スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
渡辺 智男(わたなべ とみお、1967年6月23日 - )は… 渡辺 智男(わたなべ とみお、1967年6月23日 - )は、高知県高岡郡佐川町出身の元プロ野球選手(投手)。 センバツ甲子園準決勝にて清原和博・桑田真澄のKKコンビ率いるPL学園に得意の速球で投げ勝ち勝利。清原・桑田の5回の甲子園出場において唯一の決勝進出阻止を果たした。 愛称は、「ナベトミ」。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。 高知県高岡郡でイチゴなどを栽培する農家の長男として生まれる。中学校時代にヒジを剥離骨折し、投手にならないという条件で伊野商業高校に進学した。しかし、2年の春になってから投手として練習するようになり、秋にはエースナンバーをもらった。県内の同学年の投手には高知商の中山裕章や明徳義塾高の山本誠がおり、球速は中山、制球力や変化球は山本の方が上だと感じたため、球持ちの良さや速球のキレに磨きをかけたという。
国沢 道雄(くにざわ みちお、1960年7月26日 - )は… 国沢 道雄(くにざわ みちお、1960年7月26日 - )は、高知県土佐市出身の元プロ野球選手(投手)。 伊野商業高では1年秋の県大会準決勝で中村高の山沖之彦と投げあって敗戦、1978年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから4位指名を受け入団。 しかし、制球難から一軍登板のないまま1982年限りで現役を引退した。 引退後は、日本ハムの打撃投手を2年間務めた後、高知県に戻り伊野町の町議員となった。
楠 みちはる(くすのき みちはる、1957年 - )は、日本… 楠 みちはる(くすのき みちはる、1957年 - )は、日本の漫画家。男性。高知県出身。妻は同じく漫画家の伊藤ゆう。 代表作には『湾岸ミッドナイト』シリーズ、『あいつとララバイ』、『シャコタン☆ブギ』等があり、以上の作品はそれぞれアニメ化および実写化されている 。 1977年、第9回週刊少年チャンピオン新人まんが賞に「テストライダー」が佳作入選(「楠 通春」名義)する。審査員の1人である石井いさみは「一生けん命に描いている」ことを評価しながら、「人物デッサンや構図の難」、「オートバイの重量感を表現しようとする努力はうかがえるが、背景とのバランスが悪くて重さが感じられない」と評している。 『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)1979年2月号に「あこがれの白いスポーツカー」が掲載されてデビュー。
井本 隆(いもと たかし、1950年11月21日 - 201… 井本 隆(いもと たかし、1950年11月21日 - 2015年1月21日)は、高知県出身のプロ野球選手(投手)。 高知県高岡郡宇佐町(現・土佐市宇佐町)に生れる。伊野商業高では、1967年秋季四国大会県予選準決勝に進出、土佐高の萩野友康と投げ合うが1-2で惜敗。1968年夏の甲子園県予選でも準々決勝で高知工業高に延長10回敗退。高校の同期生に巨人や日本ハムでプレーした控え投手の谷山高明がいる。高校卒業後は、社会人野球の鐘淵化学に進み、速球投手として頭角を現す。1971年の都市対抗野球に出場し、1回戦では先発を任され好投、電電東北を降す。 1972年の都市対抗野球にも連続出場、同年の産業対抗では準優勝に貢献し敢闘賞を獲得した。
谷山 高明(たにやま たかあき、1950年10月8日 - )… 谷山 高明(たにやま たかあき、1950年10月8日 - )は、高知県出身の元プロ野球選手(投手)。 伊野商業高時代は、同期に同じく投手の井本隆がいる。 高校卒業後、社会人野球の愛媛相互銀行では第42回都市対抗野球大会に補強選手として出場、1971年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受け入団。 1972年11月20日には、イースタンの教育リーグ最終戦のロッテ戦(巨人軍多摩川グラウンド)に2番手で登板し5回3分の1を4安打に抑える好投。「ウチには珍しいシュートで勝負する投手に成長するはず。もう少しコントロールさえつけば、来年は一軍でも十分通用する」と二軍監督の中尾碩志も太鼓判を押すほどだった。
山下 司(やました つかさ、1948年7月8日 - )は、高… 山下 司(やました つかさ、1948年7月8日 - )は、高知県出身の元プロ野球選手(内野手)。 伊野商業高校では1965年秋季四国大会県予選準決勝に進むが、土佐高の上岡誠二らに抑えられ敗退。翌1966年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、弘田澄男のいた高知高に完封負け、甲子園出場はならなかった。 1966年第1次ドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受け入団。中央球界では無名だが、フットワークがよく四国球界では随一といわれる遊撃手だった。1967年から2年連続ジュニアオールスターにも出場。 しかし、プロ入り後は特に打撃面で伸び悩んだ。ファームではそこそこ安打を打ち盗塁王も獲得したが、一軍では守備固めと代走要員としてたまに出場するに留まった。