選手として入団。 1994年にスポーツ施設の管理、運営、指導などを行う「(株)クラフトワーク」を設立。西武ライオンズ所属選手のパーソナルトレーナーの道を歩んだ。
井上 洋一(いのうえ よういち、1949年2月5日 - )は… 井上 洋一(いのうえ よういち、1949年2月5日 - )は、東京都小金井市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。 愛媛大学教育学部教授の井上洋一とは別人。 拓大一高では宇田東植と同期であり、決められた練習メニューを全力で行った。チーム内では走力や遠投で常に一番の成績を残し、スランプや結果が出ない時は自宅に帰り、納得するまで、結果が出るまで練習した。 卒業後の1966年にドラフト外でサンケイアトムズへ入団し、2年目の1968年にはジュニアオールスターに選出され、3年目の1969年にはイースタン・リーグ打点王を獲得。1970年には一軍に定着し、本来は内野手だが外野手もこなせるユーティリティプレーヤーとして重宝される。
宇田 東植(うだ とうしょく、1948年8月23日 - )は… 宇田 東植(うだ とうしょく、1948年8月23日 - )は、東京都杉並区出身 の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 在日韓国人で、韓国名は朱 東植(チュ・ドンシク、주동식)。 現在は北朝鮮になっている咸鏡南道出身の父と日本人の母の下に生まれたが、両親は宇田が5歳の時に離婚し、父が宇田を引き取った。父の当時の仕事は、立川基地にいた進駐軍兵士からPXの横流れ品を買うブローカーであり、昼は荻窪の市場で店を開き、夜は買い出しに出かけたため、ほとんど一日、家にいなかった。 小学生の時は音楽部の部長を務め、NHKの子供音楽コンクールに出場するなど、音楽活動を行っていた。杉並区立杉並中学校入学後に野球を始め、ポジションは三塁手であった。