スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
村西 良太(むらにし りょうた、1997年6月6日 - )は… 村西 良太(むらにし りょうた、1997年6月6日 - )は、兵庫県淡路市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 小学校3年生より野球を始めた。当初は足の速さを活かして、中堅手であったが、小学校4年からは遊撃手を務めていた。淡路市立津名中学校時代はクラブチームのアイランドホークスへ所属していたが、主なポジションは外野であった。 高校は兵庫県立津名高等学校へ進学し、1年秋からベンチ入りを果たしていたものの、控え投手として高校野球を終える。最高成績は2年秋の兵庫県大会3位。近畿大会では和歌山県1位の箕島と対戦し、3回よりリリーフ登板し、失点0の好投を見せた。甲子園出場経験はなし。 大学は近畿大学監督の田中秀昌の強いラブコールにより同大学へ進学。
伊藤 祐樹(いとう ゆうき、1972年7月7日 - )は、兵… 伊藤 祐樹(いとう ゆうき、1972年7月7日 - )は、兵庫県淡路市出身の元社会人野球選手(内野手)、野球指導者。右投左打。 兵庫県立津名高等学校から、北陸大学野球連盟に加盟する福井工業大学に進学。大学時代は全日本大学野球選手権大会に出場した。 大学卒業後の1995年に社会人野球の日産自動車に入社。強打があったわけではないが、堅実な守備と俊足を武器にたちまち遊撃手のポジションを手にした。その後、チーム事情に応じて三塁手や二塁手となることもあったが、スターティングオーダーから名前が消えることは殆ど無く、レギュラーを守り続けた。 1998年、第69回都市対抗野球大会で優勝に貢献したことが認められ、同年の社会人ベストナインの遊撃手部門を受賞。
木戸 賢永(きど たかなが、1967年6月14日 - )は、… 木戸 賢永(きど たかなが、1967年6月14日 - )は、兵庫県淡路市出身のプロ野球選手(捕手)。 津名高校では、1年夏に夏の県大会準優勝、1985年・3年夏の県大会では準々決勝で報徳学園高校に敗北し甲子園出場を逸する。高校では通算28本塁打を放つ。高校同期に外野手の吉田征人がいる。 1986年に南海ホークスへドラフト外で入団。一軍出場のないまま1988年に選手を引退し、翌年からブルペン捕手となり1991年には23歳でコーチ補佐となった。1992年からはチームスタッフとなった。
吉田 征人(よしだ まさと、1967年5月29日 - )は、… 吉田 征人(よしだ まさと、1967年5月29日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)。 津名高校では、1985年夏の県大会では準々決勝で報徳学園高校に敗北し甲子園出場を逸する。高校同期に捕手の木戸賢永がいる。 1986年に阪急ブレーブスへドラフト外で入団。1990年にオリックス・ブレーブスを退団し引退した。
村上 忠則(むらかみ ただのり、1949年8月4日 - )は… 村上 忠則(むらかみ ただのり、1949年8月4日 - )は、兵庫県出身のアマチュア野球選手(捕手)・指導者。後に横浜ベイスターズチーム運営統括(ゼネラルマネージャー)を務めた。 兵庫県立津名高等学校から静岡県富士市の大昭和製紙に入社。控え捕手として1970年の都市対抗において優勝を経験し、大会後に北海道白老町の大昭和製紙北海道に転部する。 1974年の都市対抗では正捕手として柳俊之(電電北海道から補強)、千藤和久(北海道拓殖銀行から補強)らとバッテリーを組む。決勝に進み、エース萩野友康を擁する新日本製鐵八幡を延長10回の末に降し初優勝。高梨英夫、我喜屋優らがチームメートであった。翌1975年の都市対抗でも加藤英美とバッテリーを組み決勝に進むが、電電関東の丹利男に完封を喫し準優勝にとどまる。
児玉 弘義(こだま ひろよし、1942年3月13日 - 20… 児玉 弘義(こだま ひろよし、1942年3月13日 - 2009年2月5日)は、兵庫県津名郡津名町出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ。 津名高校卒業後、1960年に近鉄バファローへ入団。 1961年10月14日の阪急戦(藤井寺)に8番・捕手で一軍初出場を果たし、初安打も記録。 1963年から試合出場数が増えたが、吉沢岳男の存在もあって2番手の起用が続いた。 1964年8月6日の東映戦(日生)では途中から吉沢に替わってマスクを被り、嵯峨健四郎から初本塁打を放つ。三原脩が監督に就任した1968年に初めて正捕手の地位を獲得した。 1969年には岩木康郎にその座を奪われて再び2番手となる。 1970年には辻佳紀の加入で3番手となる。