スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
赤沼 淳平(あかぬま じゅんぺい、1995年7月4日 - )… 赤沼 淳平(あかぬま じゅんぺい、1995年7月4日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(投手)、トレーナー。 嵯峨中学校時代は捕手として軟式野球をプレーし、府大会4強入り。学業成績も良かったことから、高校は立命館高校へ進学。硬式球を受けると手が痛くなることから、高校の硬式野球部からは投手に転向した。3年のときにはエースを務めるも、夏の大会は2回戦で敗退した。 プロを目指してレベルの高い東京都内の大学への進学を希望するも、実績不足からスポーツ推薦は厳しい状態だった。高校監督から半ばあしらわれるようにアメリカ行きを勧められ、カリフォルニア州にあるデザート短大(英語版)からMLBドラフト指名を受けた鷲谷修也に憧れを抱き、赤沼も同短期大学に入学。
辰市 祐英(たついち すけひで、1938年10月6日 - )… 辰市 祐英(たついち すけひで、1938年10月6日 - )は京都府京都市左京区出身の元プロ野球選手。選手時代の登録名は、辰市 邦輔(-くにすけ)。 立命館高等学校では2年生の時、エース富永格郎らとともに、四番打者、二塁手として1955年の夏の甲子園に出場。準決勝に進むが坂出商に1-2で敗退した。8月には富永らとともに全日本高校選抜チームとして初のハワイ遠征を果たす。同年の神奈川国体は準決勝に進むが、四日市高の高橋正勝(巨人)に抑えられ敗退。翌1956年夏は府予選準々決勝で花園高に惜敗。 1957年に大阪タイガースに入団。1958年のシーズン中盤には浅越桂一に代り二塁手の定位置を獲得、一番打者として先発した7月20日の対国鉄スワローズダブルヘッダー2戦目(甲子園)では1試合4安打3盗塁を決めるなど、主に一番打者として35試合に先発出場を果たす。
辰市 祐英(たついち すけひで、1938年10月6日 - )… 辰市 祐英(たついち すけひで、1938年10月6日 - )は京都府京都市左京区出身の元プロ野球選手。選手時代の登録名は、辰市 邦輔(-くにすけ)。
富永 格郎(とみなが ただお、1937年5月4日 - 201… 富永 格郎(とみなが ただお、1937年5月4日 - 2014年7月18日[要出典])は、京都府京都市中京区西ノ京小堀町出身のプロ野球選手である。ポジションは投手。 立命館高校では1955年に、チームの主戦投手として、二塁手の辰市祐英らとともに夏の甲子園に出場。立命館高はこの大会で、中京商や桐生高などと共に優勝候補のひとつと目されていた。準々決勝では津久見高の田中喜八郎と投げ合い完封勝利。準決勝に進むが坂出商の岡崎秀智投手(中大-電電関東)に抑えられ、1-2で惜敗した。8月には辰市らとともに全日本高校選抜チームの一員として初のハワイ遠征を果たす。同年の神奈川国体は準々決勝で新宮高の前岡勤也に投げ勝ち2-0で完封、準決勝に進むが四日市高の高橋正勝に抑えられ敗退。
西田 稔(にしだ みのる、1935年1月24日 - 1994… 西田 稔(にしだ みのる、1935年1月24日 - 1994年6月12日)は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 立命館高校では平井嘉明と同期。エースとして1951年秋季近畿大会府予選準決勝に進むが、城南高に敗退。翌1952年夏の甲子園府予選は決勝で山城高に完封負け、甲子園には届かなかった。卒業後は立命館大学へ進学。関西六大学野球リーグでは1954年春季リーグで優勝を経験。当時の投の二本柱である西尾慈高、紀藤広光がプロ入りしたため、同年秋季リーグからエースとして活躍。しかし大学をで中退し、1956年に阪急ブレーブスへ入団。リーグ通算成績は29試合登板、11勝16敗であった。 1958年には26試合に登板し6勝をあげる。
平井 嘉明(ひらい よしあき、1934年5月6日 - )は、… 平井 嘉明(ひらい よしあき、1934年5月6日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手(主に遊撃手)。 立命館高校では西田稔と同期。1951年秋季近畿大会府予選準決勝に進むが、城南高に敗退。翌1952年夏の甲子園府予選は決勝で山城高に完封負け、甲子園には届かなかった。1953年に卒業後関西大学へ進学し野球部所属。 関西六大学野球リーグでは在学中2回優勝。4回生となった1956年、同期のエース法元英明と1年下の中西勝己投手が中退しプロ入り後、2年生エース村山実が好投し全日本大学野球選手権大会に出場、決勝で島津四郎や人見武雄らのいた日大を降し選手権初優勝を飾る。東京六大学以外の大学としては初の優勝であった。