蝦名 達夫(えびな たつお、1997年9月20日 - )は、… 蝦名 達夫(えびな たつお、1997年9月20日 - )は、青森県青森市出身のプロ野球選手(外野手)。右投右打。横浜DeNAベイスターズ所属。 青森市立野内小学校2年時から、野内ヤンキースで軟式野球をスタート。その後青森市立東中学校に進学し軟式野球部に所属、引退後高校入学までの間所属したクラブチームにてKWBボール東日本大会優勝を経験した。中学3年時には甲子園常連校である青森県外の私立高校から入学を誘われていたが、地元の青森県立青森商業高等学校へ進学した。 青森商業高校への進学後は、硬式野球部で1年時から遊撃手としてレギュラーに定着した。在学中には全国大会と無縁であったが、在学中の対外試合で通算31本塁打を記録。
木浪 聖也(きなみ せいや、1994年6月15日 - )は、… 木浪 聖也(きなみ せいや、1994年6月15日 - )は、青森県青森市出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。阪神タイガース所属。 青森市立篠田小学校1年時に、軟式野球チームの「安田ヤンヤン少年野球チーム」へ入団し野球を始めると、3年時まで主に二塁手、4年時以降は投手を務めた。青森山田中学校時代は同校の硬式野球部に所属。 青森山田高等学校では1年からベンチ入りし、主に二塁手と三塁手を務めた。甲子園出場はなし。1学年上に山崎晃大朗、同学年に京田陽太、1学年下に西村凌がいる。 亜細亜大学に進学すると、1年春からリーグ戦に出場し、3年春からは主力としてプレー。3年秋と4年春にはリーグ連覇を、1年時と3年時には明治神宮野球大会での優勝を経験した。
森内 壽春(もりうち としはる、1985年1月2日 - )は… 森内 壽春(もりうち としはる、1985年1月2日 - )は、青森県青森市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 油川小学校で2年生の時にリトルリーグで野球を始めている。油川中学ではシニアリーグに所属して内野手と投手を兼任していた。八戸工大一高では3年時にダブルエースの一人となり、春季東北大会ではベスト8に進出。3年夏の県大会では準々決勝で先発し、同点の9回二死で2ストライクまで追い込んだ状況から決勝適時打を打たれて光星学院に敗れた。 2003年に青森大学へ進学し、時にはブルペンで400球以上投げ込むなどの練習を積み精神面も鍛えられた。野球部(北東北大学野球連盟加盟)では2年春のリーグ戦からベンチ入りして同年秋に初勝利を挙げている。
兜森 崇朗(かぶともり たかあき、1979年7月26日 - … 兜森 崇朗(かぶともり たかあき、1979年7月26日 - )は、青森県青森市出身の日本の高校野球指導者。社会科・ 地理歴史科・公民科教諭。 筒井中学校では3年時にエースとして全国大会に出場。高校は現在指導している青森山田高等学校に進学。同校のエースとして活躍した。2年時の秋季東北大会準優勝、3年時の夏は、県予選決勝まで勝ち進んだがいずれも光星学院(現八戸学院光星)に阻まれ選手としての甲子園出場歴はない。 青森大学卒業後、青森山田中学校教員の傍ら、2003年に設立した青森山田リトルシニアの初代監督に就任する。2015年に青森山田高校の野球部監督に就任。これまで春夏合わせて4度の甲子園出場を果たしている。
長内 孝(おさない たかし、1957年8月30日 - )は、… 長内 孝(おさない たかし、1957年8月30日 - )は、青森県青森市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者、解説者。
福士 勇(ふくし いさむ、1919年6月14日 - 1944… 福士 勇(ふくし いさむ、1919年6月14日 - 1944年)は、日本のプロ野球選手(投手)。青森県青森市出身。 1938年(昭和13年)に青森県立商業学校を卒業後、青森林友倶楽部野球部(青森営林局の社会人野球チーム)へ入団。6月に行われた函館太洋倶楽部(北海道の強豪チーム)との試合で勝利投手となり、7月に行われた都市対抗野球大会県予選では3試合に登板・好投する活躍を見せた。秋にライオン軍へ入団しプロ入り。 入団時は捕手であったが、チームに投手が4人しかいない事情もあり、投手へ転向した。球団名が「朝日軍」となった1941年(昭和16年)はシーズンの敗戦数が28敗となり、これは現在も日本プロ野球(NPB)歴代2位の記録となっている。
成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - … 成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - 1989年10月17日)は、青森県青森市出身のプロ野球選手、政治家。 青森中学校から専修大学へ進学も中退。仙台鉄道局から青森林友を経て1936年に東京巨人軍へ入団。選手としての才能はなかったが、何となく好感のもてる選手だった。1938年秋季頃に体調を崩し、療養に努めたが同年で退団。 1974年に青森市議会へ自由民主党から出馬し当選。4期議員を務めた。
久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日… 久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日 - 1939年〈昭和14年〉8月21日)は、昭和初期にアマチュア野球で活躍した日本の野球選手(捕手)。 函館のクラブチーム・函館太洋倶楽部で活躍したが、試合中に送球を頭に受け死亡した。 岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。盛岡中学を卒業後、早稲田大学商科に進学。身長5尺9寸(約179cm)の恵まれた体格と強肩の持ち主で、在学中からリーダーシップを発揮。また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。既に大学時代にはまだプロ入りすらしていなかった段階にも拘らず「捕手の神様」と評された。 1922年(大正11年)大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に勤めながら函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレーした。