スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
寺嶋 寛大(てらしま かんだい、1992年10月12日 - … 寺嶋 寛大(てらしま かんだい、1992年10月12日 - )は、東京都豊島区出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 清和小学校1年生の時に「大塚スネイクス」で野球を始めた。4年生時に捕手になり、6年生時には高円宮賜杯全日本学童軟式野球大会に出場した。巣鴨北中学校では「中野シニア」に所属していた。興誠高校では1年生時の秋に一塁手のレギュラーに、2年生時の秋には正捕手になった。高校通算では26本塁打を放った。甲子園出場経験は無い。 創価大学では1年生時の秋に正捕手になり、4年生時には主将を務めた。大学の2学年先輩に小川泰弘がおり、1年生の時からバッテリーを組み、精神面や配球面などでアドバイスを受けていた。
林 昌樹(はやし まさき、1979年11月28日 - )は、… 林 昌樹(はやし まさき、1979年11月28日 - )は、静岡県磐田市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学生時代、地元磐田市の中泉クラブに所属。 興誠高等学校では、3年夏の県大会で骨折しながら勝ち進むも、決勝で浜松工業高等学校に敗れ準優勝。 その後、1997年のドラフト会議で広島東洋カープから3位指名を受け、入団。 2000年にサイドスローに転向。 2001年に一軍で初登板を果たした。 2003年にセ・リーグ初となる1球でプロ初勝利を飾る。 2006年は自己最多の61試合に登板し、開幕から10試合以上防御率0点台を保つなど、前半戦はリリーフエースとして重要な役目を果たした。しかし後半戦は疲労からか登板のたびに失点することが多く、防御率は急落。
小田 智之(おだ ともゆき、1979年5月19日 - )は、… 小田 智之(おだ ともゆき、1979年5月19日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 小学3年生で野球を始め、興誠高等学校では1年秋からレギュラーとなる。1997年の夏は3番・遊撃手として出場も県大会の決勝戦で敗退し、甲子園出場ならず。高校通算14本塁打。元広島東洋カープの林昌樹とは同級生で、俳優の野久保直樹は2学年後輩にあたる。1997年のドラフトで日本ハムから2位指名され、入団。 2003年にイースタン・リーグ2位の打率.347、9本塁打と安打を量産し、シーズン終盤に一軍に昇格してプロ初打点を挙げた。 2004年、プロ7年目にして開幕戦のスターティングメンバーに名を連ね(八番・指名打者)、4月3日にプロ初本塁打。
伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )… 伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )は、静岡県浜名郡北浜村貴布祢(現:浜松市浜名区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。 中学時代に野球を始めるが、肩が強く左投げだったため投手となる。興誠商業高校では2年生からエースとなり、3年次の1951年の夏の甲子園の静岡県予選の前には新聞に「ダークホース」と書かれたが、1回戦で静岡市立高校に0-1で敗れた。 1952年に中央大学へ進学すると、1年の春季から東都大学リーグで登板。2年次の1953年春季のリーグでは5勝を挙げて中央大学の全勝優勝に貢献する。同年の大学選手権でも勝ち上がるが、決勝で立大に敗れ準優勝となった。しかし、同年の夏場に背中の筋肉を痛める。
川口 芳弘(かわぐち よしひろ、1930年8月6日 - )は… 川口 芳弘(かわぐち よしひろ、1930年8月6日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手(投手)。 興誠商業(現・浜松学院中学校・高等学校),ノンプロの小口製作所を経て、1950年に大洋ホエールズに入団。同年6月2日の西日本戦(佐世保市営球場)でデビューした。しかし11試合に登板したが、勝ち星を挙げることができず、1951年に引退した。 川瀬宏之とは、興誠商業,小口製作所,大洋全てでチームメイトであった(高校・ノンプロ時代にはバッテリーを組んでいた)。
川瀬 宏之(かわせ ひろゆき、1930年7月10日 - )は… 川瀬 宏之(かわせ ひろゆき、1930年7月10日 - )は、静岡県出身のプロ野球選手(捕手)。 興誠商業(現・浜松学院中学校・高等学校),ノンプロの小口製作所を経て、1950年に大洋ホエールズに入団。しかし正捕手の門前眞佐人の壁は厚く、2試合しか出場できず、同年末に引退した。 川口芳弘とは、興誠商業、小口製作所、大洋全てでチームメイトであった(高校、ノンプロ時代にはバッテリーを組んでいた)。