スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
岡本 大翔(おかもと ひろと、2002年9月12日 - )は… 岡本 大翔(おかもと ひろと、2002年9月12日 - )は、鳥取県西伯郡伯耆町出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。プロでは育成選手であった。 小学校1年の時に軟式野球を始め、伯耆町立岸本中学校では米子ボーイズに所属していた。チームメイトに山本大斗がいた。 鳥取県立米子東高校2年の時には春、夏の甲子園大会にも出場。 2020年10月26日に行われたプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツから育成ドラフト1巡目で指名され、12月1日に支度金300万円、年俸360万円(推定)で仮契約を結んだ。背番号は自身と同性の岡本和真の25にちなんで025。 2021年は主に三軍で経験を積み、二軍公式戦(イースタン・リーグ)は2試合に出場して5打数0安打という成績だった。
杉本 真吾(すぎもと しんご、1965年〈昭和40年〉5月5… 杉本 真吾(すぎもと しんご、1965年〈昭和40年〉5月5日 - )は、日本のアマチュア野球選手・指導者・解説者。鳥取県米子市出身。鳥取県立米子東高等学校、慶應義塾大学卒業。 現在、皆生タクシー社長、皆生温泉芙蓉別館会長などの職の傍ら、NHK鳥取放送局で高校野球解説を務めており、県大会をはじめ、甲子園での全国大会などでも解説を行う。 米子市立福原中学校時代、鳥取県中学校総合体育大会で優勝。米子東高校3年次の1983年、夏の甲子園に3番捕手として出場(初戦敗退)。一浪を経て慶應義塾大学に進学し野球部に入部。上級生となり指導者に転じ、1990年には新人戦の監督を務めた。1991年、山陰合同銀行に入行。
岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - … 岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(主に内野手)、監督。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之監督の指揮の下、2年生の時、1961年の春の選抜に一塁手として出場。エース矢滝伸高(関大-米子東監督)が準々決勝で敦賀高を相手に延長16回23奪三振の1試合最多記録を達成、準決勝に進むが高松商に敗退した。1962年夏も東中国大会準決勝に進出するが、槌田誠のいた倉敷工に惜敗、甲子園出場を逸する。高校の2期先輩に1960年春の選抜準優勝メンバーの宮本洋二郎、清水賢がいる。 1963年に亜細亜大学に進学、野球部に入部すると同時に中心選手として活躍し、三塁手として出場した。
清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1… 清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1日)は、鳥取県出身のプロ野球選手。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之の指導を受け、3年春の選抜に出場。山陰勢初の甲子園決勝進出を果たしたが、バッテリーを組んだ宮本洋二郎が高松商業高校の山口富士雄に左翼ラッキーゾーンにサヨナラ本塁打を浴び、準優勝に終わる。夏の甲子園でも1勝したが、2回戦で徳島商業高校に完敗した。秋の熊本国体でも準優勝。 その後東映フライヤーズに入団したが、2年間出場なしに終わった。 2009年10月1日死去。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2… 義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2010年)は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。 安来中学校(現在の安来市立第一中学校)から米子東高校に進学。高校再編に伴って野球部員が分散を余儀なくされ戦力が手薄となっていたため1年春から先発投手として起用される。1953年秋季中国大会県予選決勝で境高の米田哲也に投げ勝ち本大会に進むが、準決勝でエース横溝桂を擁する岡山東商に敗れ春の選抜出場を逸する。2年時の1954年には阪神軍でプレー経験がある監督の大橋棣の下、夏の甲子園に出場。1回戦は滝川高に延長11回サヨナラ勝ち。2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。1954年は持病の肋間神経痛のため精彩を欠き、夏の県予選は準決勝で倉吉東高に敗退した。