スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
藤野 恵音(ふじの けいお、2003年8月23日 - )は、… 藤野 恵音(ふじの けいお、2003年8月23日 - )は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手(内野手・育成選手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 北九州市立徳力小学校2年の時に軟式野球の徳力パワーズで投手と遊撃手として野球を始める。北九州市立守恒中学校ではシニアリーグの小倉リトルシニアに所属し、2年の時に台北市で行われた国際青少年野球選手権にリトルシニア九州連盟代表として出場している。 強豪私学からの誘いもあったが、地元の進学校である福岡県立戸畑高等学校に進む。入学直後の1年春から二塁手としてベンチ入りし、1年秋からは「1番・遊撃手」のレギュラーを務め核弾頭としてチームを牽引。3年春の県大会はベスト4進出。
重松 凱人(しげまつ かいと、2000年4月12日 - )は… 重松 凱人(しげまつ かいと、2000年4月12日 - )は、福岡県北九州市門司区出身のプロ野球選手(外野手・育成選手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 幼稚園から小学校低学年まで空手で北九州市の大会で6度の優勝。北九州市立萩ヶ丘小学校時代から「萩ヶ丘ソフトボールクラブ」でソフトボールを始め、北九州市立戸ノ上中学校時代から「北九州中央リトルシニア」で硬式野球を始める。同校では陸上部に所属し110メートルハードル走で全国大会3位となる。 高校は同市戸畑区の福岡県立戸畑高校に進学。甲子園の出場はなく、3年生の夏は第100回全国高等学校野球選手権北福岡大会に1番・中堅手で出場するも、3回戦で小倉工業高校に敗れる。
横松 寿一(よこまつ としかず、1983年2月2日 - )は… 横松 寿一(よこまつ としかず、1983年2月2日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)。 戸畑高校では3年時に春の選抜大会に出場したが、1回戦で四日市工業に敗れた。 2000年のドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受け入団。背番号はこの年まで紀藤真琴が着けていた「11」。 2年目の2002年6月16日に対中日戦で一軍初登板を果たし、1回を投げたが2失点で降板した。この年はウエスタンで好成績を残し、ベースボール・マガジン社選定のビッグホープ賞を受賞した。 2003年春のキャンプで守備練習中に右肘を痛め、計2度の手術を経てリハビリに励んだが実戦復帰は果たせず、2004年オフに戦力外通告を受けた。
柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は… 柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 福岡県立戸畑高等学校から日本大学へ進学。大学時代は主将として活躍した。1961年に大洋ホエールズへ入団したものの、1年限りで引退。
滝内 弥瑞生(たきうち やすお、1935年10月30日 - … 滝内 弥瑞生(たきうち やすお、1935年10月30日 - 2018年9月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 戸畑高校ではエース・中島孝司(南海)を擁し、3年次の1953年に夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、後にプロで同僚となる東筑高の仰木彬投手に抑えられ惜敗。卒業後の1954年に西鉄ライオンズへ入団。3年目の1956年に一軍に定着し、内野のユーティリティプレイヤーとして39試合に先発出場。また代走・守備要員としても起用され、同年からの3年連続リーグ優勝・日本一に貢献。1年先輩の正遊撃手であった豊田泰光が少し打撃不調になると、滝内はベンチの横に来て「あんたが打てんかったら何の取り柄もなか。
渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は… 渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。 福岡県立戸畑高等学校への在学中は投手で、エースとして活躍するが、甲子園球場での全国大会と縁がなかった。 高校からの卒業後に専修大学へ進学すると、3年生から外野手に転向。在学中には、東都大学野球リーグで4回の優勝を経験した。4年時の1954年、第3回大学選手権の準決勝で明大の「五人衆」(秋山登と土井淳のバッテリー、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利)を擁する明治大学に敗れた。硬式野球部の同期生に岡本健一郎と片山嘉視がいて、1955年に3人揃って阪急ブレーブスへ入団した。 入団1年目の1955年から、レギュラー外野手としてパシフィック・リーグ公式戦132試合に出場するとともに、リーグの最終規定打席へ到達。