スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
マサジェディ 翔蓮(マサジェディ かれん、2007年1月28… マサジェディ 翔蓮(マサジェディ かれん、2007年1月28日 - )は、日本の男子バレーボール選手。 長野県出身。中学校でバレーボールを始める。中学3年でJOCカップ(全国都道府県対抗中学大会)長野県代表に選出。 福岡大学附属大濠高等学校では2年生でインターハイ・国体に出場。3年生ではU18日本代表としてアジアU18選手権に出場した。 2025年に専修大学に進学。同年はU19世界選手権に出場した。 2025年12月、イタリア・セリエA1のパワーバレー・ミラノ入団が発表された。2026年1月4日のペルージャ戦で初出場。 父はジェイテクト・VC長野で監督を務めたマサジェディ・ライアン。母は元ハンドボール日本代表選手。
梅野 聡(うめの さとし、1989年11月7日 - )は、日… 梅野 聡(うめの さとし、1989年11月7日 - )は、日本の元男子バレーボール選手である。 福岡県朝倉市出身。中学1年生のときに親のすすめでバレーボールを始める。 福岡大学附属大濠高等学校、日本体育大学を経て、2012年、東レアローズに入団した 東レに5シーズン在籍し、数試合に出場。2017年退団。 2017/18シーズンはスウェーデンのHyte/Halmstadでプレーし、スウェーデンリーグで優勝を経験する。 2018年にコーチ兼任選手として東レに復帰した。東レに復帰後3シーズンプレーし、2021年、東レを退団となった。2021年4月30日-5月5日に開催される黒鷲旗大会が最後の大会の予定であったが、それが新型コロナウイルス感染症の流行により中止となったため、その代わりに東レの紅白戦である「青白戦」が三島市で行われ、それが梅野と落合一貴の引退試合となった。
白澤 健児(しらさわ けんじ、1984年5月21日 - )は… 白澤 健児(しらさわ けんじ、1984年5月21日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、指導者。 福岡県宗像市出身。友人に誘われて、自由ヶ丘中学1年よりバレーボールを始める。 全日本ジュニア代表を経験後、パナソニックパンサーズに入団。2007-08プレミアリーグで新人賞を受賞した。2012年5月の第61回黒鷲旗大会では、チーム優勝に貢献しベスト6に輝いた。 2013/14 V・プレミアリーグにおいて、チームの二年ぶり優勝に貢献し、自らもベスト6に選出された。2017-2019もチームは連覇を果たした。 2021年、選手兼コーチに就任した。 2022年、2021-22シーズン終了をもって現役引退し、コーチに専念となった。
谷村 孝(たにむら こう、1982年8月15日 - 2017… 谷村 孝(たにむら こう、1982年8月15日 - 2017年9月3日)は、日本の元男子バレーボール選手。 福岡県飯塚市出身。筑穂中学1年よりバレーボールを始める。 中央大学在学中の2004年に全日本代表に初選出、同年ワールドリーグに出場した。2004年にパナソニックパンサーズの内定選手となった。 川村慎二とは同じポジションで助け合いながらプレーしてきて、川村が監督になってからは、計算できるベテランプレーヤーだった。 2015年2月21日の堺ブレイザーズ戦に出場し、通算出場試合数が230試合となり、Vリーグ栄誉賞の受賞資格を得た。 2016年に現役を引退。 2017年9月3日昼、心室細動による急性循環不全により死去。
宮下 雅寛(みやした まさひろ、1978年9月19日 - )… 宮下 雅寛(みやした まさひろ、1978年9月19日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。妻は元バレーボール選手の佐田樹理。 福岡県福岡市出身。福岡市立柏原中学校1年時からバレーボールを始める。。高校は名門福岡大学附属大濠高等学校へ進学、2つ上に桑田鎮典がいた。1996年3年生時には春高バレーで3位入賞した。 1997年、中央大学へ進学し、正センターとして活躍した。後にJTでもプレーする臺光章や徳元幸人とプレーする。 2001年、JTサンダーズへ加入。同期に直弘龍治。2002年全日本に選出され、釜山アジア大会に出場。2005年バレーボール・ワールドリーグに全日本メンバー登録されている。2007年の天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会制覇に貢献した。
桑田 鎮典(くわた やすのり、1976年4月26日 - )は… 桑田 鎮典(くわた やすのり、1976年4月26日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 福岡県福津市出身。友人に誘われて、福間東中学1年よりバレーボールを始める。1993年、世界ユース代表として準優勝に貢献した。 法政大学4年生だった1999年の第5回Vリーグでサントリーの内定選手としてプレー。レギュラーとして活躍し、スパイク賞を獲得する。しかし、第6回vリーグを目前に突然チームを退部(サントリーも退社)、地元の福岡へ帰郷する。再びバレーボールへの情熱が再燃した2000年末、自らオファーする形で日立国分に加入し、現役復帰。オポジットとして貢献するものの、2002年にチームが休部し、同年サントリーに復帰した。
南 将之(みなみ まさゆき、1941年7月8日 - 2000… 南 将之(みなみ まさゆき、1941年7月8日 - 2000年4月7日)は、日本の元バレーボール選手(元全日本代表)・指導者。元バレーボール全日本男子代表監督。 福岡県福岡市出身。福岡市立当仁小学校出身。福岡大大濠高校卒業後、1960年旭化成に入社、バレーボール部に入部。196cmの大型スパイカーとして活躍した。1961年全日本代表初選出。オリンピックでは1964年東京五輪で銅メダル、1968年メキシコ五輪で銀メダルを獲得。 そして1972年ミュンヘン五輪では念願の金メダルを獲得。特に準決勝のブルガリア戦では、相手チームのエース・ズラタノフの活躍で先に2セットを奪われて、絶体絶命の状況で第3セット途中から出場し、ミュンヘンの奇跡として語り継がれる逆転勝利の立役者となった。