スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
岩成 博夫(いわなり ひろお、1968年(昭和43年)2月1… 岩成 博夫(いわなり ひろお、1968年(昭和43年)2月1日 - )は、日本の公取官僚。経済取引局長を経て、公正取引委員会事務総長を務める。 鳥取県鳥取市出身。鳥取県立鳥取西高等学校を経て、1990年(平成2年)3月に東京大学教養学部教養学科相関社会科学分科を卒業。国家公務員採用Ⅰ種試験(経済)に合格し、同年4月公正取引委員会事務総局入局。 カリフォルニア大学バークレー校経済学部へ留学し、事務総局官房総務課長、内閣官房デジタル市場競争本部事務局次長、取引部長、官房政策立案審議官、内閣官房フリーランス取引適正化法制準備室長を歴任。 2023年(令和5年)7月5日、経済取引局長に就任。 2025年(令和7年)7月1日、公正取引委員会事務総長に就任。
竹内 功(たけうち いさお、1951年〈昭和26年〉12月1… 竹内 功(たけうち いさお、1951年〈昭和26年〉12月18日 - )は、日本の政治家、建設・国土交通官僚。参議院議員(1期)、鳥取県鳥取市長(3期)を務めた。 鳥取県鳥取市生まれ。鳥取県立鳥取西高等学校を経て、東京大学法学部卒業。1974年、建設省(現国土交通省)に入省。 2002年4月7日に行われた鳥取市長選挙に出馬。現職の西尾迢富ら3候補を破り、初当選を果たした。同年4月15日、市長就任。 2012年8月14日夜、鳥取しゃんしゃん祭の閉会式で、高さ1メートルの仮設ステージで挨拶し階段を下りる際にバランスを崩し、転落する 2012年5月、「耐震改修を実施」と「新築移転」の2択で実施された住民投票に際し、住民投票の結果を尊重すると公言していた。
寺澤 辰麿(てらざわ たつまろ、1947年2月25日 - )… 寺澤 辰麿(てらざわ たつまろ、1947年2月25日 - )は、日本の財務官僚。血液型はO型。国税庁長官を経て横浜銀行頭取、コンコルディア・フィナンシャルグループ社長等を歴任した。 島根県出身。鳥取県立鳥取西高等学校を経て、1971年6月、東京大学法学部第1類(私法コース)卒業。同年7月に大蔵省入省(銀行局銀行課)。1972年8月、大阪国税局調査部。1974年7月、大臣官房付(外務研修)。1975年5月、外務省在アルゼンチン大使館三等書記官。同年7月、外務省在アルゼンチン大使館二等書記官。その後は主計局主計官補佐(農林水産第三係主査)、主計局主計官補佐(農林水産第一係主査)、竹下、宮澤、竹下(首相による兼任)、村山の各大蔵大臣秘書官事務取扱などを歴任。
吉田 忠明(よしだ ただあき、1933年12月9日 - 20… 吉田 忠明(よしだ ただあき、1933年12月9日 - 2018年2月19日)は、日本の大蔵官僚、実業家。東京国税局長を経て、トマト銀行社長、会長を務めた。 鳥取県八頭郡用瀬町出身。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)、鳥取県立八頭高等学校を経て、一橋大学経済学部を卒業し、1957年大蔵省(現:財務省)に入省(大臣官房文書課)。 1959年6月近畿財務局理財部。1960年6月東京国税局調査査察部。1961年6月銀行局金融制度調査官付。1964年7月広島国税局米子税務署長。1966年6月関東信越国税局総務部総務課長。1972年5月外務省在香港日本国総領事館領事。1979年6月東京国税局総務部長。
石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29… 石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。位階は正三位。勲章は勲一等瑞宝章。 参議院議員(2期)、鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)を務めた。 第102-103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁である石破茂の父。 太宰治、永井荷風の著作物を好む。 田中角栄元首相は友人である。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「あなたは元気である限り、本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民党の)田中派に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。
古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903… 古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903年 <明治36年> 1月4日 - 1995年 <平成7年> 2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。日中友好議員連盟会長を務めた。位階は正三位。 鳥取県八頭郡国中村(現・八頭町)に、古井實壽の二男として生まれる。生家は祖父久次郎の代からすでに田五町歩、山林三町歩をもつ小地主だった。父實壽は古井が生まれたころ、郡役所の書記だったが後に国中村の村長を務めた。 旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、第三高等学校を経て、1922年東京帝国大学法学部英法科に入学する。なお中学時代の同期生に政治学者の矢部貞治がいる。1925年内務省に入省する。
奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、186… 奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、1860年7月31日〈万延元年6月14日〉- 1917年〈大正6年〉8月21日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の官僚・政治家・法学者。学位は、法学博士。従二位勲一等。男爵。号は秋軒。 衆議院議員(当選2回)、貴族院議員(勅選)、第1次山本内閣で文部大臣兼司法大臣を歴任したほか、晩年には請われて東京市長も務めている。また中央大学の創設者の一人で、第2代学長。 因幡国邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)に生まれる。幼名は留三郎。父の奥田鉄蔵は禄高300石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範を務めた。 7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校・尚徳館に入学。