李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または19… 李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または1911年11月12日 - 1959年)は、大韓民国の教員、政治家、農家。第2代慶尚北道大邱市(現・大邱広域市)長、制憲韓国国会議員。本貫は星山李氏(朝鮮語版)。字は致亨(チヒョン、치형)。 日本統治時代の慶尚北道星州郡出身。星州公立普通学校(現・星州初等学校)、大邱公立農業学校(現・大邱農業マイスター高等学校)、日本大学法学部卒。星州公立普通学校で教員を務めたほか、満州の吉林省で農場を経営した。1948年の初代総選挙では星州郡選挙区から無所属で出馬し国会議員に当選した。1951年9月19日から第2代大邱市長を務め、1952年5月5日に地方自治制度により大邱市議会(朝鮮語版)の間接選挙で初代民選市長に選出された。
岡村 基春(おかむら もとはる、1901年 - 1948年7… 岡村 基春(おかむら もとはる、1901年 - 1948年7月13日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第50期卒業。最終階級は海軍大佐。 1901年高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)の瓦葺き職人の父岡村熊之助のもとに生まれる。兄に岡村徳長、妹聖子の夫に江草隆繁がいる。1922年6月1日海軍兵学校50期を卒業。第13期飛行学生を戦闘機搭乗員として卒業。1928年鳳翔勤務時、振武盃を下賜される。 飛行学生17期の出身で、三式艦上戦闘機搭乗以来の長いキャリアを持つ戦闘機搭乗員で、特に編隊飛行の名手であり、横須賀航空隊分隊長時代、戦闘機の特殊編隊飛行の公演を行って「岡村サーカス」の名前で知られた。
大石 郁雄(おおいし いくお、1901年 - 1944年12… 大石 郁雄(おおいし いくお、1901年 - 1944年12月4日)は、日本の映画監督、アニメーション作家、脚本家である。初期には大石 郁(おおいし いく)とも。 1901年(明治34年)、東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)に生まれる。東京開成中学校 から黒田清輝画塾に通い、同門の横尾泥海男、鈴木重吉と知り合って漫画映画製作に興味を持ち、鈴木の所有していたドイツ製のウエルテルカメラを使って動画の習作をいくつか制作する。 1918年(大正7年)8月、森永製菓が「森永ミルクチヨコレート」発売に際し、宣伝用漫画映画『兎と亀』を製作、習作動画の腕を買われ、16歳の「大石郁」がこの動画を制作。日本初の広告用アニメーションであるが、本作は現存しない。
野口 三四郎(のぐち さんしろう、1901年〈明治34年〉-… 野口 三四郎(のぐち さんしろう、1901年〈明治34年〉- 1937年〈昭和12年〉2月22日)は日本の人形作家。静岡県三島市(旧三島町)大中島地区出身。張り子製を中心とする人形「三四呂人形」(みよろにんぎょう)を製作した早逝の作家として知られる。作品の一部は三島市が指定する有形文化財に指定されている。 1901年(明治34年)に当時の静岡県田方郡三島町大中島の質屋の家に生まれる。名前の由来は生年の「明治三十四年」による。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)に入学後、美術部に入り絵画の技術を身につける。 卒業後は写真技術を身につけ、1928年(昭和3年)頃に東京の三越百貨店に写真技師として就職。
違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) … 違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) - 1929年(昭和4年)1月26日)はアイヌの歌人・社会運動家。 アイヌ民族の地位向上のための運動に一生を捧げ、その思想を新聞や雑誌に短歌の形で発表して、同時代のアイヌの青年たちに影響を与えた。また道内のアイヌコタンを廻って、まずアイヌ自身が自覚し、団結することが必要であると説いた。 バチェラー八重子、森竹竹市と並ぶ、「アイヌ三大歌人」の一人。「アイヌの啄木」と称されることもある。著作に『違星北斗遺稿 コタン』(昭和5年・希望社出版部、現在は草風館より復刊)、『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』(角川ソフィア文庫)がある。 違星北斗は1901年(明治34年)、北海道後志支庁余市町大川町1丁目に、父甚作と母ハルの間の三男として生まれる。
大江 捨一(おおえ すていち、1901年 - 2001年9月… 大江 捨一(おおえ すていち、1901年 - 2001年9月26日)は、日本の牧師。中田重治の娘婿。ホーリネス教会と後に、アライアンス教会の発展のために貢献した指導者。父は大江邦治、息子は大江寛人。 1901年(明治34年)に当時、米子郵便局員だった大江邦治の息子として、鳥取県米子市に誕生する。1902年(明治35年) 父邦治が、日本伝道隊に入隊バークレー・バックストンに薫陶を受ける。捨一も父と共に九州各地で伝道を行う。1915年(大正4年)に日本ホーリネス教会鹿児島復活教会でキリスト教の洗礼を受ける。 ホーリネス教会で直接献身をするために聖書学院に入学する。卒業直前に1926年(昭和4年)日本ホーリネス教会中田重治監督の長女である中田陸奥と結婚する。
川崎 悦行(かわさき えつこう、かわさき えつぎょう、190… 川崎 悦行(かわさき えつこう、かわさき えつぎょう、1901年 - 1923年11月12日)は、戦前の日本の政治運動家、初期の共産主義運動家である。 石川県輪島市出身。本名川崎 憲次郎。輪島男児尋常高等小学校を経て、1915年石川県立金沢商業学校に入学。在学中弁論部員として活動するかたわら、社会運動に関心をもち中途退学した。帰郷して總持寺祖院に入り、禅僧となって「悦行」の僧名を受けた。 1921年、上京して暁民会に参加、のち日本社会主義同盟の機関紙編集にたずさわった。1922年7月15日の日本共産党の結成に参加した。 1923年2月4日の党第2回大会で、共産青年同盟の組織準備委員に任命され、4月5日創立された日本共産青年同盟の初代中央委員となった。