スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
明瀬 諒介(みょうせ りょうすけ、2005年8月25日 - … 明瀬 諒介(みょうせ りょうすけ、2005年8月25日 - )は、大阪府堺市東区出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。北海道日本ハムファイターズ所属。 堺市立日置荘西小学校4年生の時にソフトボールを始める。早くからプロ入りを見据え、進路を選ぶ際は「プロに教えてもらいたい」という基準を設けており、堺市立日置荘中学校在学時は元プロ野球選手の小川亨が監督を務める大阪挟山リトルシニアでプレーした。 小川と同じく元プロ野球選手の佐々木誠が監督を務める鹿児島城西高等学校へ進学。佐々木から「広角に長打を放つための秘訣」を授かり、長打力が開花した。1年秋から中軸を打ち、投手も兼任。2年秋は背番号1を背負った。
小峯 新陸(こみね しんり、2001年12月1日 - )は、… 小峯 新陸(こみね しんり、2001年12月1日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 鹿児島市立東谷山中学校時代は硬式少年野球チームの鹿児島ヤングタイガーに所属。 鹿児島城西高等学校では2年春からエースとなるも、3年時は腰や右肩の故障のため背番号11となり、チームも県大会4回戦で敗れ甲子園出場はなかった。 2019年10月17日に行われたプロ野球ドラフト会議において東北楽天ゴールデンイーグルスから育成2位指名を受け、10月29日に支度金200万円、年俸230万円(推定)で仮契約を結んだ。背番号は138。 2020年は、体力作りに専念し、二軍でも試合出場はなかった。
上原 幸真(うえはら こうしん、1997年7月4日 - )は… 上原 幸真(うえはら こうしん、1997年7月4日 - )は、沖縄県島尻郡出身の日本の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 与那原町立与那原小学校1年生のとき、「与那原マリンズ」で野球を始める。与那原町立与那原中学校では野球部に所属し、当初は野手だったが、3年生で投手に転向。 沖縄出身で鹿児島城西高等学校硬式野球部の監督を務める金城和彦にスカウトされ、沖縄を離れ、高校は鹿児島県の同高校に進学。1年生秋、第19回MBC旗争奪鹿児島県選抜高校野球1年生大会に出場し、決勝では先発投手を務めて優勝を果たす。金城の指導の下、成長を遂げ、2年生秋からエースを務め、第135回九州地区高等学校野球大会の鹿児島県予選では準優勝までチームを牽引し、同校3年ぶりの本大会出場を果たす。
中原 大樹(なかはら だいき、1992年6月6日 - )は、… 中原 大樹(なかはら だいき、1992年6月6日 - )は、鹿児島県姶良郡姶良町(現:姶良市)出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。右投右打。プロでは育成選手であった。 帖佐中時代は軟式野球部に所属。鹿児島城西高時代は、2年時から4番として活躍。夏の鹿児島予選では、準々決勝の伊集院高戦で2打席連続本塁打を放つも、決勝で樟南高に敗れた。翌年の1月、練習中に右足首を骨折し全治6ヶ月の大怪我を負ってしまう。夏は絶望と見られていたが、トレーニングに励み大会に出場するも、調子を取り戻すことはできずベスト8で敗退した。高校通算36本塁打。 2010年、10月28日に行われたプロ野球ドラフト会議にて福岡ソフトバンクホークスから育成2位指名を受けた。
細山田 武史(ほそやまだ たけし、1986年4月29日 - … 細山田 武史(ほそやまだ たけし、1986年4月29日 - )は、鹿児島県出水市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 大龍小学校3年生から野球を始め、小学6年時鹿児島選抜のメンバーに選ばれた。同年秋、大口スポーツ少年団正捕手キャプテンとして県大会優勝、大口中学校では3年春に鹿児島大会ベスト4となった。2年時に観戦した夏の鹿児島大会決勝で大差で敗れたにもかかわらず笑顔の選手に驚き、「笑える野球がしたい」と卒業後は鹿児島城西高等学校へ進学した。 鹿児島城西では1年夏から正捕手となった。2003年・2年夏の甲子園鹿児島大会では鹿児島商業との準決勝で延長12回サヨナラ負けを喫した。2004年・3年夏の甲子園鹿児島大会では全試合フル出場したが準々決勝で鹿児島実業に2対7で敗れた。
新屋 晃(しんや あきら、1955年2月1日 - )は、鹿児… 新屋 晃(しんや あきら、1955年2月1日 - )は、鹿児島県出身のプロ野球選手(内野手)、プロ野球審判員。 鹿児島県の照国高校(現在の鹿児島城西高校)では、1972年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、鹿児島商工に敗退。同年のドラフト会議で日拓ホームフライヤーズに6位指名され入団。1977年には一軍に定着し、二塁手として12試合に先発出場。7月には一番打者としても起用される。しかし1978年には出場機会が減少し、同年限りで引退。 1979年にパシフィック・リーグ審判部に入局した。審判員同期に、セントラル・リーグ元審判員の鷲谷亘がいる。審判員袖番号は29(1979年採用~2004年退職まで。※29は1977年初採用から1978年引退まで吉田正男がつけていた番号だったが現在は空番。
詫摩 和文(たくま かずふみ、1950年4月11日 - )は… 詫摩 和文(たくま かずふみ、1950年4月11日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(外野手)。 鹿児島照国高等学校では右翼手・主将として活躍。1967年秋季九州大会県予選では1試合3本塁打も記録し、決勝に進むがエース前保洋を擁する鹿児島玉龍高に敗れる。翌1968年春季九州大会でも準決勝に進むが、大田卓司のいた津久見高に敗退。夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかったが、超高校級の強打者として「九州三羽烏」(大田、大島康徳と共に)「中西二世」と呼ばれ注目を集める。 1968年のプロ野球ドラフト会議で、サンケイアトムズから3位で指名され入団。期待されたが、一軍の試合には出場することなく1973年に引退した。