スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
間藤 郁也(まとう ふみや、1994年4月6日 - )は、元… 間藤 郁也(まとう ふみや、1994年4月6日 - )は、元ラグビーユニオン選手。 2013年、新発田農業高校卒業後、山梨学院大学に入る。 2014年、センターからプロップにコンバート。 2017年、山梨学院大学卒業後、清水建設ブルーシャークス(現・清水建設江東ブルーシャークス)に加入。同年9月9日に行われたトップイーストリーグDiv.1第1節の秋田ノーザンブレッツ戦に先発出場で公式戦初出場を果たす。 2024-25シーズンをもって、現役引退。
酒井 杏(さかい きょう、1992年8月6日 - )は、日本… 酒井 杏(さかい きょう、1992年8月6日 - )は、日本のシンガーソングライターである。新潟県阿賀野市出身。新発田農業高等学校卒業。MSエンタテインメント所属。神奈川県在住。
田中 光(たなか ひかる、1989年3月24日 - )は、ト… 田中 光(たなか ひかる、1989年3月24日 - )は、トップイースト-Bクリーンファイターズ山梨に所属するラグビーユニオン選手。 15歳からラグビーを始めた。 2007年、新発田農業高校卒業後、山梨学院大学に入る。 2011年、山梨学院大学卒業後、NECグリーンロケッツ(現・NECグリーンロケッツ東葛)に加入。同年10月29日に行われたジャパンラグビートップリーグ第1節の神戸製鋼コベルコスティーラーズ戦に先発出場で公式戦初出場を果たす。 2022年、クリーンファイターズ山梨に加入。
富樫 和大(とがし かずひろ、1980年10月25日 - )… 富樫 和大(とがし かずひろ、1980年10月25日 - )は、新潟県出身の元プロ野球選手(投手)。 新発田農業高校では加藤健とバッテリーを組んでおり、3年生の時に第70回選抜高等学校野球大会に出場し、豊田西高校に0-5で敗れ初戦敗退。第80回全国高等学校野球選手権大会にも出場し、初戦に浜田高校と対戦し、和田毅と投げあったが2-5で敗れ、春に続いて初戦敗退となった。 卒業後は川崎製鉄千葉に進み、2年目には都市対抗野球で先発する。2001年プロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズに6巡目指名を受け入団した。 故障に苦しみ、1年目は二軍でも登板はなかった。その後も一軍に上がることができず、2004年に戦力外通告を受けた。
豊山 広光(ゆたかやま ひろみつ、1947年10月22日 -… 豊山 広光(ゆたかやま ひろみつ、1947年10月22日 - 2020年9月19日)は、新潟県新発田市大字新保小路出身で時津風部屋に所属した大相撲力士。本名は長濱 廣光(ながはま ひろみつ)。現役時代の体格は186cm、133kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り、寄り。最高位は東小結(1972年9月場所・1977年11月場所)。 現役引退後は年寄・湊を襲名して、湊部屋を創設し、その師匠を長く務めた。 実家は農家。幼い頃から相撲を始め、新発田農業高校では全国大会で優勝し「高校横綱」になるなど、活躍を見せた。 1966年春、高校卒業と同時に東京農業大学に進学。スポーツ特待生での入学を希望したが、当時学内の不祥事により同大学では特待生制度を認めていなかったため、一般の学生として入学した。
吉田 和夫(よしだ かずお、1945年2月28日 - )は、… 吉田 和夫(よしだ かずお、1945年2月28日 - )は、日本の政治家。元新潟県胎内市長(3期)。旭日小綬章受章。 新潟県中条町(現・胎内市)出身。中条町立中条小学校、中条町立中条中学校、新潟県立新発田農業高等学校を経て東京農業大学農業経済学部を卒業。 製紙会社に勤務後、中条町役場に転職。中条町町民課長、中条町教育長などを歴任した。 2005年(平成17年)9月1日、中条町と黒川村が合併し胎内市が発足。これに伴って同年10月2日に行われた市長選挙に自民党と公明党の推薦を受けて出馬。中条町長の丸岡隆二との一騎討ちを制し初当選した(吉田:12,186票、丸岡:9,364票)。 2009年(平成21年)、無投票で再選。
豊山 勝男(ゆたかやま かつお、1937年8月18日 - )… 豊山 勝男(ゆたかやま かつお、1937年8月18日 - )は、新潟県新発田市出身で時津風部屋に所属した元大相撲力士。本名は内田 勝男(うちだ かつお)。最高位は東大関。現役時代の体格は189cm、137kg。得意手は突っ張り、右四つ、吊り、寄り、上手投げ。元日本相撲協会理事長(第8代)。 母子家庭に育ち、苦学しながら文武両道に励んだ。新潟県立新発田商工高等学校定時制在学中は陸上(投擲競技)や野球で活躍。一時はプロ野球の有名球団からの誘いもあったが、OBである先生の勧めにより東京農業大学農学部農芸化学科に進学し、相撲部に入部。相撲の経験は無かったが4年次には学生横綱となり、その実績が認められて1961年3月場所に時津風部屋から、異例の幕下10枚目格付出という破格待遇で初土俵を踏んだ。