スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
安松 春香(やすまつ はるか、1991年12月22日 - )… 安松 春香(やすまつ はるか、1991年12月22日 - )は、大分県出身の、日本人の女子柔道選手である。階級は70kg級。身長165cm。血液型はA型。組み手は左組み。段位は参段。得意技は内股。 柔道は11歳の時に国東少年柔道クラブで始めた。国東中学3年の時には全国中学校柔道大会の48kg級決勝で久米田中学3年の小松柔に敗れて2位だった。国東高校へ進むと、階級を63kg級まで上げた。3年の時にはインターハイと全日本ジュニアの63kg級で3位となった。 2010年には環太平洋大学へ進んで古賀稔彦の指導を受けることになった。1年の時には全日本ジュニアの決勝で淑徳高校1年の田代未来に敗れて2位だったが、田代とともに世界ジュニア代表に選ばれた。
萱島 大介(かやじま だいすけ、1980年1月6日 - )は… 萱島 大介(かやじま だいすけ、1980年1月6日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(内野手)で、現在は日本競輪選手会大分支部所属の競輪選手。 国東高校から進学した福岡大学ではプロでも同僚となる喜田剛と同期。社会人野球のローソンに進むが、2002年シーズン限りでチームの廃部が決定していたため、同年10月に阪神タイガースの入団テストを受験。50 m走5秒7、ベース一周 (109.728 m) では当時5年連続盗塁王だった赤星憲広の記録13秒6を上回る13秒29と俊足をアピールし、この年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから11巡目指名を受け入団した。このドラフトでは、チームメイトの新井智が9巡目、伊代野貴照が10巡目で阪神から指名を受けそれぞれ入団、吉川昌宏は8巡目でヤクルト指名を受け入団している。
吉武 真太郎(よしたけ しんたろう、1975年6月3日 - … 吉武 真太郎(よしたけ しんたろう、1975年6月3日 - )は、大分県東国東郡国見町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。 国東高校では2年秋に県大会準決勝で城島健司が捕手の別府大付高に敗れた。野球部在籍時代にはプロには興味がなく、教員志望だった。ドラフト当日も自転車で帰宅し、指名を知った監督が追いかけて来た程だった。1993年度ドラフト会議にて福岡ダイエーホークスから4位指名を受けて入団。 入団1年目の1994年は一軍登録はなく、二軍でも未勝利に終わった。しかし秋の教育リーグで投球のコツを掴む。 1995年は、春季キャンプで村田兆治コーチの指導を受けて才能が開花。この年は24試合(先発11試合)に登板し最終的に5勝5敗、防御率4.28の成績を残した。
清末 隆宏(きよすえ たかひろ、1970年6月13日 - )… 清末 隆宏(きよすえ たかひろ、1970年6月13日 - )は、日本の実業家。 音楽映像制作および広告宣伝をスタートポイントとする。インターネットの発展に伴う、時代のニューメディア開発に携わる。 現在はRD分野を軸足に、様々な企業の部門戦略や新規事業開発を行う。特に産業界のITを活かしたスタートアップ事業に従事することが多い。 大分県国東市出身。大分県立国東高等学校を卒業後、1991年に防衛省(旧防衛庁)航空学生学校卒業。事業用操縦士国家資格取得。その後、エンタテインメント業界の勉強のため渡米。米東海岸の文化に影響を受ける。 1998年より、音楽映像作家の坂西伊作に師事し、演出補佐を務める。1999年、株式会社プロシードに入社、広告ディレクター、プロデューサーとして活動した。
弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は… 弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は、大分県東国東郡国東町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 国東高から亜細亜大学へ進学し同大学硬式野球部所属。大学ではプロでも同僚となる川尻哲郎や小池秀郎、高津臣吾が1年下、2年上に与田剛、同期に黒子孝善らが投手陣にいた。東都大学リーグで通算17試合に登板し3勝3敗。1990年に大学卒業後、社会人野球の熊谷組に入社。入れ替わりでプロ入りしたパンチ佐藤とは大学・社会人で同じ経歴を辿った。1年目の東京スポニチ大会で優勝に貢献し、新人賞。都市対抗野球は1年目に東芝府中の補強選手として登板、2年目は初戦で先発するも敗退。 1991年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから3位指名を受けて入団。
吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、… 吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。左投左打。 小学3年時に野球を始める。大分県立国東高等学校に進学し、高校1年秋からエース。2年生時には1983年夏の甲子園大分大会決勝に進出するが、中津工に延長11回2-4で敗退し、甲子園行きはならなかった。当時の監督は、内川聖一の父である内川一寛。1学年下には吉田と同じサウスポーの弓長起浩がいる。卒業後は本田技研熊本に進む。1987年の都市対抗にニコニコドーの補強選手として出場。 同年のドラフト会議で立浪和義を外した南海ホークスにドラフト1位で指名され、契約金5500万円、年俸600万円(いずれも推定)で入団(ただし、スポーツニッポンの選手名鑑においては、契約金の項目が2800万円と記されている)。
木田 守(きだ まもる、1960年11月15日 - )は、大… 木田 守(きだ まもる、1960年11月15日 - )は、大分県出身の、日本の柔道選手である。階級は60kg級。身長162cm。得意技は一本背負投。 柔道は中学1年の時に友達の影響で始めた。大分県立国東高等学校から京都産業大学法学部へ進むと、2年の時から2年連続で学生選手権60kg級で2位となった。3年の時に講道館杯60kg級の決勝で新田高等学校教員の浅見三喜夫に敗れるが2位になった。4年の時には講道館杯で3位だったが、初開催となった正力国際では60kg級の初代チャンピオンとなった。また、西ドイツ国際及び東ドイツ国際でも優勝を飾った。1983年にはダイコロの所属になると、講道館杯では3位だった。
郷司 正巳(ごうじ まさみ、1953年9月14日-2009年… 郷司 正巳(ごうじ まさみ、1953年9月14日-2009年11月5日)は日本の写真家。 JRP「視点」奨励賞受賞。『アサヒカメラ』、『旅』、『世界』など各雑誌で活躍。 世界写真史上初めてベトナムの海の民を系統的に取材して刊行した写真集『ベトナム海の民』(2002年コニカフプラザギャラリーCで個展。一部初出『世界』2001年10月号、『アサヒカメラ』2002年12月号)では、自ら文章を添え、『北海道新聞』、『西日本新聞』、『週刊金曜日』、『フィガロジャポン』、『日本カメラ』、『旅』、『フォトコンテスト』などに好評価の書評が掲載された。 日本写真家協会ほかが主催した「日本の子ども60年—21,900日のドラマ—」では、1980年の作品が日本の写真家が撮影した日本の子どもの写真24,000点の作品のなかから、展示のための204点の1点として、選ばれた。
藤本 昭夫(ふじもと あきお、1943年(昭和18年)5月2… 藤本 昭夫(ふじもと あきお、1943年(昭和18年)5月24日 - )は、日本の政治家。勲等は旭日小綬章。大分県東国東郡姫島村長を10期務めた。 満洲出身。3歳の時に姫島に移り住む。大分県立国東高等学校、慶應義塾大学経済学部を卒業後、日本住宅公団(現都市再生機構)等に勤務。姫島村長であった父藤本熊雄の急死を受けて1984年に姫島村長に無投票で初当選。以後、8期連続無投票当選で姫島村長を務めた。9期目にあたる2016年の村長選挙は61年ぶりの選挙戦となったが、対立候補の藤本敏和を抑えて9選を果たした。2020年11月の同選挙で藤本敏和を再び破り10選。 姫島村では1955年(昭和30年)の村長選挙が島を2分する激しい争いとなり村内にしこりを残したことから、2年後の1957年(昭和32年)に行われた選挙以来、2016年(平成28年)まで16期にわたって村長選挙での無投票が続いていた。
藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月2… 藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1984年〈昭和59年〉10月25日)は、日本の政治家。元大分県東国東郡姫島村長。 旧制国東中学、明治大学を卒業。1934年(昭和9年)に満州に渡り満州国官吏となった。終戦後、故郷姫島に引き揚げ、1951年(昭和26年)に村議会議員に初当選し、議長に就任した。 村では1955年(昭和30年)の村長選挙が島を2分する激しい争いとなり村内にしこりを残したため、2年後の1957年(昭和32年)に村長辞任に伴って行われた選挙以来、2016年(平成28年)まで村長選挙での無投票が続いた。藤本は、村議会議長を務めていた1960年(昭和35年)に行われた村長選挙に立候補し、無投票当選して以来、1984年(昭和59年)に急死するまで、すべて無投票で7期にわたって姫島村長を務めた。
田川 晋治(たがわ しんじ)は、大分県出身の日本の柔道家。現… 田川 晋治(たがわ しんじ)は、大分県出身の日本の柔道家。現役時代は78kg級の選手。 日本体育大学へ進学すると、プエルトリコのマヤグエスで開催された世界ジュニアの78kg級では準決勝まで全て一本勝ちすると、決勝ではイギリスのマーティン・マクソリーを効果で破って優勝を飾った。正力国際では決勝まで進むものの、東海大学の田所勇二に敗れて2位にとどまった。団体戦でも2位になった。さらに、正力杯では3位になった。大学を卒業後は国東高校柔道部の総監督となり、63kg級や70kg級で活躍した安松春香などの指導にあたった。また、高体連の柔道専門委員にも就任した。 (出典、JudoInside.com)。