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萱島 大介(かやじま だいすけ、1980年1月6日 - )は… 萱島 大介(かやじま だいすけ、1980年1月6日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(内野手)で、現在は日本競輪選手会大分支部所属の競輪選手。 国東高校から進学した福岡大学ではプロでも同僚となる喜田剛と同期。社会人野球のローソンに進むが、2002年シーズン限りでチームの廃部が決定していたため、同年10月に阪神タイガースの入団テストを受験。50 m走5秒7、ベース一周 (109.728 m) では当時5年連続盗塁王だった赤星憲広の記録13秒6を上回る13秒29と俊足をアピールし、この年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから11巡目指名を受け入団した。このドラフトでは、チームメイトの新井智が9巡目、伊代野貴照が10巡目で阪神から指名を受けそれぞれ入団、吉川昌宏は8巡目でヤクルト指名を受け入団している。
吉武 真太郎(よしたけ しんたろう、1975年6月3日 - … 吉武 真太郎(よしたけ しんたろう、1975年6月3日 - )は、大分県東国東郡国見町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。 国東高校では2年秋に県大会準決勝で城島健司が捕手の別府大付高に敗れた。野球部在籍時代にはプロには興味がなく、教員志望だった。ドラフト当日も自転車で帰宅し、指名を知った監督が追いかけて来た程だった。1993年度ドラフト会議にて福岡ダイエーホークスから4位指名を受けて入団。 入団1年目の1994年は一軍登録はなく、二軍でも未勝利に終わった。しかし秋の教育リーグで投球のコツを掴む。 1995年は、春季キャンプで村田兆治コーチの指導を受けて才能が開花。この年は24試合(先発11試合)に登板し最終的に5勝5敗、防御率4.28の成績を残した。
弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は… 弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は、大分県東国東郡国東町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 国東高から亜細亜大学へ進学し同大学硬式野球部所属。大学ではプロでも同僚となる川尻哲郎や小池秀郎、高津臣吾が1年下、2年上に与田剛、同期に黒子孝善らが投手陣にいた。東都大学リーグで通算17試合に登板し3勝3敗。1990年に大学卒業後、社会人野球の熊谷組に入社。入れ替わりでプロ入りしたパンチ佐藤とは大学・社会人で同じ経歴を辿った。1年目の東京スポニチ大会で優勝に貢献し、新人賞。都市対抗野球は1年目に東芝府中の補強選手として登板、2年目は初戦で先発するも敗退。 1991年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから3位指名を受けて入団。
吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、… 吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。左投左打。 小学3年時に野球を始める。大分県立国東高等学校に進学し、高校1年秋からエース。2年生時には1983年夏の甲子園大分大会決勝に進出するが、中津工に延長11回2-4で敗退し、甲子園行きはならなかった。当時の監督は、内川聖一の父である内川一寛。1学年下には吉田と同じサウスポーの弓長起浩がいる。卒業後は本田技研熊本に進む。1987年の都市対抗にニコニコドーの補強選手として出場。 同年のドラフト会議で立浪和義を外した南海ホークスにドラフト1位で指名され、契約金5500万円、年俸600万円(いずれも推定)で入団(ただし、スポーツニッポンの選手名鑑においては、契約金の項目が2800万円と記されている)。